Re: 一方通行、狂人神父に成り代わる。   作:ミツヒコ

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第五話

 観光ガイドを手に取り、適当な部分を開く。パラパラと捲っていき、関東圏の観光スポットに目を通す。テーマパークや寺の類は多く出てくるものの、その中に学園都市という文字は出てこない。

 観光ガイドというチョイスが問題だったのかと気を取り直し、陰謀論混じりの週刊誌を手に取ってみる。陰謀論を作り易そうな場所なのだから、多少は情報が増えるだろう。そんな一方通行の甘い考えは、五分後には完璧に打ち砕かれることになった。

 

「別の学園都市に用はねェンだっつーの」

 

 女性誌、漫画雑誌、成人向けの扇状的な雑誌、最終的にはコンビニ特有の少し厚い漫画まで。ありとあらゆる書物を手に取ってみたものの、一方通行が生活していた学園都市は何処にも記載されていなかった。似たような場所自体は存在していたが、似ているのは名前だけ。中身は彼の知る学園都市とは程遠く、所在地も大きく異なっていた。

 

「なら此処はなンだ?幻覚の中にでも放り込まれてンのか?」

 

 ブツブツと独り言を漏らし、買い物カゴを手に取る。そして奥の壁一面を支配している冷蔵庫の扉を開き、適当な缶コーヒーを容赦なく中に放り込んでいく。公園で飲んだ微妙な銘柄だけは省き、目につく缶を一つずつ。

 その容量の半分を缶に埋められたカゴをレジに持って行き、お約束のやり取りを進める。袋は必要か。ポイントカードは持っているか。ガラが悪いながらも適切な返事をし、丁寧に缶の並べられた袋を片手に、彼はコンビニを後にした。

 

「何がしてェンだ」

 

 一方通行が意味不明な状況に置かれてから、まだ半日と経過していない。正確な時間こそ不明だが、アーシアの言葉を信用するのであれば、彼がソファで起きたタイミングで既に昼を回ったぐらい。コンビニの時計が正確無比であるとするなら、今現在が午後七時を少し過ぎたぐらいである。単純計算で大体六時間程度。その間に解消された問題は一つもない。むしろ増えた。だが、やはりその中で最も大きな疑問は変わらない。

 自分が今いる場所は何なのか。それだけである。いくらでも予想は出来るが、その予想が合っているのかも分からない。VR空間だとしたら、どうして能力が使えているのか。妙にリアリティのある夢なのだとすれば、いつになったら目覚めることが出来るのか。幻覚に襲われているのなら、犯人を見つけ出すことは可能なのか。

 

「あの野郎の目的……」

 

 意識を失う直前に聞こえた文言を思い出し、歩きながら思案する。件の言葉を考慮に入れるならば、何らかの空間に引き込まれたと考えるのが妥当だろう。しかし、そのような能力を一方通行は知らない。もし学園都市製の能力ならば、彼の演算ですぐにでも突破出来ているはずだ。

 だが、観測出来るモノは全て正常。唯一感じ取った異常である、合成獣のような怪物の中に流れていた何か。それも含めて定義を組み変えた結果、異常は再び消えてしまった。学園都市の内部と大して変わらない、平凡な土地でしかない。

 

「多元宇宙、並行世界……あり得ねェとも言えねェが……」

 

 世界そのものに問題がないが、知っている世界と異なっている。そういう条件で考えるとなると、一方通行の知識にある理論の中でもかなり非現実的なモノが出てきてしまうことになる。

 否定も肯定も出来ないが、あるだろうとは思えてしまう。言うなれば、ロマンの塊のような理論。世界最高峰の頭脳を用いても、それの立証は叶わない。だがしかし、そうでもないと納得が出来ない。大穴のような予想自体は沢山ある。学園都市での記憶が全て捏造された記憶だとか、実は今の今まで洗脳されていたとか。明らかに辻褄が合わなさそうな予想ぐらいなら、一方通行の頭でなくとも大量に作り出せる。

 

「……だから何だってンだ」

 

