天稟開花
生まれた時から、“なにか”が欠けていた。
満たされない。満たされない。
私の裡を、言葉にできない飢餓に似た感覚が犯す。
心という器がいつも空っぽで、どうしようもなく“なにか”を求めてる自分がいた。だけど、その“なにか”が一体なんなのかすら分からない。
恵まれた環境に、幸福を知覚できる人並みの心。
それでも私という存在はいつまで経っても満ちることはない。
まるで生きた屍。感情を落とした瞳のない人形。
それが私、五条
「──ねぇ、君は“なに”?」
ふと目を凝らせば、屋敷の庭園に“なにか”が居た。
気持ちの悪い見た目をした魍魎。
腕は六つ。目は一つ。身体中に口がついていて、おどろどろしい呻き声をあげるそれは、黒くて濁った瘴気を漂わせながら私を見て嗤った。
『ぁそぼ、あそぼ?』
「……あ。もしかしてこれが呪霊?」
一瞬の間を置いて、私はその化け物の正体を認識する。
いつもお屋敷の使用人や教育係が教えてくれていた、この世界に実在する化け物。人間の負の感情を糧に誕生し跋扈する存在、それが呪霊と言うらしい。
私自身、呪霊を初めて見るから反応が少し遅れてしまった。
「うーん。どうしてこんな所に湧いてるんだろう」
周りを見渡し、呪霊に視線を向ける。
私の生家である、“五条家”は呪術界に於ける御三家と称されており、屋敷の敷地内には結界が張り巡らされていると昔世話係に聞いたことがあった。
「そっか。そう言うことか──
空っぽな心の内で、私は自分の死を予期する。
呪霊がいるにも関わらず一向に来ない家中の者たち。
まるで私がこの庭園で一人微睡むのが日課だと知っていたかのようにしてこうして目の前に現れた──十中八九、誰かの差金として調教された呪霊なのだろう。
その刺客が一度も会ったことのないお兄さま。今年から呪術高専に通うという五条悟に関係することなのか、そうでなくても
『あそぼ?』
「──かふっ」
呪霊の腕が、私の胸を貫いた。
真っ赤な血がお気に入りの着物を染めていく。
チラリと後ろを振り向けば、私の心臓がこの身体を飛び出て鷲掴まれてた。
あぁ、嗚呼──
だけどやっぱり、なにも感じない。
数秒後には潰された心臓の肉片が地面の染みになると理解していても、私の心はそれでも凪いでいた。
──私の空虚な人生は、これで終わり。
視界が暗転して、血液の流れが停滞し、脳細胞が思考を枯らして死滅していく。
詰まらない人生だった。
無意味で無価値な人生だった。
生きながらに死んだような人生だった。
堕ちて、溢れて、燃え尽きて。
──そして私は、呪いの核心を掴んだ
█
「くひひ。五条の令嬢といえども所詮は術式も扱えぬ稚児。なんと容易い仕事ぞ」
老いさらばえた男の下卑た笑いが、石造りの庭園に溶け入る。
男は、呪詛師だった。
世にありがちな下衆畜生。金のために人を殺し、金のために人を呪い、金のために人を貶める。
妄執に取り憑かれた人非人は、目標の完遂をその濁った眼で見届けながら調教を施した呪霊の側へと緩やかな歩みを進めた。
「ふん、この程度なら準一級呪霊の調教も骨折り損じゃったわ」
呪詛を吐き捨てながら、老骨は地に伏した幼子の死体を見下す。
五条の屋敷。この世の
数ヶ月に及ぶ地道な下調べ。
己の残穢を残さぬよう飼い慣らした呪霊。
呪霊の気配をかき消し結界をすり抜けるための呪具の採集。
多大な時間と労力と金を懸けた男の下準備は、結果として報われることとなる。
幼少期の五条悟に及ばずとも、その幼女の屍に懸けられた懸賞金は億に届き得るほどの財貨。
五条の血筋、現代の異能の実妹。蝶よ花よと育てられた白銀の姫君。
まるでサラブレッドの血統に対して評価し、高値を付けるように、呪術を未だ扱えぬはずの五条菫の肉体には裏の世界にて呪術的な“価値”が見出されることとなったのだ。
