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急性胃腸炎をきっかけに、こんなに空いてしまった......。
大変お待たせしました!申し訳ございません!
「ご馳走様ー! カレー美味しかったよ、それじゃあね~!」
食事を終えたミカはそう言って、空になった皿を持ち、手を振りながら間平の前から立ち去る。
先程、間平は自分が片づけることを提案したが、ミカは首を振った。皿を洗う場所を聞きがてら、アリウスの生徒達と交流したいようだ。
間平は話にあった、アリウスの生徒を編入生としてトリニティに招き入れてから、定期的にミカがここに訪れていることを思い出す。
きっとそれは、情報を行き来させる目的もあるのだろう。
編入生にはアリウスの近況や仲間からの伝言を、アリウスには編入生のトリニティでの生活の様子やらを伝えているのかもしれない。
「ああ。またな」
それは双方にとって、きっとかけがえのないものだろう。
なら邪魔すべきではない。間平は手を振り返し、ミカを見送った。
完全に彼女の姿が見えなくなったところで、スーツに腕を通す。
「げ」
ボタンを閉めようとしたところで、間平の表情が少しだけ痙攣した。
「あいつ......」
真っ黒なスーツに、点々と何かが付着している箇所がある。
見ただけで分かる。カレーだ。
恐らくミカが愚痴を零しながら食べていたときに、それと一緒に零したのだろう。
「まあ......あれだ。噴き出さなかっただけマシと考えよう」
そうなればミカの唾液が混じったカレーや米が、今より広範囲に付着していたかもしれない。その汚れと比べれば、今の汚れは幾分とマシと言える。
とはいえ、そのまま放置するわけにはいかない。
「仕方ねェ。着替えに行くか」
黒服から用意された拠点に、同じスーツが何着かあった。それに着替える。
今着ている物は顔を出すのも兼ねて、黒服に渡し、クリーニングを頼むつもりだ。
そのためにはカタコンベを抜ける必要がある。
間平は、食事を終え案内人を頼めそうなアリウス生がいないか、辺りを見渡した。
すると、背後から静かな足音が聞こえてくる。
「......間平」
「サオリか......どうした?」
足音の主はサオリだった。
間平の問いかけに、訝し気な表情を彼女は浮かべる。
「? 何を言っている。お前が私に用があったんじゃないのか。姫や他の者に、お前が私を探していると聞いたが」
......ああ、と間平が呟いた。
そうだ。サオリを見つけ、演習を頼もうとしていたことを思い出す。ミカとの出会いやら何やらで、すっかり頭から抜けていたが。
間平は後頭部を掻く。
「悪いな。演習を頼もうかと思っていたんだ。なしになったけど」
「何?」
サオリが瞠目した。
演習を希望していた間平が、自らそれを撤回するのが珍しいと思ったのだろう。
だが、間平の顔から靴まで視線を注いだことで、納得したように頷いた。
「......成程。そのスーツ、ミカにやられたか」
「ああ。よく分かったな?」
「スーツを羽織らせたのだろう? さっき本人から聞いた。アリウスにも親切な人がいて驚いたと言っていたぞ」
「また失礼な言い方を......」
ここにくる道中、サオリはミカに会ったらしい。
話を聞いた間平は溜息を吐いた。
その言い方では、アリウスの生徒全員が思いやりの心がないように捉えられてしまう。
だがサオリは特に気にしていない様子だ。
「別に気にしていない。……そんなことより」
「ん?」
「お前はさっき、辺りを見渡していたが……カタコンベの案内人を探していたのか」
「その通りだ。とはいえ、もう少し待たないといけなそうだけどな」
辺りを見回したところ、まだ食べている人間しかいないように思える。
まあ、仕方ない。見た感じ、随分と盛ったようだ。それをよく味わうように、ゆっくりと食べている。まだ時間はかかるだろう。
そんな時、サオリが口を開いた。
「......私が行ってもいい」
その言葉に驚いたのは間平だ。サオリに視線を向ける。
「そりゃ助かるが......いいのか?」
「ただし、条件がある」
「条件......?」
間平は訝し気に繰り返す。
交換条件というわけだ。
短い間ではあるが、サオリと関わる中で彼女はそのようなことをするタイプとは思えない。
だから間平の脳裏には、自然と一人の女の姿が浮かぶ。
(ベアトリーチェの差し金か......?)
