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コツ、コツと硬い床を歩く二つの足音が響いている。
ここはごく一部の者しか知らない地下研究所だった。
弱い照明で照らされる長く暗い廊下は、もう取り返しのつかない所まで来てしまったのだと、斑目に自覚させた。
『正直ね、私は驚いているんですよ。ユウさん。貴方がこうして、私の元に来てくれていることに』
先を歩く黒服が、少しだけ後ろを見やる。
その視線の先が自分の肩であることに気付き、斑目はそっと隠した。
ユメの死と治療した日から時間が経っているため、出血はしていないが傷跡は残っている。
『クックック……酷い怪我だ。ヘイロー持ちでない貴方に、ホシノさんも酷いことをする』
「小鳥遊さんは悪くない。これは、正当な罰だ」
そしてこれは、自分にとっての罪の証だ。斑目はそう思っている。
ヘイローを持っていれば、こんな怪我を負うことはなかった。いつもはこのことに対して不満を抱いていたが、今回は感謝している。
自分の弱さによって起こった悲劇を思い出させてくれる、忘れてはならない傷が作られたからだ。もしヘイロー持ちであれば、罪の証は身体に刻まれなかった。
大事なものを扱うように、肩の傷を撫でる。
斑目は一生、この傷とユメの死を背負って生きるつもりだ。
しばらくして、突然現れた同級生の名前に気付き、斑目は訝し気に黒服を見る。
「……待ってください、黒服さん。貴方は、小鳥遊さんを知っているんですか?」
『ええ。ずっと、観察していましたからね』
「……別にそんなことしなくても、逃げないですよ僕は」
実験台になることを提案され、恐怖を抱き逃げるのを防ぐため監視されていた。
斑目は黒服の『観察』という言葉がそのように聞こえ、不快な表情を浮かべる。
そこまで見越したのか、黒服は笑い声を響かせてその考えを否定した。
『その対象はユウさんじゃありません。ホシノさんですよ』
「っ小鳥遊さんを?」
『私達の目的は、最初からホシノさんでした。ですが彼女には長い間、勧誘を断られていましてね。そんな時に目に付いたのが君なのですよ。ユウさん』
それを聞いて、斑目の脳裏には初めて黒服と会った時の会話が繰り返される。
[一ヶ月。最低でもこれを過ぎたら、答えを聞かせてもらいます。因みに、同じような話を別の方にもしています。もし彼女が一ヶ月経つより早く先に承諾したら、この話はなかったことになりますので、ご注意を]
この、彼女というのは。
「小鳥遊さんのこと、だったんですね……」
『はい。彼女はキヴォトス最高の神秘と言ってもいい。どうしても手に入れたいのですが……正直、全く相手にされていなくてですね。ユウさんに来て頂けて、感謝しております』
斑目は神秘がどうのとか分からなかった。
だが一つだけ分かったことがある。自分は代替品なのだと。
「その様子だと、小鳥遊さんが一ヶ月経つより早く先に承諾することなんてないって、分かってたんですね」
『クックック……まあ、そうですね。ユウさんに勧誘を受けてもらう可能性を少しでも上げようと、プレッシャーを掛けさせて頂きました』
期間を設ける。契約がなくなる可能性を示す。
相手の判断力を鈍らせ、契約を結ばせる手として有効とは言える。実際それで、斑目は精神的に参ったこともあった。
そして最終的に、斑目はここにいる。全ては黒服の思うがままといった感じだ。
自分がここに来て驚いている、と黒服は言っていたが本当は予測通りだったのだろう。
斑目は口を閉ざした。
「……」
『おや、ご機嫌を損ねてしまいましたか?』
「面白くはないです。でも……それ以上に嬉しいんですよ、小鳥遊さんが実験台にならないで済むし、アビドスの負担を減らせるんですから」
『ふむ……』
黒服は歩きながら、顎に手を置く。斑目が強がっていると感じたのか、『興味本位に聞くのですが……』と前置きした。
『貴方はこれから、この場所で想像以上の苦痛を味わうでしょう。ホシノさんは地上で過ごし、もしかしたら新たな仲間と出会い、日々を謳歌するかもしれない。その中に自分がいる未来は想像しなかったのですか?』
斑目は黙り込む。答える気がないと判断したのか、黒服も特に追及することはなかった。
長い廊下が終わり、目の前には一つだけエレベーターがある。その扉が横に開いた。
黒服が振り向き、片手の掌を上に向けその指をエレベーターに向けた。
『さあ。こちらに。ここに入れば、もう戻れませんが』
エレベーター内から発せられる光が、薄暗い長廊下を照らしている。
扉を開ける存在感を示すそれは、目の前に立つ斑目を捕食しようとしているかのようだ。