「くひ、しかしまあ当然じゃな。呪力も練れず術式も自覚できぬ者など、非術師も同然よ」
更に、一般的に呪術師が己の術式を自覚できるのは4〜6歳頃。この呪詛師の男の手早い暗殺計画にとって、未だ4歳の五条菫が術式という異分子を発現させる前に殺せたことは僥倖であったと言える。
「あと数分もすれば屋敷の者も異変に気づくかのぉ」
下卑た嗤いを潜ませ男は思考に耽る。
五条家への侵入を可能にした手練手管の数々はあれども時間は有限。こうして五条菫を殺害し五体を回収可能な状況へと駒を進めた今、男がこの場に留まる理由は皆無であった。
「さて、ここいらで退くとするかの……おい、其処の稚児の亡骸を運べ」
踵を返し、隣にて呆然と立ち尽くす呪霊へと命令を発する
これにてお仕舞い。あとはこの屋敷を抜け出し、この幼子の死骸を依頼主の物好きへと五体フルセットで明け渡せば莫大な報酬を得られると浮き足だった男の歩みは──次の瞬間、止まった。
「──あぁ」
声が、聞こえた。
甘く響き渡る美声が、空気を伝わり男の耳へと届く。
「……は?」
唖然としたか細い声を発し、男が振り返る。
濁った眼に映るのは未だ地に伏せたままの幼女の姿、
もぞりと、幼い身体が蠢いた。
縁側に広がる夥しい血痕。
打ち捨てられた心臓。
確定した筈の“死”が、覆る。
──なんじゃ、この怖気は。
気のせいだ、気のせいに決まっている。己の聞いたものはただの幻聴だ。己の見たものはただの幻覚だ。
男の現実逃避染みた思考が脳を駆け巡ると同時に、己が僅かに後退りしているという現実を認識する。
「今のが、“死”なのね」
幽鬼の如く、ゆらりと幼子が起き上がった。
滅びの因果が覆る。
死の定義が崩れ去る。
あり得てはならない存在証明を、異端が成し得た。
「なぜ、生きておる……?」
唖然、混乱。その後に疑問の吐露。
非術師を殺すが如き楽な仕事が、予想外の顛末を迎えかけているという非常事態に男の思考回路は停滞する。
「ずっと、満たされないの」
問いに答えず。幼子が己の在り方を語る。
満たされない。満たされない。満たされない。
空っぽな心の器を曝け出しながら、幼女は血に濡れた着物をはだけさせながら己という“美”を惜しげもなく披露する。
真っ白な髪、真っ白な肌。真っ赤な瞳。真っ赤な着物。
浮世離れした美貌を持つ幼女──五条菫が微笑んだ。
「──まさか。
五条菫の成し遂げた死の超克の絡繰を老骨は理解する。
反転術式、それは呪術における高等技術。
負の力である呪力に更なる負の力を掛け合わせることにより正の力を出力するという、あの五条悟でも今はまだ習得困難な超絶技巧を五条菫は死の淵に指を掛けることで呪いの核心と共にそのコツを感覚で掴んだのだ。
まさしく、異能。
まさしく、異彩。
神に愛されし天賦の才が、死という虚無を経て羽化する。
「側付の子と花札をした時も、美味しいものを食べた時も、綺麗な夕焼けを見た時も、ずっと空っぽなまま」
「……っ、やれ! 頭を食い千切れッ」
呪詛師が呪霊に命令を発するよりも早く、呪霊が異端の覚醒に怖じて術式を解放する。
『ぁそ──」
「でも、今は違う」
──それよりも更に早く、五条菫が呪霊に
『█████──ッ!』
呪霊が呻きをあげる。
まるで苦しむように、懇願するように絶叫が轟く。
──なんじゃ、これは!? 呪霊の呪力が……
そして呪詛師の眼に映る奇奇怪怪、摩訶不思議な現象。
呪霊の呪力が眼に見えて減退し、それに比例するようにして五条菫の呪力が
『や█て █めて!』
「ふふっ。あはっ、あははははは!」
笑う、微笑う、嗤う。
呪霊の命乞いに破顔しながらそれでも五条菫は術式を順転し続ける。
存在の規格を縮小され続ける呪霊。喰らい、貪り、
やがて呪力を失い、喪失の果てにて──呪霊はその姿を保つ術を失い崩れ去った。
──通常の消失反応……ではない。呪霊が祓われずに消えたじゃと……!?
