Glom's Royal Deception   作:kisuzu

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初投稿です。なんなら初めての小説です。なかなかミリタリー✖︎政治がないので書くことにしました。
始めてなのにテンションが上がって色々チャレンジした結果、変な表現が多くて読みにくいと思いますが、刺さる人には刺さる!   そうなったらいいなぁ(願望)と思っています。


呆気ないプロローグ

 

エルキア王国。独立した大陸に佇む唯一の国家。

壮大な山脈が竜の脊の如く堅固な城壁を形作り、緑の繁茂した平原が神秘的な織物を広げる。

 

その土地の地形はエルキアの誇りであり、住民の描く豊かな生活の一筆一線である。内陸外周がまるで円を描くような森林で覆われており、その国土の約60%もが未開拓地帯のまま、今日に至るまでその姿を保ち続けている。

 

エルキア人は自国に埋まる豊富な資源を自給自足の原則に従って利用し、その独自の生活様式を貫いている。

 

 

長い歴史を持つエルキアは古代の遺産を今に伝え、一方で新しい発見を歓迎し、自由な思考と創造性を促進する文化を育んできた。大学と研究所が点在し、新たな技術や理論が日々誕生している。 城塞都市であるエルキアの首都、アレーンは、豪壮な城壁と壮麗な建造物が立ち並ぶ。

 

その豊かな文化と優れた技術力から、エルキアは文明の灯台として他の国々から尊敬を受けている。だが、エルキアの人々が一番に重視するのは、王家の血筋と、権威である。彼等にとって王は国を映す鏡であり、象徴である。

 

王国の基礎である憲法と王家は。

不屈、団結を絶対とし、いかなる困難も不断の努力と日々の積み重ねによって、自国の利益を追求するその精神は、エルキアが未来に向けて歩み続ける強固な基盤となっている。

 

 

 

エルキア王国二繫栄アレ。        

 

スレイ歴745年12月30日

ーーーーーーーーーーー

 

と、

そこまで読んだところで、私は新聞を半分に折り、誰も同席者の居ない隣の席にソッと置いた。

 

 

ここは列車の一室だ。ただの狭い部屋ではない。フレイバン発、アレーン行きの一等室だ。

 

新聞には今日が建国記念日ということ、つい先日のカルディア共和国との安全保障条約の締結もあって共和国の新聞社の記事を抜粋した一文を掲載していた。

 

 

私は、今エルキア王国でのある重大な仕事を終え、次の仕事に向かっていた。川の流れに身を任せるように過ぎ去る風景に意識を向け、内から流れる、一切の緊張を抑え込もうと試みる。

 

しかし、それでも先ほど終えた仕事についての不安が湧き上がってくる。

 

もちろんできることは全てやった。しかし、その結果が明らかになるのはまだ先だ。

 

胸中では、無駄になるかもしれない仕事についての思考が渦巻いていた。その思考を追い出しても、すぐに次の仕事についての疑念が湧き上がる。

 

 

本来、私にはそうした思考は似つかわしくないのだが、今回の仕事は非常に重大な役割だったため、列車に乗って一時間。集中しようと気力を振り絞っても、数分後には同じような思考が巡り巡っていた。

 

「はぁ」と私は溜息混じりの息を吐き出す。一時間近くもそんなことをずっと考えていたせいか、胃が不快な痛みを訴えてきた。

 

—―トイレに行こう。

 

別に腹痛までも発症した、ということではない。

なんてことはない、ただの気分転換…兼仕事だ。

 

 

 

この列車は国内最大級の大型蒸気機関車で最大乗客1000名以上な上に終点まで7時間近くかかるため、三つのトイレ専用車が設けられている。思い立つと同時に、部屋に備え付けられている、感触からして恐らく革製の高級なシーツから立ち上がり、横開きのドアを開け、部屋から出る。

 

 

その廊下は一見すると狭く、木製の壁板は淡い白樺の色で覆われ、壁にエルキアの風景を描いた芸術作品が飾られていた。天井は身長を抑え、間接照明が微かに優しく照らし、安心感を与える。床は銘木の板張りで、足下には経年変化により深みを増した暗褐色が見え、一歩を踏み出すたびに微かに木の香りが漂ってくる。この廊下は狭さを独特の落ち着きに変え、そして、窓越しに広がる夜景が、この狭い空間に唯一の広がりを与えていた。

 

と言っても、別にこの列車が狭いという訳ではない、むしろかなり大型の部類に入るのだが、列車の面積に対して部屋が広すぎるのだ。

 

再び大きく息を吐く。しかしその意味するところは先ほどとは大きく違っていた。

 

同じ列車の中とはいえ、幾分か空気が新鮮になったように感じ、呆れる。

 

——-自分というものはなんとも単純なものだ。

 

列車に乗ってからこのうち、あれだけ悩んでいた不安が部屋から出た途端に薄れていくとは。自分自身に呆れつつも、その一方で、足はトイレに向かって進んでいく。

 

結局、不安な時には体を動かすのが一番だと改めて感じながら、木製の狭い廊下を歩いていくと、トイレの前には四人の人が集まっていた。

 

男二人女二人、年齢は様々で男性は50代と30代、女性は10代と20代後半と見える。2秒ほど横目で見てすぐに視線を外す。余計な疑念を避けるため、簡単な観察に留めておく。

 

 

——しかし、あの女性、どこかで見かけたことがあるような…?

 

私の視線は数瞬、その中で一番若く見える女性に行く。

中折れ帽を深くかぶり、身体を覆うような大きな茶色のコートを纏い、白い手袋をつけたその姿。何か隠していますよと言わんばかりの恰好に見える。

 

「何か?」10代に見える女性が私を見つめながら言った。

その銀色の瞳に捉えられたとき、私の心が微かに震えるのを感じた。

 

——まさか、私が見ていたことに気づいたのか?あの一瞬で?

 

「何がですか?」

 

私はわざと知らないふりをする。が、それが何の役に立つとも思えない。女性が声をかけてくると、他の三人も同時にこちらを見つめてくる。胃がまた痛み始めた。

 

「先ほど、私のことを見ていたようですね」

 

そう言って、コートを着た女性がこちらの瞳を覗き込んでくる。

その瞳は、まるで冷たい銀色の湖面を見つめているような感覚を与え、そのまま飲み込まれて、視線が離せなくなりそうになる

 

理性の引力でなんとか思考を引き戻し、女性を分析する。

 

語り口は、少し尊大な口調に聞こえた。おそらく上流階級の出なのだろう。

私はこの国出身ではないし、大丈夫だとは思うが、あまり目をつけられたくはない。

 

しかし、話しかけられた以上黙りこくる訳にもいかず、なんとか返答を返す。

 

「いえ、ただこの車両で立ち話というのも珍しいと思ったものでして…」

 

「それにしてはは、私の方を特に見ていたようですが?」

 

—―なるほど、彼女は自分が注目の的になることに敏感なようだ。

 

改めて彼女の容姿を観察すると、そうなるのも納得できる。

 

高くそびえ立つ鼻梁に整った眉。

切れ長の瞳に覗く白銀は、彼女の浮世離れした美しさを一層際立たせ、詮索から逃れようとするかのように深く被った帽子から流れ出る髪は、満月のような銀色で、

 

大きすぎる男物のコートが覆い隠す輪郭は、何かを秘めているように感じさせ、厳格さと柔らかさが混在する、奇妙な雰囲気を与えていた。

 

彼女を構成する全てが、どこか読み切れない何かを感じさせる。それが何なのかを私には分からないが、それが彼女の魅力の一部であることは間違いないだろう。

 

そうなると彼女の美しさに注目する男性が多いだろうから、視線に敏感なのも当然だ。

それに事実、私も彼女を見ていたわけだから。言い訳のしようがないことは明らかだろう。

 

 

 

 

「おっと、それは失礼。あなたがあまりにも美しかったもので」

 

最早何の言い訳にもならない言葉が口から出てしまった。何を選択したのかは自分でも理解している。だから、そんな目で見ないでほしい。

 

それに対する女性の反応は無言だった。彼女だけでなく、他の三人からも同じような眼差しが向けられた。

 

「話は変わるんですが、トイレは空いていますか?」

 

私は左手でトイレを指し示す。それを見て四人は何も言わずに横にずれる。

 

