イギリスに到着したものの、大木は不安でしかなかった。
そもそも、外交官を目指して英語を勉強していたのは30年以上も前。
法務局に入ってからは英語を使う暇もなく、勉強するやる気もなくそのままだった。
どうにか参考書を数冊買って復習したけれど付け焼刃にすらならないだろう。
なんと言っても、イギリスの魔法省の状況がてんで掴めていない。
死んだらしい闇の魔法使いの親玉の名前すら分かっていないのだ。
「…………待ち合わせ場所を間違えたか?」
キングス・クロス駅に到着してから早30分。
待ち合わせ時間はとっくに過ぎている。
「キングス・クロス駅9と3/4番線……3/4というのがよく分からないがここが9番線と10番線の間だ」
待ち合わせ場所の書いてある紙を確認し、首を傾げる大木。
その時、すぐそばから突然ニュっと人が現れた。
「ああ! いたいた! まったく! 困ったもんですよ。ほら、早く来てください。もう出発しますよ」
真っ黒なローブを纏った若い男が大木の手を掴み、そして壁へと引きずり込んだ。
急なことについて行くしかなかった大木は驚愕した。
壁の中にもまたホームがあり、特急列車があったからだ。
「ああ、危なかった。ほら見てくださいよ。ホグワーツ特急が発車しますよ」
「ホグワーツ特急? ホグワーツとは確かこちらの魔法学校のことでしたかな?」
「ええ、そうですよ。ほら、親たちも手を振って見送っている」
若い男の言う通り、見送る親たちとさらには列車の窓から手を振り返す子供らの姿も見える。
そして、煙を上げてホグワーツ特急が旅立ったわけなのだが。
「失礼。あなたは一体どなたですか? それにどうしてここへ?」
「ああ、名乗る時間もありませんでしたからね。私はエイモス・ディゴリー。あなたは確か……失礼。日本の名前に馴染み無くてですね……」
「大木和夫です。大木がファミリーネームです」
「おお、よろしくお願いしますよ。カズオ……カズでいいかな? ほれ、その方が呼びやすい」
「……ご自由にどうぞ。ミスター・ディゴリー」
「エイモスで構いませんよ」
エイモス・ディゴリーは溌溂とした様子の快活な若者だった。
メガネの奥の瞳がキラキラと輝いている。
「そんで、どうでしたか? ホグワーツ特急の出発は。ちょうど学校が始まる日にあなたが来たからちょうど良かった」
「まあ……あのタイプの汽車は我が国ではもう無いので珍しいですね」
「なんと言っても例のあの人の心配をしなくていい出発ですからな! 親たちだって大手を振って見送りできたわけですよ!」
「例のあの人?」
「ほれ、しばらくこの魔法界を脅かして来た……」
「ああ。闇の魔法使いの親玉ですか。死んだと聞きましたがそれは確実なのですか?」
エイモスは眉をひそめて答えた。
「そりゃー死んでいてくれないと困る! まさかアンタ、生き残った男の子のことも知らんわけではないでしょうな?」
「もちろん知りませんよ。なんと言ったって、9と3/4のことも知らなかったんですから」
大木が嫌味っぽく答えるとエイモスはきょとんとした。
「ああ、だからいつまで経ってもこちらへ来なかったわけですか! はっはぁ、日本人は時間にうるさいって聞いていたから不思議だったんですよ」
「私は待ち合わせ時間の5分前には到着していました」
「到着していたって場所が違ったんじゃ意味がありませんけどね。さて、ここで立ち話していたって仕方ありませんから行きましょう。カズ、荷物はそれだけですかな?」
エイモスは大木が持っていた旅行鞄に目を向けた。
「ええ」
「ならば結構。このまま魔法省へ行きましょうかね。本当ならダイアゴン横丁のトムのところで一杯ひっかけたいところだけど仕方ない」
大木はエイモスの後を追って公衆トイレに入り、言われた通りに便器に足を突っ込んで中へと入った。
「趣味の悪い移動の仕方だ……」
呻きながらたどり着いた場所。
そこは魔法省の暖炉のようだった。
目の前には巨大な金色の噴水がチラチラとそこら中に光を投げかけていた。
その時、ガツン、と強烈な一撃を両足に食らった。
「どけよ! こんなところでぐずぐずしてるんじゃない! ……おい、アンタもしやマグルじゃないか?」
突如、大木の後ろに現れたローブの男が訝し気に言うと、エイモスが割って入って来た。
「ああ、いやいや。彼は遠い東の国からの客人さ」
「それならエイモス。この極東の友にさっさと退くように言ってくれないかね」
「もちろんだとも。カズ、ここはどんどん魔法使いたちが来る場所だ。さあ、こちらへ」
大木はすでにうんざりしていた。
見るものすべてが未知でとんちきな地に来てしまったのだから。
それに、ローブで溢れた魔法省の入り口の中でただ一人大木だけは背広を着ていた。
常にノーマジに混ざりやすいような恰好をするという意識はどうやらイギリス魔法界には無いらしい。
日本じゃ大衆に紛れていた自分がここじゃ完全な異物。
早くも馴染めない気持ちが沸き上がっていた。
「さっきのは魔法ビル管理部のウェリスだ。話して見ると気のイイ奴だから今度改めて紹介しよう」
「その必要はありません。それよりも早く案内してくれませんか? 私は普段はノーマジの在英国大使の下で働く予定だが、こちらの魔法省のことも知っておきたい」
「失礼? そちらの大使がなんだって?」
「なんだとは?」
「オホン! 魔法使い以外の存在は英語でマグルと言うのですよ。よろしいかな? ミスターカズオ」
大木はエイモスに会ってからずっと英語を話しているつもりだった。
が、どうやらアメリカ式の言い方を認める気が無いらしい。
「それは失礼。私は基本的にマグルの大使の下で働くことになります」
「ええ、ええ。あなたみたいな働き方をしているのはこの魔法省でも何人もいますよ。さあってこっちだ」
エイモスがどこへ向かっているのか分からないが、魔法省の中は奇妙な壁やドア、変なオブジェで溢れていた。
「おお、いたいた! アーサー! おぅい!」
「エイモス! どうしたんだ?」
連れられた先には赤毛の若い男がいた。
おそらく電話だろうものをいじくっていて、そのせいで中身は全部飛び出してめちゃくちゃになっている。
「おいおいエイモス! まさかマグルの方をここに連れて来たんじゃないだろうな?」
「いやいや、こちらは遠い東の国から来てくれたカズだ」
「日本国魔法省外務局欧亜課西欧第一部イギリス魔法省担当係長の大木和夫です」
「んん? よく分からないがあなたの国ではやけに長ったらしい肩書があるのですな。アーサー・ウィーズリーだ。よろしく、カズ」
「……よろしくお願いします」
このまま「カズ」呼びが定着するようだが、大木は拒否する気にもなれなかった。
(俺より10は年下の若造どもにカズ呼びか……左遷された人間ってのは哀れなもんだな)
大木は心の中で自身を皮肉った。
「よし、アーサー。これから昼飯だろ? カズも一緒にあの店に行こう」
「おお。それはいいな。それにしてもカズ、あなたのその服装はもしやマグルが着ている広背というものではないかな?」
「背広ですか? ええ。私の国ではマグルも魔法使いもさして服装の違いはありませんからね」
「ほっほぉ! それは大変に興味深い!」
「カズ、アーサーはマグルの文化が好きなんだ。ぜひ教えてあげてほしい」
まるで珍獣扱いだな、なんて皮肉も心の中で留めた。
そうして大木はエイモスとアーサーと共に彼らおススメの店へと向かったのだった。