なるほどこれは違法改造ガジェットだな、と一織は率直にそう思った。
バラバラになったクリオネライダモデルの破片は黒い帯によって廻の全身に縛り付けられ、乳白色の装甲として形成されている。そしてやたらと防御面積が狭い。胸部と腰回りにやや大きめの装甲がある以外は、前腕部や
首元には何本ものケーブルが輪っかのように束ねられ、留め具で固定されたものが冬物のマフラーのように巻き付いている。その上から覗く頭部装甲――乳白色の仮面には大きなひとつ目の複眼のみがあった。レンズのような凹凸の見えるその複眼は赤く光っていて、仮面上部から二本伸びている短いアンテナと相まってまさに内蔵の透けたクリオネの頭部のようだ。
『
しかし何よりも一織の思考に引っかかったのは、その異形に変身した廻が今も尚、苦しげに身体を痙攣させていることだった。
「おい大丈夫なのかよ……霧島さん!」
一織の声は彼女に届かなかった。廻は震える脚を踏ん張らせて僅かに腰を落とすと、次の瞬間にはホエールレイダーの眼前へと肉薄していた。
『だああああああーーーっ!!』
『むっ!?』
瞬く間に繰り出された七~八発の打撃。沈静化しつつあるとは言え未だに半アマゾン化している一織でさえ、それらを目で追うことは難しかった。対するホエールレイダーは巧みにオウギガントを操りすべてを防御するも、衝撃に耐えきれず大きく吹き飛ばされてしまう。
『なるほど……さすがは「滅亡迅雷フォースライザー」の仮面ライダー。瞬間火力はレイダーを大きく上回るというわけか……だが!』
追撃を行おうとする廻の両膝から力が抜けた。フォースライザーから電撃が何発も迸り、火花と共にいくつかの装甲がはじけ飛ぶ。
『あぐっ!? あ、ああああAAAAAAAAh――!?』
体勢を立て直したホエールレイダーはその隙を逃さず、肩マントを翻してレイドライザーのボタンを押し込む。
『所詮は非純正品! ヒューマギアにもなりきれない紛い物ごとき、純正品たるレイドライザーには遠く及ばないのだよ!』
《
水のようなエネルギーが生成され、オウギガントの周りに集まっていく。エネルギーを纏ったクジラの尾びれは何倍にも膨れ上がり、視界を覆い尽くすほどに巨大化する。ホエールレイダーはそれを目の前で悶え苦しむ廻に向かって躊躇なく振り下ろした。彼女は防御も回避もままならず、その大質量の攻撃に押し潰され、叩き付けられたエネルギーの起こす大爆発に呑まれてしまう。
「うっ――!?」
吹き上がる爆炎に目を伏せ、すぐに顔を上げた。煙の向こうには変身解除して立ち尽くす廻の姿があった。
「うそだろ、霧島さん!?」
廻はフラリとよろめき、仰向けに倒れる。駆け寄った一織が何とか受け止めると、無残な姿になった全身が目に入った。
「そんな……」
フォースライザーの電撃と先ほどの爆発のせいか、焼き尽くされたコートは原型もわからないただの布きれになっていて、破れた衣服から覗くのは白い肌……ではなく黒と銀の金属。特に左腕の損傷は酷く、人間の皮膚に見えたコーティングは跡形もなく消え去り、間接部にスジの入った機械の腕が完全に露出していた。後頭部に刻まれた裂傷からは配線がはみ出していて、左耳のピアス――よく見ると耳と一体化している――は弱々しく点滅している。
「め、じろ、く……」
「霧島さん! よかった、生きて――」
生きてて、と言おうとして、一織は口をつぐんだ。機械の身体に人格データをコピーされたという彼女は、果たして生きていると言えるのだろうか、軽々しく“生きる”などという言葉を使って良いのだろうか――今まで散々その言葉を使ってきた自分は、どれほど彼女を傷つけていたのだろうか。
『一応、五体満足だね。加減をし損ねたと焦ったが、さすがは