「戻る気はありません。行きましょう」
目を瞑り、深呼吸をする斑目。
身体は震えている。歯も油断すると、カチカチと音を鳴らしそうだった。
しかし、もう彼は自分に逃げる道は残されていないと自覚している。
ぐっと顎を下げ、真っ直ぐとした目でエレベーターの中に進んだ。
二人を乗せたそれは、真下に進んでいく。
扉が開いた先には、真っ白な部屋が広がっていた。その中央には、机の上に紙が二枚とペンが置いてある。
「契約書と……どこで手に入れたんですか、これ」
呆れた顔をして、斑目は黒服にもう一枚の紙を持って見せた。
アビドス高等学校の退学届である。
『学校から拝借してきました。後になって、【アビドス高等学校の生徒を監禁した】なんて突かれるのは面倒です。この二枚の書類を書いて頂ければ、【斑目ユウは無所属であり、自主的に私達の研究を受けた】という証明になります』
つまり万が一、予想外の事態に遭遇した場合に対するカードというわけだ。
用意周到だな、と内心思いながら斑目は契約書に目を通していく。別にここから逃げ出して、どこかに泣きつくなんて真似はする気がなかった。
そんなのは、罪人である自分がすることじゃない。
自分がすべきなのは、自分の身を犠牲にしてでも、小鳥遊さんと母校の未来を守ることにある。
だから確実に借金が減るのか。アビドス高等学校に手を出さないのか。
それは第一に知りたかった。
全て読み終わり、斑目は内容を黒服に確認する。
「僕が契約書にサインをした段階で、借金の半額が負担される。僕が死んだ瞬間、負担が無かったことにされることはない」
「僕が生きている間は、アビドス高等学校に手を出すことはない。そして小鳥遊さんに対する勧誘も行わない。僕が死んだ場合、小鳥遊さんには勧誘のみ行う」
「この解釈で間違いないですか? ゲマトリアの黒服さん」
『ククッ……ええ。勿論です。無所属の斑目ユウさん』
契約書の最後には、お互いの所属組織と名前が書かれている。
そんな組織があったのかと思いながら、斑目は契約書にサインした。
そして退学届の記入欄を埋め、裏紙にホシノへのメッセージを残す。
ホシノに見せても問題ないと判断したのか、黒服はそれを手に取って、アビドス高等学校に向かうためエレベーターに向かおうとする。
すると、斑目が彼に呼びかけた。
「黒服さん」
『何ですか? ユウさん』
「アビドスにいる未来を想像しなかったわけじゃないんですよ、僕は」
自分がしたエレベーター前での問いの答えだと気付き、黒服は歩みを止める。
「でも多分、僕と小鳥遊さんはもう以前のようには戻れない。それなら、お互いにとって最善の道を進むべきだと思ったんです」
「僕は地下で。小鳥遊さんは地上で」
「僕は身体で。小鳥遊さんはその強さと優しさで」
「アビドスを救う。たったそれだけのことです」
「それに今の僕には、日々を謳歌する資格なんてありませんから」
その答えに満足したのか、黒服は笑いながらエレベーターに向かう。
『ククッ……私の興味本位な質問に答えて頂き、ありがとうございました』
扉が閉じ、黒服の姿が消えた。それを確認し、斑目は前を見る。
「それじゃ、僕も行こうか……」
目線の先に出入り口が現れ、斑目もその奥へと消えていった。
〜
……小鳥遊さん。ユメ先輩を奪ってごめんなさい、一人にさせてごめんなさい。僕がここを去ることに関しては、小鳥遊さんは悪くありません。僕がただ、逃げ出したくなったからです。
本当に僕は、最後まで脆弱で臆病者ですよね。
しばらく辛い時間は続くと思います。逃げた僕が言うことではないと思いますが、小鳥遊さんがいずれ来る後輩達と楽しく過ごすことを、心より願っています。
さよなら。
(アビドス高等学校退学届の裏紙より)
〜
アビドス高等学校の生徒会室にて。
ホシノはユウの机の後ろに立っていた。彼の机の上には、紙が一枚置かれている。
退学届だ。
静かにホシノは退学届を手に取る。
記入欄に不備は見られなかった。
これで、ホシノにはユウの自宅を訪ねる口実がなくなってしまった。
彼を糾弾したこと。彼の肩を撃ったこと。
そのことに関して謝罪した後、退学届の記入欄に不備があるので認められないと。生徒会室に戻ってきてほしいと言いたかった。
だが退学届に不備がない以上、ホシノは謝罪だけをしにユウの自宅を訪れる必要がある。
彼女はその足を踏み出す勇気がなかった。
「……っ」
退学届を捲り、自分へのメッセージを見つけて、目を見張る。
握られる小さな手から、紙に皺が生じた。
「謝るのは斑目じゃなくて、私でしょ……バカ」
依然、小鳥遊ホシノの足は前へ進まない。