「さて……何から話をするべきか……」
支部長執務室。今日も今日とて関係者──この数か月ですっかり馴染みとなったメンバーが集まっているが、榊以外に言葉を発するものはいない。誰もが暗い表情で口を閉ざしており、話す気力も無いのだろう。
加えて言えば、いつもはいるはずの人間が二人もいない。そのうえその二人はアナグラにおいてもフライアにおいても賑やかなムードメーカーだ。だから余計に、部屋の空気が陰鬱で重いものであるように思えてしまうのだ。
「……いい知らせから、話そうか」
ちらりと部屋を見渡した榊は、静かに話し始めた。
「──コウタくんもロミオくんも、一命を取り留めた。絶対安静なのは変わらないが、一時的に意識も取り戻している。だから……もう、大丈夫だ」
ほう、と誰かが静かに息をつく。緊張していた空気が確かに緩み、部屋の中の暗い雰囲気がわずかばかりとはいえ明るくなった。
「応急処置が良かったのと、あとはルーくんの癒しの雷のおかげだね。手術室に運び込まれた段階で既にほとんど傷口は塞がっていて……外科的な処置はほとんど必要ない状態だったらしい。出血性ショックによる影響こそ大きかったものの、逆に言えばそれだけでしかなかった」
傷口は塞がっていて、少なくとも肉体的には問題のない状態に近かった。ただ、単純に体に流れる血が足りなかったために、それに伴う諸々の問題があった──体に血が戻りさえすれば、何とかなる状態であったのだ。
「点滴を打って、栄養をたくさん摂ればきっとすぐよくなるはずだ。キミたち神機使いの生命力であれば、おそらく私が思っているよりもずっと早く回復することだろう」
ここで一度、榊は話を止めた。
「……」
コウタを除いた極東の神機使いたち。
ロミオを除いたフライアの神機使いたち。
オペレーターが二人に、神機整備士が一人。
そして……自分を含めて、博士が三人。
「……ふむ」
ここまでは、いい知らせだった。
ここからは、悪い知らせに移るわけだが──困ったことに悪い知らせが多すぎる。果たしていったいどれから話すべきかのか、榊は珍しく……本当に珍しく、少しばかり逡巡した。
「──ルーの容態について、説明をおねがいできますか?」
声を上げたのは、ラケルだった。
「雨宮少尉の右腕の話も、正体不明のアラガミについても気になりますが……まずは、
そうじゃないと、そっちばかりが気になって話が身に入らないのです──と、ラケルは一瞬だけチハルに視線を移して静かに呟く。果たしてそこにどれだけの意図が含まれていたのかは誰にもわからないが、言っていることに間違いはない。
「それもそうだね……では、改めて振り返ってみようか」
報告書に書かれていないこともあるからね──と前置きをしたうえで榊は語りだした。
「結論から言うと、ルーくんは生きている。今は体を休めるための休眠状態になっているというのが私の見解だ」
正体不明のアラガミの攻撃を受け、今や頭部だけの状態で生きているルー。最初の攻撃の段階で左後脚を欠損し、その状態でなお八人の神機使いを背中に乗せてアナグラを目指すも、集中砲火を受けて下半身を喪失。この時点で致命傷でありもはや助かる見込みもなかったが、余分な上半身を切断し、コアのある頭部に強制解放剤を投与してコアを活性化させることで、なんとか命を繋いだ──というのが事のあらましとなる。
「ただし──無事であると断言することは難しい。キミたちも知っての通り、ルーくんは頭部だけの状態となったわけだが……」
「蛹化……いいえ、繭化とでも言うべきものでしょうか。いずれにせよ、今までのアラガミには見られなかった変化を見せている」
本来であれば。
アラガミはどれだけの傷を負っても、コアさえ無事ならオラクル細胞が勝手に増殖してその傷を治す。手足を失おうとも、やっぱりオラクル細胞が増殖して数時間のうちには新しいものが生えてくる。コアを完全に喰い潰さない限りは何をどうしても復活してしまうわけで……その圧倒的な不死性のために、人類はここまでアラガミに脅かされているのだ。
「アレはいったいどういうことなのですか……? まさか、強制解放剤の投与はこれを狙って……?」
「……わからない、というのが正直なところだね。確かにイレギュラー的な行為ではあったが、しかし強制解放剤にコアの活性化以上の効果なんて設計していない。だからこれは、どちらかというとルーくん自身の特異性に起因する現象……なのだと、思う」
