入学から3ヶ月。そろそろ蝉(気温が高い時期になると活動を始める蟲の1種。知識としてこの体が覚えている)もうるさく鳴き始めようかという時期になってきた。僕の頭は今前世の記憶と知識は据え置きで、それとは別におそらくこの体の持ち主だった少女が持っていた知識であろうものが同居しているという奇妙なことになっているわけだが。
知らない言葉の意味を知っていて、知らない文字を正しくアウトプット出来る。実に恐ろしい事態だが、今の僕にとっては好都合だ。加えて何故かこの世界の言葉は前世の言葉と発音が酷似している。つまり会話をすることも技術的には問題ない。
しかし知識はあれど常識は前世の感覚のまま、この世界の価値観を知らない僕は当然他人と話すこともままならない。そんなわけで僕は孤独な身のままこの学園生活を過ごしていくはずだった。
「あら、おはようございますクララちゃん」
「お、おはようございますわ。ハナコさん」
浦和ハナコ。同じクラスにいる優雅の擬人化のような生徒にして、入学から2ヶ月、誰にも話しかけることが出来ずに絶望していた僕に手を差し伸べてくれた女神のような人だ。彼女と出会わなければ僕はこの世界から隔離されたままだった。間違いない。
「……もしかして眠れてないんですか?とても眠たそうな顔してますよ?」
「えっ!?ぼっ……わたく、ワタクシ、そんなに眠そうでした!?」
「うふふ、はい。それはもう、今にも瞼を閉じてしまいそうなくらい」
う、まずい。お嬢様的には夜更かしなんて以ての外、健康を害し肌荒れなど引き起こしてしまえば人前に出ること能わず。一人称はワタクシで常に優雅たれ(ハナコさんはワタシだが)、そんなトリニティの中において寝不足の人間などあってはならないというのに。
「ええと、そんな怖がらなくてもいいんですよ?誰にだって眠れない夜はありますから」
「いやっ!あ、い、いえ!そんな寝不足とかじゃないっていうか……って、そんな変な顔してました!?」
「ふふ、クララちゃんは顔に出やすいですから」
ハナコさんはそういうと人差し指を唇に当てた。何を意味する動作なのかはわからないが、この人がやるとなんでも絵になる。
「そっか……ですか!わ、ワタクシはそんなつもりなくて……あ、ていうかハナコさんは…………ええと、普段寝てるんのですか?」
ああもう最悪。最悪の会話人間だ。普段寝ていないわけがないだろ。そんなことが可能なのは人間のマナを食らって体内に貯蓄するヴァンパイアくらいだ。
「…………クララちゃん。実は私人間じゃないんです。だから夜も寝てないんですよ」
「ええっ!?そうだったの!?……ですか!?」
寝てないのかよ!ってか人間じゃないのかよ!じゃあなに?ああなんだ女神かそりゃそうだ。
人語を話す人外なんて初めて見た。すごいなこの世界は。いや神ならいけるか。
「もちろん嘘ですけど」
「嘘かい!……ですかい!………………ん?あれ?なのですか!?」
「ふふ、あははは!クララちゃん、そんな無理しなくてもいいんですよ?」
最悪会話人間その2。言葉遣いもめちゃくちゃになる。
「私の事だって呼び捨てで全然構いませんし、敬語だって使わなくていいんです。私はそんなこと気にしませんから」
「で、でも……じゃなくて!な、なんの事ですわ?ワタクシ無理なんてしていなくてよ?」
「……まあ、それはそれで可愛いですけど♡」
無理だよ。僕は元いた世界じゃ関わった人間全員立場関係なく呼び捨てにするくらい無礼者だったし、一人称も僕。言葉遣いも性格も男っぽくて、女として見られたことなんてほとんどない。
そんな僕が貴族の集まりみたいな学校に通うにはこうしてなんとか取り繕うしかないんだ。まあ結果として会話すらまともにできてないんだけど。
あれ?でもハナコさんは敬語だけど僕のことクララちゃんって呼ぶよね。でもすっごい気品に溢れてない?僕はこんなに取り繕ってもお嬢様オーラの欠片もでないのに?これが本物との格の違いってやつか。
「そういえば、クララちゃんは部活動には入ってないんですよね?入りたいところはなかったんですか?」
「あ、そ、それは……まあそんなところです……わ」
話しかけることが出来ないだけなんて言えない。お嬢様はコミュ障(会話苦手人間のこと)じゃいけないのだ。いや会話が出来ないのは既にハナコさんには普通にバレてる気がしなくもないが、優しさゆえ目を瞑って貰っているのだとしたら僕がその優しさに気づいてはいけない。
「あ、ハナコさんはどこかに所属してるらっしゃるのですか?」
「んぐっ…………こほん、いえ、私も同じですよ。勧誘もあったのですが、どこもあまりピンと来なくて」
