視界が暗転した。自然と瞬きをしたんだと思った。
目を開けた時、体の感覚がなかった。僕が景色を認識すると同時に、段々とそれらが戻ってきた。
「───────ぁ」
声が上手く出なかった。体の全てが錆び付いているかのように重く、思い通りに動かない。
ぐるりと眼球を動かし視界を無理やり押し広げる。今いるのは白を基調とした部屋で、僕は今柔らかい何かに包まれている。下に視線を向けるとどうやらベッドで寝ていたようだ。
「…………クララちゃん」
真横、ちょうど視界の外だった場所から声がした。そちらに視線を合わせると見慣れた顔があった。
「ぅ、ぁ、ハ、ナコ……」
発声に苦労しながらも名前を呼ぶ。深呼吸をすると、どうやら喉が渇いていて上手く声が出ないらしいところまでわかった。
咳払いをすると、一瞬遅れてハナコがペットボトルに入った水を差し出した。受け取った水を1口飲むと、僕の体はペットボトルから水を吸い出すように求め始めた。ゴクリゴクリと言う音が部屋に響く。
あっという間に水を飲み干すと、次は体が荒く呼吸を始めた。休みなく水を摂り続けたことで空気を吸うことすらも忘れてしまったらしい。水を飲むために起こした上体の反対側を、ハナコの手が優しく撫でる。しばらくそんな事が続いて、ようやく僕は『僕』を取り戻した。
「……はぁ、ふぅ。んんっ、うん。あ、あ、あー……うん、喋れそう」
体の状態から推察するに数日間寝たきりだったのだろう。一瞬の暗転だと思っていたが、そんな長い時間が過ぎていたなんて。
「ワタクシ、どれくらい眠っていたのですか?」
「……5日。少なくとも5日は経過しているはずです」
なぜ曖昧な表現になるのか。ハナコの目の下のクマを見てある可能性にたどり着く。
「もしかして、ずっとこの部屋に?不眠不休で?」
「不眠不休というわけでは。それにあの後色々ありましたから、ずっとというわけでも」
ありがとう、とお礼を言うのが一般的なのだろう。でもそれは何か違う気がして、問うた。
「どうして?」
「え」
「どうしてワタクシが目を覚ますと確信していたのですか?」
それは純粋な疑問だった。看病というのはある程度目を覚ます見込みがないと出来ないものだと、そう思っていた。
5日も目を覚まさないのなら諦めると思うけれど。
「トリニティの救護騎士団はとても優秀ですから」
「目を覚まさない可能性だって十分にあったはずですわ。だというのに、何故?」
「そんなの……」
何かしら理由を言おうと、そのために開かれた口だったはずだ。だというのにハナコは閉口し、じっとこちらを見つめていた。
数秒そうしたかと思うと今度は目をも閉じ、完全に沈黙した。そうして閉じられた目からは水滴が零れ始めた。
「そんなの、嫌です……っ」
普段の僕なら慌てふためいていたに違いない。今はそんな体力がないだけで、今も心だけザワついている。もどかしく、それでもその姿に美しさを感じている自分もいて。
やがてハナコは僕の右手を取ると、ぎゅうと両の手で包み込んだ。
「本当に、本当に良かった……!クララちゃんが目を覚まさなかったら私っ……私はっ…………!」
それは僕がこうなった原因が自分にあると考えているからなのだろうか。だとしたら、それは違う。
「あれが最善の選択で、享受したのが最良の結果であれば、何を憂う必要があるのですか?」
「そんなの……結果論じゃないですか」
「世界に満ちているのは結果だけですわ。ワタクシは幸運にも生きて帰れたのですから」
聖園ミカに殺意があればわからなかった。それでも彼女にソレがなかったから僕は生き延びた。運がいいとは思うけれど、戦場ではよくある事だ。
むしろそんな覚悟がないやつから死んでいくはずなんだけど、流石に規格外と言ったところか。
「ハナコさんもお休み下さい。ワタクシはもう元気ですから」
