第一話
街灯と星月。それらの光のみが頼りとなる真夜中の公園。その隅の方で男達の絶叫が響いた。その音の発生源でただ一人立っていたのは、缶コーヒーが大量に詰まったレジ袋を持った少年。
真っ白な髪と肌、真っ赤な瞳。細身だがしっかりとした身体。一見すれば、悪魔や人外のように見えなくもない。しかしながら、実際の彼は少しばかり異端なだけ。その塩基やら何やらを調べれば、基本的には何の変哲もない人間である。
「飽きねェのか、コイツら」
そんな真っ白な彼は、漏れ出た欠伸を噛み殺しつつ、自分の周りに視線を巡らせた。腕が妙な方向に曲がっていたり、何故か全身に火傷を負っていたり。気絶している人間もいれば、痛みで呻き声を上げている人間もいる。
気にすべきところなのかもしれないが、コレは彼にとって日常茶飯事。警察や救急隊などを呼ぶはずもなく、袋を持っていない方の手で後頭部をガシガシと引っ掻くのみ。そのまま何事もなかったかのように横を通り過ぎ、捻じ曲がったゴルフクラブの先端を踏み潰した。
そして袋から缶コーヒーを一つ取り出し、そのまま片手でタブを上下させる。カシュという何とも気の抜ける音を鳴らし、少年は黒い液体を口に含んだ。普通なら、顔を顰める程度では済まないぐらいのモノなのだが、彼は眉一つ動かさずに一口分を嚥下した。
「……まァ、こンなモンか」
彼の呼び方は様々だ。倒れていた少年達も、つい数十秒前までは罵声と共に畏敬の念を込めた名を叫んでいた。
学園都市二百三十万人の頂点。七人の超能力者の第一位。最強。そういった色々な肩書きは持っているものの、彼にとって一番馴染み深い呼び名はやはり。
「
一方通行。そう呼ばれた少年が振り向いた先に立っていたのは、サングラスを掛けた如何にも怪しげな男。スーツを着ているものの、妙なガタイの良さとオールバックの黒髪というセットが、若干の恐ろしさを生み出している。もし子供が見たとしたら、八割ぐらいの確率で涙目になってしまうだろう。
「あァ?」
だがしかし、腰が引けているのは男の方だった。一方通行は柄の悪い返事と共に視線を向けただけ。たったそれだけのことなのに、男は既に汗を一筋垂らしていた。
「ま、待ってくれ。俺はアイツらとは違う」
「また下らねェ実験か?」
舌を打ち、もう一度液体を流し込む。一方通行がそれ以上動くことはなく、男の方に顔を向けて缶を片手に佇むのみ。話ぐらいは聞いてやろう。彼としてはそういう意図だったし、男の方も千載一遇のチャンスを逃すつもりはなかった。
「……なンだ?」
だが、そのチャンスは長く続かない。少年の耳に入る音が、唐突に遠くなったのだ。耳鳴り、眩暈。不摂生な生活を送っているとはいえ、そんな症状が彼を襲った経験は殆どない。
視界が捻じ曲がり、目の前の男が焦る顔が僅かに映り込む。何か喋っているように見えるが、その何かが耳に入ってくることはない。唇の動きを読むこともできない。彼が最強たる所以である能力が行使出来ているのかも分からなければ、誰に何をされているのかも分からない。
握っていた缶コーヒーを落としても、もう片方の手で持っていたレジ袋を放してしまっても。彼はフラフラと体を動かすことしか出来ない。世界最高峰の頭脳をもってして、突如襲ってきた不調に抵抗するので精一杯。
「君を待っていたよ」
ふと、明瞭な声が頭に届いた。何者の声なのか、少年には見当が付かない。要領を得ない言葉ではあったが、確実に意味を持っている日本語。確かに一方通行に向けて届けられた、明確な歓迎の言葉。
「何言ってンだ……」
それに対する反応は、小さな怒声。振り絞った声はか細く、表情は怒り一色に染まっていた。自分に語りかけてきた何か。それが危害を加えてきたのだと、一方通行は瞬時にそう判断した。僅かに残る思考領域を能力行使の為に確保し、白い腕を振るう。
轟。鳴いた風は本来生まれるはずのない突風となり、彼の前方を砂塵やアスファルト片を巻き込みながら、容赦なく駆け抜ける。それが何を抉ったのか。目の前にいたはずのサングラスの男はどうなったのか。声の主は巻き込んだのか。
疑問自体は幾つも生じていたものの、一方通行にそれらを解決する余裕はなかった。自分自身で起こした突風など、普段の彼であれば周囲の環境を適当に弄って対処していただろう。しかし、今回ばかりは演算能力が心許ない上、それ以前に足元がおぼつかない。
