計画が頓挫するとすれば、ドーナシークがしくじった時。フリード・セルゼンという不安要素を引き剥がした以上、レイナーレの中ではそういう認識しかなかった。幸か不幸か、アーシアの警戒心はフリードによって限りなくゼロに近くなっており、装置の設置も順調に進んでいたのだから。
「これはココで良いんすよね?」
「ええ、後はそれをお願い」
「分かったっす」
だが、いざ実行直前の試運転という段階で、装置が機能しない。何故なのかと中を調べてみれば、回路が軒並み破壊されていた。そんなことをする輩など、彼女の脳内には一人しかいない。だが、その存在は人間のはずなのだ。堕天使達の科学力を使った最新鋭の機材を的確に破壊するなど、ほぼ不可能なはず。にも拘らず、彼は丁寧に一箇所ずつ破壊していたのである。
「少し足りないわね。取りに戻るわよ」
「はいっす」
残りのパーツを取りに行く為、二人は汚れた手をパチパチと叩きながら、埃っぽい地下室を出た。ステンドグラスが月明かりを通しているおかげで、夜でも教会は比較的明るい。それ故、視界は簡単に確保できる。
「よォ、お困りか?」
その中でも特に良く見えるモノがあるとすれば、月明かりが良く似合う、真っ白な少年だろうか。
「フリード……」
「フリード!大変なんすよ!」
大急ぎで駆け寄っていくミッテルトと、突っ立っている少年を睨みつけるレイナーレ。二人の間にあった違いは、彼をフリード・セルゼンだと本気で思っているか否か。それだけである。
そうでなければ、邪魔だからと引き留められていたはずのフリードに、ミッテルトが駆け寄って行くはずもない。確かに邪魔ではあるが、根本には彼との仲間意識があるからこそ、彼女は近づいたのだ。
「どォした」
「アーシアの神器を……ってコレ、フリードに言って良いんすか?」
ミッテルトは慌てて自らの口を塞ぎ、レイナーレに問い掛ける。しかしながら、彼女の顔はミッテルトの方など一切見ていなかった。敵意の込められた眼差しで、目の前に立っているフリードのことを見つめている。
「もォ隠す必要もねェだろ」
「どういうことっすか?」
「……地下の機材、犯人はコイツよ」
「え!?」
本当に気づいていなかったらしく、ミッテルトはパクパクと口を金魚のようにしながら、フリードとレイナーレの間で視線を行き来させ始めた。一方には呆れたような顔で見られ、もう一方には軽く殺意を向けられる。
人よりも長く生きている上、普通よりも戦場の経験が多い堕天使だからこそ、ミッテルトは後者に怯えていた。正直なところ、上司且つ友人のような存在のレイナーレの視線など、もはや何とも思わない。結果、短く悲鳴を上げて、仰け反るような姿勢で停止。敵を目の前に行う行為としては下策も下策だが、それを咎める人間はいなかった。
「流石リーダー。ちっとは頭も回るンだな」
「貴方に褒められるとはね。ありがとう」
両者、一切心はこもっていない。上辺だけの言葉を交わし、視線を合わせる。普通ならば、相手の一挙手一投足を見逃さないようにする状況下。しかしながら、それをしているのはレイナーレだけだった。白い少年は警戒している様子などなく、視線も一応合わせているだけ。臨戦態勢と呼べる状態ではなく、拳を握ってもいない。
「あの子に情でも湧いたのかしら」
「そォかもな」
バカにされている。それ自体は感じ取れたとしても、レイナーレに残された選択肢はほぼなかった。無理矢理アーシアの神器を奪おうにも、奪う為の装置は既に使用不能。アーシアを奪取して逃げ去るにしても、目の前の男を押し退けるしかない。
「裏切ったんすね!」
「そもそも協力してたつもりはねェ」
「仲間だと思ってたっす」
「目薬が要るンじゃねェか?」
睨みつけてきたのがミッテルトだからといって、彼の態度は変わらない。確かな敵意は込められているが、同格やそれ以上を相手にするという雰囲気ではない。