ありえない話ではない。
アリウス・スクワッドは、この学区の筆頭戦力だ。特別と言ってもいい。
アリウス自治区は変わりつつあるがそれを理由に、間平は彼女達がベアトリーチェの手から離れているとは思えなかった。
恐らくだが......演習を通じて、自分の弱点を探る命令を彼女は下し、サオリ達もそれに応えている。
ベアトリーチェにとって、演習はアリウス・スクワッドの強化に加え、弱点を探るのに最適な機会だ。それを彼女が活用しないことは考えられない。
「......いいぜ。言ってみろ」
間平はそう、サオリに続きを促す。
......例え推測が正しくても、彼女を責める気にはなれない。立場上、仕方ないからだ。
アリウスの筆頭戦力が、勝機もなく領主であるベアトリーチェに逆らうわけにはいかないだろう。失敗してしまえば、今以上の苦しみが待つかもしれないのだから。
「っ......」
サオリは向けられる間平の視線から逃れるように、少しだけ顔を外す。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「水筒に......」
「......水筒?」
「水筒に......あのカレーを入れて、持って行っていいだろうか」
サオリが指差す先には、鍋に残ったカレーがある。
その表情は、少しの緊張が浮かんでいた。彼女が本気であることは一目瞭然だった。
「......ったく」
間平は後頭部を掻く。
ごちゃごちゃと考えていた自分がバカみたいだった。
彼女は大人に操られる犬ではない。交換条件は、彼女自身がしたくてしたのだ。本来あるべき姿として、良い方向にサオリも進んでいた。
間平は小さく呟く。
表情に変わりはないものの、声の調子は穏やかなものだった。
「せっかく子供らしくなったってのに......。もっと堂々と言え」
「? やはり、ダメか......?」
「んなわけあるか。いいぞ、詰められる分だけ持っていくといい」
「! すまない......感謝する」
サオリはそう言うと、水筒を持ってカレーが残る鍋に駆け寄る。
......恐らく、あれは彼女自身が飲むためのものではない。水分補給するなら、サオリは普通に水等を選んでいる筈だ。
となると、あれは恐らくトリニティにいるアリウス生に対する差し入れのようなものだろう。
(アツコ達みたいに、何か特別な関係が? ......ま、突っ込むのは無粋か)
気恥ずかしいのか、わざわざサオリはカレーを持っていく意図を話さなかった。
なら自分は、その気持ちを尊重する。推測はするにしても、その答え合わせをするつもりはない。
結局、間平はカタコンベをサオリと歩いている間も、その件に関しては触れなかった。
相変わらず、外観からは想像できない内装だ。
黒服から用意された拠点に戻った間平は、高級マンションさながらの自室を見てそう思った。
サオリとは別行動をしている。
共に行動したのはカタコンベまでで、それからは自由行動だ。用事が済んだら、予め指定した場所で待ち合わすことになっている。
「ただいま......っていうには、まだしっくりこねェな」
足を踏み入れ、まず汚れた箇所を床につけないよう、スーツのジャケットを身体から外す。
クローゼット内に並ぶ同じものを一着取り、腕を通した。
やはり光沢があり、皺一つないスーツも良い。動きやすさといった点では着慣れた物が優れているが、気持ちが引き締まる点ではこっちの方が強い。
「あとは......と」
脱ぎ捨てたスーツを見る間平。流石にこのまま放置するわけにはいかなかった
汚れがなければ、ハンガーに干して消臭スプレーを吹きかけるのに留めたが、完全に汚れてしまっている。このまま放置するのは心情的に厳しかった。
端末を起動し、相談のため黒服に通話を試みる。幸いにもすぐにつながった。
『クク。間平さん、何か?』
「黒服。スーツが1着ダメになった。行きつけの店とかないか?」
『......ふむ』
黒服はそう呟く。
それから何か思案しているのか、無言の時間のみが流れた。
間平が声を掛けようとしたところで、ようやく黒服が開口する。
『間平さん。スーツのクリーニングは私が請け負いましょう。その代わり、これから直接お会いして、話しませんか?』
「......クリーニングなんてつまらないことで、貸しを作るのはごめんだぞ」
『ククク。私がそんなつまらない人間に見えますか?』
「冗談。人間かはともかく、お前がその程度なら委員長も先生も楽だった」
黒服は自分から恩を売りつけ、その対価を求めるような男じゃない。
切羽詰まった人間にとって魅力的であると同時に、悪意を内包した提案を行い、利益を得る。そのために長い時間と計画をかける男。