本日幾度目かの驚天。
覚醒を果たした現代の異能を相手に、呪詛師は恐怖を覚えながら目前の現象を解析する。生き残るために、生き延びるために、死なぬために。
「これっ、これ凄い! 呪霊!呪力!そしてこの
──殺さねばッ!
艶っぽく妖美に微笑う菫の姿を見て、呪詛師の男はもはや本能と呼ぶべきほどに衝動的な自我に身を任せて突貫する。
──殺さねば! 殺さねば!
呪詛師も術師も呪霊も関係ない、ただこの怪物が生存しているという現実に肌を突き刺すような不快感が止まず、男は殺意を漲らせ懐から獲物を取り出して振りかぶる。
──頭を刺し貫き、その首を刎ねねば……この怪物を殺さねばッ!
鋭い刃が五条菫の額を貫く、その直前。
「ねえ」
「──ぁぇ」
血のように赫い双眸と、目が合った。
「──貴方の“全て”を
優美に、妖美に微笑む白銀の幼女。
呪詛師の男が人生の最後に眼にした光景は、その生涯で最も美しい情景であった。
█
「──
五条菫の名を呼ぶ声が、焦りを伴い発せられた。
「あら、遅かったわね」
ばたばたと幾人もの足音が騒々しく縁側の木造をみしりと軋らせる音に、五条菫は少しばかり不快感を覚えながら返事をする。
「もう終わったから
「なっ……!?」
五条家の使用人。更には警護を務める分家筋の術師たちは、その場の絵図に目を丸め驚きを口にする。
辺りに染みた致死量の血痕。
召した着物を血に濡らした本家の令嬢。
そして、その傍に呪詛師と思しき男の亡骸。
まるでこの世のありとあらゆる恐怖をその身で体験したかのような表情を浮かべた男が、
そして何より使用人が顕著に感じ取ったのは、五条菫の“変貌”であった。
常日頃から人形のような無表情を浮かべている少女が、花のように絢爛な笑顔を咲かせ優雅な佇まいで呪力を纏っていたのだ。
術師としての、覚醒。
五条家にとって無下限と六眼の抱き合わせである五条悟の誕生時に及ばずとも、目視でも理解できるほどに膨大な呪力を放出する主の姿、更にはこの状況で傷を負ったのは五条菫であるという半ば確信を抱いた憶測から反転術式の習得をも予感し、使用人は歓喜の感情を湧き上がらせた。
「……菫様。一体此処でなにがあったのですか?」
問い掛ける。己が主人の術式や、どう呪詛師を屠ったのかを知りたいと好奇心にも似た感情で使用人は問いを投げかけた。
「ひみつ」
可愛らしく人差し指を立てながら、あどけない仕草で幼女が微笑みを魅せる。
「……かしこまりました。菫様、見たところお召し物も汚れてご不便な様子。
「ふふ、ありがとう」
体内を廻る呪力を惜しげもなく漲らせ、己の血潮が広がる縁側を白銀が歩む。
最後に、ぼそりと誰にも聞こえぬよう独り言を呟きながら。
「──つぎは、何を奪おうかしら」
五条家の異端児。白銀の簒奪者。呪術界の災厄──後に数多の二つ名とともに畏怖されることとなる現代の異能が、産声を上げた。