「っ……」
自分が何か声を発した気もしたが、それは耳に入らない。起こした突風に対して、蹈鞴を踏みつつも堪えようとし、最終的にバランスを完全に崩した。転けるということ自体が久々な彼に、その際の対処法を咄嗟に出すことは出来ない。物理法則に従うのであれば、尻餅をつくぐらいで済むだろうか。
何れにしても、彼を襲ったのは衝撃の類ではなかった。何の脈絡もない、本当に意味の分からない浮遊感。何処から何が生じた結果なのか、それを判断する余裕もない。
残されたのは、地面に撒かれたブラックコーヒー。散乱する大量の缶コーヒーと、それらが入っていたコンビニのレジ袋。そして突風に巻き込まれたせいで、訳も分からないまま草木を身体中に引っ付ける羽目になったサングラスの男。
「……何が?」
彼の問いに答える者はない。少なくとも、この場には。
・
起き上がった一方通行が最初に目にしたのは、やや遠くに見えるボロボロの壁。罅が入っているようにも見える縦長のガラスと、そこから見える青い空。
そのまま視線を下してみると、自分が意味の分からない格好をしていることを理解した。実物を見た経験こそないが、知識の中には存在している祭服。黒いコートのようなそれの下も、お誂え向きな上下揃いの服。
「なンだってンだ」
起きた場所に目を向ければ、それはボロボロなソファ。背凭れを倒してベッドにするようなソファではなく、本当にバネが飛び出たようなソファ。既にクッション性などゼロに近いそれは、もはやソファと呼ぶべきではなく、どちらかと言えば単なる長椅子と呼ぶべきかもしれない。
その扱いの悪さから、一方通行は自分のいる場所が実験施設や病院の類ではないと判断した。そして再び顔を上げ、今度は周りに顔を向ける。
「……教会ってヤツか?」
学園都市という科学の発展した街において、宗教というのはメジャーな存在ではない。存在しないとまでは言わないが、あまり表立って活動しているとは言えないだろう。一方通行自身、色々な学区を歩き回っている際に外から見たことがあるというだけで、中に入って見学したような経験はない。
それ故に、彼の言葉は自分が本やテレビから得た知識等に基づいたモノ。長椅子が幾つか並んでいて、妙な像がその前方の中心辺りに立っており、ステンドグラスが嵌められている。そんな典型的な教会の姿が、一方通行の視界には広がっていた。
今度は自身の後方に目を向けてみると、色々と崩れかけではあるものの、キッチン等の居住空間のようになっている場所。もう一度前方に目を向ければ、ボロボロの壁の横に廊下らしき道が伸びていた。角度のせいでキチンと見えはしないが、その側面には幾つかの扉らしき物も見える。
「ンで?」
ボロボロのソファに座り直し、両腕を背凭れの後ろに垂らす。前方に机があれば、足を置いていたかもしれない。そんな状態の一方通行は首を傾げ、右手を自分の隣で彷徨わせた。
「あァ、そォだった」
舌打ちを一つ鳴らし、真っ白な頭をそのまま右手で引っ掻く。彼が右手で探していた物は缶コーヒーだった。彼の記憶の中では、つい先程まで手の中にあったし、レジ袋の中に大量に入っていたのだから、無意識のうちに探してしまうのも無理はない。
それに付随して発生したのが、どうしようもない苛立ちである。急に何らかの手段で襲われ、目が覚めたら何処かも分からない場所。周りを見る限りでは下手人の姿はなく、妙な衣服に着替えさせられた上にボロボロのソファに寝かせられていた。外傷を負うようなことがないとはいえ、何がしたいのか分からないのも事実だ。
学園都市第一位である一方通行。彼の持つ能力はベクトル操作。あらゆる物やエネルギーの持つ『向き』を操る能力。多少物理学を齧っている人間ならば、その能力の価値は理解出来るだろう。ついでに言うと、彼の能力は学園都市において唯一無二の能力でもある。単純に汎用性が高い上に希少。そんな世界最大級の宝石よりも貴重かもしれない存在を、ぞんざいに扱う。
自分で自分を重要人物だと言うのは憚られるかもしれないが、一方通行に限ってはそうは言えない。自他共に認める第一位なのだから、普通であれば拉致したとしても既にバラバラにされているか、もっと丁重に扱われるかの二つに一つだ。そのどちらでもないというのは、彼にはあまり納得のいく話ではなかった。