悠々と歩み寄ってきたホエールレイダーは身を屈め、地面に転がったフォースライザーを拾い上げた。続いてレイドライザーからキーを抜き取り、変身を解除する。
「(加減……?)」
「さて、これは返してもらうよ。これさえあれば、日没までには儀式を完了できる」
「まち……なさい………!」
一織の腕を押しのけ、廻は地面を這うように腕を伸ばした。煤だらけの頬を怒りに歪ませ、すぐそばに落ちていたクリオネのキーを震える腕で掴み取る。
「止める……教団を、止めるの……。わたしは……わたしたち親子の仇を討って……これ以上、罪もない人たちが踏みにじられないように……! わたしはっ……!」
不屈にも見える廻の執念。それは単なる憎しみに留まらず、人々や世界を想う気持ちが内包されている。彼女はいつだって洗脳されている教徒たちを慮り、ゾンビにされてしまった人々に心を痛めていた。一織が彼女の復讐に惹かれた理由はそこにある。無愛想に振る舞いながらも隠しきれない本音、廻の生き方そのものだと思ったからだ。
「よくもまあ、そんな台詞が吐けるものだ。……“だれ”が、罪のない人を踏みにじったと言うのかね?」
「……!」
しかし司祭がそう吐き捨てると、廻の動きが止まった。一織から彼女の表情は見えない。
「怒りの炎は本人の心をも脆くする……頃合いだね。さあ最後の答え合わせといこうか。――『
「……基本、だと?」
一見脈絡のないその単語だが、一織は思わず聞き返してしまった。それは有耶無耶になってはいたが自身と廻がすれ違った原因であり……恐らく彼女が解明することを避けていた話題でもある。
「残留データなるものを所持している君たちならとっくに明らかにしていると思っていたが、どうやら都合良く目を背けてきたみたいだからね。だからここで答え合わせといこう」
一織の脳内で何らかのパズルが組み上がっていく感覚がした。なぜこのタイミングで廻の“地雷”の話題を取り上げたのか。そもそも今日一日……鈴や一織に教徒をけしかけ、わざわざスタジアムで待ち構えてまで一織をいたぶったのも、どこか演出めいたものがなかったか? いや、恐らくもっと前だ。波妃ビル地下で都合良く銀の鍵の一端を
この時点で一織はなんとなく察していた。教団の連中が『銀の鍵』を扱う場面は断片的とはいえ目の当たりにしてきたし、それがどういう力を持った存在なのかも把握している。そして廻の正体が“ヒューマギアにされた女”だと判明した今、彼女がその解明を避ける理由も――。
「『銀の鍵』の基本的な使い道は“別の時空にしかない技術”を取り出すことだ。アマゾンズドライバーもそのひとつ、トランスチームシステムもそう。プログライズキーもそうであり、となると当然――」
「いやっ! 違う!」
「やめろ教授!」
「――ヒューマギアだってそうだ。
明らかにならなければ、きっと目を背けたままでいられたのだろう。『銀の鍵』とはよくわからない謎の魔法陣でたまにゾンビが出てくる、程度の曖昧な真実のまま、心を守ることだってできたと思う。しかし今、この場で司祭本人に断定されたとなったら、それはもう疑いようもない“事実”だ。
「いいかね、今の君の身体は“何の罪もない人々”の命を七つ、踏みにじって生まれたものだ」
「ちがう――」
「君がそうして動けるのも、“復讐”などというままごとに興じられるのも、根本の所は我々と同じ。……七人の生け贄を踏み台にして『銀の鍵』の恩恵を受けたからに過ぎないのだよ」
「ちがうぅぅぅ、うあぁぁぁーーっ!!」
両手で頭を押さえ、幼子の駄々のような叫び声を上げる廻。うずくまる彼女からは先ほどまでの意志の強さなど感じられず、一度は掴んだはずのクリオネキーもカラカラという音を立てて再び地面に転がる。