 自分の状況が分かったところで、どうにもならない。彼の持つ能力はベクトル操作。それを支える高度な演算能力もあるが、流石に並行世界を移動する能力は持ち合わせていない。意識を失う直前の事象を演算し直せるならともかく、聴覚も視覚もほぼ機能していなかったせいで、記憶も定かではないという状態。そうなってしまっては、流石の一方通行もお手上げである。

 

 だが、元の場所に愛着はない。嫌な思い出は腐るほどある。未練になるような存在もいなければ、もう一度だけ会いたい誰かもいない。会えば懐かしいと思う顔はある。思い出すだけで顔を顰めてしまう相手もいる。

 そんな場所に無茶をしてでも戻りたいかと言われると、大抵の人間は曖昧な返答になってしまうだろう。一方通行も似たようなものである。今のところは飲み食いも出来るし、寝床も教会を間借りすれば確保出来る。それに加えて、自分の状況よりも気に掛かることがあるのだから。

 

「ココで考えても仕方ねェか」

 

 学園都市の能力開発とは毛色の違う異能である神器。レイナーレのアーシアを利用した企み。はぐれ悪魔の持っていた何らかの力。教会という組織の考えていること。

 式を解いていくにしても、変数があまりにも多過ぎた。一つ二つならば当てはまる数字も限られてくるが、四つ五つとなると総当たりでするには時間がいくらあっても足りない。それだけならまだしも、彼が直面している問題は明らかに分野が異なっている。物理学しか習ってこなかった人間が経済学に挑んでいるようなモノ。計算だけなら出来るが、根本的に知識という面で躓く。今の一方通行はそんな状態だ。

 

 少年は左手の袋をガシャと揺らし、虚空を睨みつけた。アーシアの一件を思い起こす度に襲ってくる奇妙な苛立ち。何かにぶつけることも出来ず、不機嫌そうに顔を顰めて頭を引っ掻く。

 助けを求められたわけでもない。悪行を見過ごせないような人間でもない。自分に危害が加わったということもない。ただ、知り合ってしまったから。そんなヒーローや主人公が口にするような理由だけで、思考をそこまで割いてしまっていること。

 

「もォ遅せェだろォが」

 

 自分は何者か。そんなことは一方通行自身が一番理解している。幼少期から転々としてきた研究所。非合法な実験も素知らぬ顔で行うような、暗部と呼称されるロクでもない場所。そんな掃き溜めのような場所ですら、恐怖されてしまう存在。

 それを初めて認識したのはいつだったか。まだ合計五文字の姓名を覚えていた頃だったか。記憶は定かではない。ただ一つ確かなのは、それを認識させられたのは一回や二回ではないということ。研究所の中を歩く度、誰かに話しかけようとしてみる度、能力を行使する度。自分が持つ怪物性とでも呼ぶべきモノを、否が応でも理解させられた。

 人と接するのは元々苦手だったのか。苦手になってしまったのか。今となっては誰にも確かめようのないことだが、そんな扱いを受けたことで拍車が掛かったのは言うまでもない。

 

 怪物には誰も近寄らない。怪物自ら歩み寄っても、皆は遠ざかっていく。それが怪物と人間の在り方。そのはずだった。にも拘らず、少年は手を伸ばしてしまった。手を取られてしまった。

 彼女が手を取った理由はいくらでもある。一方通行のことを知らなかったから。道に迷って途方に暮れていたから。彼が偶然にも彼女のヴェールを拾いあげたから。彼女がそういう性格だから。

 

「……下らねェ」

 

 一方通行は空いている右手を空に向け、遠くでオレンジ色になった太陽を遮り、ゆっくりと掴み取るように握り込んだ。

 アーシアに手を伸ばしてしまった理由。様々な要因は挙げられるかもしれないが、それは細かく分類した時の話。結局は一つの理由に帰結してしまうことは、彼自身が一番理解している。

 

「死ぬほど下らねェ、が」

 