「あら、フリード」
そんな彼の後方にいつの間にやら立っていたのは、黒髪の女。美女と言うには少女のようなファッションに身を包んでおり、美少女と言うには若干色っぽい。
「どォなってやがンだ」
明らかに彼の方に向いて声を出しているのだが、一方通行は気にする様子もなく額に手を当てて考え込んでいた。思考に忙しいせいで、そもそも聞こえていないらしい。当たり前と言えば当たり前だ。依然として状況の把握は済んでおらず、能力の行使がキチンと出来ているのかも定かではないのだから。
もう片方の手を軽く振るい、小さく風を起こす。能力の確認はそれだけで十分。能力のデフォルト設定になっている反射も機能しているし、簡単な操作ではあるが風も起こすことが出来た。物理法則に従っているのならば、反射という絶対の壁を破ることは出来ない。酸素を奪うという方法はあるが、基本的には彼に危害を加えることは不可能。
そう考えた矢先、再び脳裏を過ぎるのは倒れる直前のこと。何が使われてそうなったのかも、何を目的としてそんなことをしたのかも。未だに何一つ分からない目眩と耳鳴り。それに対して警戒心を抱いてしまうのは、当然のことだろう。
「フリード、何とか言ったらどうなの」
自分の座っているソファが揺れたことで、漸く一方通行は後ろを向いた。そこには相変わらず黒髪の女が立っており、右足がソファの足の部分へ伸びている。どうやら反応がない一方通行の為に蹴ったようだが、彼には何一つ意味が分からない。
第一に偉そうにしている女の正体。第二にフリードと呼ばれている理由。第三に一方通行がこの場にいることを疑問視していないこと。
「ちょっと」
もう一度ソファの足が蹴られそうになった瞬間、一方通行は徐に立ち上がった。いつもと違う服に身体が違和感を示しても、すぐに力の向きを適当に変える。彼の目の前に立っている女が、彼を襲った何かに関わっているのかもしれないということも考慮に入れ、真っ白な頭の中にある最高峰の脳を使って演算を開始する。
「な、何よ」
赤い瞳に捉えられ、女は一歩後ろへ下がった。突如発生した妙な風に煽られ、更にもう一歩。唐突に襲い掛かってきた妙な威圧感に対抗すべく、女は負けじと一歩踏み出した。
その瞬間、床が軽く爆ぜた。爆ぜたという表現もおかしいかもしれない。実際に床には亀裂など走っていないのに、女は足を弾かれるような感覚を味わったのだ。
その結果として倒れ込んだ女に近づき、一方通行はゆっくりと口を開いた。手を差し伸べるでもなく、無視するでもなく。何処となく怯えるように瞳を震わせる女に顔を近づけ、言葉を吐き出す。
「なンとか」
女は何度も目をパチパチとさせ、自分の耳にした言葉を反芻させる。目の前の真っ白な男は何と言ったのか。その疑問を解消する為に何度も自分の中で繰り返し、最終的に絞り出されたのはやはり疑問。
「……は?」
しかし、その対応は間違いだった。どの対応が合っていたのかも分からない。もし一つだけ正解があるとしたら、不機嫌な一方通行の前から即座に姿を消すことぐらいだろうか。
何れにしても、動き出すにはもう手遅れだった。真っ白な少年は更に一歩詰め寄り、不快な害虫を踏み潰すように足を大きく上げる。
「オマエが……」
そして容赦なく、女の顔の前に振り下ろした。
「なンとか言えっつったンだろォが!」
怒声と共に足元に生じたベクトル。元々その場にあったベクトル。幾つかのベクトルをその能力で統括し、床の下を走らせる。その程度の計算は出来るぐらい冷静なのではなく、冷静でなくとも計算出来る程度の能力行使。つまるところ、彼の能力のほんの一部分を利用しただけ。
それでも、見たことのない人間の目には摩訶不思議な光景に映る。ただ足踏みのようなことをしただけで、地面に亀裂が走っていく。それだけならともかく、その亀裂は目的を持っているかのように動いているのだ。その先にあるのは木製の長椅子。それが数秒後にどうなるのかは分からない。分からないが、女はとにかくその場から避けるという選択肢を取ることにした。
「勘がイイな」