「理解したかね。これまで如何に自分を棚に上げていたのかを。個人的な恨みならいくらでも吐くが良い。だが世界だの人々だのを引き合いに出される筋合いはないね? そこにいる目白くんならともかく、“霧島廻”は既に七人、人を殺めているのだから」
「いやああぁぁぁぁ!!」
「おい、いい加減にしろよ教授……!」
「これにて閉講、君たちの負けだ。わかったらもう帰りなさい。……邪神復活による世界の破滅を、君たちの小さき友人と最期まで楽しむが良い」
司祭はそう言うと踵を返し、八つの光の柱が立つスタジアムを見上げる。一織はうずくまる廻の肩を支えながら、かつての恩師の背中を鋭くにらみ付けた。
「おい……!」
「む……?」
「なぜ霧島家で事故を起こした、なぜ彼女をヒューマギアにした!? どうしてこの人をここまで追い詰める? いったい何の恨みがあるってんだ、ええ!?」
「恨み、ね……。さて、どうだったかな……」
「……?」
肩越しに振り返るローブ姿の男。フードの隙間に覗く口元からは何の感情も読み取れず、それでいて哀しいくらいの虚無を感じた……気がした。しかし一織がそれを問い質す間もなく、その口元は狂気の笑みに歪む。
「すべては悲願達成のため、だよ。我々『翡翠の光』が目指すのは、邪神クトゥルフによる世界の破滅、ただひとつ……」
「……っ、くっそ……!」
もはや問答など不要。そう悟った一織は悪態をつくと、クリオネキーを拾いつつ虚脱状態の廻を無理矢理立ち上がらせた。そのまま彼らはよろよろとバイクに跨がり、逃げるように去って行った。
「泥沼も良いところだね、彼らは。……さて? こんな感じで満足かな?」
残された司祭はふたりが去って行った方角を見つめたまま、背後の茂みに声をかける。茂みの向こうからは声だけが返ってきた。今回の演出の発案者からの慇懃無礼にも聞こえる謝辞を聞き、司祭はクツクツと笑う。
「てっきり“やりすぎだ”と、ダメ出しのひとつも受けるかと思っていたのだがね。つくづく君も、わからない男だ」
茂みの向こうの男は姿を見せないまま、木々のざわめきに声を乗せた。
「ほう? まあ良い、これにて君のスケジュールは完遂だ。私もようやく本題に移れる。……うまく連れ戻せるといいねぇ? 大事な大事な“お嬢様”を」
もう声は返ってこなかった。司祭は自嘲にも、単なる嘲りにも聞こえるように喉を鳴らし、「せっかちな男だ」と、次いで「君も大概、泥沼だね」と吐き捨てると、スタジアムに向かって歩き出した。
* *
鈴は自分の目を疑った。目の前の女性が持つ黒銀の腕、後頭部からはみ出る配線、いつも髪に隠れていた左耳に一体化した発光モジュール……。日差しの差し込む殺風景な小部屋――とても人が寝泊まりする場所には見えない廻の自室に立ち尽くし、鈴は完全に言葉を失っていた。ふたりが転がり込むようにして帰ってきたとき、咄嗟に糸巻くんをホールで待たせたのは正解だったかもしれないと思った。これはただでさえ情報過多だったあのクラスメイトに見せられるものでもないし、それに廻さんだって見られたくないはずだ、と。……本当は私たちにだって見せたくないはずだ、と。
「……半年前、お屋敷の地下で目覚めたわたしは、心の底から吐き気を覚えたわ」
白い壁に寄りかかるようにして座り込む廻がそう呟くと、一織と鈴は黙って顔を上げた。廻は虚空を見つめながら「吐き出すモノも、吐き出すシクミもなかったのだけれどね」と、乾いた笑い声を零した。
薄暗い地下で目覚めてすぐに感じたのは強烈な違和感だった。あまり触れたことはなかったが、ゲームのキャラクターを操作するような感覚。画面の外から、自分そっくりのこのキャラクターを動かしているような違和感だ。それはすぐに確信に変わった。“自分の身体じゃない”、さらには“人間ですらない”という確信。その瞬間メモリ内のフォルダが開き、『ヒューマギア』に関する知識が別に頼んでもいないのに記憶の中へと流し込まれた。猛烈な吐き気を覚えたが、気色の悪いくらいに澄んだ声が喉奥のスピーカーユニットから出てくるだけだった。
