ピアノが弾けない少女たち   作:エビフライ定食980円

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第15話 誰かのために、ピアノが弾けない少女

「私は貴方の目の前でピアノを弾かないんじゃない。

 ――弾けないんだ」

 

 私が放った言葉は、ひなのさんにとって想定外であったのか彼女の視線は私の目からずれて少し上の方を漫然と見つめていた。

 

 私には正直ピアノの才能は無いと思うけれども、幼稚園に入る頃からピアノに触れていたこともあり、ごく基礎的な技術面においては身についている。だからこそ、私はピアノを弾くことが出来ない。

 

 何故なら。

 ――ひなのさんは趣味でしかピアノを弾けない少女である。

 

 そして、私は。

 そんなひなのさんの趣味を維持するために、ピアノが弾けない少女なのであった。

 

 

 時に、百の言葉を尽くすよりも、たった一度の演奏が多大な影響を与える……というのは往々にして起こりうる。

 

 

 長い沈黙の後に、ひなのさんは口を開く。

 

「……私のためだったんだね。それは気付かなかったや。……ありがと、明菜。

 じゃあ、分かった。明菜の演奏は見ない。外で待ってるから、明菜が弾きたいだけ弾いて?

 ちょっと音は外に漏れちゃうのかもだけども、それなら良いでしょ?」

 

 

 そう語る彼女の目は真剣で。同時に私のことを案じた言葉であった。

 私はひなのさんの前で一度もピアノを弾いたことがないのだから、それを普通は見たいと思うだろう。しかし、彼女はその自分の欲求に抗いつつ、しかし私の言葉をそのまま受け入れることはしなかった。

 

 

 ワインレッドの色に焼かれるような心地であった。

 だからこそ私は――

 

「……分かった。じゃあ外で待ってて」

 

 

 

 *

 

 ピアノ椅子に座る。

 ここからの景色はやっぱり見ていたときとまるで違う。既にアンティークピアノしか実質的には存在しないと言ってしまって良いピアノだからこそ、ひなのさんが恐らく考えていた通り、確かにどこかには『私も弾いてみたい』という気持ちがあったのは事実であろう。

 

 そして。

 ――もう……この場所にひなのさんは居ない。

 

「エラールと言えば……あはは、色んな音楽家が愛用していたから誰が代名詞になるかは分かんないや……」

 

 

 誰も居ない部屋の中に私の独り言はむなしく響く。エラールが趨勢を極めていた時期は、古典派からロマン派という音楽の巨匠が君臨していた頃に概ね重複する。現代に近付くにつれて万人が知る音楽家というのはやや減っていく傾向にあるが、かの時代はそうではない。

 言ってしまえば音楽室に肖像画が飾られていたり、CMやアニメなどのBGMなど思わぬ場面で採用されていて作曲者も曲題も知らないのにフレーズは聞いたことがある、ということが往々にして起こり得る時代だ。……まあ、多分著作権切れで使いやすい曲が多いから、という理由もあるのだろうが。

 

 

 でも、そんな選り取り見取りな中でも私は何を演奏するか決めていた。

 誰の曲かと言えば……フレデリック・ショパン。なぜか。

 

 

 ショパン曰く。

 ――エラールは、何もかもがいつも美しく響く。

 

 だからこそ。

 ショパンは疲れているときや気分が優れていないときにこそ、エラールで演奏をしていた、という発言があるくらいだ。

 

 

 気分が乗らないときに弾いても優れたピアノだと言うショパンが作った楽曲ならば、今の私も多少なりとも……きっと自分を信じることが出来ると思う。

 

 

 その中で選曲したものはÉtude op.10 nº3 (練習曲作品10-3)

 和名での通称は――『別れの曲』。ほかには『Tristesse(悲しみ)』とか『L'Adieu(別離)』という異名もある。

 

 中学生のコンクールとかでも弾かれることのある曲。ショパンの練習曲はどれも難しいものばかりだが、しかしその中では比較的簡単な曲。全音ピアノピースで難易度詐称が行われている曲。

 

 序盤のフレーズは割と有名なものだが、しかしショパン自身が初版発行時に指定したテンポは普段聞き慣れたものよりも相当速い。

 でも、私は普通に聞き覚えのあるペースに近付けて演奏する……私はハイテンポでミス少なく演奏する技巧はない。

 

 

「……なんだ。弾けるじゃん」

 

 実家では自室のアップライトピアノで1人で弾くことも多かった。教室にも通っていたが、さりとて実練習時間としては1人で弾く時間の方が圧倒的に長い。

 だから、いつも通り。何事もなく私は演奏……できている。

 

 

 ――中盤から、曲調が大きく変わる。

 激情的で、甘い旋律から急激に感情を揺さぶるようなものに。

 

 その緩急を私は、肩から体重を乗せるようにして弾く。これは、ひなのさんが出来ていない奏法。

 『別れの曲』は、そうした奏法が出来る新しいピアノのための曲。……エラールと同じアクションが使用されたピアノで作られた曲。当時のショパンは、ピアノ自体の技術的な変革をしっかりと利用して曲を作成していたことの現れである。