その後に残ったのは、言葉にできないような雰囲気だけだった。私はそんな空気の中でトイレに入った。

 

トイレには普段よりも長く滞在した。

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

【あの女性】

 

トイレから出ると、どこか空気が可笑しかった。列車内にある空気全てが棘を持ったかのような静寂を保っていた。

 

 

—―何かおかしい

「逃げた方がヨサそうダナ」

私はその異様な雰囲気に飲み込まれないように、思考を続ける。

 

 

ガタゴトと云う音が景色と共に流れていく。

先刻と同じように、まるで何も異常は起きていないとでもいうようなそれが不気味に思え、とりあえず自分の席に戻るために歩き出す。

 

「もたもたスルべきジャナイぞ」

 

私の足音が廊下を埋め尽くして、その響きはどこか虚しく響く。何度も歩いたはずの列車の中で、こんなにも孤独を感じたことはなかった。自分の席に戻るために足を進めていく。

 

貫通扉を開け、列車と列車の接合部、唯一の外との境界に出る。

すると新鮮な外の空気と共に雨が激しく私の帽子を叩いた。咄嗟に手で中折れ帽子を抑える。

 

どうやらかなり強い雨が降り出しているようだ。。

 

濡れたドアの取手を白い手袋越しに掴み、次の車両につながる貫通扉も同様に開ける

 

同じようにして一等車両を潜り抜け、最後の一等車両を通り抜けようと歩いていると、途端に重たい気持ちが戻ってきた。銀髪の女性の存在が頭から離れない。

彼女のことを思い出すと、不快な胃の痛みがまたもや蘇ってくる。

「マダ調子が悪い…ナゼだ…」

――なぜ、そんなことを気にするのだろう?

 

私は自分の理性に問いかける。確かに、彼女の美しさや神秘性は気になるものがある。しかし、それが何もかもを塗りつぶす程のものであるとは思えない。

 

ぼんやりと窓の外を眺める。そこには暗い海の風景が広がっていた。

 

闇夜を覆う深い青の海。冷たく遥かな月光が幾筋もの光の道を海面に描いていて、それが軽く揺れ動く水面で細かく砕け散っては再び集まる、儚い光の踊りを繰り広げていた。

 

遠くで見える灯台の光が、この漆黒の海に唯一、人間の存在を思い起こさせる。

 

漆黒の海はどこまでも広がり、その果ては見えない。幽深な静けさが時折海から立ち上る微かな波立ちの音をより際立たせていた。

 

その広大な風景が答えを教えてくれることを、淡い期待で見つめる。しかし、外の景色はただ静かに過ぎ去っていくだけで、私の心の動揺を慰めることはない。

 

「ナゼカずっとネムッテタから調子が悪い」

 

そして、そのとき、何かが起こった。

 

列車の灯りが突然消え、一瞬、列車内は真っ暗になる。ほんの数秒後、非常用のライトが点き、微かな赤光が部屋を照らす。しかし、その光が照らし出したものは、私が予想していたものとは全く違っていた。

「ホラな、言わんこっちゃない」

「おぉ?でも段々良くなってきたな」

「ん?よぉ兄弟!、そんなとこに突っ立って、なんかあったか?」

肉の花…そうとしか形容のしようがない生物、いやあれは本当に生物なのだろうか?

論理的思考ができたのはそこまでだった。

 

 

 

グチョリとした何か液状の、しかしわずかに粘度を帯びた血液なのか唾液なのか、そのどちらともつかぬモノが床に勢いよくぶちまけられており、今なお”それ”に糸を引いていた。

 

 

これは…一体… 

 

様々な書物の知識からそれに該当するものを少しでも浮かび上がらせようととするが、そんなものを持ち合わせているはずも無く、出てくるのはもう無くしてしまった怪奇小説の一幕、列車に乗り合わせた口の悪い男が偶然に人間に化けた人食い植物の姿を見てしまい…あの本か、確か、7番目の姉貴から借りったってやつ

 

そして…、その後男は、あと、男は、どうなったんだっけ…?

「死んだな!それもど派手に!」

意味のない考えが脳を埋め尽くす。そうして何も現実を処理できないでいると、

 

キィィィィィ!!!! 「うおおぉ!なんじゃこの音はぁあああ!!!アタマがいてぇえ!!」

 

鉄と鉄がぶつかり火花を散らしているだろう甲高い音、列車のブレーキ音と思われる音と同時、その音を嫌ったのだろうか、まるで共鳴するかのようにそれは叫んだ

 

 

 

 

 

 

イタイイタイイタイイタイ!ヤメロヤメロ!コロス!!!!!!

「ンァ$&ぁヤ¥%!ァァァァアア#!$%$&¥%!」

 

 

「走レ!!!」

 

脳に直接呼びかけられような、そんな耳障りで、声と表現することを躊躇ってしまう声が頭に響き、それによって頭のスイッチを押されたかのように生命の危機を実感し、本能がソレに背を向けさせていた。

 

 

「走れ、走レ、走れ! 走れ!」

 

逃げないと! 逃げないと、逃げないと、逃げないと!                                  

 

そんな思考と呼ぶのも烏滸がましい、ただ恐怖に支配され、同じ信号を繰り返すだけの脳が、今この瞬間の私に今までの人生で最も速く確実な足運びを可能にさせていた。

 

       「そんなわけねぇだろ…俺が代わりに動カしてヤッテんだよ」

 

木製の床を蹴って、瞬間、わずかに浮いた身体が蹴ったエネルギーによって宙で加速する、足を前に、前へ!

 

 

今だけは通路の扉までがやけに遠く見える、なぜ身体はこんなに遅いのかと、高速化した思考が捲し立てる。                「なんでこんなにオセェンだよ!」

無駄に早い思考がこんな時に限ってさらに加速して、さらに煩わしい。

「オット、いかんなー、干渉し過ぎたカ」

化け物が追ってくるのを肌に当たる風で感じる。それと同時、扉の手すりに手が届く。

 

 

手すりを強く握りこみ、力み過ぎないように、しかし思いっきり力を込めて扉をスライドさせて開ける。

冷たい外気が肌に触れる。次の列車につけられた貫通扉にも手を伸ばし、同じように開ける。今度はより素早く、正確に。

 

 

三分の二も開いていないほどのところで、私は体をバレリーナの如く反転させて向こう側の車両に移る。

その瞬間後ろの方、正確には先ほどまでわたしがいたであろろう場所から

 

ブゥォン!という何かかが空気を切り裂く音が聞こえてきた。

 

反転した時の反動を使って半ば倒れるように扉を横に叩きつけて閉めた。

そして体内に残ったあらん限りの力で扉を横に押さえ続ける。

 

ドンドン!

「あぁ、少しマシになってきた」

と殴るような衝撃が扉越しに身体を叩く。恐怖心が膨れ上がっていく。

「こいつ幼体か何かか?まともな思考力が残ってないぞ…」

 

 

ドン!  ドンドン!! ドン!! ドンドンドン!!!

 

「スライド式だよ!、バカが!」

 

不規則な、しかし確実に強まっていく衝撃に手が震える。

それから10秒…15秒…20秒、段々とその間隔は遠くなっていき、ふと、止んだ。

 

止んだ…?何故? いや、よく考えれば私は化け物が扉を開けられないように扉を押さえていたのに、化け物はただ叩くばかりで扉を開けようとはしていなかった。私が目の前で開け方を見せたというのに、となると覚えられなかった?若しくは単純に思考能力がないのかもしれない。

 

大丈夫、そう思うと脱力してしまった。

私は危機が去った後でもずっとそこに座り込んでいた一分、二分、もしかしたらもっと…

 

それは今の段階で動くと、化け物にこちらを物音で察知されるかもしれないから、などという合理的なモノではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

動けずにいた。ただ、動けなかった。

 

手が動かなかった、足が動かなかった、頭が動かなかった。                            「うーん、これ以上の干渉は避けるべきだな」

 

私は、考えられず、立ち上がることもできず、そうして、動けずにいた。

 

 

 

 

ふと、扉についた開閉用の手すりを強く握っていた手を見る。

 

化け物をこちらに来させないために強く握っていたせいだろう、手が真っ赤になっていた。

若干紫の部分も見える。内出血を起こしているのかもしれない。

 

