空気が重い、なんて言葉がある。実際は空気なんて重くないし、重いと感じるのは重力のせいだ。じゃあこの状況は?
「……」
「……」
「"…………"」
これを表す言葉があるとしたら、それは『空気が重い』なんだと思う。誰一人として口を開かず、アクションを待つわけでもなく。その空気の中1人ニコニコと微笑んでいる彼女を除いて、それ以外の人間はどこか視線を外しては戻しを繰り返している。重力の中心は間違いなく彼女なんだろうと思う。
先生が補習授業部のメンバーを連れてくるまでマリーと待ってたのに、いざ入ってきた生徒の格好がこの場にふさわしくないものなのだから、僕でなくとも疑問符は出る。
『ハナコ、さん……?』
『お久しぶりです、クララちゃん♡』
そして全員が気まずそうな表情で口を噤んで今に至る。
「水着で授業を受けるというのもイイと思いませんか?」
「何が良いのかはよくわかりませんが……」
どうやら噂は本当だったらしい。暑さで嫌になってしまったのかもしれないね。
「その、何故このような奇行に?」
「何故、と言われましても……やってみたかったからとしか」
明らかに様子がおかしい。1年の頃はこんなんじゃなかったし、もっと静かに笑う人だったと思う。
今の彼女の笑顔はどこか嘘くさい。
「……楽しいですか?」
「……ええ、とっても♡」
それがハナコの答えだった。
「そう、ですか」
それが彼女の本心かはわからないけど、そうなってしまったのなら僕もそうあるべきなのだろう。
目を閉じ、決意する。本気でこんなおかしな行為に及んでいるのだとしたら───────。
「失礼致します」
そう一言残し、僕は教室を出た。
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「"……これでよかったの?"」
沈黙が支配していた教室。先生の声には様々な感情が含まれていた。その殆どは心配の色より薄かったが。
「ええ、これで思い残すことはありません」
ハナコは目を閉じたまま微笑みを崩さない。そっと左手を右腕に添える動作すら優雅に感じる。
先生がこの場に生徒を連れてくる前にハナコ自身から話があった。きっと監督役の生徒が1人減ってしまう、と。
『彼女は私をとても慕ってくれていたと思います。であれば今の私を見て失望することも想像に難くありません』
最初は真ん丸な目をさらにかっぴらいてハナコに突っかかっていた彼女も不安そうにその様子を見つめている。
下江コハル、小柄でエッチなことは許せない正義実現委員会の生徒だ。ハナコが何故こんなことをしているのか、いや自分をからかっている時点で理由も何もやりたかったから以外にあるわけないのだが。それはそれとして異様な雰囲気の中声を上げることは出来なかった。
ヒフミ以外にもう1人、何が起きているのかイマイチわかっていない生徒が1人。ガスマスクの姿で登場し、どこかズレた発言で周囲を困惑させる彼女は白州アズサ。
特殊な生まれから戦闘に関する知識以外は乏しいが、だからと言って人間関係にまで疎いわけではない。今まさにハナコと名も知らぬ修道服の生徒の関係が壊れてしまったのだということは理解出来る。
では何故? それがアズサにはわからなかった。ただハナコがそれを受け入れ、それどころか望んでいるような様子であるのが余計に脳を混乱させる。
全ての注目がハナコに集まる中、彼女は特に何もなかったかのように口を開いた。
「さて、それでは補習授業部の活動を始めましょうか」
促すような視線を先生に向けながら、その微笑みは最後まで崩れなかった。
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制服に着替えてきたハナコに、結局誰も何も言えずに補習授業部最初の活動がスタートした。ヒフミたちはどうにか切り替えて勉強を始めるもどこかぎこちない雰囲気は拭えない。
キャンキャンと周りに噛み付くような発言をしていたコハルもすっかり大人しくなり、ヒフミもチラチラとハナコの方に視線を向けている。
当のハナコはと言うと、
「ハナコ、これは?」
「ああ、その問題は……」
結局ハナコが気にしないのならと、唯一勉強に向けて頭を切り替えたアズサに勉強を教えていた。その間に親睦を深めていく2人の光景は微笑ましいものではあったものの、直前のクララとのやり取りがどうしても気になって仕方ないヒフミは先生に助けを求めるような視線を送った。
しかしながら先生は少し考え込むと、やがてヒフミに向き直り首を横に振った。
"今はまだ"
ハナコ自身がこうして特に言及しない以上、周りがいくら根や葉を掘ろうとはぐらかされて終わりだろう。
何より先生としてはハナコの気持ちを尊重したかった。彼女が嫌がるのであれば無理に聞くような真似は、先生としても人としてもしたくないというのが先生の気持ちだった。
マリーもまたヒフミと同じように何とかしたい気持ちもあったが、先生とヒフミの無言のやり取りを見て1歩立ち位置を教室の中心から遠ざけるのだった。
ただ1点、彼女とヒフミの違いはマリーの先輩の存在だった。クララにとって親友であるハナコの異変、そしてそれによるクララの気持ちを考えると、マリーは両手をあわせて強く握りしめることしか出来なかった。
マリーはある程度ハナコと交流があるが故に、そして先生は大人としての経験と洞察力から、彼女のパーソナルスペースがどれほど広いのかを理解していた。無理に踏み込めば距離を取られ、心の扉は閉ざされる。それがわかっているからこそ2人とも動けず、ハナコの歩みを待つしかない状態だった。
しかし世の中そんな慎重な人間だけではなく、また正面から扉を叩いてくれるほどまともな人間が果たしてどれだけいるだろうか。土足で簡単に扉を蹴破ってくる者もいれば、窓ガラスを叩き割って侵入してくるような輩もいる。
───────では彼女は?