「……そう、ですね。でも、ベッドから出ちゃ、ダメ、です…………」
とっくに活動限界だったのだろう。ハナコは僕の手を握ったまま上半身をベッドの空きスペースに投げ出すように倒れ込んだ。やがてすぅすぅと寝息が聞こえてくる。
思えばこんなに弱っているハナコを見るのは初めてかもしれない。
「…………」
静寂と呼ぶには少し物足りない。ドアの前に感じる気配は一体誰のものか。
「お入りください。あ、でもハナコさんを起こさないようお願いしますわ」
しばらく気配は動かなかったが、やがて静かにドアが開く。
「"やあ、クララ。体調はどうかな"」
「悪くありませんわ。先生は───────おや、怪我でもしましたか?」
「"ちょっとね。大したことはないよ"」
「そうですか。お大事に」
足……いや胴体かな。不自然に緩慢な動きを見れば万全の状態でないことくらい一瞬でわかる。全員ボロボロだ。
その後、僕が倒れてからの顛末を先生は語ってくれた。聖園ミカはあの後投降、アリウスの生徒は捕縛したものの、その後アリウスから大規模な襲撃があったようだ。そんな事があっても気づかないほどだったのだから、思ったより自分の体は重体だったのかもしれない。
「"でも、クララが無事に目を覚ましてよかった"」
「つくづく幸運だと思いますわ。形だけの祈りも神に届くのですわね」
「"シスターとしてはあるまじき発言だね……"」
「シスターフッドのみんなにはまあまあバレてますのよ。追い出されないのが不思議なくらいですわ」
結局死ぬとか言われてたのはもうちょっと先の話なのだろうか。それとも死ぬはずだった未来を乗り越えたとか。だとしたらまるでアニメの主人公だ。
その後も先生と他愛ない会話をいくつか交わして、満足したのか先生は病室を出ていった。残された僕とハナコは当然何か会話があるわけでもなく、ただハナコの寝息だけが病室の時計を動かしていた。
やがてその揺りかごの中で僕も自然と目を閉じ、深い眠りの中に戻っていく。
次に目を覚ました時に、ベッドには1人分の重さしか残っていなかった。本当になんの音もしない、そこにあるだけの空間。病室は元々こうだったのだと認識するのにしばらく時間を要した。
「生きてる実感を得るために他人の存在が必要だなんて、おかしな話ですわね……」
こうして声を出すことで肉体が存在しているという実感はある。幽体の身で幻聴が聞こえている可能性もあるけれど。
いつの間にか独り言を漏らすでも丁寧な言葉になってしまった。この短い間で随分と環境に馴染んだものだと思う。なんとなしに時上クララという人間はそうなのだと、世界に定められているような気さえした。
きっと生前の自分はもういないのだ。生前の記憶や感情、それら全てを引き継いだ者が今こうして時上クララを名乗っている。
(だとしても───────)
それら全てが自分を形づくるものなら、何一つ違わない。これからも生前に生きていた『僕』が『ワタクシ』を導いてくれる。そうやってこれからも迷わずに歩んでいける。
「僕は……」
違和感。
「ワタクシは……」
違和感。
意識してしまえば全ておかしくて、それが可笑しくて。
病室に笑い声だけが響く。
一頻り笑って、そして再び目を閉じる。
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誰かが隣に座っていた。顔をそちらに向けると、日光の剣が僕の目を串刺しにした。腕でなんとかそれらを遮り、彼の顔を見る。
逆光で何も見えず、しかし口元だけがかすかに微笑んでいるのがわかった。
僕は知っている。僕の初めての親友、理解者なんてものじゃなくても心から僕を想ってくれる、大事なヒト。もう顔も思い出せなくても、君が誰なのか知っている。
うん、じゃあ、またね───────。
次回、ラストです。