「あ~、とりあえず怪しまれない程度に治しとくか、緊急事態だしバレないだろ」

 

普段身体を動かさない人間が急に生命の危機から逃れる為に動き回った、当然で必然な結果がそこにはあった。

 

「じゃ、なんで自分の足が痛まないのか考えるんだな。まぁそこに気づかれたら困るのは俺なんだが…」

どれほどそこに座り込んでいただろうか、恐らく二分程だ。

「正確には1分41秒だ」

そこでようやく、自身を襲っていた暴力の嵐が去ったことを実感する。

 

「ん?あーあ、これだからこいつは…」

 

「あいつまだ」

「こっち見てるぞ…」

 

 

 

 

私はまだ信じられない。先ほどまで日常の一部だった列車が一瞬にして恐怖の舞台と化してしまった。

 

先程まで私の前にいたのは乗客ではなく、小説から飛び出してきたかのような不可解な恐怖そのものだった。

 

深呼吸をしようとしたが、体は震え、上手く息を吸えない。このまま意識を失いそうに感じた。

その時、聞こえた小さな音。ピチャリと何かが落ちる音が聞こえた。粘着質なそれは恐らく体液だろう。

 

深く息を吐くことさえままならないまま、息を吞む。

 

音は木製の貫通扉から伝って聞こえてきている。

 

――今私は、薄い扉を隔てて、化け物と対面している。

 

その事実が心臓を猛獣のように暴れさせ、その激しい鼓動があたかも恐怖の鐘を鳴らしているかのように感じた。私の思考は旋風のように巻き上がり、終わりのない混乱の中に身を投じていた。

 

私の掌はまだ扉の手すりを必死に握り縛っている。

離した瞬間、化け物が中に入ってくるのではないか、その恐怖が体を縛り付け、手すりを強く締め付けていた。

 

 

身体はひどく震えていたが、思考は唯一つの単語に絞られていた。「動け。」それが内心の叫びで、命令で、そして祈りだった。

 

今なお、あの粘液のような何かが滴り落ちる、生々しい死の残響が耳を伝って、私の脳を恐怖が支配しようと這いあがってくる。

 

しかし、今はそんなことを気にしている暇などない。

 

——どこかに逃げなければ。

 

私はそう思った。だが、手元を見ると、手は今にも叫び出しそうなほど震え、

未だに手すりを握りしめていた。それを見て、咄嗟に思った。

 

——なんだ…これは?

 

もちろん目を離した一瞬で、18年の付き合いの腕が別物になっていたわけではない。

 

答えはすぐに出た。それは、恐怖による拒絶反応だ。頭では理解していても、体がまだ動かない。

この場から離れなければならない、それが分かっていても、強烈な死の残滓が邪魔をする。

 

しかし、このままこの場所に留まるのはいい策とは言えない。

 

躊躇いながらも、私は無理に体を動かすことを試みた。しかし、足はガクガクと震え、身体は冷たく、まるで氷に覆われているようだった。

 

それでも、私はゆっくりと起き上がった。そして、慎重に扉から離れた。一歩、また一歩と進む度に恐怖が心を飲み込んでいく。でも、私は進み続けた。私は逃げなければならない。それだけが頭に残っていた。

 

しかしその瞬間に凄まじい揺れが私を襲った。

思わず体勢を崩し、再び地面に尻餅をつく。いったい何が原因なのか思案するが原因は思い浮かばない、その思考の間にもう一度衝撃が私を、否。列車を襲う。

 

数秒の後に、ひとまず、それは収まる。

恐る恐る手すりを掴んで立ち上がり、移動を再開する。

 

しばらく歩いた後、列車の前部に到達する。そして貫通扉を開け、再び外気に触れると、風を切る轟音の中で解放感に包まれる。

 

そして、二枚目の扉を開き、その車両に足を踏み入れた。

 

そこは一等車両の一つだ。この列車は前から列車全体を牽引する機関車、燃料の保管と運転を行う炭水車、特一等車両、一等車両、と言った順番で並んでいる。ここは三つの一等車両の内2番目の車両だった。

 

私はなぜか開けっ放しになっていた個室に身を隠した。そして、恐怖と寒さに震えながらも、耳を澄ませて周囲の様子を伺った。しかし、耳に届いたのは静寂だけだ。そして、ひとまずの安寧に身を委ねることにする。

 

個室の中には、足元には厚い絨毯が敷かれ、静寂を包み込むように部屋の端から端まで贅沢に広がっていた。その上にゆっくりと腰を下ろすと、緊張がほんの少し緩んだ。

 

壁一面を覆う高級なウォールナットのパネルが、薄暗い室内を更に暗くさせていた。反対側には、ベッドがひっそりと佇んでいた。シルクのカーテンが、非常灯の赤い光と蝋燭の微かな光を部屋にまとめ上げていた。

 

私は床に座り込み、背中を壁にもたれさせた。

 

部屋にはテーブルと椅子、更には他の車両とは違って、豪華そうな照明が備え付けられていた。しかし、そのすべてが不必要に感じられた。今の私にはただ、この部屋が安全地帯である事実が必要だった。

 

部屋の隅には、明かりをつけるためのスイッチがあったが、それには手を伸ばさなかった。電気が消えた以上それは無駄だと分かっていたし、化け物に視覚が有るかどうかは分からないが、自分の存在を知らせるようなものだと思ったからだ。

 

窓の外には、暗闇が広がっていた。列車がどこを通過しているのか、もう分からなかった。

 

何が起こっているのか、そしてこれからどうすればいいのか。その全てが、窓の外の闇のように、見えない。

 

列車の轟音が響き渡り、心を鼓動のように揺さぶった。

 

——体、何が起きているのだろう?

 

そんな思考がぐるぐると頭の中を駆け巡った。しかし、それは答えのない問いだった。

私はただただ身を隠し、静かに、そして無気力に恐怖と共に座り込んでいた。

 

 

だが同時に、そうしていても事態は決して解決しないことも分かっていた。

 

恐怖は、体を拘束するだけではなく、思考力を奪う。それを受け入れる訳にはいかない。

 

立ち上がらなければならない。そのためには、まず、冷静に状況を理解し、行動を決定する必要がある。

 

扉を見つめながら、化け物について推測する。大きな花のような頭部に、唾液や血液のような体液、それにあの鳴き声。モグワイに似ているだろうか?怪奇小説では確か甲高い音が苦手だと書いてあった。

 

しかし、その考察は後回しにする、重要なのは、奴が扉を開ける方法を理解していないことだ。

 

 

そこである考えが浮かぶ、他の乗客を探して協力することができれば、打てる策が増えるだろう。しかし、私の視線は空っぽの座席に落ちる。他の乗客はどこに行ったのだろう?化け物に襲われ避難したのだろうか?しかしどこへ?

 

 

この部屋の扉は最初から開いていた、他の扉は確認していないが、人の気配は感じない。

室内を見る限りは慌てて逃げた様子でもないように感じる。

 

そもそも、あの化け物はどこから入ってきたのだろうか?

走行中の列車に飛び移ってきた?

あるいはこの列車に最初から乗っていた?

