「……ん、ぅ」
何かふわふわで暖かなものの中で、桜田チハルは目を覚ました。
どういうわけか、全身がすごくあったかい。ふかふかでふわふわしていて、まるで上等なベッドで寝ているかのよう。どこか懐かしさを覚える穏やかな匂いと、お母さんに抱きしめられているかのような絶対的な安心感。天国と言われても信じられるくらいに……チハルは心地よさに包まれていた。
できればこのまま眠っていたい、というのがチハルの本心だった。自室のベッドは古くてスプリングが全然効いていないし、こんなにふかふかもしていない。一方でこのふかふかはこの前訪れた支部長の執務室のソファよりもふかふかだというのだから、まず間違いなくこの極東で一番ふかふかだと言っても良いだろう。
一日くらい、お寝坊さんになっても許されるかな……なんて、すっかり安心しきったチハルが考えたところで。
「……っ!?」
ようやく、チハルの頭が現実を認識し始めた。
「……あ」
アナグラの自室ではない。自室どころか……建物の中ですらない野外。
──ルゥゥ?
「……っ」
そう、チハルは。
チハルを助けてくれた、この真っ白なアラガミの尻尾に埋もれて眠っていたのだ。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「お、おはよー……」
ふかふかでふわふわなそれ──そのアラガミの尻尾から体を離して、チハルは改めてその様子をじっくりと観察した。
体付きとしては、ヴァジュラ神属と似ている感じがする。大きさとしては、ヴァジュラよりも二回りくらいは大きいくらい。すごく白くてふわふわもこもこしているから、実際よりもだいぶ大きめに感じているような気がしないこともない。
「……」
──ルゥ?
堪らなくなって、抱き着いてみれば。
その白くふかふかな体にチハルの体が沈んでいく。傍から見れば、飲み込まれているようにも見えるかもしれない。チハルの体格が小さいということもあるのだろうが、それにしたってこのアラガミは、今までに類を見ないほどふかふかな体をしているのは間違いなかった。
「……うへへ」
チハルにとっては嬉しい誤算。どうやらこのアラガミはチハルを襲う気がまるでないらしい。少なくとも、こうしてされるがままにされていても動じない程度には落ち着きがあり、大人しい性格をしているらしかった。
「やっぱりあなたは、良いアラガミ……なんだよね?」
凶悪そうなオオカミの顔に、禍々しい仮面。見た目はとってもおっかなく、チハルが今まで見てきたどんなアラガミよりも迫力がある。冗談でも何でもなく、その瞳に見つめられた時にチハルは死を覚悟している。
だけれども。
「あ……あはは! ちょ、くすぐったいってばぁ……!」
その凶悪な相貌とは対照的に、そのアラガミは子犬がじゃれつくようにしてチハルの体に鼻面をこすりつけていた。
「ほーらほら……ここかな? ここがいいのかな?」
──ルゥゥ……。
チハルが顎の下をわしわしと掻いてあげると、そのアラガミは満足そうに喉を鳴らす。仮面の下の表情なんて見えないはずなのに、なぜだかチハルには、このアラガミが安心しきったように緩んだ表情をしているのが確信できた。
「ねえ……あなたは」
あの時。どういうわけか、この白いアラガミはアラガミの群れに襲われたチハルを助けてくれた。
──縄張りを荒らされて怒ったから?
それはない。だってあのあと、ここまで移動してきているのだから。
──単純にご飯のため?
それもない。だってそのあと、捕食行動なんてしていないのだから。
「私を……助けてくれたんだよね」
そうとしか考えられない。そうでなければ、チハルはあの場で食われていたことだろう。あるいは、戦闘に巻き込まれて死んでいたはずだ。あの大乱戦の中、チハルが無事でいられたのは……このアラガミが、チハルを守るように戦っていたからにほかならない。
「……ありがとね」
その上さらに、このアラガミはチハルの治療さえも行っている。神機使いたちが用いる回復弾とよく似たそれを使って、チハルの傷を見事に癒して見せたのだ。さすがに本物の回復弾ほどの効果は無かったものの、【アラガミが人間の治療を行う】ことがどれだけ異例なことなのかは、チハルもわかるつもりだった。
ここまで状況証拠が揃ってしまえば、このアラガミがチハルを助けようとしているのは明確だろう。【アラガミは人類の敵だ】という常識も、このアラガミに関しては適用されないということになる。
「……ねえ」
──ルゥ?
だから。
どうせ一度は捨てた命で、あまりにも都合の良すぎるこの現実でもあるのだから。
ここは一つ、賭けてもいいのではないか──と、チハルは考えた。
「昨日の夜も言ったかもだけど……また、私をあなたの背中に乗せてくれる? 私、アナグラに帰りたいの」
仮面越しの、凶悪な眼がチハルをじーっと見つめて。
「ぐぇ」
──チハルの後ろ首を甘噛みして、そしてぽすんと背中に乗せた。
「そう! そうなの! えらいぞぉ!」
──ルゥゥ!