少なくとも、間平にとってはそういう認識だ。敵としてなら手強いが、少なくとも今は、共に行動するうえで心強い存在でもある。
「いいぜ。会って話そう」
『話が早くて助かります。折角、時間を作って頂いたのです。無駄な時間とは思わせないことを約束しましょう』
「......へぇ」
間平が呟いた。その声は、静かで、そして固い。
黒服の様子から、明るい話題ではないと感じ取ったのだ。
どちらかというと深刻な、警戒すべき事象が近付きつつある予感がする。
その間平の考えを肯定するように。
溜息のような、重く響く吐息の後に、黒服は言った。
『マダムについて、お話したいことがあります』
黒服から会合の場として指定された場所は、彼の拠点の一つだった。
外観は異なるが、中身は大体変わらない。黒服の拠点は共通して、複数の研究室とそれらを監視する部屋があり、応接室と黒服の部屋がある。そんな感じだ。
その中で、間平が案内されたのは監視部屋だった。
壁には複数のモニターが取り付けられ、その前で左右へ伸びるテーブルには、乱雑に書類が置かれていた。恐らく研究記録等だろう。
「対応がこのような場になり、申し訳ありません。本当なら、応接室で事情をお話しするのが一番なんでしょうが......」
「別にいい。お前のことだ、理由があるんだろ」
「はい。単純に、こちらで説明した方が手間が省けます」
黒服は頷くと、そのまま書類の山からその一部を取る。
「どうぞ」
意図に気付いた間平が片手を伸ばす。
そこに、黒服は書類を置いた。
ここまでで必要最低限の言動だけで済んでいる。
二人を繋ぐものを信頼と言えるかは微妙ではあるが、奇妙な関係が築かれているのは確かだった。
「時に間平さん、貴方は随分とアリウスに馴染んだようだ。負傷ではなく、子供のアクシデントで服を汚すくらいに」
「......」
......黒服はアリウス生にやられたと思っているようだ。
真相は違うが、間平はわざわざ訂正する気はなかった。
話の本質はそこではないし、話の腰を折る理由としては小さく、つまらない。
それに自分で言うのも何だが、間平自身、アリウスに馴染んでいることを否定しきれないからだ。
「きっとあの自治区の子供の大半も、貴方に心を許している筈です。しかし......全員が全員、貴方を好ましく思っているわけではない。そのことを覚えていてほしいのです」
「......」
「......気を悪くさせたなら謝罪いたします。しかし、貴方の戦闘を知っている私からしたら、生活の中とはいえ衣服への汚れを許すのは、少々......気を抜いてしまわれていないか、心配なのです」
「神聖視し過ぎだろ。汚れることも許されないのか俺は」
間平は後頭部を掻く。
呆れたような溜息が出た。思えばスーツが1着ダメになったことを伝えた際、黒服は何か思案している様子だったことを思い出す。
今になってその理由が分かった。
あの時、彼は心配していたのだ。
間平がアリウスでの生活によって、勘が鈍っているのはではないかと。
「全く......あのな、黒服」
余計なお世話であるし、黒服は思い違いをしている。
だからまず、間平はそれを正すことにした。
「......言ってなかった俺も悪いんだが、そもそもスーツの汚れは掛けられたんじゃねェ。零されたんだ」
「......はい?」
「とあるお姫様がいたんだよ。カレーで汚れる姿を考えるだけで勿体ないと思う程の。そいつに被せてやったんだよ。それで汚れた」
「つまり......間平さんの不注意ではなく」
「そのお姫様の不注意だな」
まあ、俺もここまで見事に零されるとは思わなかったけど。
そう言った後、腰に手を当てて間平は続ける。
「そもそも、俺がアリウスにいる目的知ってるだろ? 演習だぞ演習。そう簡単に勘が鈍るわけないだろ」
言い終わると同時に、間平は呆れたように息を吐く。
毎日ではないとはいえ、戦闘も行っているのだ。寧ろ、反射神経等の肉体的な勘は鋭くなってると言える。
黒服はというと、ゆっくり額を手で覆い、重い息を吐いて。
「大変失礼いたしました」
そう謝った。間平の言う通り、最初から彼はそれが目的だと話していたことをようやく思い出す。
一つの考えに固執し、周りが見えなくなってしまっていた。黒服は自らの過ちを恥じる。
すると、間平の鉄面皮のような顔に変化が起こった。
少しだけ目を見開いた後、口角が少しだけ上がったのだ。
「別にいい。お前も人間らしいミスをするんだなって、少し親近感が出た」
それに、と間平は続ける。
「気を引き締め直す、良いきっかけだ。全員に好かれるわけじゃないって割り切ってはいたが、お前に言われて、更に印象付けされたからな」
外から来た自分を、全員が全員受け入れられるわけではない。