 

 

どれも非現実的だが、そもそもあの化け物が非現実的な存在だと思い直す。

 

考察を無駄と割り切り。この状況からの打開策を考える。

 

問題が二つある。

 

一つは言うまでもなくあの化け物、もう一つは列車の揺れだ。

 

化け物への対策として、まず大前提として、狭く、逃げれる場所に限りがある車内よりも外に逃げ出す方が生き残れる確率は遥かに高い。

 

だが、そもそも列車の外に出るためにはまず停車させる必要がある。しかし、その為には運転室まで行き、非常用レバーを倒す必要がある。

 

二つ目の列車の揺れについては、列車の速度が安定していないのか、奇妙な揺れがとめどなく起きていた。先程の大きな揺れのことも考えると、このまま走行を続けるのは極めて危険だろう。

 

運転士がそれに気がつかない訳がないが、列車が止まらないということは、化け物に殺されているか、何らかの事情により止まることができないと考えるべきだろう。

 

そして、揺れに関しても同様に非常用レバーを引けば解決することだ。

 

 

つまり、

 

 

 

 

——非常ブレーキを引くしかない

 

 

一通りの方針決めを終えた私は列車の中枢、運転席に向かうことに決める

 

 

 

 

 

思いつく計画はこれだけだ。それで生き残ることができるのかは分からない。

しかし何もしないよりはマシだと私の勘が言っている。

 

貫通扉を開き、二つ目を開くまでは僅かな間があった。

深く息を吸い込んで、そのまま通路に飛び出した。

 

通路の向こうには非常用のライトが微かに光り、化け物の姿はなかった。安堵の息をついたが、気を緩めるわけにはいかない。自分の足音だけが、木の床を響かせていた。

 

手すりをつかんで、列車の揺れに合わせて体を動かし、辛うじてバランスを保つ。突然揺れて倒れて、大きな音を立ててしまったらどうしよう。それに化け物が気が付いたらどうしよう。

 

 

そんな不安があったからだ。

 

 

私は、今まで何度も助けてくれた直感に身を任せて、薄暗い廊下を進んだ。自分の靴が木製の床を叩く衝撃が伝わる度に心臓が跳ね上がる。

 

視界を捉えるもの全てが死へいざなうあの怪物の顔に見えた。

 

時速100㎞で走る列車の中、怪物と閉じ込められ、逃げ場所はどこにも見当たらない。

 

それを意識しないように、また、座り込んだときに感じた、疑問について考える。

 

席にいた他の乗客たちは、どこに消えたのだろう。彼らと力を合わせれば、あの化け物に立ち向かうこともできるかもしれない。

 

しかし、やはり答えはない。ただ、虚無が私を包み込んでいく。

 

気を紛らわすために始めた思考だったが、答えのない未知、それが余計に、今の状況が不透明であることを思い起こさせ、身を竦ませる。

 

いまだ舞い散る恐怖の煙が思考を曇らせ、いつの間にか頬に伝わった汗が唇に滲む。舌がそれを舐めると塩味が舌に絡みつき、一瞬、現実に引き戻され、どうするかに思考が蘇る。

 

 

気を紛らわす方に思考が集中していたが、これからどうするべきか考えなければならない。現実と対峙しなければならない。

 

 

手の甲に見える皮膚の下に流れる変色した、紫色の血管を見つめる。

 

その腕を見ていると不安に飲み込まれそうになってしまい、扉に視線を向けて歩いていき、扉を開ける。

 

雨が降っている。

 

 

扉を開ける。

 

 

扉の向こう側は静寂に包まれていた。闇を切り裂く緊急灯の光だけが、微かな照明となっている。

 

列車の走行音と私の呼吸音だけが折り重なっていた

 

同じように次の貫通扉を開けると、再び雨風が吹き付けてくる。既に手慣れた動作だ。二枚目も同じように開けると、

 

 

静かな車両から飛び出し、食堂車に足を踏み入れた瞬間、強烈な死の香りが鼻を突き刺した。それは、ただの食事の時間から一転して死の舞台になったこの場所の空気そのものだった。酸化鉄と血の濃厚な匂いが交差し、どこか錆びた金属のような味が舌の上に広がっていく。

 

一面に広がる光景は惨状そのものだった。美しく並べられたテーブルと椅子は全てが転倒し、破砕されたガラスと、テーブルの上に転がる食事の残骸が無秩序に散乱していた。

華やかだったはずの食堂車の内装は、無残に引き裂かれ、人々の死の痕跡が床に刻み込まれ、地に横たわる乗客たちの遺体とともに静かに死を語りかけてきていた。

 

薄赤い照明の下、食堂車の隅々まで死体が散乱しており、そのそれぞれが最後の瞬間を物語っていた。恐怖や絶望、あるいは信じられない現実に対する無念さが刻まれた顔つき、身体の姿勢から伺えた。美食と会話の時間は、まるで悪夢のような現実にすり替わり、優雅な音楽が流れるはずのスピーカーからはただ、静寂が流れ出ていた。

 

カウンターの下に潜り込み、目を閉じた。暗闇の中で、恐怖と絶望が徐々に体を包み込んでいく。現実と向き合うのが怖すぎて、ただ、無意識のうちに頭を抱え、体を震わせた。

 

ふと、カウンターの下からパンフレットが目に留まった。それは散乱するガラス破片と椅子の片脚の間に挟まれて、半ば破れてしまったものだった。しかし、その薄暗い空間にある稀有な色彩は、今の私にとって、破滅的な状況から一瞬だけ目をそらせるような、些かの救い。

 

慎重に伸ばした手が過去の残滓、パンフレットに触れた。紙質は上質で滑らかだった。多少濡れてはいたが、まだしっかりと形を保っており、それはこの列車が豪華な旅を提供することを誇示していた。そのアイボリーの表紙には、大胆で美しい文字で『The Royal Express - 銀星号』と印刷されていた。

 

パンフレットを開くと、エルキアの絵画的な風景が描かれていた。静謐な森林、美しい湖、高い山脈。そして、それらを結ぶ鉄道網。車窓から広がる風景と美食を楽しむ、そんな優雅な時間が約束されているかのようだ。一方、逆側には、華麗な食堂車や豪華な個室など、列車内の施設が詳細に紹介されていた。

 

だがその全てが、今はただの幻影でしかない。この美しい風景も、美食も、優雅な時間も、全てが血と死に汚されてしまった。パンフレットの約束は、過酷な現実に引き裂かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

パンフレットを握りしめる。その美しい風景と、今目の前に広がる現実とのギャップが、私を現実に引き戻した。この列車から逃げ出さなければ、私もまた、その一部になってしまうだろう。

 

 

カウンターの陰からひっそりと台にあるナイフを取り上げ、武器として保持する。

 

少しだけ心強い気分になったが、私の胸はまだ重かった。このナイフが私を守るのか、それともただの安心感をもたらすだけの鉄なのかは、その時になってみないと分からない。

 

慎重にカウンターの下を這って移動する。しかし、移動中も、耳に飛び込んでくる列車のガタゴトという音は、恐怖を増幅させるばかりだ。

 

私は深呼吸をして、カウンターの下から扉を覗き込む、何もいないと思っていても、今はこういう段階を踏まないと立ち上がれそうもなかった。

 

両手で握りしめているナイフが私の勇気を研ぎ澄ませる。先ほどまでの恐怖が強く胸を締めつけるのを感じつつも、思考は明快だった。

 

 

 

緊張と恐怖で胸が高鳴り、勇気を振り絞って立ち上がろうとしたその瞬間、体全体が急に冷え切った。静まり返った車両から、低く長い唸り声が聞こえた。

 

 

 

その声は、もはや姿形が人間のそれとは言えない、異形の存在から発せられたものだった。頭を貫くようなその音は、いまだに列車の中に化け物がいることを告げていた。

 

その唸り声の方向を探す。そして、その音が向こう側ではなく、私のいる車両から聞こえていることに気づいた。

 

私の心臓は石になったように重くなり、恐怖によって締めつけられる。背筋が凍りつくような感覚が全身を駆け巡り、全ての筋肉が緊張の糸で張り詰めた。

 

薄暗い車内の暖房器具の隙間から液状の何かが浸食してくるのを見た。それは徐々に室内に堆積を広げていき、徐々に形を完成させてゆく、―-肉の花に

 

——まずい!