言い終わるや否や、先程まで女がいた場所に長椅子が落ちてきた。ボロボロの内装と同様、長椅子も耐久力は残っていなかったらしく、落ちると同時に文字通り木っ端微塵。
既に跳び退いていた女の方には、木片が幾つか飛んでいく程度。損害としてはゼロに近い。一方通行も廃材同然の長椅子に大した期待はしていなかった為、避けられたことに対して舌打ちを鳴らすだけに留めた。
「このイカれ神父!雇い主に歯向か……」
女は大声で威嚇するように喋り始め、すぐに尻すぼみになっていった。一方通行はそちらを睨みつけているだけで、特に何かをしたわけではない。何か変化があったとすれば、女の手の中に妙な形の棒があることだろう。変に光っており、先端は鋭くなっている。電流が流れている防犯グッズの類に見えなくもないが、その形状はバトンというよりは槍。時代劇やら何やらで見る槍のような装飾はなく、その簡素さは竹槍に近いかもしれない。
だが、それの正体が何であろうと一方通行には大して関係はない。槍の雨が降ろうが、銃弾の嵐に放り込まれようが、彼は万が一にも傷を負うことはないのだから。
「フリードじゃないわね、貴方」
暫しの沈黙の後、女は眉を顰めながらそう言った。
「そンな西洋かぶれのニックネームは知らねェよ」
相変わらず不機嫌そうな顔はしているが、そう言った少年は片手間に行なっていた演算を取り止めていた。どうやら女も女で何も知らないらしいと判断したのだ。
「別に自己紹介なンざ求めてねェ。ここは何処だ」
「何処って、駒王町ってことぐらいしか知らないわ。リアス・グレモリーが治めてる土地よ」
一方通行はほんの一瞬だけ思考を巡らせ、数秒で答えを導き出すことを諦めた。聞いたことのない町の名前に、聞いたことのない統治者の名前を出されても、ピースが多少埋まる程度で疑問の解消には至らない。そもそも町は日本の名前であるというのに、町長か何かであるらしい存在が外国人の名前というのも、若干おかしな話ではある。
とりあえず、学園都市ではなさそうだということだけは理解出来た。女が世間知らず、もしくは常識が欠落しているという可能性も捨て切れない状況ではあるが、現在の彼には情報源が彼女しかいないのだから、一旦は信用する他ないのだ。
「県名は」
「県名?」
そして目の前の女に答えを導き出させることも諦めた。日本に住んでいるのであれば、普通は聞いたことのあるフレーズである県。それに対して疑問符を浮かべている時点で、まともな情報を聞き出せる可能性は潰えた。逆に言えば学園都市の中だという可能性も発生したのだが、それは希望的観測でもある。
「学園都市。聞き覚えは」
「……何処かにそういう場所があったような」
最終的に分かったことは、目の前の女が情報源にはならないということだけ。明らかに収穫と呼ぶべきではない成果である。何か頼りになる物はないかと祭服のポケットに手を突っ込んでみても、出てくるのは用途不明の筒に玩具のように見える銃のような物、それから中身がそれなりに詰まっている見覚えのない財布ぐらい。
携帯電話の一つでもあれば、どれだけ良かっただろうか。電話番号を全て記憶しているわけではなくとも、何度も見たことのある研究所の番号ぐらいは一方通行も空で言える。それを打ち込むだけで多少は情報の整理が出来たはずなのに、それすらも叶わない。最悪な状況とまでは言わないが、かなり運が悪い。
「もォイイ」
色々と溢れ出した諦念を纏め上げ、ため息にしてゆっくりと吐き出す。そして息を吐き終わると同時に、一方通行はポケットに両手を突っ込んで歩き始めた。一つの場所にいても情報は集まらないのだから、自ら動くしかない。そう考えた結果、彼はツカツカと玄関らしき場所に向けて足を進め始めたのだが、女はそれの前に立ち塞がった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい」
「そこの像の隣で愉快なオブジェにでもなりてェのか、オマエ」
顎でクイと示した先にあるのは、神か何かを模しているらしき像。埃を被っている上にあちこち欠けているようにも見えるが、一応は人型を保っている。
一方通行の言うオブジェは、彼の言葉通りに面白可笑しいモノではない。そもそも目の前の無知な女をどうこうするつもりもない為、単純な脅し文句ではある。しかし、何か物理的に邪魔をしてくるようであれば、先程のように地面のベクトルを操って転ばすぐらいのことはするつもりだった。