「……」
「私も……ほかのアラガミと同様に、傷口から体を新たに再構築するものだと思っていたんだ。だけど実際は、ルーくんの頭部はその外殻が変質し、そして中身は液状化してドロドロになっている。それはまさしく、昆虫の蛹に等しいものだ。一応、コアだけは形を保っているようではあるが……」
「それも含めて、蛹と言っていい形態であるということですね……ですが、それは」
「……うむ」
榊もラケルも、黙り込む。
黙り込んで……どこか気まずそうというか、何かを躊躇っているように視線をさ迷わせた。
「ね、ねえ……それってつまり、どういうことなの? 蛹ってことは、そのうち羽化……でいいのかわからないけれど、ともかく元の体に戻るってことよね?」
沈黙に耐え切れなかったのだろう。不安そうにレアが声を上げ、どこか縋る様にラケルを見つめた。
「昔、何かの本で見たことがあるわ。蛹って、幼虫が成虫になるために体の構造を大きく作り変えている状態なんだって。一から体を再構築しているんだから、どんなケガでもきれいに治るってこと……よね?」
「……ケガだけなら、そうかもしれません。ですが……元の形に戻るかはわかりません」
「え……」
「ルーの体をそのまま幼くしたような幼体として生まれるのか。それとも、全く別の形態のアラガミとして生まれるのか。この蛹化現象自体が明らかなイレギュラーである以上、むしろ元通りである可能性のほうが低いくらいですよ……」
「そんな……」
蛹の中で、コアの形だけは保っている……が、それ以外は液状化して形を留めていない。そこから新たな体を再構築できたとして、元通りのものができる保証はどこにもない。
そればかりか。
「しかも、お姉さま……コア以外はすべて液状化しているんですよ? つまり、脳に当たる部分も今は喪失しているということです」
「まさ、か……」
「ええ……たとえ体の再構築ができたとしても。
ラケルの言葉に、部屋の空気が一気に重くなった。
「致命傷を癒すために、一度体をリセットして再構築する──つまり、コア以外のすべてが作り直される。結局のところ、オラクル細胞も広義で言えば細胞です。その構成要素である生体分子がはっきりしているのであれば、生体組織としての再現性を取るのはそこまで難しくない……ですが」
「記憶や人格……高次認知機能の再現性なんてとれるわけがない……」
「私の脳も、お姉さまの脳も……いいえ、ここにいるみんなの脳は生物学的にはすべて同じもの……ただ形を真似るだけなら不可能ではないのに、その中身は明確に異なります。今の科学で完全には解明できていない【心】については、我々ではどう頑張っても介入できないんですよ……」
ゆえに、元の体を取り戻せたとしても、チハルたちの知っているルーではなくなっている可能性が大いにある。ルーというアラガミは元々イレギュラー的な存在なのだから、今回のリセットによってアラガミとしての本来の性質を取り戻してしまう可能性もある。もちろん、ただの考え過ぎの可能性だってあるわけだが、楽観視できない事実であるのは疑いようがない。
「本来であれば、アラガミに脳なんて存在しません……食欲以外の衝動なんて、持ち合わせていないのです。ですが、ルーは特別です。あれほど確かな認知機能がある以上、脳が無いわけがないんです……」
「待って……待ってよ博士。それってつまり……もし、ルーちゃんが目覚めたとしても。ルーちゃんがルーちゃんじゃなくなっていたら……!」
震える声で、泣きそうになりながらチハルが榊に問いかける。
榊は、沈痛な面持ちをしながらもはっきりと答えた。
「その場合は──我々は、決断を迫られることになる」
少しばかり濁された言葉。しかしながら、その
「……あえて言わせてもらうが、蛹というのは羽化しないこともある。外的衝撃を受けたり、あるいは周囲環境が悪かったり……理由なんて無く羽化しない、というのもあるね」
「じゃ、じゃあなんだよ博士……ルーが、俺たちの知っているルーとして目覚めるかどうかってのは……」
キョウヤの震える声。誰もが頭に描くも口に出せなかったその言葉を、榊ははっきりと口にした。
「ルーくんが羽化するかどうか、羽化したとして元の肉体を取り戻せるかどうか、そして記憶や人格を保持しているかどうか……この三つの賭けに勝たねばならない」
「嘘だろ……」
「もっと言えば……ルーくんが
「え……」