 

どちらの車両に行くべきか必死に考える。列車の後部側へと繋がる扉の近くに化け物は身体を形成していっている。列車の前方側に繋がる扉に行けば逃げられる距離が縮まる。生存本能と理性の狭間でシュミレートを繰り返す。だが時間は容赦なく過ぎていく。

 

 

 

そして、唸り声が再び聞こえたとき、私は走り出した。

———化け物とは反対方向、前方部に

 

 

それに合わせるように化け物の叫びが反響する。それに後押しされたように、勘のままに前方部に向かって走る。

 

足を必死に動かして、化け物からの距離を保つためにもう一つの車両に入った。しかし、その瞬間、列車は突然激しく揺れ始めた。

 

私はつまずき、手すりにしがみつく。しかしその衝撃は強すぎて、手すりから手を滑らてしまい、床に倒れこんだ。

 

揺れが収まったとき、私はようやく体を起こす。しかし、その時には既に前は見えなくなっていた。何故だが分からないが、非常灯が消えていたからだ。

 

たとえ見えなくても通路の奥の闇に、扉が隠れていることは確かだ。

 

 

 

化け物が扉を開けられないならそれが防波堤になるはず、現状最も有効な武器だと、そう仮定していたが、先ほどは何やら液状化して、車内にある暖房器具から流れ出るように迫って来ていた。

 

 

 

しかし、そんなことが可能であるのであれば、なぜ最初からそうしなかったのか…

 

不思議に思った考えを消化する暇すらないままに立ち上がり、その闇に向かって再び走り始めた。

 

 

 

その瞬間、またしても背後から低い唸り声が聞こえた。私の身体に氷撃が走る。化け物が私を見つけ、追いかけて来ている。恐怖が脳を支配し、鼓動がもう一段階ギアを上げ、急速に鳴り響く。

 

何とか逃げるために、急いで車両の扉を開け、新たな通路に飛び込んだ。しかし、その通路も闇に包まれており、先の見通しは全くない。恐怖と戦慄が私を支配し、鳴り止まない心臓の音が耳を塞いでいく。

 

そして、また、その唸り声が背後から響く。それはますます近づいてきている。

 

慌てて走り始め、新たな車両へと進んでいく。

 

 

次の車両に入り、背後で扉が閉まるのを感じた。

それと同時に車内は再び非常灯の赤い光に包まれた。

 

 

しかし、そこには新たな惨状が待っていた。車両の中は、先ほどの食堂車より通路が狭くなった分、より臭いが強烈に充満していた。

 

思わず顔を顰める。暗くて良く見えないが、なるべく下を見ないように、扉に視線を固定して歩く。

しかし、そうしていたのが裏目に出て、何か硬いものに引っかかった。

 

それに躓き、体が前方に突き進んだ。

 

——しまった!

 

心臓が飛び出るのを感じる。突如として身体が前方へと傾く感触に、焦りが全身を駆け抜ける。自分が地面と水平になるまでのほんの一瞬が、時間を止めたように感じた。

 

まんまと重力の餌食となり、私は前方へと転んだ。本能的に目をつむり、身体が地面に打ちつけられる瞬間に備えようと、咄嗟に受け身を取り、なんとか両手を前に伸ばして地面からの衝撃を和らげた。

 

しかしその両手が触れたものは、暗闇の中で一瞬にして思考停止してしまう程、奇妙な感触だった。

 

予想と異なり、私が手に感じた感触は木製の床ではなく、鉄の様に硬い物体の感触だった。

 

 

なにかに覆いかぶさってしまった。そして気付く、人…だったものに、

 

人の形をした、もう人ではないものに身を預けている事実に気分が悪くなる。

 

死体は妙に硬かった。人間の肌の感触とは全く違った、もっと金属的な硬さだ。

しかし表面の感触は金属のモノではなく、織物のそれだ。

 

織物と言っても、柔らかいものではなく強靭に縫われた繊維が頑強な金属を覆っており、

頑丈な布の素材越しに金属の感触が伝わってきていた。

 

私の指は、その硬い表面を探りながら、不規則な形状を辿った。それは幾つもの平面と曲面が交錯する複雑な形状だったが、しかし不思議とそれはどこか覚えのある感触で、記憶の中の防弾ベストの形状と一致した。

 

 

 

私の知識と同じものなのであれば、硬い部分は金属製の防護板で、外側を覆う布地部分は装備の柔軟性と防弾性能を補うためのものだろう。

 

薄暗い中、顔を上げ、改めてその死体を観察すると、良く見えないが膝や肘にも頑丈な布地に覆われた金属のプロテクターまでもが付いていた。

 

 

 

なぜ武装した男が列車にいるのか考えようと思ったが、分かるはずもないと思考を切り替える。

 

 

 

そこで、そういえば何に躓いたのか、今さら疑問に思い、足の方を見てみると、暗くてよく見えないが、私の目が微かな光沢を捉えた。それは床の上に無造作に落ちていた、それは小さな物体のようだった。乗客の私物…だったものだろう。

 

その正体を確かめるため、ゆっくりと手を伸ばし、その冷たい金属を掌に乗せた。

 

 

触覚だけでは何か判らず、非常灯の微かな赤色にかざしてみる。

 

掌に収まったのは、一見すればただの金属塊にすぎない。しかし、ひと目見て理解した。

 

それは、本来なら正規の訓練を受けた者でなければ、到底、容易に触れることのない存在だった。

 

——リボルバー

 

異様な重みが手に伝わった。素手には冷たく、心地良さなど皆無だ。それはただ、死という結末を連想させる。力と怖れ、そして不確実性を具現化したかのような物体だった。

 

ピストルグリップを握りしめた瞬間、指が固い金属に触れて微妙な揺れを感じた。それが自身の脈動だと気が付く。グリップの向こう側で血が脈打つ感覚が、恐怖と興奮の微妙な混合を生み出し、脳を刺激した。

 

そっとリボルバーを掲げ、銃口を前に向けた。弾倉には何発装填されているだろう。それとも、これはただの模型、または壮大なこけおどしだけで、実際は弾丸など一つも装填されていないのだろうか。私には重量でそれを判断することはできなかった。

 

銃身は深淵のように暗く、視線を吸い込む。非常灯の光が反射して、異様な赤色の閃光が微かに跳ねた。冷たく、無慈悲に見つめ返してくるその空洞が、恐怖を煽った。

 

 

 

 

 

この小さな金属塊は、ナイフとは比べられないほど強力な武器だ。しかしその力は、適切に操作できる者の手に渡ることで初めて発揮される。だから、私は冷静に武器を点検することにした。

 

まず、シリンダーを開いた。これはリボルバーの中心部で、弾丸が装填される場所だ。サイドにあるレバーを軽く押すと、シリンダーは外側にスライドし、弾倉部が露出した。

 

微かな非常灯の光の下で、シリンダーの中には六つの弾丸が見えた。

しかし、そのうちの一つはそれは他の弾丸とは違い、特異なモノ、黒い弾丸だった。

 

——これは一体何なんだろうか?

 

 

銃口を上向きにして、シリンダー内の全弾を手を受け皿に受け止める。

リボルバーを床に置き、両手に片方ずつ黒の弾丸と通常の弾丸を乗せ、比べてみる。重量は若干他の者より軽い気もするが正確なところは分からない。

 

 

一旦保留として6つの弾丸を全て左手に握りこんでおく。

 

そのまま次の工程に移り、全体の状態を確認した。銃身が曲がっていないか、グリップがしっかりと固定されているか、引き金が滑らかに動くかなどを調べた。表面に明らかな損傷は見当たらず、全体的に良好な状態に保たれている。

 

 

 

リボルバーの各部分が適切に機能していることを確認した後、弾丸を本の配列通りに再装填しシリンダーを元の位置に戻した。そして、確かな手ごたえと共に、リボルバーが完全な形に戻る。

 

 

 

次に近くの死体を確認した。武装した者の一人だ。ガスマスクをつけており顔は分からないが、体格から見て筋肉質な男だ。男の手元には未だ握りしめていたナイフがあった。

 

私はそっとそれを手に取り、自分のナイフと交換する。新たなナイフはより鋭利で、柄も握りやすかった。明らかに戦闘用のモノだ。

 

 

武器があるのとないのでは、生存確率は決定的に違ってくる。

 

しかし、保持する武器の数には限界がある。今の恰好ではナイフとリボルバーを両方持ち運ぶことは不可能だろう。

 

両手に持つという手段もあるが、リスクが高い。いざという時の動きを阻害される。

 

防御や回避が通じる相手かどうかはともかく、一撃でもダメージを受ければ終わりだと考えるべきだろう。

 

同様の理由でナイフの柄を口にくわえるといった方法も取れない。一時的ならともかく、うっかり転んで口から離せばどうなるか想像もしたくない。

 

また、コートにあるポケットにナイフをしまうことも考えたが、切れ味が良すぎてポケットを突き破りそうだったので断念。

 

リボルバーの場合はポケットに入れることができなくもないが、粗雑な固定だと暴発の危険性もある。

 

逃げる途中に足を撃ち抜きでもすれば終わりだ。

これもリスクが大きいだろう。

 

暴発の可能性を考えたところで、小説で読んだ、あるワンシーンが浮かび上がった。

 

——あの方法なら…

 

浮かんだ案をすぐに行動に移す。

 

 

