レイナーレ達の計画において、重要なモノは二つ。それは儀式を行う為の場所と、神器を抜き取る対象であるアーシア・アルジェントだ。しかし、前者は代えが利く。必要不可欠なモノは後者だけだ。
だが、それが手元にない。目に見える場所にあるというのに、手を伸ばすと空を切ってしまう。そんな状態が三日ほど続いていた。その原因は言わずもがな。毎度毎度タイミングを見計らったように、フリード・セルゼンがアーシアの近くを彷徨いているせいだ。
だが、彼が彼女に付き纏っている様子はない。確かに堕天使達が動こうとした時にフラリと現れることはあるが、むしろ普段は少女の方が付き纏っているようにも思えるぐらいだった。どちらにしても、彼らの行動は堕天使達にとって都合が悪いことに変わりはない。では、どうするか。
二人一緒にいられると都合が悪いのだから、引き離せば良い。そう考えるのは自然な話であり、ドーナシークも当然その案に賛同した。フリードという男が鼻についていたこともあり、彼はカラワーナと共にフリードを引き離して押し留める係に。レイナーレとミッテルトはそれと並行してアーシアを確保し、儀式を進める。シンプルで素直な作戦ではあるが、相手は単なる人間二人なのだから、特に綿密な計画を組む必要はないだろう。それが堕天使三人の意見だった。ただ一人、レイナーレだけは不安げな表情をしていたものの、ドーナシークは気にも留めず、予定通りに行動を開始した。
「来たか」
二人がフリードを呼び出した場所は、教会から少しばかり離れた空き地だった。何かが建っていた形跡はあるものの、それが何だったかは分からないぐらい、朽ち果ててしまった空間。そこで二人の堕天使は翼をはためかせ、彼がやって来るのを待っていた。
呼び出す理由は、計画についての相談というモノ。当然、でっち上げたモノではある。しかし、理由もなしに呼び出すよりは余程良い。
「ええ。そうみたい」
月も見えない夜であろうと、静かであれば音は響く。忍ぶ気配の一切ない、不用心な足音。ザッザッと。一歩、また一歩と彼らの元に近づいてくる。
「ンで、顔もろくに合わせたことねェオマエらが、わざわざ俺に何の用だ?」
声と共に暗闇から現れたフリード・セルゼンは、いつも通りの祭服を身に纏い、いつも以上に不機嫌そうな面持ちだった。既に勘づいているようではあったが、そもそもの目的はアーシアと少年を引き離すこと。この時点で計画は半分以上成功しているが、最低限引き留める必要もある。その方法は何種類かあるが、最も簡単なのは殺してしまうことだろう。
「何の用も何も、伝えた通りだ。話を聞きたいだけだと言っただろう?」
「ああ、貴様の動きが怪しかったのでな」
何とも嘘臭いセリフだったが、それについて特に言及することなく、少年はゆっくりと首を振る。
「怪しいってンなら、オマエらも中々だぜ?オマエはともかく」
紳士のような出立ちのドーナシークと異なり、子供の前に出るのは憚られる格好をしているカラワーナ。赤い瞳が向けられたのは、やはり女の方だった。
「オマエの格好なンざ、痴女同然じゃねェか。服の着方も知らねェなら、レイナーレにでも教わったらどォだ?控えめに言っても、センス終わってンぞ」
分かりやすい挑発だった。センス云々が事実か否かはともかく、確かに常人とは異なるセンスを持っている。それは同僚であるドーナシークも否定はできない。見方によれば、二人とも不審者のような格好ではある。しかし、ドーナシークは単なる不審者。カラワーナの格好はかなりレベルの高い変質者である。フリードの言葉は間違いなかった。
「人間風情が」
その言葉で意気消沈するなら、カラワーナは計画に加担していなかっただろう。相手が上位の存在ならば、表面上だけかもしれないが、そうなっていた可能性はある。しかし、彼女の目の前に立っている少年は、単なる人間である上に、何処の馬の骨とも分からないはぐれ悪魔祓いだ。敵対勢力である天使の元部下で、何の力も持たない矮小な人間。そんな存在に自分のセンスを貶されて、彼女は額に青筋を立てていた。