間平自身、そのように割り切ってはいた。
変化で全員が喜ぶなんて、人間の感情はそんな簡単に作られてはいない。
疎外感や憎しみ、戸惑い等、生じる感情は千差万別だ。
黒服は胸を撫でおろす。
「安心しました。その様子だと、貴方がアリウスで油断をすることはないでしょう」
「何だ。まーた、ベアトリーチェが何か企てているのか?」
半ば確信しながらも、間平は黒服に問いかけた。
ここに来る前の、マダムについて話したいことがあるという黒服の発言。
そして先程の彼の、気を抜いていないか心配する様子。
これらを兼ね合わせると、近々、ベアトリーチェが何かを起こそうとしていて、その対象は自分であると推測できる。
黒服は間平の推測に対し、頷いて肯定を示した。
「はい。恐らく。......つい最近、マダムが私の研究結果の一つを欲しましてね。その効果から、念のため間平さんに注意喚起をと」
「成程。そこでこの資料ね」
間平は先程、黒服から手渡された資料に目を通す。
そこにあるもの。見た目は、普通のコンタクトレンズのようだ。
しかし、着用した際に得られる効果は違う。
端的に言えば、現実と遜色のない幻を見せるらしい。
本人の想像を介して、この場にないものが現れたり、この場にあるものを別のものとして認識させることができる。
デジタルを用いない、AR技術といったところだろうか。
「元々はカイザー理事に頼まれて作ったものです。カタカタヘルメット団の一人にこれを着用させ、集積したデータを基にしたアビドス対策委員会と何度も戦わせる」
「最初は彼女達も全く勝てないでしょう。......しかしシミュレーションを重ねることで、徐々に動きに慣れ、行動パターンも覚える。そして制圧を可能にする。そういう計画だったようです」
間平は頭を押さえる。
凄まじい技術だ。そして厄介でもある。
黒服のその概要の説明から、今後の流れも予想できた。
「......ヘルメット団がアリウスに、委員長達が俺にと、配役が変わりそうってわけか」
正直、こうなると分からない。
力関係的に、まだ間平の方がアリウスより勝ってはいる。
だが想像できない程の数の、自分との戦闘シミュレーションをされてしまえば、果たしてその関係を維持できるかは分からない。使用者がアリウス・スクワッドなら尚更だ。
資料を見た限り、仮想である故、想像上の相手に攻撃されても痛みは感じないようだ。
こちら側の立場として前向きに考えれば、痛みの忌避による成長の促進はない。後ろ向きに考えれば、疲労を除いて、彼女達の戦闘を止める術がない。
「......で、お前は警戒心が抜けている俺が、その代物で強化された俺に反抗心を抱いているアリウス生やサオリ達に、あっという間にやられないか心配した。認識はそれで合ってるか?」
「はい。前者はマダムに唆され、後者は命令によって、貴方に牙を剝くことは容易に想像できます」
とはいえ、その心配は杞憂なようでしたが。
そう黒服は続けた。
間平はアリウスの全員が、変化を喜んで受け入れているわけではないことも想定していて、かつ演習により戦闘技術を磨き続けている。
だから、そう簡単にはやられない。黒服はそう思った。
間平は溜息を吐く。
「ならそもそも渡すなよ......と言いたいところだが、そんな簡単な話でもないよな」
「ええ。同じゲマトリアの人間ですし、彼女により組織が支えられている面があるのも事実ですから」
それに、と黒服は続けた。
「あれにはまだ欠陥があります。そのことを知らせてありますし、マダムも多用はしないことでしょう」
「欠陥?」
そういえばだ。
疑問に思ってはいた。そんな代物があれば、ヘルメット団はもっと強かった筈。だがそうではなかった。
それはつまり、まだ実装されていない。試作品の段階ということだ。
不完全で、何かしらの欠陥があるということ。
間平は資料を捲り、その箇所を探す。
「っと。これか......」
欠陥が記されたページを見つける。
そこには見た感じ、大きな欠陥が記されていた。
黒服の発明したコンタクトレンズは、使用者の視覚情報を、無理矢理上書きする形で幻を見せる。
それ故、『現実と使用者の見ている光景の差異により、脳に負担が生じ、長時間使用すれば目や鼻からの出血』等、異常が生じるのだ。
間平は軽く頷いた。結果を得る前に、自滅する可能性の方が高いだろう。
「そりゃ実用できないわけだ」
加えて、黒服の言うベアトリーチェがこれを多用しないわけ。
それについても納得した。
彼女は最低な大人ではある。アリウスの生徒達に対する冷遇や、自己中心的な思考からそれは明らかだ。
だが生徒達を殺してはいない。
自らの手駒を減らしたくないからだろう。
今のところではあるが......そんな彼女が駒を減らすリスクのあることをするとは思えない。