貧相なボキャブラリーを用いて罵詈雑言を吐く子供。大事な話の最中に飛び付いてきた羽虫。車に乗っている最中に轢いた空き缶。例えるならば、きっとその程度。本来は逆の立場であるはずなのに、レイナーレは文句を言うことすら出来なかった。
「邪魔をするって言うなら」
だが、口を開いた。プライドが許せなかった。堕天使であるという自負と、目の前の男を殺せば全て上手くいくという希望。それらが存在している以上、至高の堕天使を目指す彼女が、後退るわけにはいかないのだ。
「どォすンだ?」
自身を見下す少年をキッと睨みつけ、怖気付くことなく絞り出す。部下が見下されているという、義理人情に溢れる理由ではない。ただ、自分の目的を果たす為に。自分が愛してもらう為に。
「殺すだけよ」
他の堕天使よりも僅かに強い光力を使い、左手の中に形成された槍。距離を取る為にそれを大きく振るい、同時に黒い翼を羽ばたかせる。それで体勢の一つでも崩せれば良かったが、少年は意に介していなかった。風は直撃しているにも拘らず、眉一つ動かさない。その様子を不気味と思う余裕は、今の彼女にはなかった。そのまま黒い羽根を数本散らしながら、フリードの手が届かないであろう空中に舞い上がっていく。
それとほぼ同じタイミングで、彼の近くにいたミッテルトも離脱した。だが、その動きはレイナーレのように綺麗なモノではなかった。同僚の起こした風に煽られた上、慌てて展開した翼のせいで余計にバランスを崩し、更に何故かフリードの方から流れてきた風のせいで、そのままゴロゴロと埃っぽい床を転がる始末。愛らしいゴスロリ衣装が汚れたことに腹を立てつつ、彼女は物陰から機を伺うことにした。
「大口叩くじゃねェか」
「その威勢の良さ、いつまで保つのかしらね」
「俺がどォしてこの場所にいるか、分かってねェわけじゃねェよな」
少年の言葉が理解できないほど、レイナーレは察しが悪くない。彼は二人によって足止めをされていた。だが、無傷の状態で目の前に立っている。その事実によって分かることは、堕天使二人を相手にして余裕があったということ。逃げ切ったのか、倒してしまったのか。未だに二人の姿がないことを考えれば、後者の方が可能性は高いのだ。増援は期待できない状況下で、実力未知数の相手を二人で仕留める。難易度は高いが、やるしかなかった。
「分かってるわよ」
「なら、仇討ちか?」
バカにするような素振りを見せる少年に向け、握っていた槍の穂先を向ける。それで怯える人間なら、どれだけやり易かったか。少し前に遊び混じりで殺した少年のようなら、どれだけ楽に殺せたか。
そんな下らないことを一瞬だけ想像し、握り締めたソレを無造作に放つ。普通なら速度の出る構えではなくとも、堕天使の膂力を用いれば、人間を殺すには十分な速度を伴う槍にはなる。
「野望の達成に邪魔だから。理由はそれだけで良いでしょう?」
しかし、それが彼を貫くことはなかった。槍の造りに問題はない。慣れ親しんだ能力を使い、一番殺し易い形にしたのだ。レイナーレには、もはや確認というプロセスが必要ないぐらい、身体に染みついた動きだった。
なら、投げた場所が問題だったのか。答えは否。心臓の真上に寸分違わずとはいかないが、軌道は身体の正中線の上にあった。その線上なら、当たれば基本的に致命傷。最低値を叩き出したとしても、戦線離脱は確実の負傷は避けられない。そんなラインに絶対に当たる軌道だったというのに、槍は床の上で砕け散っている。だが、その直前の挙動は目に見えないほどではなかった。だからこそ、レイナーレは目を丸くするしかなかったのだ。
「何をしたの」
「何もしてねェよ。するまでもねェ」
その場に立ったまま、手足をピクリとも動かさず、瞬きの一つもすることなく。ただ、ニヤリと意地の悪そうな笑みを小さく作っただけ。目立った動きなどそれぐらいしかなかったが、それがトリガーだったとは、レイナーレには思えなかった。いや、彼女でなくとも思わないだろう。