「勧誘!頭もいいし……ですもんね!」
そう、このハナコさんは頭もいいのだ。ちなみに僕はハナコさんがいなければ今ごろ試験に落ちて絶望の淵にいたことが容易に想像できる。
この世界の勉強法がとにかく難しいのだ。参考書を読むだけならまだしも、何やら奇妙な機械を使った映像学習とやらが本当に性にあわない。
その上求められる知識のレベルも高い。モノがモノなら立派な上級魔術兵にもなれるのではというほどの知識量を詰め込まれる。
そんな中ハナコさんは全てにおいてトップクラスの知識を保有している、参考書の擬人化なのだ。やはり人間ではないのでは。
「……皆さんからの評価は些か過剰に感じますが」
「そんな事ないですわよ!ハナコさんがいなければワタクシはきっと試験に落ち学園を追放されていたに違いありませんですわ?」
「んぐっ………そ、それこそ言い過ぎな気もしますが……ふぅ」
ハナコさんはたまに会話の途中で顔を逸らす。咳が出ることもあるけど、まさか病気なのだろうか。こんな素晴らしい人がなぜ不幸な目にあわなければならないんだ。
僕が世界への怒りを募らせているうちにハナコさんは息を整えたようだ。
「まあ、そういうことにしておきましょうか」
「はい!あ、そろそろ昼餉の時間ですわね!」
「…………ええ、そうですね。一緒に食べましょうか」
返事に間があった気がするが、気のせいか。気にしていても仕方がないので持ってきたものを机の上に出す。
「これ、クララちゃんが自分で作ったんですか?」
「そうですわよ。ワタクシお料理が得意なので」
そう、こう見えても僕、料理は得意なのだ。家庭的な一面があるのを驚かれたのはいい思い出………やめやめやめ。危ない、今思い出したら狂ってしまうところだった。
「クララちゃん?」
「あッ!なんですわよ?あ、良かったら食べますか?」
心配そうに覗き込んでくるハナコさんを見て既にまずい表情をしていたことを悟る。トラウマの一つや二つ誰だってあるものだが、まさかひとつの事件をキッカケに思い出丸ごとトラウマになるとは思いもしなかった。そういうのは帰ってからだ。
「いいんですか?なら貰っちゃいましょう」
「どうぞどうぞ、いっぱい作りましたから」
今日作ってきたのはサンドイッチ。パンに食材を挟むだけ一見シンプルな料理だが、食べやすくするための工夫がいくつもあるのだ。普通に挟んだだけでは直ぐに食材がこぼれてきてしまう。
「とっても美味しいです。将来は………………パン屋さんですかね?」
「プロの人達と比べたらまだまだですわよ~、えへへ」
ほっ、とハナコさんが息を吐いた。褒められたら流石に嬉しい。
しかしちょっと大きく作りすぎただろうか。いや今のため息は……はっ、お嬢様的にいっぱい食べるのはナシなんじゃ!?しまった!
「ああ、クララちゃんのサンドイッチのことではありませんよ?」
「ナチュラルに心を読みますわね!?」
「いえ……女の勘、というやつでしょうか?」
なんだかよくわからないがやはり人間ではない気がする。
やがて2人とも食事を終え、これからどうしようか、まだ昼休憩は残っているがと言ったところ。
いつもは柔和な笑みを浮かべているハナコさんが珍しく真剣な表情をして口を開く。
「……クララちゃんは最近悩んでいることとかはありませんか?」
「悩んでいる、こと?」
そんなの、ありすぎて数えられない。この世界で生きていくことも、前の世界への未練も、悩みの種どころの話じゃない。今僕が陥っているこの現状全てが悩みだといっても過言ではない。
でも言えない。前世の記憶があるんです、僕は実はお嬢様じゃないんです、本当は魔法が使えたんです。言えない。言えるわけがない。いくら僕でも突拍子のないことを言い出す人間が狂人のレッテルを貼られることくらい容易く想像出来る。
「う、あ、えと……勉強が、まだ難しくてですね…………あはは」
だから誤魔化した。ハナコさんは僕を救ってくれた女神だ。そして僕が苦しんでいるのを見抜いて、こうして手を差し伸べてくれている。そんな人に嘘をつくなんて裏切り、恩を仇で返す行為だ。
それでも僕は自分の身を優先してしまった。とても怖かったから。
「……そう、ですか。でしたらまた私が教えてあげますね♡」
上手く誤魔化せたのかハナコさんはいつもの柔和な笑みに戻っていた。まあ言ってしまえば厳密には嘘ではなく普通に勉強にはついていけてないわけで。
次の映像学習の時間まで、ハナコさんは僕の横に座って勉強を教えてくれた。うん、彼女の将来は教師だな。
たまにツボっちゃうハナコ。そのうち某格ゲーお嬢様みたいな口調になるんじゃないかこいつ。