だからアリウス生に、黒服の開発したコンタクトレンズを脳に異常が生じる程の時間、使用させたりはしない。間平はそう思った。
「了解。気には留めておく。それと、もしベアトリーチェがこれで子供達に無理させるようなら、壊していいか」
「お好きに。渡した後の管理は、マダムの役目です。私は管轄外ですから」
「それを聞いて安心した」
話は済んだ。
立ち去ろうとする間平に、黒服が声を掛ける。
「4日後に来ていただければ、スーツをお渡しできますので、よろしくお願いいたします」
「分かった。じゃあ、4日後またくる」
ジャケットを脱ぎ、ワイシャツとネクタイ姿の間平。
片手を上げて、別れの挨拶を済ませ、黒服の拠点を後にするのだった。
アズサにカレーを差し入れ(ルーだけ)。水筒か何かに入れて。自分達だけ良い思いをしているのが申し訳ない。あいつは贅沢しないから。
トリニティの某所にて。
サオリは誰かと会話をしている。
相手の姿はよく見えない。
しかし、サオリが見下ろしていることから、彼女より背丈は小さいようだ。
「......?」
「......変わった? 私がか」
少しだけ首を傾げて言われ、サオリは瞬きをする。
小柄な人物は、その顔を指し示した。
「......」
「顔色が良くなっている? いつもより、調子が良く見えるだと?」
無意識に顔を触るが、それだけでは当然分からない。
意識的に鏡を見る習慣等なかったものだから、変化に気付けなかった。
実際、顔も含め彼女の肌は血色が良くなっている。それは健康的な生活を送っているからに他ならない。
だがその自覚もないため、サオリは反射的に否定の言葉を出そうとする。
「......いや」
「?」
だが、彼女は笑みを浮かべた。
「そうかもしれないな」
「......⁉」
サオリの前に立つ人物にとっては、思いがけない反応だ。呆気に取られたようにサオリを見上げる。
サオリはぽつぽつと話し始めた。
「最近、外から大人の男が来たんだ。そいつはお人好しでな、マダムと真っ向から対立して、私達に今迄食べたことのない食事を作ったり、娯楽を与えてくれる。休むことの大切さも教わった」
「......?」
「......大丈夫だ。その男は死んでいない。私達より強いからな、今迄勝てたことがないくらいだ。肉体も思考も、化け物染みている。マダムもあの男の前では、強く出れないらしい」
「......」
「信じられない......か。そうだな。私も未だに信じられないよ」
だが、とサオリは続けた。
「アリウスが変化しているのは事実だ。もしかしたら......本当に、もしかしたら、アリウスは良い方向に変わるかもしれないんだ」
アズサ。
そう、サオリは呼びかける。
「生活は楽しいか?」
「......」
「......分からないか。睡眠は取っているか?」
「......」
「最低限......食事は?」
「......」
「レーション......いや、いいんだ。これに関しては無駄にならずに済んで、少しだけ安心した」
まるで、間平が訪れる前の自分達を見ているようだ。
サオリは少しだけ彼の気持ちが分かった。これは確かに、心配に思ってしまう。
彼女は水筒を取り出し、差し出した。
「その男が作ってくれたカレーという食べ物だ。毒も入っていない......温めて食べるといい」
アズサと呼ばれた少女は、軽く振って中身を確かめる。
とろみがついた液体だということが分かった。蓋を開けると、かすかにスパイスの香りがする。
無意識に喉が鳴った。そして蓋を閉じ、サオリに目を向けた。
分からない。表情がそう物語っている。
「......?」
「......そうだな。これを渡した理由、か」
サオリは少しの間、目を瞑った。そして口を開く。
「身勝手だと思われるかもしれない。だが、お前にも知ってほしいと思った......。食事だけでも、この世界には私達が知らなかった物で溢れていることを」
今すぐは難しいかもしれない。
だがいずれ、マダムがアリウスから去る日が来るとしたら。
その時はこのカレーをきっかけに、様々な未知に興味を抱いてくれると嬉しい。
サオリはそう思った。
......ありがとう。
アズサは首を傾げながらも、礼を言う。
サオリはそれに対し、頷きをもって応えるのだった。
アリウス自治区。
ベアトリーチェの屋敷にて。
そこにはアリウスの生徒が数名集まっていた。
皆、表情には戸惑い、緊張が浮かんでいる。
そんな彼女達の前に立つ、ベアトリーチェ。
悪意ある笑みを浮かべる彼女の指先には。
黒服のコンタクトレンズが摘まれているのだった。
次回
「vanitas vanitatum et omnia vanitas」