「命賭けるレベルの望みなら、もォ少し考えて動くべきだったなァ」
言い終わるや否や、少年の白い手が振るわれた。その動きは、到底攻撃の為とは思えないモノだった。子供に向けてボールを軽く放るような、腰の入っていない下手投げの動き。しかし、そこから発生したのは、その動きに見合っていない破壊力を伴っていた。
「神器保持者でもないのに、凄い力ね。貴方を狙うべきだったかしら」
轟々。そんな音を発生させる、日常を過ごしていて、中々聞かないレベルの暴風。それがフリード・セルゼンの左手を起点として発生していた。しかも、空中にいるレイナーレに向けて。神器ならまだ理解できる事象だが、そうではないのは『神の子を見張る者』の技術で把握済み。であるからこそ、尚更気味は悪かったが。
けれど、そんな気持ちに思考を割く状況ではない。末端の堕天使とはいえ、彼女もそれなりに場数を踏んでいる。そもそもが無形で出出しが読めないこともあり、危なげなくとはいかないが、翼を操って風の弾丸を見事に避けた。
「タトゥー入りのインテリちゃンで良けりゃァ、紹介してやるぜ?堕天使が対象かは知らねェから、そっから先は自己責任だけどな」
腕を振るう。たったそれだけの動きから生み出される、極小の台風のような一撃。それが無尽蔵に発生する上、少年の表情に疲れはない。スタミナがあるような風貌ではないにも拘らず、何らかの異能を行使し続けている。その事実が、レイナーレのスタミナを余計に削っていく。
「まァ、アイツもオマエみてェに人を食い物にしよォとしてっから、気は合うンじゃねェの?あァ、そのカラスみてェな飾りは外していけよ?十中八九解剖されるからなァ」
「面白い冗談ね」
言い返しはしたものの、笑う余裕はなかった。言葉を交わしている最中ですら、彼からの攻撃は止む気配はない。何とか避け続けることはできているが、それがいつまで保つかも読めないのだ。ドンドンと減っていく体力に、未知の能力。焦りは少しずつ大きくなり、運動によって垂れてきた汗とは異なる種類の汗も、額をダラダラと流れ始めた。
「背中に手が届かねェってンなら、手伝ってやろォか?」
「余計なッ!?」
数秒前までと変わらないモーション。直前までと変わらない減らず口。何も変わっていないはずなのに、レイナーレに襲い掛かった弾丸は、それまでの数倍の規模だった。
「フィナーレは派手な方がイイだろ?」
避けられない。もはや口を開く余裕すらない。風であるが故に致命傷になることはなくとも、巻き込まれれば大きな隙になることは間違いない。地上に戻る選択肢自体はあったが、フリードを名乗っている男との邂逅を思い出せば、それが憚られるのは当然だ。レイナーレに残った選択肢は、風の直撃を受けること。その中で翼を使ってバランスを取り、その後の被害を最小限に留める。それが最善の策だった。
「換気扇にぶち込ンで、バードストライクにすりゃ良かったかァ?」
悪趣味な冗句を耳に入れながら、風に流されていく。抗うべきタイミングでは抵抗し、壁への激突などは避ける。羽が暴風によって毟られるのは腹立たしくとも、声を荒らげている暇はなかった。黒髪が顔に張り付き、巻き込まれてきたであろう本やガラクタに痣を作られていく。痛みに呻きつつも、小さな嵐が収まるまで抗い、流され、食らいついていく。
「案外しぶといンだな。アイツらとは大違いだ」
声の聞こえた方に槍を放つと同時に、吹き荒れていた嵐が止んだ。あまりに急なことでバランスを崩すものの、どうにか空中で姿勢を修正する。そして槍を放った方向を確認し、レイナーレは怪訝な顔をした。
「何処へ……」