まず男のベルトを取り外した。それは厚く、頑丈な革製で、金具も頑丈そうだった。

 

私はベルトを自分のウエストに巻き、リボルバーを挿し込んだ。金具にリボルバーのトリガーガードを引っ掛け、ベルトで固定した。

 

ホルスター擬きだが、リボルバーが固定でき、いつでも素早く取り出せる。

 

カーテンも有効利用した。カーテンは高級車両だけあって厚く、丈夫そうだった。私はそれを数枚取り、短く切り取った。

 

その一部を、リボルバーの銃身とカーフのベルトの間を結ぶように巻きつけて固定する。

布は私の動きと一体となり、武器をしっかりと固定する。

 

 

 

同様の手段で刃を自分の方に向けてナイフを固定したら、残りのカーテンは、予備のバンデージとして保存しておく。

 

止血や、その他のことに応用が効くと、そう考えたからだ。すぐ取り出せるようにするために、カーテンを折りたたみ、ベルトに挟む。

 

銃を手に入れ、準備をしたことで、少なくとも余裕が湧いてきた。新しいナイフとリボルバーの存在が、さらなる恐怖を抑制し、次の一手を考える冷静さを与えてくれた。

 

だが状況は予断を許さない。再び耳を澄まし、周囲の音に耳を傾けることにした。

だが、未だ全てが静寂に包まれていた。不気味なほどに。

 

 

私は身を引き締めた。

 

——不自然だ

 

さっき化け物は速いペースで追いかけてきていた、先ほどまでのペースであればもう来ていてもおかしくはない。

 

直感的に考えるよりも先に、この場を移動するべきだと感じ、思考を止める。

 

 

 

 

右手に握ったリボルバーに視線を戻す。銃口は下に向いていた。私はその存在を確かめるように、グリップを両手でしっかりと掴む。

 

質感が掌に刻まれ、それぞれの指が自然と位置を探して握りしめた。指先が引き金に触れ、微かな振動が全身を走り。止んだ。

 

心の中に蔓延する恐怖が、一瞬、静まる。

 

 

リボルバーを構えると、不思議と心が落ち着いた。

 

ふと昔のことを思い出した。初めて銃を撃った日、10歳の誕生日の日に父が私のところに来て、撃ち方を教えてくれた。

 

 

それが最初で最後の父との思い出だった。

その時、父が私にプレゼントしてくれた本に書いてあった、

『最善の準備と、最悪の可能性への覚悟が必要だ。』という言葉が思い浮かぶ。

 

今、私が持っているのは片方だけだった。

そこまで考えて、優しい思い出を振り切る。

 

リボルバーを構えたまま、立ち上がり、再び車両を進んだ。恐怖に飲み込まれることはなかった。その代わりに、覚悟が全身を満たしていた。

 

 

運転室は、この先の炭水車を挟んだ向こう側にある。

 

——進もう

 

緊張でグリップを握りしめる。 

車内の強烈な死の残り香に慄きながらも、歩を進めていく。

 

一つ目の貫通扉を開ける。そしてもう慣れた、外気が肌に張り付く感覚を味わいながら、最後の貫通扉の手すりにそっと手をかけた。

 

意を決してその取っ手を使って横にずらそうとした時、ガッ!と強い抵抗に手を打ち付けられる。

 

鍵がかかっている…

 

そのとき、向こうから慌てるような物音が聞こえてきた。

 

その、化け物とは違う、どこか恐れの感情を感じさせる物音、すなわち人の気配に私は喜びを感じ、声を投げかけた。

 

「誰かいるんですか!?」

 

その声に恐る恐るといった様子で声が返ってくる。

 

「誰だ?…化け物はどうなった?」

 

帰ってきた声は男のものだった。

それに少し気後れしながらも声を発する。

 

「開けてください!鍵がかかってて入れないんです!」

 

私の声は強張った恐怖に押し出され、弱々しくも強く、貫通扉を打つように響き渡った。

 

男は何かを考え込んだ後で、

 

「いや、駄目だ!化け物はどうなった!」

 

と叫んだ。その声は震えていて、気持ちが揺さぶられる。

 

「もういませんよ!」

 

この場は嘘をつくべきだろう。本当にそうだったら良いのにと、心の中でひそかに願いながら。

 

だが、その声は必死で、真実を誤魔化そうとする喉の緊張から逃げるこはできなかったかもしれない。

 

「嘘だ!だったらなんでこっちに入ろうとしているんだ!お、お前も化け物なんだろう!?」

 

男は錯乱しているようだった。その声からは明らかにパニックに陥っている様子が伝わってきた。

 

「違います!」

 

私は断固として否定する。その一言は信念を込めたもので、半ば叫んだ声は私自身にも勇気を与えた。

 

「…」

 

それが相手にも伝わったのだろうか、男は何も言い返さなかった。しかし、

 

「うるさい!入ってきたら殺してやる」

 

一瞬の静寂の後、男の声から理性が消えた。一線を越えた絶望と狂気が混じり合い、ほとんど野獣のような唸り声となって響いた。

 

その声に惹かれたように、背後から強烈に嫌な予感を感じた。

 

音が聞こえる。

 

「開けてください!」

 

最後に咄嗟に叫んだその声は、希望と絶望の境界線上で振り絞った、文字通り命を賭けた叫びだった。

 

しかし、

 

「ハハハハハ!どっちにしろお前を入れなければいい話だ!そうすりゃ俺は生き残れる!なんだ…簡単な話だったんじゃないか!!」

 

男は狂ったように笑い続ける。

これでは説得するのは無理そうだ。

 

これ以上この男の説得に時間を割くのは不味いと直感が告げている。

 

それでも、私は後に引けなかった。他の良い手段が思いつかなかったからだ。

 

しかし、時間もそう多くは残されていないだろう。

 

ガタンゴトンと、鉄と鉄が激しくぶつかり合う音、蒸気機関の唸り声、それに混ざる不吉な男の笑い声。それら全てが私の脳内に響いていた。なんとしてでもこの汽車を止めなければならない。

 

そう思いつつも良い手段は思い浮かばなかった。

 

私は再び窓に向き直った。そこには依然と変わらず真っ暗な外の世界が広がっていた。

 

しかし今、星は沈黙を守り、列車は凡てを飲み込むような雨に覆われ、無情にも前進を強いられていた。

 

そうして窓を見つめ続けていると一つの無謀な策を思いついた。

 

 

 

突如として閃いた希望に向けて、私は一瞬で動き出した。

 

窓に向かって歩き、目を閉じて深呼吸を一つ。ガラスの冷たさが手に伝わる感覚に身を任せ、左手を前に伸ばしゆっくりと窓枠を探った。感触を確かめると、力を込めて窓ガラスを押し開けようとした。だが窓は固く閉じられ、指先にひんやりとした感触が広がった。開かない…

 

思わず怒りで窓を叩く。

 

手を見ると、手首から先の部分が微妙に腫れていた。窓には傷一つ付いていない。

 

それを見て、絶望感が身体を包み込む。

 

——音が聞こえる。

 

窓を叩きつけた際の痛みと、男との会話による精神的な疲労が交錯する。

 

だが、立ち止まるわけにはいかない。努めて冷静であろうと深呼吸する。

 

——音が近づいてくる。

 

窓はガラス製の一枚板。どうやら固く閉ざされていて、内側からは開くことはできないようだった。

 

それでも、これ以外に方法はない。窓を突き破ることにする。だが、素手で破ろうとして手を怪我してしまったら、その後の行動に支障をきたすだろうし、そもそも破れないだろう、時間も足りない。

 

 

 

それはまずい、と冷静に分析を行う。怪我が命取りとなる今の状況で体力の無駄な消耗や怪我は可能な限り避けなければならない。

 

 

 

そっと腿の内側に手を滑らせると、布で作った仮設のホルスターがそこにあった。カーテンを、急いで適当に切り取り、自分の脚に巻き付けて作ったものだ。

 

私は、またしても小説のアイデアを応用することにした。

 

 

私は余剰となったカーテンを目の前に広げた。細かな織り目、温もりを帯びた柔らかな質感、高級品であろうそれを雑に体に巻いていく。

 

続いて、その布地を四肢に巻き付け始めた。指先から腕に向けてスムーズに巻き付けていく。その際、皮膚とカーテンの間にはわずかな隙間を残し、破片からの負傷を避けつつも、動きやすさを確保する。