「貴方、フリードじゃないなら誰よ。まさかアーシア・アルジェント?流石に違うでしょう?アイツにあの子を迎えに行くように言っていたのに、連絡も何もないから様子を見に来たら貴方がいるし、こっちもどういう状況か知りたいんだけど」
女は先程のように一歩後退りながらも、一方通行に向けて問い掛けた。そこには得体の知れない何かを見るような視線と、怯えの色が確かに存在している。それらは一方通行が幼少期に見慣れてしまったモノであり、現在も多くの場面で浴びせられるモノ。
気分の良い悪いなどの問題ではなく、もはや日常的なモノ。あまりにも悲しいことではあるが、彼はそれに対して感情を生み出すことはない。無視しているという意識すら存在せず、彼はただいつも通りに歩みを進めた。
「……さァな」
彼女の横を通り抜け、一方通行はそれだけ口にした。そもそも彼自身が良く分かっていないのだから、答えようがないというのも理由の一つではある。目の前の女の疑問に答える義理はないが、何にしても状況を理解しなければならないのは間違いない。
コツリと音が鳴る程度に軽く扉を叩き、外の景色を視界に取り込む。ほんの十秒にも満たない時間で、一方通行は最初に抱いた「とりあえず」が正しかったということを理解した。
少しばかり外に出て振り返ってみれば、印象通りにボロボロ。廃墟と呼んでもあまり問題はなさそうな雰囲気の教会だったし、正面の景色は一方通行の知る学園都市とは似ても似つかない姿形をしている。
「VR空間、一種の催眠装置、夢……」
思いつく限りの可能性を口に出していくものの、どれもピンとは来ない。歩みを進めれば進める程、口に出した際に生じる違和感は段々と大きくなっていく。
周りにある住宅街からは遅めの昼食の匂いが漂い始め、子供達の無邪気な笑い声が響き渡る。道行く人達は一方通行の方を物珍しそうに見つめ、小さな子供は母親の横で指を差す。真っ白な少年にとって馴染み深いとは言い難い、街での昼下がりといったところか。
非常にほのぼのとした空間ではあるのだが、彼には居心地の悪い空間でもある。悪意や欲望に晒されてきた人間からすると、どちらかと言えば好意に近い視線に晒されるというのは、形容し難いむず痒さがあった。
「分っかンねェなァ」
集まる視線を振り払うように頭を振るい、空を睨みつける。ほんの少しの雲は漂っているが、天気は完全に晴れ。自身の持つ能力によって温度やら何やらは最適化されているものの、彼にも気分というモノがある。気分を抜きにしても、いつの間にやら若干の喉の渇きがあった。
赤い瞳を右から左へ百五十度程動かしてみると、公園の入り口から顔を覗かせている機器が一つ。見覚えのないメーカーではあるが、その姿は正しく青い直方体。つまるところ、学園都市内外で存在する自動販売機。
「小銭なンか、何年振りだ?」
ポケットから財布を取り出し、手に取った小銭は彼も良く知る物。普段はマネーカードやらクレジットカードやらで買い物をしているとはいえ、流石に小銭の使い方が分からない程ではない。
見たことのない自動販売機の正面に立ち、視線を上から下へ。学園都市特有の誰が飲むのか分からないゲテモノはなく、子供向けから大人向けまで様々な飲料が並んでいる。その中で彼が選ぶのは、当然ブラックコーヒー。しかしながら、どれもこれも見たことのないメーカーばかり。仕方なく老婆のデフォルメのような絵が描かれた缶コーヒーのボタンを押し、ゴトリと落ちてきたソレを取り出す。
すぐに後ろを向いてその場から立ち去ろうとすると、ピピピという小さな電子音が鳴り始めた。続けて小さく響いたのは、ハズレという三文字分の電子音声。中々に人のことを小馬鹿にしている自販機ではあるものの、流石に蹴り飛ばすようなことはしない。一方通行は改めて周囲を見回し、近場にあった木陰のベンチに腰を下ろした。
「……ハズレだな」
もう二度と買わねェ。心の中でそう呟き、早々に口の中身を胃に落とす。元々仏頂面のせいで分かりにくいが、僅かにその表情は歪んでいた。そして再び缶の淵に口をつけて、視線だけを周りに向ける。
「こっちもハズレか」