槍は確かに突き刺さっていたが、白い少年の姿がないのだ。槍を大きく外したのかと思い、更に別の場所にも視線を巡らせるが、少年の姿は何処にもない。圧倒的に優位な状況で逃げたとは考えられず、レイナーレは困惑しつつ、首を彼方此方に回した。
「一体、何処に」
目に入る場所には、その痕跡さえ見当たらない。先程まで確かにいたはずなのに、足音の一つも響いてこない。もし接近しているのなら、一体全体彼は何処へ消えたのか。募っていく焦燥感を紛らわす為、槍を握り締める。いつでも振り抜けるよう、力を込めて。
「上っす!」
同僚の声が反響するも、それを掻き消すように凶悪な笑いが響いた。
「まさか」
見上げる間もなく、上から降ってきた白い影。その正体は言わずもがな。真っ逆様に、どうやって移動したのかも分からない場所から、レイナーレの目の前に。そのまま落ちていけば、確実に首がへし折れる。そんな体勢であるというのに、少年が焦っている様子はない。ただ、顔に嘲笑を貼り付けて、レイナーレの方に手を伸ばしている。
「よォ、三下」
視線が一瞬だけ交わった後、味わったことのない激痛が腹部を中心に全身を駆け巡った。殴られたのか、蹴られたのか、将又別の方法か。考察する間も、当然言葉を発する間もない。三半規管を掻き混ぜられるような感覚と、五臓六腑を直接殴打されたような痛み。意識を失いそうになりながらも、レイナーレは彼を睨み続けていた。
しかし、それも長くは続かない。元々がボロボロな教会で、短時間とはいえ、それなりの規模を戦闘を繰り広げたのだ。その上で壁に叩きつけられたレイナーレの身体は、文字通りの肉弾となっていた。老朽化した壁を破壊するには、加速した堕天使の頑強な体は十二分過ぎた。
・
壁の大穴を抜けると、そこはいつもアーシアが洗濯物を干しているスペースだった。少し大きめの庭というのが、最も近い形だろうか。何本かの木が生えており、端の方は手入れが行き届いていないせいで雑草だらけ。かつては菜園か何かをしていたであろう場所は、ボロボロになった立て看板とレンガで作られた敷居があるだけで、今は何も植えられていない。
そんな小さな空間の奥で、レイナーレは土の上に転がっていた。酷く咳き込みながら、明らかに異常な方向に曲がってしまい、血を滴らせている翼を震わせている。それを仕出かした張本人は、一歩、また一歩と彼女に歩み寄っていった。
「貴方には分からないわよ」
咳を一つ挟み、口を開く。そして半ば無理矢理起き上がり、血塗れの翼を羽ばたかせた。そんなことをすれば、当然血液が撒き散らされることになる。レイナーレがそうしたのは、一方通行に対する単なる嫌がらせだ。傷もつけれないのなら、せめて汚してやろう。そんな魂胆だったが、彼の体には一滴たりともついていなかった。祭服も同様であり、彼女はため息と共に自嘲する。
「私達みたいな末端の堕天使が望むことなんて、貴方に分かるはずがないでしょう?」
正確には、恨み言と言うべきだろうか。レイナーレはズルズルと体を引き摺り、近くにあった木に寄り掛かった。戦意を完全に失ったわけではないらしく、まだ光の槍を作ってはいるものの、一方通行に向けてそれを投げることは、かなり難しそうである。もし投げられたとしても、結局は反射の壁に阻まれてしまうのだが。
「力があれば、アザゼル様に近づける。力があれば、愛してもらえる。愛されるのよ」
まるで譫言のように、彼女は語り始める。一方通行は足を止め、夜風に曝される堕天使の姿を見つめた。既にレイナーレは虫の息であることに加え、振り返れば、穴の近くで隠れているつもりらしいミッテルトもいる。アーシアを狙われたら多少拙かったが、それをする様子はない。ドーナシーク達も復帰には時間を要する。それだけの要素が揃っているのだから、盤面的にはほぼチェックメイト。
最期ぐらいは好きにさせてやろう。その程度の考えしかなかった。自分の実力に自信があり、相手と圧倒的且つ絶対的な実力差が存在しており、大抵のことでは死なない自信のある彼だからこそ、それだけの余裕があった。