「堕天使様がそンなに偉いか?」
偉いに決まっている。そう答える下級堕天使は多いだろう。カラワーナ達も口には出さなかったが、内心ではそう思っていた。一部の神器を持っている人間や、聖剣や魔剣のような特殊な武具に選ばれた人間ならともかく、大抵の人間は堕天使に及ばない存在だ。彼女達がこれまで殺してきた人間も、神器は持っていても未覚醒であったり、ちょっとした能力者のようになったりしていた程度。
そういった長年の偏見に加えて、彼女達の立場にも原因がある。下級堕天使。つまり、彼女達は堕天使の中でも下層に位置している。カラワーナ達にとって見下せる存在というのは、弱点をつける上に明確に敵対している悪魔、そして人間ぐらいしかいないのだ。
「まァ、そォ思うのも無理はねェな」
嘲るような短い笑いを漏らし、フリードは両手をバッと広げた。そんな無防備な彼に向け、一本の槍が放たれる。その槍の主は、既に怒り心頭のカラワーナ。ドーナシークも既に槍は作り終えていたものの、直接貶されていた彼女の方が、ほんの少しだけ放つのが先だった。
文字通りの一番槍を奪われるも、ドーナシークもすぐさま続く。フリードの体勢では避けられない。一つは捌けたとしても、間髪入れずにやって来る二本目は捌くことは不可能。そう思わざるを得ない程度の差を作り、闇夜を走る二筋の槍。その速度は強肩のプロ野球選手より、数倍速いだろうか。
そんな速度の槍が二本放たれて、対処できる人間はどれぐらいいるだろう。動体視力と反射神経、その両方が相当優れた人間だったり、何らかの神器や武術をそれなりのレベルまで鍛えた人間だったり。それなりにはいるのかもしれないが、フリード・セルゼンがその枠組みに入るかは微妙なラインだ。
はぐれ悪魔祓いであり、その能力値は確かにそこらの人間よりは高い。だが、悪魔祓いの上位層と張り合えるかと言われれば、首を捻る人間が大多数を占める。少し強い悪魔が相手ならば、負ける可能性だって十分にある。その程度の人間。その程度の実力。堕天使達の認識としては、それぐらいのモノだった。
「どォした?」
今までは。
「何が、起こった」
ドーナシークの視線は、完全にフリードのいる場所とは真逆の方に向いていた。何故なら、彼に投げたはずの槍がそこにあったからだ。しかし、それらは転送されたわけではない。確かにフリードの身体に直撃したのだが、その瞬間に跳ね返ったのである。
もし、自分達の飛んでいる位置がズレていたら。もし、跳ね返る角度が少しでも違っていたら。自前の真っ黒な翼に穴が空く程度なら、まだマシと言える。最悪の場合は額を貫かれていたかもしれない。今回は人払いの為に張っていた結界が肩代わりしていたが、次はないかもしれない。
比較的冷静なドーナシークは、意味不明な挙動を見せた槍に怯え、それ以上にフリード・セルゼンという男に恐怖した。解析不能ではなかったとしても、現時点では取っ掛かりも掴めないのだ。彼が何かしたということが分かるだけ。いや、分かるからこそ。ドーナシークは地上で今も佇んでいる少年に対し、得体の知れないモノを相手取るという、新種の恐怖心を抱いていた。
「貴様、何を」
「何も」
興味なさげにカラワーナの言葉を遮ったかと思えば、彼は口を三日月のように裂いた。
「なァオイ、まさか今ので終わりってことはねェよな。こンな夜中に呼び出して、意味分かンねェ因縁つけたかと思ったら、今度は突然一発勝負の棒投げ競争ってか?ンな下らねェ遊びがしてェなら、そこらのガキでも誘ったらどォだ」
ポケットに手を突っ込み、再び響く嘲笑。それは間違いなく、格上の振る舞いだった。人を馬鹿にするだけの実力があり、敵から視線を外して笑えるだけの余裕がある。
見下している人間相手にたじろぎ、そんな姿を晒してしまった自分を恥じた。その原因となった真っ白な少年に怒りを抱き、カラワーナは槍を続け様に放つ。先程よりも速度を得た槍を、間髪入れずに何度も何度も。