“それ”を見つけたとき、一瞬で“自分”だとわかった。カプセルの中に横たわる“それ”は意識を失い、ひどく痩せこけていて衰弱しきっていたが、“それ”は弱々しくも呼吸をしていたし、体温もあったし、間違いなく生きていた。そしてまたもや勝手にメモリ内のフォルダが開き、“それ”の情報が開示される。年齢、性別、誕生日、そして名前――。開示されるまでもなく知っていた、自分自身の情報だった。今度こそ気の狂ったように叫び声を上げ、湧き上がる滅茶苦茶な情動のまま壁に頭を打ち付けようとしたが、[自己保護プログラム]とやらが起動してその行為を止めた。この身体は自分のものではないと、否応なしに理解した。
別の時空の技術によって造られた、本来は人間の様々なお仕事をサポートするために生まれたヒューマギア。だが自分はその中でも、ヒトと見分けられる要素を極限まで排除した『
そうして廻は家を出て、やがて波妃町に辿り着く。父と“自分”の仇を討ち、教団の振りかざす理不尽から人々と世界を守るために。
「――笑えるわよね。本当はパーティの時から薄々わかっていた、今のわたしの身体が『銀の鍵』と生け贄の命によって生まれてきたのだって。とっくにわたしは教団と同じ側にいた。それなのに……自分の行動を正義に結びつけていた。教団こそが悪だと言って、あなたたちを騙していた」
「廻さん、それは――」
「わたし運動音痴なのよ。本当はね」
口を開きかけた鈴の呼吸が止まる。一織も静かに奥歯を噛みしめた。ふたりは知っているのだ。拳銃を華麗に扱い、バイクを乗りこなし、ゾンビとも単身で渡り合う彼女の姿を。
「手先だって器用な方じゃない。そうね、漫画とかでよくある箱入り娘そのままなのよ。あなたたちなら上手にイメージできるでしょう、知識だけ持っているわたしと違って」
「霧島さん……」
「この身体にわたしの――“霧島廻”の個性はない。見た目だけそっくりの偽物の体にコピーされた偽物の人格を貼り付けただけの機械。姿が人間なだけの大きなスマホ。……軽蔑しなさいよ、罵りなさいよ……この嘘つきって、人殺しって……! あなたたちは人を殺して生まれてきた醜いスマホに良いように利用されてきたのよ、さぞ気色の悪いことでしょう!」
「やめて廻さん!」
廻の悲痛な叫びに鈴の悲壮な叫びが重なった。鈴は続けざまに口を開くが、言葉はうまく出ていかなかった。――そんなことない、――廻さんは悪くない、――あなたは人間だ。そんな言葉はいくらでも思いついたが、目の前の彼女に対してどれも不適切で、なにより不誠実だと思った。
「結局わたしは……卑劣な正当化で自分を塗り固めておきながら、教団に勝てなかった。日没と同時に邪神は復活し、世界は終わる。……あなたたちは逃げて。なるべくでいいから……一秒でも長く、生きて……」
力なく頭を垂れる廻。垂れた茶色い髪の隙間から「ごめんなさい」と聞こえると、鈴は胸に込み上げてくるものを感じた。
「なな、なに言ってるんですか廻さん……! まだ手は、あります、よね……? ね、ねえ? 一織さんからも何か言ってくださいよ。そんな、そんな言い方じゃあまるで――!」
「……ごめんなさい」
「に、逃げるにしたって! 一緒に逃げるんですよね? 私たち三人と、きっと無事な本城さんと、ついでに糸巻くんも一緒に! それでその、生き延びて、反撃の機会を覗って……最後に大逆転! みたいな? もしくは――」
「――申し訳ありませんが小黒様、そういうわけには参りません」
突如かけられた声は部屋の入り口の方からだった。「失礼します」と言いながら三人の前に姿を現したのは執事服に眼鏡をかけた優男――本城輝星だった。