「貴方も愛されてたんでしょ、どうせ。何処の誰かも分からないけど、それだけの力があるなら、誰かの寵愛を受けていたはずよ」
問い掛けられ、一方通行は思考する。研究者達に受けていたモノは、果たして愛だったのだろうか。確かに愛情の一種だったかもしれない。偏執的で妄執的で、受け手からしてみれば気色悪い類の愛だったとしても、それは愛ではある。だが、だからといって幸福に繋がるかどうかは別の話だ。
「力なンざ、あってもイイことはねェだろ」
誰でも、何でも良いから愛されたい。そういう意図ならば、かつての一方通行が置かれていた状況も、レイナーレが望んでいたモノなのかもしれない。それでも一方通行が彼女を否定するのは、もう一つの例を知っているからだ。
「アイツが追い出された理由は知らねェが、原因は神器ぐらいしかねェ。あンな客寄せパンダみてェな力、目立つなってのが無理な話だ。それが原因で疎まれたか、クソみてェなヤツに目ェ付けられたか。どっちにしろ、原因はアレだ」
アーシアが神器を持っていなければ、悪魔を治療することはなかったとは言えない。彼女の性格であれば、何らかの方法で助ける道は選んでいただろう。だが、その前段階で止められていた可能性が生まれる。別の教会にいた可能性も生まれるし、そもそも教会で重宝されなかったかもしれない。全てはイフの話だが、彼女の中に神器が存在していなければ、酷い目に遭わなかったのは確かである。
「オマエの言うアイってのは、確かに向けられてただろォな。俺は知らねェが、アイツにはな。けどなァ、それはアイツだからだ。そこらのクズみてェなのが、アイツと全く同じ力を持ってたとしても、人に好かれることなンかねェ。違うか?」
わざと怪我を負わせて、治療費を請求する人間。血を流させるのが好きな異常者。人や小動物を虐待するのが趣味の外道。凄腕の拷問官。
能力というのは、善良な人間が持つからこそ、プラスに機能するのである。僅かでも知恵の働く悪人達が持ってしまうと、その時点で終わりだ。治癒能力のような善良極まりない能力ですら、人を壊す為の材料にしかならない。
「うるさいわね。それは持ってる側の人間だから言えるのよ。持ってる奴なんて、持ってない私達のことを分かるはずがないのよ!」
「あァ、分かンねェな」
一方通行が一歩踏み出そうとした時、横合いから風を切る音が鳴った。目を向けてみれば、何かを投げたような姿勢のまま、頬からダラリと血を流しているミッテルトの姿がある。隙をついたつもりだったのか、破れかぶれだったのかは分からない。足はガクガクと震えていて、顔面は蒼白。戦意は完全に喪失してしまっている状態だが、彼女は動いていた。
「や、やらせないっすよ」
仔鹿のような足をゆっくりと踏み出し、一方通行の前に立ち塞がる。形のおかしい槍を両手で握り締め、唇をキュッと結び、涙を溜めた瞳で睨みつけた。
「……ソイツはオマエの何なンだ」
明らかに怯えている。足の震えは体全体に伝わり、溜めていた涙は顔で流れを作ってしまっていた。そんな状態であるというのに、ミッテルトが引く様子はない。槍が効かないことなど理解しているはずなのに、一方通行の喉元に向けて構え、精一杯に立ち塞がっているのだ。
「大事な仲間っす」
「そォかよ」
音で表すなら、ペチと鳴る程度。だが、意識を刈り取るにはそれで十分だった。格闘戦のある漫画なら、大抵の場合は登場する脳震盪を起こす技。顎の先を掠めるという表現がされるアレを、一方通行はミッテルトの頬から行っただけだ。タイミングやら何やらの条件を含めた全てをベクトルで整え、軽く脳を揺らす。それと一緒に少しばかり吹き飛ばし、彼女を戦線離脱させる。
「ミッテルト!」