ドタドタと慌ただしい足音が教室に近づいてくる。アズサがいち早く反応し警戒態勢に入る。続いてコハル、ヒフミ、ハナコと先生も1歩下がり何者かの襲撃に備えた。唯一その足音を近くで聞いていたマリーだけがその主をわかっていた。
「あのっ、みなさ───────」
「遅くなりましたわ!!!!!」
バンッ!!!
と、大きな音をたててドアが開かれる。そしてそれに負けない大声で教室に飛び行ってきた彼女は、一目で全速力で走ってきたことがわかるくらい、腕も脚も汗まみれだった。
絶句。誰もが言葉を失い、そして勢いよく入ってきたクララもまた無言で固まった。
が、それも束の間。すぐさま大声で二の矢が飛んでくる。
「ハ、ハナコさん!?どうして制服を着ていますの!?!?」
「ヘンタイヘンタイヘンタイ!!!なんで次はあんたがスクール水着になってるのよ!!!!」
硬直から解き放たれたコハルが大声で言い返す。大声対決が始まってしまったことにより、アズサは少し煩わしそうに耳を塞いだ。
「なんでって、だってハナコさんが水着でしたので……」
「あいつが水着なのは関係ないでしょ!?大体なんでその頭のやつ、それ!外してないのよ!!」
「シスターベールがないと水泳部と間違えられてしまいますわ!!」
「水着の時点でダメ!エッチなのはダメ!死刑!!」
「死刑!?!?」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ2人にその場の誰もが呆気に取られていた。そんな中ハナコがポツリと漏らす。
「───────な、んで」
消え入りそうな声だったが、それでも2人は喧嘩をやめてハナコの方を向いた。
「どう、して。クララちゃんまでそんな、そんなことする必要は……」
「え、えっと? ハナコさん?」
今まで笑顔だったハナコの顔から表情が抜け落ちていた。
「だって、こんなの、私が勝手にやって、それで、それでクララちゃんとはもう……」
「ど、ど、どうしたんですの!?具合が悪く……あ、お腹が痛いとか!?あ、あう、先生、いや、マリーさん??お薬、あ!救護騎士団!!」
焦るクララに対して、先生は微笑みながら首を横に振った。クララは混乱しながらもマリーの方を向く。あれ、マリー? どこ?
「クララさん、お疲れ様です」
後ろからの声に驚きつつもクララはマリーの方に向き直る。マリーはタオルで汗だくのクララの体を拭いていたが、クララにとってはそれどころではなかった。
「マリーさん、あの!」
「大丈夫ですよクララさん、はい」
体を拭き終わったマリーは、クララの肩に手を置いて1歩踏み出した。ハナコとの距離が1歩分縮まる。
「え、あ、ハナコさん……?」
「……クララちゃん、どうしてこんなことを?」
「どうしてって、だってハナコさんが楽しいって言ったから……」
「───────あ」
楽しいですか?
ハナコにとってそれは決別を意味する一言だった。あなたとは理解し合えないと、そうして二度と顔を合わせることは無いのだと。そう思っていたのに。
「友達が楽しいって言ったんですもの、試してみるのはそんなに変なことでしょうか?まあ、その、正直ちょっと……いやかなり恥ずかしい気持ちですが…………」
顔を赤らめて視線を逸らすクララ。シスターベールにスクール水着と性癖を破壊しかねない格好で飛び込んできたクセに何を言ってるんだ、とコハルは睨みつけるが当然クララの視界には入らない。
ていうかエッチ過ぎ!死刑!何よこんな、スクール水着だけよりもよっぽどエッチじゃない!シスターのくせに何してんの!?こうやって純粋な人達の性癖を捻じ曲げてきたのね……!シスターフッド、要監視ね!
「"ハナコ、クララはずっと友達でいたいみたいだよ?"」
「え、当たり前ですわよ?だってワタクシ達、親友ですし」
何をおかしなことを、と先生にジト目を向けるクララ。
「それでハナコさんが退学になるかもとかなんとか、そんなことをお聞きしたので今回ワタクシがどうにかお助け出来ないかということで監督役になりましたの。まあハナコさんのことですからテストで落第なんて有り得ないでしょうけど」
クララにとってハナコがおかしな趣味に目覚めてしまったことは心配だったが、それはそれ。むしろ不審者として捕まった理由がたかがスクール水着で徘徊していただけだったことに安堵したくらいだった。
「まあ、この趣味に付き合うのは、その、ちょっと難しいので……ええ、ごめんなさいですけど」
「…………」
「はっ、ハナコさん!?」
ハナコの目から雫が零れる。きっといつもの彼女なら笑って誤魔化して終わりだったはずなのに。
「…………ぐすっ……うぐっ……」
「あわわ、えっと、ハンカチ使いますか?……あ、そうだ!一緒に泳ぎましょう!な、なるべくワタクシも楽しめる方法を探しますので、その、もうちょっと理解を深めていつか一緒に水着でカフェにいきましょう!」
「ダメに決まってるでしょ!?死刑!!」
「命が軽くありませんこと!?」
混沌を極める場で、唯一耳を塞いでいるアズサだけが最後まで変わらないただ1人だった。
「"……ハナコ、一緒に頑張ろう。みんなで合格して、それから……たくさん遊びに行っておいで"」
「…………はいっ」
結局何が起きていたのか。クララはついぞ知ることはなく、そしてこの先も理解することは無いのだろう。それこそ彼女がハナコを救うに至った理由なのだから。
「な、なんかわがらない゙でずけど……よ゙がっだでずぅ゙~~~!!」
ヒフミはちょっと泣きすぎかもしれない。