「四日前ならどォにかなってたかもな」
しかし、その全ては届かない。一本たりとも少年の体を貫くことなく、彼女の体の横を通り抜けていく。その度に冷静さを失っていき、投擲が乱雑になっていく。矮小な存在であるはずの人間が、何らかの能力で自分の攻撃を全て防いでいるという事実に、カラワーナも同僚と同様の恐怖を抱かされていた。
「意味の分からないことを!」
だが、だからといって今更逃げられるわけがなかった。フリード・セルゼンは神器保有者ではない。神器を保有しているならば、堕天使が属する組織のセンサーに感知されているはず。そうではないのだから、槍を跳ね返しているのは何らかの種がある。種があるならば、それを崩すことも可能なはず。彼女がそう考えてしまうのも、無理のない話である。
その仕掛けを看破する為だけに、自身の光力を振るう。上から、横から、後方から。二人で少年の周囲を飛び回り、視界から外れたタイミングで光の槍を放っていく。
「バカの一つ覚えって言葉があンだけどよォ、今のオマエらにはピッタリだと思わねェか?」
それでも、やはり攻撃は通らない。既に二十を超える槍が放たれたにも拘らず、それらは軒並み弾き返されていた。本来なら遥か彼方へ飛んでいく軌道を描いていた槍達は、結界の壁に阻まれ、最終的に地面に転がったり、突き刺さったりしている。
大昔の戦場のような有り様だが、此度の戦場に立っているのはたった一人。羽ばたいているのが二人。優勢であるべきなのは、本来は二人の方だろう。しかし、彼らの顔色は酷いモノだ。傷は一つたりともない。空気にも何一つ異変はない。ただ、消耗が激しいのだ。
「どォしたよ」
形容し難い狂気的な笑い声を響かせるのは、二人と同じように傷一つない少年神父。だが、元々真っ白な顔色には何一つ変わりがない。彼はその特徴的な目を、ゆっくりと二人へ向けた。
「そンなに槍投げがしてェなら、競技場でも乗っ取った方がイインじゃねェの。正式な記録がなきゃ、選考会にも行けねェだろ」
現在進行形で彼の周囲を縦横無尽に飛び回り、不定期に槍を投げてくる二人。怯えるべき場面であるというのに、彼は人を食ったような態度のままだった。次々に飛来する槍を避けようともせず、手をポケットから出す素振りも見せない。
それでも槍は届かないのだから、二人の焦りは募る一方。時間稼ぎ自体はできているが、引き際も分からないという状態。殺せば終わりだというのに、目の前のヒョロヒョロした少年すら殺せないというのが、彼らのプライドを少しずつ傷つけていく。
「オマエら、チョロチョロ動くンじゃねェよ」
フリードが片頬を上げた瞬間、肉が潰れる音が空間に響いた。僅かに遅れて、カラワーナの身体に激痛が走る。背中の翼から血が吹き出し、衝撃と痛みでバランスを喪失してしまった堕天使は、溺れる人間のように落下していく。
「脳天が狙えねェだろォが」
口ではそう言っているものの、そんなことはなさそうだった。そこには確かに余裕が存在していて、少年の整った顔は楽しそうに歪んでいる。
いつでもできるけど、してないだけだよ。ドーナシークには、フリードがそう言っているようにも思えた。考え過ぎかもしれなかったとしても、彼には既にその思考を止める術がない。
「やっぱりよォ、ブルに当てた方が見栄えがイイだろ?」
能力が分からない。突破口が見当たらない。同僚は既に冷静さを失っていて、片方の翼も半ばに大穴が空けられた。他に自分達に切れる手札はなく、相手は未だに余裕綽々。
「どうすれば……どうすればいい」
逃げるという選択肢自体は残っている。それで計画が成功するかどうかはさておき、フリード・セルゼンに殺されるという可能性は低くなるだろう。焦る頭では他の選択肢を作ることもできず、ドーナシークは空中で静止する。カチカチと二つの間でカーソルが動き回るが、クリックする為の決定打はない。ただ茫然と羽ばたき続け、地面に落ちたカラワーナの姿を視界に捉え、彼女の絶叫を耳に入れるだけ。