 

 

 そんな楽曲を、私は聞いた通りにゆっくりと弾く。

 しかし、それでも5、6分もあれば充分に弾き終わる短い練習曲だ。

 

 

 だから、すぐに私の演奏は終わる。

 

 

 そして気付いた。

 

「……私。高校に入ってから、自分の演奏……ううん。

 ――ピアノの音をひなのさんの居ないところで……『1人』で聴いたの、初めてだ」

 

 

 演奏スキルでは、ひなのさんよりも私の方が明らかに上。

 このエラールピアノの特性を活かして、現代のピアノとの技術的な違いを踏まえた弾き方を徹底したのも私。必然、それは音色に直接的に反映される。

 十人居れば、きっとその十人が私の演奏の方を評価するだろう。それは自惚れではなく、単なる事実として言えるくらいには私とひなのさんの差は歴然としている。

 

 『本物』の演奏スキルを持つ相手と比べるまでも無い私だけれども、今この瞬間、ここに居る2人を奏者として見るのであれば、このエラールピアノに相応しいのがどちらかというのは言葉に出すまでもなく自明であった。

 

 

 ……けれど。

 それでも、私はたった数分の演奏を終えた後。もう続けて弾こうとする気持ちは存在しなかった。

 

 高校に入って、部活動探しを辞めてから私はひなのさんの演奏でしかピアノを聴いてなかった……ううん、それよりも。

 私にとって、いつの間にかピアノについてのことは『ひなのさん』と一緒にという気持ちがいつしか当たり前になっていたのである。

 

 

 ――だから……うん。きっと。

 L'Adieu(別離)は短くて……いいはず。

 

 

 そんなわけで。

 私は短い時間でピアノ椅子から立ち上がり、外へ時間を潰しに行ったひなのさんを呼び戻しに行ったのであった――。

 

 

 

 *

 

「……早くない、明菜? もう良いの? まだ10分も経ってないと思うけど」

 

「あはは。まあ、そんなに弾きたかったわけじゃないし、ひなのさんを外でずっと待たせているのもあんまりよくないからね。ほら、今日こんなに暑いし」

 

 確かに早く呼び戻しすぎなのは自分でも思ったので、口から適当な言葉を紡いで誤魔化そうとする。完全にその場しのぎで放った言葉であったが、言ってから日陰とはいえ、真夏の屋外に長時間ひなのさんを放置するのも良くなかったな、と自分の言葉が意外と正当性を持ったものになったことに驚く。

 

 私は、ひなのさんのピアノ奏者らしくない細くちょっと長めの指先を漫然と見つめていたら、数拍の後に、ゆっくりとひなのさんが優しく告げた。

 

「……嘘、だね。

 明菜、普段は私の顔……というか髪先の辺りをよく見ているのに、今は目が泳いでいるもん。何かあったって分かっちゃうよ、そんなの」

 

 

 流石にひなのさんは社交的なだけあって、観察力が高い。

 そして計算高いところも如実に反映されているかのように、非常に論理的に見抜いてきていた。……というか、普段の私ってひなのさんの銀髪の毛先をよく見ているって思われていたんだ。

 

「……よく見てるね、ひなのさん」

 

「まーね。

 ――で、明菜は私にどうしてほしい? 様子がおかしい理由を踏み込んでほしいならそうするけれども、イヤなら無理に聞く気はないよ」

 

 

 薄々勘付いていたことではあるのだけれども、ひなのさんは社交的で明るくて、積極性がある割に……意外と臆病な面もある。ここまで私の変調を察して居ながらも、決定的に足を踏み入れることはしない。

 いや……でも臆病は適切ではないか。ここで私に選択権を委ねてきたということは、私が語ることを選択すれば、それと本気で向き合う覚悟はしているということなのだから。何を話されるか分からないのに、そこまで気持ちを入れているのにも関わらず強引な手を使って来ないのは――大部分は優しさであるとともに、私に対する期待と……厳しさなんだろうな、きっと。

 

 

 ほんの数分しかピアノを弾かなかった理由。

 1人でピアノの前に居る時間が長続きしなかった理由。

 

 それは『気分が乗らないときに』エラールを弾くショパンの楽曲を意図的に選んだことからも明らかで。

 あるいは、そのショパンの『別れの曲』を選んだことからも――。

 

 ……うん。

 

 

「ひなのさん。……今は、聞かないで」

 

「……りょーかい」

 

 

 ……きっと、全部――(ひなのさん)のせい、だから。

 

 

 

 *

 

 夏休みも終盤。お盆だけではなく、夏休み期間中を丸々実家への帰省に使っていた生徒たちも徐々に寮に戻りつつあって、部活の夏大会なども終わりを迎えて世代交代が行われつつあるらしい。

 私も宿題はもう数えるくらいしか残っておらず、ほぼ終わったと言って良い状況だ。予定を立ててまだ集中力が高かった夏休み序盤に高密度でやっていたこともあり、今の1日にやらなければならない量はもう殆どない。