「蛹化、すなわちアレをあくまで昆虫と同じ蛹としてみるならば、早いもので二週間くらいだろうか。哺乳類……狼としてみるならば、その妊娠期間である二か月前後が体の再構築に必要な年月として妥当だろう。ルーくんの脳は人間と同じくらいに発達していると仮定するなら……それだけ高度な脳を再構築するのに、人間と同じく十か月ほどかかるかもしれない」
「……」
「かつての生物は、体が大きいほどその妊娠期間も長くなる傾向があった。地上最大の動物……体長7mほどにもなるゾウの妊娠期間は二年弱だったか。全哺乳類の中で最大となると、海に住むシロナガスクジラが体長30mほどだったはずだが……確か、体長20mほどのホッキョククジラの妊娠期間も二年弱であったはずだね」
「ま、待ってくれよ博士……その、ゾウってやつの大きさは……」
「……体感だが、グボロ・グボロと同じかそれより一回り大きいかどうかと言ったところだろうか。……加えて、寿命が長いものや、生態系の頂点にいるもの……つまりは強い動物ほど、妊娠期間が長い傾向があった」
「なんだよそれ……! じゃあ、グボロよりデカくて事実上寿命が無くてどんな生き物よりも強いアラガミであるあいつが、その体を再構築する時間は……」
「……あくまで、普通の生物の場合の話だよ。オラクル細胞にかつての生物の常識は当てはまらない。さっきも言った通り、予測なんて誰にも付けられないんだ」
しかしそれでも、ただの希望や願望よりかはしっかりとした根拠。アラガミはあくまで元となった生物の形質を取得しているというのなら、元の生物と同じ特徴が表れてもおかしくない。その場合……単純に考えて少なくとも二年、その他の条件も考慮するとそれよりはるかにかかる可能性もあるのだ。
「だからこそ……キミたちには、出来る限りルーくんに声をかけてあげてほしい。外部からの刺激に対して反応がある以上、ほかならぬキミたちからの刺激は本来のルーくん自身を刺激し、呼び起こすきっかけになり得る。体を再構築する中で、ルーくんが大事なものを見失わずにい続けられれば、きっと……」
「──なるほど、広義での胎教ということですか。確かに、今はそうするしか手は無さそうですね……」
「あー……確かに、サクヤもおなかに話しかけると赤ちゃんもちゃんと返事をしてくれるって言ってたっけなあ……。名前を呼ぶと、明らかに反応が違うとか……」
俺が呼び掛けたときは全然反応なかったんだが……と、リンドウは顎に手を添えながら首をひねる。
「……まあでもなんだ、
「……ですね。今でこそ普通に倒せますが、ハンニバルが出始めたころは……コアを摘出しても即座に新たなコアを再生成する、文字通りの不死のアラガミでしたから。あの不死性を取り込んでいるなら、きっとルーもすぐに元に戻りますよ」
ぽん、とアリサが優しくチハルの肩を抱き、その背中を優しくさする。リンドウとアリサのその言葉の意味を正確に理解できた人間は少ないし、実際チハルも半分ほど何を言っているのかわからなかったが……それでも、あのリンドウとアリサがそう言い切ってくれたということに、言葉にできない安心感を覚えることができた。
「うむ。知っての通り、ルーくんは訓練室に安置されている。キミたち神機使いなら自由に立ち入ることができるから、積極的に声をかけにいってあげてほしい。あとは……差し入れとして、アラガミのコアを持っていくのもいいだろうね。蛹の上に置いておくだけで、時間をかけてゆっくりと吸収してくれるから」
「……あんな姿になっても、飯を喰うことだけはできるんだな」
「あはは……ルーちゃんらしいや。……いっぱい食べさせたら、その分早く起きてくれるのかな」
「やらないよりかは、やったほうが良いだろ。……今更ながら、結局今のあいつは蛹であってるのか? 繭のようにも干からびたミイラのようにも見えるし、あの中から新しく生まれるってことは卵ってことでもある……のか?」
結局のところ、チハルたちはルーが復活するのを信じるしかない。榊やラケルでさえも本当のところがわからないのだから、チハルたちはただ、言われたとおりにするしかないのだ。そしておそらく、それが今この場でできる最も賢い選択なのである。
「……あいつの容態の話は、これで終わりだよな?」
ずっとタイミングを見計らっていたのだろう。
先ほどから壁に寄りかかり、ずっと目を瞑っていた人物──ソーマが、静かに口を開いた。
「コウタ達の話も終わった。ルーの話も終わった。……まだ、一番ヤバい話が残っている」