「ほほ、本城さん!? 無事だったんですか!?」
「……」
驚き半分喜び半分の声を上げる鈴と、真顔のまま視線だけ上げる一織。本城はそんな彼らを一瞥すると、淡々とした口調で話し始めた。
「状況はインカム越しに大方把握しています。単刀直入に申し上げますと――お迎えに上がりました、お嬢様。お屋敷に帰りましょう」
「え、ええっ」
「……?」
鈴が目を見開き、一織は目を細めた。廻は一瞬だけ驚いたように眉をひそめ、すぐに再び顔を伏せた。
「波妃町の異常は財閥の方でも既に察知されています。そのうえで、お嬢様の身の安全を第一に動き始めました。邪神復活の儀式が阻止できないとわかった今、私もお嬢様のご無事をなによりも優先させたく存じます。おふたりも……どうかご理解ください」
「そ、そんなっ……。でも廻さんは、……その、あの、身体が……」
「……そうだね、鈴さんの言うとおりだ。あんたも含めた財閥の人間とやらは知ってたのか? 霧島さんの身に何が起きていたのか」
「……いえ、お恥ずかしながら。ですが前後関係から推察するに、霧島邸にて『銀の鍵』が使用されたことは間違いありません。そうなるともうお嬢様個人の問題ではない……これは我々霧島財閥の問題です。率直に申し上げますと――
「あ……」
「へえ……?」
「邪神復活ののち、真っ先に被害を受けるのはこの街のはずです。おふたりも、なるべく早くここを発つことをおすすめします。……このような不誠実なお別れになってしまうことをお許しください。お嬢様も、よろしいですね?」
廻は床に足を投げ出したまま斜め下を向き「なんでも構わないわ。好きにして」と呟いた。本城はそんな彼女の姿を数秒見つめた後、立ち尽くす鈴を尻目に踵を返す。
そんな本城の背中に、一織が「ちょっと」と声をかけた。
「……いかがしましたか、目白様?」
「最後に少し話したいことがあるんだけど、ちょっと外までいいかな?」
「申し訳ありませんが、ことは一刻を争いますので――」
「大した話じゃないよ。それに……女性陣ふたり、水入らずで話したいこともあるだろうし?」
「はあ……」
本城は微妙な表情で首を傾げたが、すぐに「そういうことでしたら」とその頬を緩ませた。そうして男ふたりは廻の自室を後にする。一織は去り際に軽く振り返り、“どうか霧島さんのことを頼んだよ”とでも言いたげな目配せを残していった。鈴はなんとなくだがその真意を察し、ゆっくりと廻へ向き直った。
殺風景な部屋。窓の外から聞こえる蝉の鳴き声がすべてを埋め尽くすかのような静寂。目の前で俯く廻の姿がどうにも一年前の自分と重なるような気がして、鈴はコートの袖を握りしめる。廻に着替えさせてもらった彼女のコートからは、柔軟剤の優しい香りがした。
* *
喫茶acquarioからほんの数分、駅から離れるように歩いたところにある路地。雑居ビルの白い壁に挟まれ、突き当たりではポリバケツが寂しげに佇むその場所に
「本城さんさ、接客業の経験ある? あ、ごめんないよね。ずっと霧島家で働いてきたんだっけね」
白い壁を視線でなぞるようにして歩く一織は独り言のようにそう呟き、「まあ俺もないんだけど」と苦笑いを零した。
「だからこれもファミレスでバイトしてた先輩の受け売りなんだけど……。“クレーム”ってあるじゃん? あれってどうやって発生するか、聞いたことある?」
接客業の経験こそないものの、霧島家執事として人並み以上の知識と教養を身につけている本城もその単語の意味はもちろん知っていた。だがそんな脈絡のない話題に、彼は眼鏡の奥で眉をひそめる。
「……さあ、どうでしょう。品のない悪質なクレームを除けば、店舗側がお客様に対して不満を抱かせるような何かを働いたから、といったところでしょうか」