ダメージが抜け切っていないせいで、叫ぶことしかできていなかった。しかし、その声は演技ではない。確実に心配をしていて、大事に思っている存在だからこそ絞り出せた、正真正銘本物の叫びだった。
「アイツの行動も、オマエが求めてたモンじゃねェのか」
自分より明らかに強い生き物から守る為、立ち塞がる。その行動ができる関係性は限られている。化け物に襲われている子を守る親。我が子同然の人間の赤子が熊に狙われているから、命を賭けて飛び掛かる飼い猫。愛する主人の為、盗人に牙を立てる犬。
他にも例自体は腐るほどあるが、そのどれもに当てはまる感情が一つだけ存在している。それはレイナーレが戯言のように言っていた、人から与えられるモノでもあり、自分が他者に与えるモノでもあり、両者が送り合うモノでもある。
「あのバカよりもよっぽど幸せそォに見えンだけどなァ、オマエ」
少し離れた場所で倒れ伏す、派手な格好の少女。彼女がレイナーレに対して抱いているモノも、一種のソレに該当しているはずなのだ。一方通行という正体不明の怪物の前に立ち塞がるなど、並大抵の精神でできるわけがないのだから。
自分が殺されるかもしれない。手足を捥がれるかもしれない。二度と五感が機能しないかもしれない。そんなありとあらゆる最悪の事態を想定しながら、それでも無理矢理足を動かしたのだ。そんな行動を取らせてしまう感情は、決して蛮勇ではない。
「……そうね。そうだったのかも、しれないわね」
俯き、自嘲気味に短い笑いを漏らす。レイナーレからしてみれば、年端もいかない子供に言われてしまったのだ。それを悔しいとは思わなかった。むしろ、悔いがなくなっていた。
自分も欲しかった。そんな想いは既になく、心はスッと風が通り抜けたよう。痛みも苦しみも残っているものの、思考は異様なまでにクリアになっていた。
「ねぇ、ちょっとだけ良いかしら」
「なンだ」
「ドーナシーク達は殺したの?」
「さァ、どォだろォな」
一方通行の解答に対し、レイナーレは少女のような笑みを見せた。
「何笑ってンだ」
「アーシアが貴方に懐いてる理由、少し分かった気がするわ」
一方通行が顔を顰めると、堕天使は手で口元を隠し、クスクスと笑い始めた。若干苦しそうな呼吸音のまま一頻り笑い、打って変わって真面目な顔で少年を見据える。覚悟は決めた。言外にそう伝えているようだった。
「なら、三人は見逃してくれないかしら。手遅れそうなら、ミッテルトだけでも良い。あの子達は私が巻き込んだだけだから」
「……アイツらが何もしねェならな」
「それで良いわ。ありがとう」
言いたいことは言った。そう言わんばかりに目を閉じた彼女の白い額を、一方通行は軽くバチンと弾いた。すぐさま首をカクリと倒すが、飛んだのは意識だけ。まだ息はある。一方通行は意識のない彼女と改めて相対する為、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
「一番手っ取り早いのは……」
アーシアが二度と危害を加えられないようにするには。その答えは単純明快だ。殺してしまえば良い。今回関わった堕天使達を皆殺しにしてしまえば、根本的な問題や、裏に犇めいていそうな陰謀はともかくとして、目下の問題はすぐにでも解決するだろう。
それを実行する方法はいくらでもある。道具を用いるだけでも多種多様だが、彼に道具は必要ない。暗殺術の心得も要らない。体内に存在するベクトルを掴み取るだけで、他者の命は彼のモノなのだから。
学習装置やら何やらで叩き込まれた知識の中には、人体に関する知識も大量に存在している。それは生物的な知識や医学的な知識、哲学的な分野まで様々ではあるが、最終的には殺しの技術に繋がる。それに彼の異能が合わさるのだから、殺し方は本当に幾らでもあるのだ。
血流を掻き乱し、心臓の弁を破壊する。電気信号を狂わせ、脳の機能を壊滅させる。臓器の一つを機能不全に陥れれば、数日保たないだろう。酵素の一つを生成不可能にすれば、いくら堕天使でも酷い目に遭うのは目に見えている。その中でも苦しみを伴わないモノを考え、精査する。