 そして、この場所に彼がやってきた理由。偶然に偶然が重なっただけかもしれない。並行世界が存在しているだけならともかく、その間を移動するとなると奇跡的な事象だ。そこに何らかの理由をつけるとしても、ほとんどが後付けのそれらしい理由にしかならないだろう。

 一方通行の頭を過ったモノも、そんな理由でしかない。自分の行動を思い出し、自分の生い立ちを思い出し、自分の求めている何かを思い出してしまった。だから思いついただけの、ロマンチストや夢見る小中学生のような下らない内容。

 

「貰えるもンは貰う。そンだけだ」

 

 彼に状況は変えられない。そもそも変えるつもりもない。

 やらなければならないことはないが、やりたいことはある。それらを元にして、今からの行動指針を少しずつ編んでいく。布はまだ足りない。だが、それらを縫い合わせる針と糸は十分にある。年相応の判断基準と、人間離れした頭脳、そして学園都市最強と謳われた能力。

 

 少しの間、彼は道端で突っ立っていた。怪物と遭遇した時の嗜虐的な笑みも、レイナーレに能力の一端を叩きつけた時と似たような、苛立ちを露わにした顔でもない。彼の顔に浮かんでいたのは、何処となく自嘲するような小さな笑み。優しそうには見えないが、普段漂わせている凶悪そうな雰囲気は若干ながらも鳴りを潜めていた。

 続けてクァと欠伸を噛み殺したかと思えば、袋を持ったままの左手を軽く上げた。中身は様々な銘柄の缶コーヒーだけ。それを暫く見つめ、ため息と共に左手を垂らす。そして自分の歩いてきた道を振り返り、少年は顔を顰めた。

 

 

 

 

 

 

 レイナーレとミッテルト、そしてアーシアによる夕食を終えても、フリード・セルゼンが姿を見せることはなかった。外出しているという話自体はミッテルトから聞いていたものの、理由が分かったからといって、アーシアが彼のことを心配しないということはない。

 フリードが強いのは百も承知である。はぐれ悪魔を無傷で追い払うような人間なのは目の前で見ているし、見た目だけなら不良やマフィアと争っていそうな雰囲気があるのも知っている。それでも、彼女の心配性はその上を行った。

 はぐれ悪魔に復讐されているのでは。そんな微妙に有り得そうなことを想像してしまったアーシアの就寝時刻は、ドンドンと遅くなっていった。ベッドに入った時間が早かったことが救いだろう。その後もベッドの上でウンウンと唸ってしまうところから始まり、意識が曖昧になってきても、少しの物音で目をパッチリと開けてしまうという最悪な寝つき。最終的には長旅の疲れが全てを凌駕したものの、睡眠時間はいつもよりも少しばかり短かった。

 彼女がイタリアから持ってきた目覚まし時計は、時差のせいで正確な時間を示してはいなかったが、それを含めて計算しても睡眠時間は約六時間。その時間だけを考えると、もう少し長く眠りたいぐらいの時間である。しかし、彼女の体はもう眠くないと言っていた。

 ベッドでゴロゴロと惰眠を貪るのも一つの選択肢だったが、どうにもそういう気にはならない。そんな彼女が選んだのは、いつも通りの朝の動き。左遷されてしまったとはいえ、未だに教会には所属しているのだから。そういう理由でいつも通りに祈りを捧げ、いつも通りに洗顔をしようと部屋を出た。

 薄いピンク色のパジャマを着たまま、片手には最低限の洗面用具。修道女の格好をしていない状態だったからか、アーシアは完全に気を抜いてしまっていた。思考の片隅には彼の存在はあったし、間違いなく覚えていたにも拘らず。

 

『あれ?』

 

 何故か教会のど真ん中に置かれている、粗大ゴミと変わらないぐらいボロボロのソファ。その端からは足が飛び出していた。それ以外は背もたれに隠れているせいで見えなかったが、状態的に寝転んでいるのだろうと判断出来る。

 

『おはようございます』

 