 

次に、手のひらへ移行した。開いた掌にカーテンを滑らせ、その温もりが指先から全身へと伝わっていくのを感じた。布地を指の間に通し、手の甲全体を覆うように巻いていった。高級品なだけあってその度に布地は私の肌になじんでいく。

 

そして手首へ。手首は特に保護を必要とする部位であり、特に丁寧に巻きつけた。余った部分をくるくると巻いて、それをしっかりと固定した。足は腕とは違って乱雑に素早く巻き付けていく。

 

 

 

そして手を窓に向かわせ、触れた瞬間、布越しのガラスの冷たさと一緒に、恐怖が脈々と流れこんできた。身体は一瞬凍りついたが、深呼吸するとまた動き出した。

 

そして、ホルスターから抜いたリボルバーのグリップ部分を使って全力で窓ガラスを打ち破った。その瞬間、外からの雨風が列車内に乱入し、頬を冷たく叩いた。

 

しかしそのまま飛び出すわけにはいかない。リボルバーをホルスターに戻すと、すぐに窓枠から突き出たガラスの破片を取り除く作業に移った。破片は無造作に散乱し、無秩序な危険をはらんでいた。

 

 

それらを、厚い布地を巻いた腕で乱雑に振り払う。最低限、身を乗り出せるように

細かい破片は粗方、音を立てながら、窓から外に落ちていったが、窓枠の左右上下の縁から突き出るモノは慎重に除去せざるを得ない。

 

手を慎重に動かし、窓枠から突き出たガラス破片を折って外に投げ捨てた。

 

——音がすぐ側から聞こえる。

 

無視して身を乗り出したかったが、それぞれが異なる形状、大きさを持っており、その鋭さはどれもが危険だった。

 

 

その作業が終わってから慎重に身体を窓から出して、窓枠を利用して一歩一歩、身を乗り出し、滑ることなくゆっくりと足を列車の外縁へと乗せる。

 

地面から離れた状況で、不規則に揺れる列車の上で掴んだ窓枠は頼りない命綱だった。もし、一瞬でも気を抜けば、暗闇の中に吸い込まれてしまうだろう。

 

 

だが、私はなにも考えもなしに外に出たわけではない。

 

すぐ側にあった手すりに手を伸ばす。

 

手すりは全長にわたって均一に配置されているとパンフレットには書いてあった

 

何か問題が発生した際に乗務員が線路上で簡易な整備作業や問題解決を行う際の安全対策用のモノとしてつけられたらしい。

 

 

手すりを掴んで列車の側面を進んでいく。手すりは硬く、冷たく、滑りやすかった。

 

強風と雨が肌を打ち、顔を冷やす。ひとつ間違えば、助かる余地もなく死ぬ。

 

恐怖が潤滑油となって手から力が抜け、手が手すりから滑り落ちそうになる。

 

周囲は闇夜に覆われていて、一体どれくらいの速さで進んだのかさえもはっきりとは分からなかった。

 

ただ一つ確かなことは、進み続けなければならないということだけだった。

 

 

突然、列車がカーブを曲がった。重力が私を地面へと引き摺り落とそうとしてくる。生命から投げ出されるのを必死に防ぐかのように、必死になって手すりに掴まり続ける。

 

 

 

しかし、遂に縁から足を滑らせてしまう。

 

転落しかけたその瞬間、人生で一番速い動きで手すりを掴んだ。雨に打たれ続ける指先が凍え、手は震えていた。

 

 

 

滑る手すり、列車の振動、そして突き上げる恐怖。それに打ち勝ち、全力で手すりに力を込めた。

 

 

足が空中に浮かび、パニックに陥りかける。

しかし、思考は冷静で、何とか力を込めて手すりを掴んだまま、足を列車の縁に引っ掛け、自分自身を引き上げようとする。

 

寒さが私の指をじわじわと侵食し、握力が弱まる中で、何とか足場を探し続けた。そして、ついに私の足が列車の縁に触れた。

 

 

それを感じ取ると、全ての恐怖と疲労が一瞬で身体を襲い、足元がぐらつきそうになったが、先に固定した武器が転落していないかを調べてから一息ついた。そして、そっと目を開け、目的地に目を向ける。

 

 

その時、ふと雨が止んだ。空を見上げると、夜空が星で埋め尽くされ、月明りが再び明るく光り輝いていた。

 

しかし、私にはそれを喜ぶ余裕はなかった。未だ手すりは濡れていて滑りやすく、次にどこを掴むか、どのタイミングで掴むのかを計算するのに全ての集中力を必要としていた。

 

強風が身体を揺さぶった。冷たい雨が顔を打ち、全身を浸す。

 

 

手すりを握りしめる手が寒さで震えていた、またはそれは自身の恐怖からくるものだったのかもしれない。

 

列車の速度は未だに急速で、身体は連続的に風に押し戻される。足元は狭く、滑ることもあったが、耐え抜く。

 

そのまま手すりにつかまりながら、列車の端へと進む。途中、頭上から吹き下ろす風が強まり、体が手すりから離れそうになる瞬間も何度かあったが、何とか持ち堪えた。

 

そして、遂に炭水車横の窓まで到達した。炭水車の窓は照明で明るく照らされており、中の様子が外からでもはっきりと見えた。

 

しかし、そこで見たものは、期待とは裏腹の光景だった。

 

炭水車内は無装飾で、深みのある錆びた鉄が剥き出しになっていた。

 

しかし認めたくない光景は疲れと年月を感じさせるその壁のことではなく、倒れた男達、乗務員と車掌らしき男だった。

 

 

炭水車内のドアの向こう側、こちらに背を向けて運転室に立っているガラス越しに見える男は、明らかに乗務員の類ではなかった。

 

大柄な男だ。それだけならば運転士の可能性もあったが、男の顔はガスマスクに覆われていてその人相を窺い知ることはできない。

 

ともかく、明らかに一般人ではない装いだった。

 

それに加えて先ほどの扉の前での問答を思い返せば、まず対話は不可能とみるべきだろう。

 

方針を決めた私は窓ガラスから内部の様子を窺いながら、また深く息を吸った。そして、手すりを強くつかみ直し…

 

全力でガラスを蹴り破った。ガラスが割れ、一気に列車の中へと飛び込む。鋭いガラスの破片が顔と肉体を引っ掻き、鋭い痛みが走る。それでも止まらず、炭水車内に滑り込む。

 

体が窓を抜け、床に叩きつけられる。身体に衝撃が走り、痛みが全身を貫く。しかし、その痛みすらも無視し、我に返ると同時に、手に握ったリボルバーを男に向かって構えた。

 

「動かないでください!」 私の声が炭水車内に響き渡った。

 

煤煙と蒸気の匂いとが立ち込めていた。しかし、それに混ざるものがあった。

 

それは既に嗅ぎなれてしまった臭いだ。外からは良く見えなかったが、改めて見ると周りには血だまりができている。

 

運転室からの光が乗務員たちの遺体に落ち、その現実を如実に照らし出していた。

 

丁度運転室より出てきた男と目が合う。男の腰には、特一等車両で倒れていた男と違い、頑強そうなホルスターがつけられていた。

 

驚きのあまり一瞬動きを止めた男が、私の手に握られたリボルバーに視線を落とす。彼の瞳に映ったのは、リボルバーの冷たい金属の輝きと乱入者への驚愕だった。

 

 

「動けば撃ちます!言った通りに動いてください」

 

震える声で男に告げた。リボルバーの銃口は男に向けられ、私の指が引き金にかかった。息をするのさえも忘れ、全ての感覚が指先のその一点に集中していた。

 

いかに武装していて、その上死体がある場所に立っていたとはいえ、いきなり殺人を犯す気にはなれなかった。

 

 

男はしばらくの間、私の目をじっと見つめた。しかし、結局のところ男もまた、自分の命を守るためには何をすべきか理解していた。

 

ゆっくりと両手を上げ、明確な降伏の意志を示した。私の心臓はまだ激しく鼓動を続けていたが、少なくともこの一瞬、一つの優位性を持つことに成功した。

 

 

 

 

だが警戒を解かずに男を睨む。

 

 