そして、一方通行がレイナーレにゆっくりと手を伸ばした矢先、後方から優しい香りが突っ込んできた。何らかの競技のように激しい突撃ではなく、母親が子供を抱き止めるような、何処までも優しい衝撃。それが発生したと同時に視界に入ってきた髪の色を、彼はよく知っていた。
『フリードさん、待って下さい』
視線を僅かに後ろに向けた。何度も見た金色の髪に、薄いピンク色のパジャマ。何も履いていない足の甲は、雑草の残骸と土だらけになってしまっている。背中越しに伝わる温もりと、小さな鼓動、そして僅かな震え。
『アルジェント。俺は部屋に籠ってろって言ったぞ』
『約束を破ったのは謝ります。でも、それだけはしちゃダメです』
伸ばしていた手を引っ込めることなく、彼は視線をレイナーレに戻した。決めていた覚悟を引き戻される前に、さっさと終えてしまおう。そう思いながら、更に伸ばす。
『離れろ』
『嫌です』
だが、グイと引き留められてしまう。振り払うことはできる。能力を行使するまでもなく、アーシアと一方通行の筋力差があれば、素の力のみでも十分にできてしまう。けれど、やらなかった。彼女が出てきてしまった理由を、感覚的に理解してしまったから。
『フリードさんは優しい人です。私は知ってます。ちょっと怖いところもありますけど、パンを買ってくれたり、日本語の練習に付き合ってくれたりしました。お願いしたら、料理の手伝いもしてくれましたし。私、本当に嬉しかったし、楽しかったんです』
スンと鼻を啜る音が聞こえ、体の震えが大きくなると共に、声も僅かに震え始めた。
『とっても強い人だっていうのも知ってます。はぐれ悪魔に襲われた時だって、すぐに追い払ってくれました。暴力を振るえる人なのも、分かってるつもりです。悪魔祓いの人だから、そういうことに慣れてるんだって分かってます』
アーシアの拘束がややキツくなり、ほんの少しだけ嗚咽が挟まった。それに対してどうしたら良いのか、一方通行は正しい解答を知らない。
『でも、だからって』
続く言葉も読めない。だが、求めていることは理解している。一方通行は彼女の言葉を聞き終える前に、伸ばしていた手を引っ込めて、小さくため息を漏らしてしまっていた。
甘いヤツだ。声には出さなかった。どちらに対して思ったのかも分からない。けれど、それが悪いことだとは思わなかった。
『私、耐えられないです。優しいフリードさんが、私なんかの為に、レイナーレさんを……』
何処まで知っていたのか。何もかも悟っていた上での行動だったのか。その上で一方通行の力に甘えていたのか。そんな疑問を口に出す程、一方通行は少女のことを知らないわけではない。アーシアが手のひらの上で遊んでいたとは思わなかったし、転がされていたとも思わなかった。
彼女がアーシア・アルジェントだから。理由を語るなら、きっとそれだけで良いのだ。
『……分かった。降参だ』
アーシアの優しい拘束をすり抜け、別の木に寄り掛かる。
「どォしてオマエが、魔女なンだろォな」
彼の視線の先では、淡い緑色の光で治療を始めている少女がいた。自分を恨みや嫉妬でも何でもない、単なる私利私欲の為に殺そうとしていた堕天使を、懸命に助けているのだ。他人に疎まれ、狙われる切っ掛けになってしまった、常人なら忌む力を惜しむことなく使って。それの何処が魔女と呼ばれる存在なのか。
紅の蝙蝠がキチキチと鳴きながら、明るくなり始めた空を飛んでいく。まだ何かあるのだろう。そんな予感がしつつも、一方通行は彼を睨みつけるだけに留めた。追いかける体力がなかったわけではないし、体の何処かに不調があったわけでもない。
「何処も彼処も、大して変わンねェな」
ただ、年相応に気疲れしていた。それだけである。