 当然、アーシアもそういう判断を下した。起きているかどうかは分からない為、なるべく静かに。でも、キチンと耳に届くぐらいの声量で。挨拶を終えた彼女は、そのままスーッと横を通り抜けようとした。そのつもりだった。だが、返ってきたのは予想外の声。日本にやって来てから、アーシアが最も多く聞いたであろう、ぶっきらぼうな少年の声。

 

『……アルジェントか』

 

 ボロボロのソファに寝転んでいたのは、彼女がずっと心配していたフリードその人。昨日の疲れのせいか、まだ寝惚けていたせいか。完全に気づいていなかったのだ。何れにしても、異性に寝起きの状態を晒すというのは、年頃の少女としてはあまり嬉しいことではない。

 僅かばかりに羞恥で頬を赤らめたが、それよりも彼が帰って来ていたということが彼女にとっては嬉しかった。理由を問われても、今の彼女は上手く表現する言葉を持ち合わせていない。色々と優しい言葉を貰ったから。はぐれ悪魔から守ってくれたから。妙に安心出来るから。それらの言葉を口に出すまでもなく、彼女の表情はいつも以上にふにゃりとなっていた。

 

『ちょ、ちょっと待っててください!』

 

 そんな緩んだ表情のことはアーシア本人も知らなかった。知っていたとしても、彼女の行動は変わらない。彼女の内心は一つのことで埋め尽くされていたのだ。とにかく寝起きの顔をどうにかしよう。それだけである。

 

『また転けてェのか』

『今日は転けません』

 

 洗面所まで駆けて行き、戻ってくるまで約二分。未だに寝癖は残っていたが、顔はいつも通りのアーシア・アルジェント。修道服さえ身に纏えば、聖女という名にピッタリの状態に戻っていた。

 

『お帰りなさい、フリードさん。夜はキチンと食べましたか?』

『あァ』

 

 酷い返事である。顔を見せないフリードの為に、アーシアがソファの表側に顔を覗かせてみると、彼は寝転がったまま足を組み、辞書のような厚さの本を読んでいた。そしてその向こう側には、全部を読破したのかどうかは不明だが、おそらく読むつもりであろう大量の本が縦横無尽に並んでいる。ゴミだらけにしているわけではない。乱雑に放り投げたり、散乱したりはしていない。向きが揃っていないだけで積み上げられているのだが、本の量があまりにも多過ぎて、パッと見では酷い状態にしか見えないのである。

 そんな不恰好な一メートル程度の本の塔が五つ。低い塔が更に何個か。そのうちの三つの頂点にはビニール袋が置かれており、子供が即興で考えた儀式のようになってしまっている。フリードはそのうちの一つの袋を無造作に持ち上げると、本から目を逸らすことなく、背もたれ越しにアーシアの方へと差し出した。

 

『朝飯だ』

 

 目の前に突き出された袋をとりあえず受け取り、少女は袋の中を覗き込む。五種類の菓子パンと、紙パックのジュースが三つ。どれもアーシアにとっては初めて見る物だが、袋と中の商品に記されているロゴは教会までの道中で何度か見たのと同じだった。

 

『私に?』

『オマエ以外に誰が食うンだ』

 

 フリードの好みは苦い物。それがアーシアの認識である。確かに袋の中身は彼の好みとはかけ離れているが、他にも食べそうな人物は何人かいる。夕食前にエクレアを頬張っていたミッテルトとか、それを買った張本人らしいレイナーレとか。

 

『ミッテルトさん達とか……』

『アイツらにそこまでしてやる義理はねェ』

 

 少年の返答に違和感を覚え、彼女は僅かに首を倒した。アーシアの受け取った事前情報が正しいのであれば、それなりの期間を共に過ごしている同僚。三人の関係性はそれぐらいに深まっているはずなのに、フリードの言い方はまるで見ず知らずの人間に対するモノ。