堕天使の体が屈強であるおかげで、カラワーナは落下してもすぐに立ち上がることができた。だが、貫かれた方の翼は機能を失っている。暫くは自由に飛ぶこともできない状態だ。
槍を杖代わりに地面に突き立て、痛む足を伸ばす。視線を少し後ろに向ければ、重力に従ってダラダラと垂れていく血と、それによって形成された赤黒い血溜まりが目に入ってくる。荒事に慣れている堕天使であっても、そんなモノを見て気分が良いわけがない。その傷をつけたのが格下の人間であることも考えてしまうと、彼女の中にあった不快感は更に酷く濁っていった。
「貴様、よくも!」
杖代わりの槍を引き抜き、ブンと振るう。それなりに様にはなっているが、綺麗な構えではない。普通の人間でも避けられそうな形なのだが、そんなことは少年もカラワーナも知らない。ただ相対し、ほんの一瞬だけ睨み合う。
「あ?まだやンのか?まァイイぜ、来るならどォぞゴジユーに」
残された一人の中に浮かんでいた、逃亡の選択肢はたった今潰れた。カラワーナは痛みを掻き消す為に叫び、少年に肉薄する。怒りで半ばブレーキの壊れた脚による加速と、元々の身体能力の高さ。その二つが生み出すのは、並みのアスリートを優に超える速度による接近だった。
少年はそれに反応することもできず、目を僅かに見開くのみ。両手は相変わらずポケットに突っ込んだままで、武器を取り出せる状況ではない。カラワーナの得る情報はそれだけで十分。両手に携えた光の槍を、少年の白い喉元に突き立てるだけ。たったそれだけの行動で、戦いは終了するのだから。
「それならまだ、遠投の方がマシだったンじゃねェか?」
だが、勝利の叫びは響かない。その代わり、血を吐くはずのフリードの声が鮮明に響く。何が起こったか、カラワーナは咄嗟に理解することができなかった。次第に鈍い音が体の中を通り抜け、寒気がする類の痛みが腕から登ってくる。それが絶叫を促す直前、彼女の双眸は自分の腕の有り様を捉えた。
「カラワーナ!」
ドーナシークの叫びなど、彼女に聞く余裕はない。いくら人より頑丈な堕天使であっても、両腕が見るも無惨な状態になってしまっては、そこらの女子供と大して変わらないのだ。百戦錬磨の猛者であれば、苦悶の表情を浮かべながらでも、どうにかして耐えられたかもしれない。しかし、彼女はそんな経験は培っていない程度の堕天使。耐えろというのは無理な話だ。
「オイオイ、お仲間の腕へし折られたってのに、飛んでるだけか?カラスでももう少し仲間思いなンじゃねェの?」
分かりやすい挑発に加え、周囲に響き渡る不快な笑い。それだけならまだしも、両腕を複雑に折られてのたうち回る同僚の姿もある。そんな状況下に置かれてしまえば、紳士らしい振る舞いを心掛けていたドーナシークも、流石に激昂する他なかった。
「フリードォ!」
「あァ?」
ただ、威勢はそこで潰えた。睨まれたわけではない。
「俺が悪りィみてェな態度取ってンじゃねェよ」
道端の石ころでも見るような、興味の欠片もなさそうな視線。ドーナシーク達が普段人間に向けている類のモノ。敵としてすら認識していない相手に対する、無が込められたソレを浴びせられてしまうと、彼の思考は一周回って冷めていった。
「原因はオマエらだろォが。被害者ヅラがしてェなら、当たり屋にでも頭下げろ。今よりはマシになるぜ、絶対」
いつの間にか、フリードの手の中には光の槍があった。何処から取ってきたのか。そんな疑問をドーナシークが抱いたのも束の間、ほんの少し前に響いたモノと同質のソレが響いた。
「調子に乗った末路だなァ」
ベチャリと生々しい音が鳴り、地面に落ちた衝撃のせいで、肺の空気が吐き出された。ほんの一瞬だけ息が止まり、呼吸の再開と同時に咳き込む。一つ二つと咳をする度、翼から流れる血が、彼のスーツを侵食していった。
「アイツとペアルックになるンなら、腕、イっとくか?」