私の視線は炭水車内にあるドアのガラス越しに運転室を素早く巡り、非常用ブレーキの位置を探した。ほどなくして、その存在を目視する。しかし、その瞬間、私の視線は再び男に引き戻された。

 

男はまさに手を腰へ持っていこうとしている最中だった。動きはゆっくりとしたものだったが、その目的は明らかだった。視線が合うと同時に男の動きが加速し銃を抜く動きを見せた瞬間、

 

「止まれ!」私の警告は二つの意味で遅すぎた。その時既に私はリボルバーの引き金を引いていたからだ。

 

爆音が炭水車を揺らしたような錯覚を覚える。白煙が舞い、視界を曇らせた。

 

しかし、それでも私の目は男を捉え続けた。

 

そう、立ち続ける男を。

私の発砲した弾丸が男に直撃したはずだ。しかし、男の体が倒れることはなかった。

 

むしろ、男は驚いた表情を浮かべ、自身の体を見下ろしていた。男の胸元には、赤い液体が広がっていた。しかし男が倒れこむ様子は一向にない。それどころか、室内に、微かに工業用ペイントのような匂いが広がっていた。

 

 

一瞬の混乱の後、すぐに答えに至る。

先程確認したリボルバーの黒い弾丸。

 

それは、私が思っていたよりもはるかに無力なもので、特殊な弾どころか殺傷力皆無の、ただのペイント弾だった。

 

お互いに動けなかった時間は一秒程だったが、心当たりがある私よりも男の方が思考の切り替えが早かった。

 

ペイント弾に染まった男の表情は驚愕と混乱で満ちていたが、それも一瞬のことだった。こちらが状況を把握しかねていると、それを勝機とみたのだろう男がこちらに突進してきた。

 

 

 

 

飛び掛かってくる男にすぐさま次の弾丸を撃とうと引き金を絞るが、素早さだけでなく、野生的な勢いも兼ね備えた。予想を遥かに超える速度で襲い掛かってきた男の拳を避けることはできなかった。

 

脳震盪だけは避けようと、昔かじった護身術で拳とは反対方向へ頭をずらし、衝撃を減らそうと試みる。

衝撃が頬骨に突き刺さるが、そこで食い止めた。

 

私はリボルバーを握りしめ、再び引き金を引いた。しかし、その弾は男を貫かなかった。

それどころか、弾丸はシリンダー内に留まったままだ。

 

不思議なことは何もない、男がシリンダーを掴んでいるため弾倉が回転せず、ハンマーが動かないのだ。

 

 

こういう時の正しい対処法はなんだったか引き出すため頭を回転させる。

 

しかし、その問いに対する答えを出す暇はなかった。男は私を押し倒し、手からリボルバーを奪い取ろうとしてきた。

 

床で取っ組み合う。男の理性を失った凶暴な眼差しに睨みつけられ、その体重と力に押し潰されそうになりながらも、私はリボルバーを必死に握りしめていた。

 

 

 

男と腕力勝負をしても負けるのは時間の問題だ。なんとかしなければ…!

 

 

必死で視界を巡らせると、私の目はひときわ大きなレンチに留まった。それは、重い銅製のレンチだ。持ち上げるには、かなりの力を必要とするだろうが、強力な打撃を繰り出せるだろう。

 

男の視線を上手く銃に誘導して、レンチを取る時間を確保する為、私はリボルバーを遠くに放り投げることにした。

 

リボルバーを取られないように攻防を繰り広げながらも、確実に銃を投げ飛ばせる機会を待つ。——今だ!

 

私はリボルバーを運転室の方に投げた。

 

一瞬、男の意識がそちらに向く。その空白を最大限に生かしてレンチを取るため、私は男の股間を蹴り上げた。

男は苦痛に呻き、拘束が緩まるその隙に私はレンチを掴み力一杯に引きずった。その大きさと重さに、腕が震え、全身に汗が滲んだ。

 

目の前で振り上げられるレンチを前にして、苦痛から顔を上げた男は一瞬、動きを止めた。その瞬間、私は全ての力を振り絞り、レンチを男に振り下げた。男はその大きさと迫力に目を見開き、咄嗟にガードするが、レンチは男の腕部に直撃した。骨が拉げる音が響いた。

 

その衝撃で男は態勢を大きく崩し、膝をついたが、すぐに震えながらも素早く立ち上がり、私の腰に腕を巻き付けてきた。しかし、私は既にその動きを見越していた。男が突進してくるタイミングに合わせ膝蹴りし、顎を砕く。男がよろめく、私はその隙に再びレンチを振り上げた。

 

大きなレンチが男の頭にぶつかり、男はようやく倒れ込んだ。

 

 

息を荒くし、汗とアドレナリンで全身が震えながらも、息を整える。

 

 

私は念の為、男の足にレンチを振り下ろす。本当に倒したかの確認と、もし起き上がってきた時の為に機動力を削いでおく。殺すのは躊躇われた。

 

 

しかし男は一瞬呻き声を上げるだけだ。

 

どうやら既に意識を失っているようだった、それを確認してから一息ついた。

力が抜けて座り込んでしまう。

 

その束の間の休息に改めて男を観察する。

 

 

 

 

よく見ると男は銃を持っていなかった。代わりに男の体格には似合わない小型のナイフが腰に吊り下げられていた。

 

なぜ銃を相手にこのナイフで立ち向かおうと思ったのだろうか?

不思議に思ったがその答えは出なかった。

 

 

床に倒れ込んだ男から視線を外し、私は立ち上がった。すぐそばにある非常用ブレーキの位置を確認する。車内は運転室からの光でほんのりと照らされていた。その中で、ブレーキの金属部分は微かに光を反射し、その存在を主張していた。

 

急な動きをしたせいで目眩がしていたが、それを振り払い、少し強く息を吸った。

 

さっきの格闘で疲労が全身に広がっている。でも、止まっている時間はない。私は足を前に出し、壁に手をつき、不安定な足元を支えながら非常用ブレーキに向かった。

 

ブレーキまでの距離は短い。それでも、その短い間にも列車は何度も激しく揺れ、足元は不安定だった。

 

私は震える足を前に出し、乗務員の遺体を避けながら前に進んだ。床に持っていたリボルバーや血が散乱しており、歩くたびに足元がぐらついた。なんとか一歩一歩進み、今の私にとっては遠いブレーキに向かった。

 

 

 

 

取っ組み合いの最中に投げた銃を避けることもできず、床に落ちたリボルバーを足で蹴飛ばす。

 

拾おうとすればそのまま倒れてしまいそうな気がした。

 

 

そうして、なんとか運転室にたどり着く。

運転室の内部は光に包まれていた。その源を探り求め視線を回すと、非常用だろうか?蝋燭が置かれていた。

 

 

それだけではなく、他にも光源が存在していた。わずかな光が操縦盤のランプから漏れてきて、それが微かに空間を照らし出していた。そしてその光の下で、冷たく光るレバーが存在感を放っていた。

 

 

 

一歩、また一歩と進む。列車は未だに揺れ続け、足元はまるで泥酔したかのように不安定だった。道中、レバーに何度も手を伸ばすが、距離感覚がつかめないのか、手が空を切る。

 

 

 

そしてようやく、レバーを掴むことができた。

 

 

 

 

手に感じるのは冷たい金属の質感。それは想像より遥かに冷えており、手のひらに直接触れた瞬間、冷たさが全身を駆け抜けた。その瞬間、心の中にはたと不安がよぎった。本当にこれで列車は止まるのだろうか。

 

 

 

だが、それは一瞬のことだった。今は止まることが最優先だ。それ以上何も考えずに、力を込めてブレーキを引いた。

 

 

そこからは全てが自動的に進んだ。

 

ギアがかみ合い、レバーが動き始める。全身の力を振り絞り、ぐっと引き寄せる。そして、最後にギアがロックされた瞬間、列車全体が激しく揺れた。頭上の照明が揺れ、窓の外の景色が急激に変化した。

 

瞬間的に全身が浮き上がる感覚があった。それと同時に、耳には急停止の音と、私の心臓が高鳴る音だけが響いていた。そして、その直後、私の視界が暗転した。それが最後の記憶だった。

 

 

 




Tips 暗闇に光あり。

次回、【影を纏いし王位】

Sakusha 叙述トリックって難しいよな
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