 取っ付きにくい雰囲気を漂わせているし、実際に喋っても無愛想ではある。しかし、フリードという少年は話を無視するような人間ではない。少し気難しそうに見えるだけで、質問を投げ掛ければ適当な返事は返ってくる。疑問に思ったことがあれば、やや言葉足らずながらも意図の伝わる質問を放ってくる。それがアーシアにとってのフリードである。それ故に、彼と二人の関係値が低いことに少しばかり疑問を感じたのだ。

 

『えっと、フリードさんは食べないんですか?』

 

 ただ、仲良くする能力があることと、人と仲良くなれることは別物だ。それは彼女も理解している為、とりあえず話を戻すことにした。

 

『もォ食った』

 

 スッと指差された袋の中には、確かにゴミが入れられていた。油の染みがある紙が数枚と、倒れている空き缶。そしてあまり甘そうには見えないガムの包装。食べた痕跡自体はあるが、残骸だけで判断する限り、朝食らしいレパートリーとは言い難い。

 最後の袋の方にアーシアが目を向けてみると、半透明の袋の奥から何本かのコーヒー缶が主張をしていた。種類の違う缶コーヒーが少なくとも四本。袋の形から判断するならば、その倍ぐらいは入っているだろうか。何れにせよ、三枚のビニール袋の内訳はゴミ袋と缶コーヒーの袋、そしてアーシアの朝食ということになる。

 

『良いんですか?』

『授業料みてェなもンだ。オマエには頭回してもらわねェとコッチが困る』

 

 妙な言い方にまたもや疑問を抱き、袋を両手で大事そうに抱えたまま、少女は僅かに首を傾げる。

 

『授業ですか?でも、フリードさんに教えられるようなことなんて……』

 

 日本語が堪能で、イタリア語も現地の人間より余程流暢に操れる。洞察力も人一倍あり、話す時も乱暴だが知的な印象を受ける内容を口に出す。そして、ついでと評するのもどうかと思うぐらいに腕も立つ。それがフリード・セルゼンである。

 それと比べてしまうと、アーシアに出来ることは少ない。授業という表現から想像すると、余計に出来ることなどないように思えた。修道院で人生の大部分を過ごしてきた少女に教えられることなど、分類するならば家庭科に該当するモノぐらいだ。簡単な料理を作ってみたり、服に空いてしまった穴を塞いだり。他に彼女がフリードよりも出来そうなことを挙げるとなると、年下の子供をあやすことぐらいしかない。

 だが、アーシアには彼がそんな技術を学びたいと思っているとは思えなかった。失礼な話だが、家庭的なフリード・セルゼンというのはどうにもイメージとズレていたからだ。

 一体何を教えろと言われるのだろう。彼女の脳内は一瞬でそんな疑問に埋め尽くされた。どうせなら恩人の疑問には答えたいが、どうにも答えられるビジョンが思い浮かばない。アーシアは頭を抱えたい衝動に駆られながらも、彼の言葉を待ち構えることにした。

 

『別にイイ。常識の再確認がしてェ』

 

 そして飛んできた彼の言葉は、またもや分からなかった。言葉一つ一つの意味はキチンと理解出来ているが、彼が何を伝えたいのかがハッキリと入って来なかった。

 

『フリードさんは非常識じゃないと思いますけど』

『そォいう意味じゃねェよ』

 

 結果、繰り広げられる若干抜けた問答。フリードは本を閉じ、目元を覆って息を吐いた。それが終わるや否や、ゆらりと幽鬼のように体を起こし、閉じた本を足の乗っかっている方に軽く投げる。そして缶コーヒーの袋が鎮座する本の塔から、迷いなく一冊の本を抜き取った。

 

『コイツは俺も知ってる。俺でも多少は聞いたことがある』

 

 そう言って彼が持ち上げたのは、ごくごく普通の聖書だった。おかしい表現かもしれないが、少なくともアーシアにとってはごく普通の物。非常に馴染み深い一冊であり、幼少期から持っているせいで暗唱出来る部分も多々ある聖典。大まかな紙芝居程度であれば、即興でも作れるぐらいに読み込んだ物だ。

 

『コレは何処まで真面目に受け入れればイイ』

『多分、全部して良いと思います……』

 