「……」
一番ヤバい話。
その言葉が出た瞬間に、その場の空気が引き締まる。まだ具体的な言葉なんて出てきていないのに、誰もが同じものを思い浮かべてしまった。
「うむ──ルーくんたちを襲った、未知のアラガミについてだね」
「……ルーはカリギュラの氷の吐息の直撃を受けてもピンピンしていられるほどに頑丈だ。あいつがアラガミの爪や牙で傷ついたところなんて見たことが無い。そんなあいつをあれほどまでに痛めつけることができるアラガミなんて……俺には、想像がつかない」
「ええ……しかも、そのアラガミは私たちの前に一切姿を現していません。攻撃形態から察するに、超遠距離から攻撃しているように思えますが……ですが、それにしては攻撃精度が高すぎる。あれほど精密な攻撃なんて近くにいなければ不可能のはずなのに……私たちは、そんなアラガミを見ていない」
あのルーを傷つけることができるほどの超威力の攻撃。これだけでも信じられないというのに、超遠距離から超精密な砲撃すらして見せた。通常であれば、距離が遠くなればなるほど攻撃の威力も命中精度も悪くなるはずなのに、あの時チハルたちを襲ったあの集中砲火はそんな常識を覆している。
「アラガミを恐ろしいと思ったことは何度もありますけれど……こいつは唯々、得体が知れません。違和感がすごくて、まるでその正体が掴めない……」
「うーむ……報告書も読ませてもらったが、読めば読むほどなんかおかしいんだよな……。アラガミの攻撃なのは間違いないんだが、ただの特異個体って感じはしない。未知の新種と言われればそれまでだが……なあジュリウス、一応聞くがフライアのほうでこういうアラガミに関する情報ってのは……」
「いえ……さすがに記録にありませんね。リンドウ殿にもわからなくて、アナグラのデータベースでもヒットしないアラガミとなると、やはり完全な新種と考えるべきでは? この極東なら、我々の想像を超えるアラガミが発生したとしてもおかしくないと思いますが」
「そりゃそうなんだがよ。それにしたってこいつはなんかおかしいってみんなが感じているんだよな……」
リンドウや、ソーマ、アリサでさえもまるでその正体の推測が出来ない、得体のしれないアラガミ。アラガミに関して最も研究が進んでいる極東のデータベースでもヒットしないし、極東とは別口でデータを蓄積しているフライアにも関連する記録はない。ただ強力なだけのアラガミであれば新種だろうとなんだろうといくらでもやりようがあるが、しかしその姿形さえもわからないとなると、神機使いではもうどうしようもないのだ。
「相手の正体さえつかめれば、不意をついてぶっ殺せると思うんだがな。ルーがやられたのも、結局のところ不意打ちを食らったからだろ? つまりそいつは、真正面からルーを倒すのは無理だって判断したわけだ。姿を隠しているのも、タイマンじゃ勝てないから……ってことだろ?」
「どうでしょう……アリサさんたちの話を聞く限り、相当強力な攻撃を扱えるアラガミのはずですよ? そんなアラガミであれば、正面戦闘であろうと問題ないと思いますが……」
「……」
「……逆に、アラガミではないという可能性はありませんか? 赤い雨というわけではありませんが、例えば周囲のアラガミが異常活性するなんらかの自然現象が発生していたとか……。あの場にいたすべてのアラガミが異常活性していたとするならば、一応の理屈は通ると思うのですが」
「それ、は……いや、どうなんだ? 確かに筋は通るが、だとするとアラガミ同士の連携が取れすぎているってことになるぜ? さすがにあの逃走ルート全域のアラガミ全てが連携してアリサたちを襲ったってのは、ちょっと無理があると思うんだが」
話し込むリンドウとジュリウス。しかしもちろん、明瞭な答えなんて出るはずがない。時折アリサやソーマ、シエルも口をはさむがやっぱり議論に進展なんてあるはずもなく、それ以外のメンバーともなればただ黙って話を聞くことしかできていない。
「……と、こんなもんか?」
「……リンドウ殿?」
やがて、ある程度意見が出尽くしたところで。
リンドウは、少々わざとらしく榊に向き直った。
「話したがりのあんたが、ここまで口を挟まず黙って見ていたんだ……そろそろ答え合わせをしてくれても良いだろ?」
「……は? リンドウ殿、それはいったい……」