昨晩という表現が正しいかどうかはさておき、彼が教会で目覚める直前の記憶は、帰り道で偶然立ち寄った公園で途切れている。そこで理解不能な症状に見舞われ、現在は理解不能な状況に置かれている。
それでも多少の手掛かりはないかと考え、自分の周囲を見渡してみたものの、やはり記憶に存在する公園とは合致しない。そもそも記憶にない住宅街なのだから当然ではあるのだが、僅かでも希望を見出したいのは人間の性だろう。
「どォすンだろォな、俺」
特に何の考えもなしに空に向けて漏らした疑問は、すぐに強風と甲高い声に掻き消された。声の発生源は彼のほぼ真正面。一方通行が思わず視線を向けると、そこでは修道服を着た金髪の誰かが倒れていた。
その周囲では砂埃が舞っており、かなり派手に転んだことが伺える。その中でも一際目立つのは、やはり輝くようなブロンドだろうか。顔から倒れているせいで麺を床に撒いたようになってしまっているが、それでも絵になるぐらいは美しい金色をしていた。
「何やってンだ、アイツ」
その服装と体格、それから倒れた際の声で判断するならば、一方通行と大して変わらないぐらいの少女だろう。その年齢で顔から転倒する。しかも段差などはあるわけでも、誰かに引っ張られた様子でもない。風に煽られたのだとすれば、体重はグラム単位しかないだろう。つまり、余程焦っていたか、余程のドジか。あるいはその両方か。
モゾモゾと起き上がろうとしているのは分かる為、一方通行も手助けに向かうことはせず、あまり口に含みたくない缶コーヒーをもう一度嚥下した。そんな真っ白な少年の頭を、突然影が覆った。
「あァ?」
雲はろくになかったのだから、候補として挙がるのは何らかの飛行物体ぐらい。パッと見上げてみると、先程の強風に飛ばされたらしい、緑色の装飾が施された白い布がフワフワと舞っていた。
何処から飛んできたのかも分からない代物。しかし、アスファルトとタイヤによって酷いことになるよりはマシだろう。そんな考えの元、一方通行は片手間に風を起こした。布を飛ばしている力と統合して、丁度プラスマイナスゼロになる程度。難しい調整のようにも思えるが、彼にとっては造作もない。
物理法則に従ってヒラヒラと降りてきたそれを掴み、バッと軽く振るう。広がったソレはまたもや彼にとって馴染み深くない物。
「ヴェール?こンなもン何処か……」
そこまで口に出して、少年は先程の修道女らしき転倒者に目を向けた。ヴェールを身に纏う人間は限られている。花嫁の純白のヴェールであったり、修道女の被っている物だったり。大抵は女性のモノであるが、日本で見られることはあまりない。
状況的に一番可能性が高いのは、一方通行の視線の先でたった今顔を上げた少女。緑色の瞳を丸くして、赤くなった鼻を擦りながら嬉しそうな声を上げた。
「Grazie!」
そう言って立ち上がり、勢い良く駆け出して。
「ahi!」
また転けた。今回は手でどうにか身を守ったようだが、派手に転んでいることに間違いはない。
一方通行はため息を一つ漏らし、缶コーヒーをベンチの上に置いた。そしてすっくと立ち上がり、若干涙目になってしまっている少女に歩み寄る。その左手にはヴェールが握られており、右手は何かに迷っているように開閉を繰り返していた。
「Cosa stai facendo」
少女の近くまで来た彼の口から出てきたのは、流暢なイタリア語。彼女は大した文言を口にしていなかったが、少ない情報でも彼の耳はキチンと言葉を聞き取り、それに当て嵌まる言語を導き出していたのだ。
そしてゆっくりと右手を差し出し、相変わらずの仏頂面を向ける。子供が見たら泣き出しそうな雰囲気を漂わせているが、目の前の少女にとっては別段恐怖を抱く存在ではなかったらしい。
「Grazie mille!」
彼女はパッと弾けるような笑顔を見せたかと思えば、一方通行の白い右手を両手でギュッと握り込んだ。それに赤い瞳を丸くしたものの、その表情を見せたのは本当に一瞬だけ。すぐに先程と同じ無愛想な表情を取り戻したかと思えば、ぶっきらぼうに異国の言葉を口に出した。
「……prego」
それに対して、少女は嬉しそうに握った手をブンブンと上下に振っていた。涙目なのは変わらないが、心の底から嬉しそうに。