 聖書の内容が全て事実なのかは、アーシアも知らない。荒唐無稽とも思えることが書いてあるというのも、一般人の視点から見るならば、決して間違ってはいないのだ。その内容が事実と寸分違わずに記載されているのかなど、聖書の著者達や神でもなければ分からないことだろう。

 フリードの信仰心が厚くないことは理解していたものの、反対に信仰心の強いアーシアとしては、今回の質問は流石に反応しづらい。しかし、フリードの気持ちも分からなくはない。何とも言えない感情に板挟みにされ、彼女は小さな声で曖昧な回答をするに留めた。

 

『……そォか。悪りィこと聞いたな』

 

 その反応で自分の質問が若干不味かったと察したらしく、フリードはバツの悪そうな顔をしていた。まだ会って一日と経っていないアーシアだが、何となくそれが珍しい顔なのは分かる。そういう顔をしなさそうというわけではなく、そういう顔に至らなさそうなのだ。

 フリードは察しが良い。頭の回転も非常に速い。だから人にとっての地雷を踏まないし、踏むとしても、それは敢えて踏む時ぐらい。数時間会話した程度だが、アーシアは彼をそういう人だと思っていた。

 今回の質問は地雷というほどのモノはない。解答しにくいモノだったのも間違いないのだが、そこに嫌がらせをしようという感情はなかった。まるで宗教に馴染み深くない人間が、単純に興味を抱いただけのような、何とも純粋無垢な疑問。

 もし悪気が混じっていたのなら、アーシアももう少し敵意を持って反応出来ただろう。しかし、フリードの問いにそのような意図はなかった。純粋に疑問に思ったから。本当にそれだけしか感じ取れなかったからこそ、彼女も曖昧な態度で曖昧な返事をしてしまったのだ。

 

『いえ、そんなことは』

 

 仕方がない。アーシアがそういう意図で首を振ったことで、フリードの顔はいつもの仏頂面に戻ることになった。

 

「……ラインが分かンねェな、こォいうのは」

 

 それと同時に呟かれたのは、英語混じりの日本語。英語は多少分かるが、日本語がほぼ分からないアーシアには、その言葉の意味を解すことは出来ない。何となく分かるのは、悪口や罵倒をしているのではなく、自嘲に近い言葉なのだということ。それぐらいは、フリードの表情を見れば理解出来た。そしてそれを理解出来たことが、妙に嬉しかった。

 

『……悪魔ってのが分かンねェ。どういう定義で定まってンだ』

 

 暫くの沈黙を挟んだ後、フリードは再び疑問を口に出した。また何とも解答しづらい内容だったが、前のモノよりは数倍答え易い。しかし、それはあくまでも触れ易さのこと。難易度だけなら難しくなっているのだから、やはりアーシアにも難しかった。

 人間と悪魔を分類する方法は、アーシアも多少は知っている。しかし、定義と言われると難しいところがある。蝙蝠のような翼があるとか、魔力を持っているとか。そういう話はいくつか出せるが、定義というのはどうにも難しいところがある。

 

『悪魔っていうのは、あの……怖くて、でも怖くなくって……』

 

 そもそも、悪魔とは何か。何人もの人間を快楽の為に殺害している人間と、菜食主義者の悪魔。どちらが悪魔かと問われたら、前者と答える人間が多いのではないだろうか。悪魔より悪魔のような人間、天使より天使のような人間。そういった他人から見た評価もあれば、自分は天使だという自己評価を下す者もいる。それ以前に自分は何者であるか。

 そんな類の哲学的な話が脳内で始まってしまい、アーシアの頭からは煙が出始めていた。堂々巡りに陥り、段々と思考が纏まらなくなっていく。何とも恐ろしい行き詰まりに遭遇し、目をグルグルと回し始める一歩手前。

 

『落ち着け』

『は、はいっ』

 

 呆れた顔をしたフリードの手刀によって、彼女は意識を呼び戻された。

 

『別の質問だ。今のは忘れろ』

 