一歩、また一歩。土のついた顔を上げた彼には、迫ってくる少年が化け物にしか見えなかった。人の形を保っているというだけ。人と同じ世界にいるというだけ。少し皮を剥いでみれば、異形よりも異形のようなモノが現れた。
自分がどうなるのか。ドーナシークには想像がつかない。ただ一つ確実なことは、時間稼ぎは確実に成功したということ。自分の命があるかどうか分からない以上、出世のことは頭の中から消えていた。だが、目の前の怪物が苦しむであろうことは確定したのだ。一矢報いたことを理解し、彼は強がり混じりの笑い声を上げた。とても紳士とは思えない、フリードが行なっていたのと同じような、嘲りを込めた笑い声を。
「何笑ってンだ、気持ち悪りィ」
「調子に乗っていたのはお前だ、フリード」
地面に座り直し、真っ白な少年に向けて指を向ける。肉体的な争いでは勝てない。ならば、精神的にでも痛めつけてやろう。計画が露呈することなど、知ったことではない。堕天使としてのプライドを傷つけられたのだから、最低限のやり返しぐらいはしてやらなければならない。その一心で言葉を紡ぎ、一つ一つ叩きつけるように吐き出していく。
「お、お前が守ろうとしていたあの娘は、そろそろ死んでいる頃合いだろうな」
言ってやった。ドーナシークは再び笑い声を上げるものの、目の前の少年は動こうともしない。段々と笑いは渇いていき、笑みによって挟まっていた視界が広がっていく。
「何言ってンだ」
彼は突っ立っていた。半ばから折れた光の槍をクルクルと回しながら、普段通りの仏頂面で。
「あの娘が!アーシア・アルジェントが死ぬんだぞ!分かってるのか!」
大声で怒鳴りつけられても、彼の反応は変わらない。つまらない授業の最中にペン回しをするように、槍の残骸を指先で回していた。視線はドーナシークには向いておらず、かといってカラワーナにも向いていない。
興味が湧かない。何を言っているのか、サッパリ分からない。そんな状態ですらなく、眼中にないという状態。折角冷静になっていたはずの頭から、ブチリと何かがキレる音がした。
「お前がノコノコとこの場所に現れた時点で、計画はほぼ成功しているんだよ!俺達を甚振ったところで、それは変わらない!良い気味だ、フリード・セルゼン。お前ができるのは人殺しだけなんだよ!」
ドーナシークが声を張り上げると、少年はキヒケヒと堪えるような笑いを漏らし始めた。今の彼には、それが単なる笑い声には思えない。怨霊の嘆きよりも、邪龍の咆哮よりも。この世の何よりも恐ろしい音に思えてしまった。
「解説、どォもアリガトウ」
獰猛な肉食獣を彷彿とさせる、残虐極まりない笑み。たった数分間の交錯で積み重ねられた恐怖によって、ドーナシークは指を動かすことすらできなかった。それでも、問い掛けずにはいられない。目の前の化け物が、どうして余裕を見せているのか。震える唇を無理矢理押さえ込み、疑問を吐き出す。
「……何故、笑っている」
少年はため息を吐き、槍の残骸を遠くに放り投げた。カラカラと虚しい音が響き、それに合わせて、彼は腰を曲げる。座り込んでいるドーナシークを、僅かに見下ろすような姿勢だった。
「何故も何も、ンな夢物語なンざ大声で語られても、笑うしかねェだろ。違うか?」
「ゆ、め?」
言葉の意図が理解できず、疑問符だらけの言葉を吐き出す。少年の質問に答える余裕はない。答えようとしても、思考が纏まらなかった。
「オマエ、俺がそンなにバカだと思ってンのか?ガキでも分かるっつーか、察せるレベルだろォが。羽だけじゃなくて、ココまでカラスなンじゃねェ……いや、カラスは頭がイインだったな」
自分の頭を指先でコツコツと叩き、笑う真っ白な少年。バカにされているのは分かっていても、ドーナシークは何もしなかった。できることがないというのが、最も正しいだろうか。
槍を振ったとしても、カラワーナの二の舞。逃げる為の機動力は奪われ、精神的に甚振ろうにも、渾身の一撃ですら効果がない。唾を吐きかけたとしても、自分の寿命を縮めるだけ。何をやったとしても、状況が好転するビジョンが見えなかったのだ。