一応、応えはするものの、本城は訝しむように一織の背中を見つめている。そんな態度を知ってか知らずか、一織はけらけらと笑い声を上げた。
「俺もそうだと思ったよ。まあ根本のところはそれで合ってるらしいんだけど、実際はもうちょっと複雑らしくて。……クレームって、“ポイント制”なんだって」
「はあ……」
「お客様は、許しがたいひとつの事柄に対して怒るんじゃない。“まあいっか”で流せるような小さな事柄が積み重なって、一定ポイント貯まって初めて怒るみたい」
「……」
まあわかる、と本城は思った。接客態度が悪かったと主張する客が普段から言葉遣いに並々ならぬこだわりを抱いているわけではないし、お客様は神様精神を幼少期より重んじてきたわけでもないだろう。提供が遅かったり、紙ナプキンが切れていたり、料理の味が今ひとつだったり……ひとつひとつは別に流せるような事柄が重なって、たまたま店員の言葉遣いが癪に障ったタイミングで“ポイントが貯まった”ということだろう。接客業でないとはいえ様々な人と関わる仕事をしてきた本城には容易にイメージできた。
わからないのは、こんな話をこんなところで始めた目白一織の心境だ。
「俺こんな性格だからさ、ポイント満了までのラインがやたらと遠いんだよね。最後まで“まあいっか”で終わっちゃうんだよ。……だからいつも、全部通り過ぎるまで気付かないんだ」
体ごと振り返った一織は悔しげに首を振った。
「普段の言葉遣いだったり、何気ない所作だったり。あとはそうだな……怪我しているはずなのに血の匂いが一切しなかったり、なんとなーくこっちを避けてるような気がしたり。全部“まあいっか”とか“そういうもんか”でずっと済ませてきてた……そういうことに最後まで気付けないこの性格はいつまで経っても治らないんだよな……」
「……なるほど」
ここまでなんとなく身構えていた本城は思わず拍子抜けし、一織に聞こえない程度の小さなため息を吐いた。要はこの男、司祭にも言われたように今日まで廻の秘密に気付けなかったことを気にしているらしい。……思い上がるな、と心の中で吐き捨てる。そもそも廻様と貴様では住む世界が違う。たまたま力を手にしただけの化け物ごとき逆立ちしたとて釣り合うはずがない、と。
だがそれも今日までである。スケジュール通り、戦う意志をなくした廻はお屋敷に戻り、司祭は儀式を完了する。そう思うと目の前で肩を落とすこの男がひどく哀れに思えてきた。
思わずにやけてしまいそうな口元を隠し、本城はいつもの微笑みを作る。
「心中お察し致します。私も
「――ああ、いや、違う。違うよ、全然」
すとん、と。一織の言葉から抑揚が消える。
「まあ確かにそれもあるけど。今は
「…………は?」
「
一織は何気なく持ってきていたヨレヨレのバッグを肩にかけ直した。……ガシャリ、と響く無骨な音が“何”から発せられたものか、本城はよく知っている。
「おまえのことだよ、“イエローガイスト”」
読了ありがとうございました。
『ソルド』と呼ばれるヒューマギアは、主に〈ゼロワン〉のVシネに登場するヒューマギアです。イズたちとは違い、耳のモジュールがピアス型になっているのが特徴的ですね。今回の廻に関する部分で述べたとおりですが、それなりに独自解釈で肉付けしているので、もし気になった方は是非Vシネを視聴してみてください。ちなみに廻はソルドマギアにはなりません。
また廻には人間らしい自我がありますが、シンギュラってるのかと言われると少し違います。霧島廻本人の人格データを移されているので、その点では〈仮面ライダードライブ〉のベルトさんに近いです。人型をしているからどちらかと言うとゴルドドライb――蛮野か。そう思うと微妙な気分になる……。
ということで次回もお楽しみに。
次回「3-10. 邪神の首に鈴をつける」
クトゥルフ復活まで、残り四時間。