 

 そして結局。エラールピアノの一件の後からは、特に何も起きていない。というか、何も変わっていないというべきなのだろうか。ひなのさんも殊更に意識することなく、自然体で接してくれたのもあって、私も寮で顔を合わせるときに変に考えすぎずに彼女と相対することができている。……もっとも、それがきっとひなのさんの人間関係における計算高さに由来する私への気遣いな気しかしていないけどさ。

 

 後は、夏休み期間中割と頻繁にひなのさんと出かけていたように思えるが、別にひなのさんだけとしか付き合いが無いわけじゃない。ローズマリー寮の先輩方とか、大会が終わってちょっとだけ部活が暇になった友達とかともこの夏休み中に遊びに行ったりはしている。

 

 そして、それはひなのさんサイドもほぼ同様で、彼女も彼女で然りと交友関係があるので、四六時中私たちは一緒に居る訳じゃない。

 まあ誰と一番遊んでいたか、という観点で言えば、それは間違いなくひなのさんではあるのだけれど。

 

 

 とはいえ、夏休みももう終わりだ。

 始業式が来れば、またいつも通り授業が始まってしまう。そうなると再び平日に出かける場合は放課後くらいしか時間がなくなってしまう。……まあ、ひなのさんは日の出前に行動が出来るが、それは実家のイカ漁で培った特殊技能だ。普通に授業を受けることを考えると私にはちょっとキツい。

 

 京都市学校歴史博物館に行ったときも、結局時間が足りなくて別日に再度見に行き直したくらいだから、見るべきところがたくさんあったり観光に時間がかかったりする場所なら今のうちに行っておきたい、という気持ちが少しある。

 

 

 そんなことを考えながら寮のランドリールームへ洗濯物を持ちながら入ったら、そこには先客が1人居た。

 

「あっ、明菜ー! あれ? 明菜ってこの時間に洗濯だっけ?」

 

「ん、まー空いている時間の方が、先輩方とかに迷惑かからないからねえ。

 ひなのさんは普段、結構朝早い時間に使っていた気がしたけど……」

 

 お馴染みの銀髪不思議少女だが、しかしランドリールームで会うのはお互いの洗濯の時間の都合もあってか中々レアであった。

 洗濯かごから洗濯物を取り出して、空いている洗濯機に投入していると、既に待っているだけのひなのさんは暇なのか私の様子を伺ってくる。……ちょっと、洗濯物見られるのは友達といえども恥ずかしいんだけど。

 

「あの、ひなのさん……」

 

「――明菜。ランドリーバッグ使ってないんだ。便利なのにもったいなーい。

 ……ほらこれ!」

 

 そう言いながら、ひなのさんはスマートフォンでパパっと検索して私に見せてくる。私はルーチンワークで洗濯機のスイッチを入れてから、彼女のスマートフォンを手に取った。

 そこには洗濯用ネットの超拡大版のバッグが掲載されていて、どうやら洗濯物を1つ1つ取り出さずにバッグごとそのまま洗えるらしい。

 なので洗濯機の前で1着1着取り出す手間が消える。

 ……なるほど、これは割とマジで結構便利かも。

 

「……ひなのさんってもしかしてこういうインテリアアイテムに詳しかったり?」

 

「えっ? あ、いや。これは単にお姉ちゃんから教えてもらっただけだよ。専門学校に行っている方の姉が、私たちと同じ寮暮らしなの!

 だから一応、寮生活の『先輩』だから、色々おせっか……アドバイスしてくれて、その1つがこのランドリーバッグだったり」

 

「へえ、そうだったんだ。

 ……あ、スマホは返すね。……っと、すみません。ページが別のタブになっちゃったみたい……」

 

「あ、いやいや別に構わないよ……って――」

 

 

 ひなのさんのスマートフォンにて開かれているページが遷移して切り替わり。

 そして、今現在彼女の端末に映っているページは――。

 

「……水族館?」

 

 私がほぼ反射的に呟けば、ひなのさんは「あちゃー……」と声を出しながら、銀色の髪を揺らして項垂れる。

 

 そして数秒経つと吹っ切れたのか、私に対してひなのさんは詰め寄る。

 

「なんか、夏休み中……ってか別に夏休みに限った話じゃないんだけどさ。

 逆に明菜と一緒にベタな場所って遊びに行ったことなかったなあ、って気付いて。一回、普通の学生っぽい水族館とか行ってみてもよくない?」

 

「あー……確かに言われてみれば逆にどんな感じになるか気になるかも……」

 

「でしょ!? それで、この京都水族館! ……どうよ?」

 

 

「……別にいいけど。でも――」

 

「……?」

 

「なんか海に面していない場所の水族館って珍しいね」

 

「……ホントだ!」

 

 

 京都水族館。

 それは後でひなのさんが調べてびっくりしていたが、日本最大級の内陸水族館で、人工海水使用率100%の本物の海水を使っていない水族館らしい。

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