 申し訳なさと共に、コクコクと頷く。

 

『悪魔、天使、堕天使。あの時遭遇した化け物が悪魔だってンなら、残り二つも実在してンのか?』

 

 そんなことを真面目な声色で問い掛けられては、流石のアーシアも僅かばかりに吹き出してしまうことになった。

 

『……もォイイ。大体分かった』

『す、すみません』

 

 フリードからのジト目を浴びせられても、アーシアの笑みは収まらない。流石に笑い声は出していないが、残念ながらニヤと緩む頬が隠せていなかった。

 

『私達が会ったのは、多分はぐれ悪魔です。詳しくは知りませんけど、理性を失ってしまった悪魔の成れの果てだとか』

 

 それはあくまでも多分。アーシアに確証はない。実際に遭遇したのは昨日の一件が初めてであり、情報もほぼ悪魔祓いの青年達の話から得たモノ。姿形からして合っているという確信はあったが、肝心の証拠はなかった。

 だが、そんな曖昧な情報でもフリードは文句の一つも溢さず、視線を僅かに下に向け、聞き入っている様子だった。メモを取っている様子はなかったが、彼にメモを取る必要はないのだろうと判断し、少女は続ける。

 

『普通の悪魔は、基本的に私達人間と変わらない姿形をしています』

 

 それに関しては、アーシアも実物を見たことがあるので断言出来た。

 

『他の奴らはどォなってる』

『レイナーレさんのような堕天使の方々はもちろん、天使様達も翼に違いがあるだけで、人間と同じような姿をしていますよ。どちらも光の力を持っていて、悪魔祓いの人達はその光の力を借りて戦っているらしいです』

『……教会にいる堕天使?』

 

 疑問符を浮かべ、少年は更に視線を下げる。彼が抱いたであろう違和感が掴み取れない上、続きを話して良いものかと停止するアーシア。それを察したのか、彼はすぐに顔を上げて続きを促した。

 

『悪魔と他の奴らの違いはどォなってンだ』

『悪魔の方達が持っているのは……魔力?だったはずです。他にも色々とあるはずですけど、詳しくは……』

 

 尻すぼみな声に反比例するように、二人の間でギュウと音が鳴った。フリードは眉一つ動かさず、アーシアは背もたれから出している顔を耳まで赤くする。音の主がどちらなのかは、言葉にせずとも明白だった。

 

『ご、ごめんなさい』

 

 謝る必要などないのに、謝ってしまうのは彼女の性質だろう。元々引き留めたのはフリードであるというのに、責めることもせず、ただペコペコと頭を下げていた。

 

『……さっさと食え』

 

 再びバツが悪そうな顔をした彼の言葉にコクリと頷いて、少女は辺りを見渡す。昨晩囲った食卓は少し遠く、祭壇付近の長椅子も軒並み壊れかけ。最も近い座席はボロボロのソファだった。

 

『お隣、良いですか?』

 

 彼女の問い掛けに対し、白い少年はうんともすんとも言わない。ただ無言で缶コーヒーを開け、中身を口に含んでいる。

 それを了承と受け取り、アーシアはクッション性の欠片もないソファの上、且つフリードの隣に腰を下ろした。そして袋の口を広げ、ジュースとパンを一つずつ取り出す。僅かに書かれているアルファベットの情報が正しいのであれば、それらはリンゴジュースとクリームパン。フリードはまず口にしなさそうだが、アーシアには嬉しい二品。

 

『フリードさん』

 

 顔は向かない。いつの間にか開かれていた聖書の方に、彼の顔の向きは固定されている。しかし、赤い瞳だけは彼女の方を向いていた。ジロリと向けられたそれは若干怖いものだが、アーシアは物怖じすることなく、ニッコリと微笑んだ。

 

『ありがとうございます。私今、とっても楽しいです』

『……あァそォ』

 

 ぶっきらぼうな返事にクスリと笑い声を漏らし、少女は包装から半分ほど飛び出したパンに齧り付いた。

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