「ジュリウス、よく覚えておけ。普段だったら、このおっさんは喜々として会話に交じりたがる。それをしなかったってのは俺たちの議論を……考えを聞きたかったってことで、それはつまり既に自分の中に何かしらの明確な答えを持っているってことだ」
「はは……何をそんな馬鹿な」
「あと、さっきからヒバリのやつがちょっと気まずそうに視線を逸らしてる。無理やり共犯者にされたんだろうな」
一斉に集中する視線。そんな視線に耐え切れなかったのだろう、ヒバリはぎこちなく笑みを浮かべ、助けを求めるように榊を見つめた。
「ふむ……結論から言うと、その正体不明のアラガミについては大まかな予想がついている。というか、共犯者は私だけでなく……ハルオミくんたちも該当するんだけどね」
「「えっ」」
ハルオミたち……つまりハルオミとカノン、そしてシエルとナナの、あのとき別動隊としてコクーンメイデンの討伐任務に出ていた四人だ。
「んだよ、お前らいつからそっち側の人間になったんだよ……」
「いや、全く心当たりが無いんだが……」
若干非難染みたリンドウのその言葉を、しかしハルオミは自身も信じられないとばかりに否定する。同じくカノンも慌てたように首を横に振っており、そしてそれはシエルも、ナナもまた同じであった。
「……どういうことだ? シエル、ナナ……お前たちは無事に討伐任務を達成したと報告を受けているが、それ以外に何かあったのか?」
「な、何にもないよー? そりゃ、言われてみればなんかちょっぴりコクーンメイデンが強かった気がするかもだけど、ホントにそれくらいだし……」
「私たちも、あの緊急通信を受けて即座に撤退することを決めたくらいですから。例の現場だって……何か大きな破壊音が遠くから少し聞こえてきたくらいで、詳細を知ったのだってこちらに戻ってきてからですし……」
「そ、そうですよ……あ、でも、強いて言うなら──」
何気ないカノンの一言。
それはこの極東の日常茶飯事だったがゆえに、誰も気にしていなかったことであり。
そして──まさしく、この事態の解明するための大きなヒントになるものであった。
「なんかちょっとヘンなコクーンメイデンがいました! 体の色がちょっぴり黒っぽかったんです!」
色がちょっと違うコクーンメイデン。そもそも、コクーンメイデンは堕天種も合わせれば都合四種類もいるわけで、そのカラーバリエーションは結構豊富だ。そうでなくとも奇形や亜種の類が頻繁に見つかるこの極東においては、ちょっと色が違う程度であれば別に珍しくもなんともない。黄金に輝くグボロ・グボロだっているくらいなのだから、たかが少しばかり色が黒ずんだコクーンメイデンなど、目の錯覚か気のせいで流されてもおかしくないくらいだろう。
しかし。
「まさか……!」
カノンのその言葉を聞いた瞬間に、ラケルの表情は驚愕に染まった。
「まさか……!
「ら、ラケル先生……?」
「……っ! カノンさん……! いえ、ナナでもシエルでも構いません……! そのコクーンメイデンは、黒かったのもそうですが……
「え……えーっと……確かに言われてみれば、そういう風にも見えたような……」
「そ、その……すみません、あまり記憶に残っていない、です……」
中型以上のアラガミならともかく、そこらに掃いて捨てるほどいるコクーンメイデンのことなんていちいち覚えているわけがない。それはこの極東で活動する神機使いならば当然のことで、シエルたちを責められる人間なんてどこにもいないだろう。
しかしそれでも、ラケルの中では確信に近い考えがあるらしい。なにやらブツブツと──自分の頭の中の考えを口に出して咀嚼することで、自らの中に芽生えたその疑惑を確たるものにしている。
「ラケル先生……あなたはいったい、何に気づかれたのでしょうか……?」
「──榊博士」
ラケルは、はっきりと問いかけた。
「その謎のアラガミの正体は──コクーンメイデンですね」
その言葉に皆が唖然とする中で。
ラケルはさらに、もはや確信しているかのように告げた。
「それも、ただのコクーンメイデンではありません。ジュリウスの言葉も、雨宮少尉の言葉も正しい。アレの正体は……」
新種のアラガミだとしても何かおかしいというリンドウの言葉。
特異な何らかの自然現象の可能性を疑ったジュリウスの言葉。
そのどちらもが正しいという、ラケルのその考えを。
「ラケル博士の考えている通りだよ」
榊は、表情を一切変えずに肯定した。
「我々が倒すべき敵の正体は──終末捕喰だ」