「そもそも、どォして俺がアイツから離れてココに来たと思ってンだよ」
「まさか、レイナーレ達を先に」
焦ったドーナシークは立ちあがろうとするも、何故かフリードの方から来た風に煽られ、尻餅をつかされた。そこ以外に吹いている様子もなく、まるで少年の体から発生したような風。まとまらない頭でも、それが妙なことは分かる。ドーナシークは目を白黒させていた。
そんな堕天使の姿に呆れたように息を吐き、少年はやれやれと言わんばかりに首を振る。そして彼にスッと指を向け、トンボを相手にするようにクルクルと回し始めた。
「オマエらが求めてンのは、アルジェントの神器。神器の仕組みは知らねェが、殺して奪えンなら、とっとと殺して終わりにしてる。俺ならそォする」
堕天使は何も語らず、沈黙を続ける。否定も肯定もしない彼に肩透かしを食らいながらも、沈黙を肯定と受け取り、彼もまた続けた。
「オマエらが地下に用意してたアレ、面白れェ造りだったな。機材も中身も知らねェモンばっかりだったが、何が目的のモンかはすぐに分かった」
ビクリと肩を震わせ、ドーナシークは瞳を逸らした。
「アレとアイツが根幹なンだよなァ?つーか、根幹以外には要らねェか。神器を受け取る体が要るぐらいだ。まァ、そこらへんはどォでもイイ。問題は俺の体一つで、アイツが安全なまま、オマエら全員潰す方法だ。そこにオマエらからの誘いがあった。アイツは代えが利かねェし、アレも弄り終わったのはココ数日」
どうして筒抜けなのか。それを問い掛けた瞬間、答え合わせが終了してしまう。既に相手がほとんど全てを知っていたとしても、情報は少しでも隠しておかなければならない。その一心で彼は口を噤んだものの、すぐにあんぐりと開けられることになった。
「瓦解させンなら、手っ取り早い方がイイ。俺が懇切丁寧に中の回路ぶっ壊してやったンだ。ココと並行してやるなンざ無理な話だろ?」
全てが手のひらの上だった。それを理解するのに、時間など必要ない。失敗する計画の為に体を張ったという事実に、怒りさえ湧いてこなかった。恐怖心すら消え失せ、自嘲と後悔ばかりが次々と湧いて出てくる。
フリード・セルゼンと自分達では、そもそも立っている舞台が違っていた。足止めをすることすら、呼び止めることすら烏滸がましい。自分達と彼の間に存在する、絶対的と呼んでも差し支えない格の違い。それを実感すると同時に、選択を間違えたということを理解し、レイナーレの不安そうな顔の原因を理解させられた。
「そう、だな」
教会の状況を理解したのも束の間、白い手がドーナシークの眼前まで迫ってきていた。しかし、彼はもう避けられる体勢には戻れなかった。翼が無事ならば、無理矢理にでも避けられたかもしれない。カラワーナが倒れていなければ、二人で撹乱して逃げれたかもしれない。そもそもの戦力差を見誤っていなければ、もう少し違う手を取っていたかもしれない。
そんな沢山のイフが走馬灯のように頭を駆け巡るが、それらはあくまでもイフ。今更、過去が覆ることはない。
「や、やめ」
「遅せェよ」
ドーナシークが目にしたモノは二つ。一つは迫ってくる真っ白な手のひら。そして、その指と指の間から細切れで覗く悪魔のような笑み。
「お前、お前は……何なんだ」
抱いた疑問を口に出す。震える喉を必死に抑え、どうにかこうにか最後まで。刻一刻と手は迫ってきており、もはや顔を逸らして逃れる幅も存在していない。ドーナシークの命運は、完全に少年の手に委ねられていた。
「オマエらが散々バカにしてる人間だぜ?堕天使サン」
笑みなのか何なのか分からない、酷く引き攣った顔を晒しながら、彼は意識を失った。少年の呟きは届かない。仮に届いていたとしても、止める気力も能力もなかったが。
「行くか」
地面が割れ、沈む。舞い上がった土煙が風に流され終わった時、そこにフリード・セルゼンの姿はなかった。呻き声を上げ続けるボロボロの女が一人と、意識を失った男が一人。そして大量の槍が転がっていた。