「よーし! それじゃあ、出発……って!?」
背中に乗るところまでは良かった。ぽんぽんと体を叩いて、出発の合図を聞き入れてくれたのもよかった。
「違うってば! そっちじゃなくって、あっち!」
だけれども……そのアラガミが走り出したのは、アナグラとは全く別の方向。わざわざ綺麗にターンして、どんどんアナグラから離れる方向へ……すごいスピードで駆けていく。
「ダメっ! 止まってってばぁ!」
──ルゥゥ……!
チハルがどんなに合図を送ってもそのアラガミは止まらない。
──やっぱり言葉は通じないかあ。
その背中に必死にしがみつきながら、チハルが自らの考えが少々甘かったことを悟った。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「よう、ヒバリ」
「……リンドウさん?」
夜。誰もいないラウンジでぼんやりとマグカップを持っていたヒバリは、後ろからかけられた声にのろのろと振り返った。
「何やってんだ、こんな遅くまで……子供がこんな時間まで起きているのは感心しないぜ?」
「ふふ……私、もう子供じゃないですよ? ついこの前に二十歳になったんですから」
ちょうど任務が終わって、寝る前の一杯でも楽しみに来たのだろう。リンドウはごくごく当たり前のようにカウンターの中に入って、お気に入りであろうそのボトルを慣れた手つきで引っ張り出す。ムツミ以外でこうもカウンターの中に精通している人間を、ヒバリはリンドウ以外に知らなかった。
「……無断で持ち出すのは感心しませんね。ムツミちゃんに言いつけちゃいますよ?」
「そのムツミちゃんがいないんだからしょうがないだろ……あとで俺の給料から天引きしといてくれよ」
「管轄が異なるので、そういった経理処理は承りかねます……というか、システム権限上できないです」
「マジかよ。全部お前が管理してるもんだと思ってた」
ボトルと一緒にグラスも持ち出して、リンドウはヒバリの隣に座る。きゅぽんとコルクが外されると、なんとも言えないお酒特有の芳香が広がった。
「開けちゃった……」
「心配すんな、後でちゃんと払うから」
とくとく、とグラスに酒が注がれる音がラウンジに小さく響く。さすがというべきか、グラスを片手にするリンドウはヒバリから見てもなかなか雰囲気があるというか、その姿がサマになっていた。
「せっかくだから夜のデートとしゃれこもうぜ? こういう雰囲気でおしゃべりするってのも悪くないだろ?」
「リンドウさんったら……サクヤさんに言いつけますよ?」
「おう、言ってみろ……今のお前を放っておいたら、そっちの方がよっぽどブチ切れられるだろうしな」
「え」
先ほどまでとは明らかに違う、真剣さを孕んだ声。リンドウはまっすぐ真正面を見据えたまま、グラスを静かに傾けた。
「お前……全然寝られてないだろ」
「……」
「自分じゃ気づいていないだろうが、酷い顔だぞ」
リンドウはヒバリのことをちらりとも見ていない。まるで旧友と話しているかのように、顔なんて合わせなくても分かっているかのように、ともすればそっけないとも思われる態度で……ただただその言葉を紡いでいる。
──それが、今のヒバリにはとてもありがたかった。
「大体の想像はつくし、慣れるはずもないだろうが……それにしたってその顔は」
リンドウとヒバリの付き合いはそこそこ長い。なんだかんだでもう七年ほどになる。その間、今回のようにヒバリが落ち込むこと──具体的には、見知った神機使いが殉職してしまうことは決して少なくなかったが、ここまで酷い顔をしているヒバリを見るのはリンドウでさえも初めてだった。
「……バレちゃいましたか。お化粧で、隠していたつもりだったんですけど」
「流石にこんな時間にもなれば、化粧も崩れるだろ」
「……デリカシーの欠片もありませんね」
「だろ? だから……そんな人間になら、愚痴でも何でも言ったって良いと思うぜ」
相変わらずまっすぐ前を向いて、ヒバリの方をまるで見ようともせずに。リンドウは、ゆっくりとそのグラスを傾けた。
「……」
「……」
無言。耳が痛くなるほどの無言。
とくとく──と、リンドウが二杯目をグラスに注ぎ始めたところで、ヒバリは静かに語りだした。
「……聞こえ、ちゃったんです」
「……」
「すぐ切れちゃったし、すごく小さかったし……ノイズが酷かったし、たぶんきっと、気のせいかもしれないんですけど」
小さく、カタカタとヒバリが震えている。体も震えているし、声も震えている。
「あの時一瞬だけ、通信が復活して……聞こえちゃったんです」
「……何が、聞こえたんだ?」
その言葉を聞いて。
リンドウは、自分がとんでもない失敗をしたことを理解した。
「『おかあさん』……って、チハルさんの声が」
ガツンと頭をぶん殴られたかのような衝撃。グラスを傾けていた手がぴたりと止まり、心地よく喉を焼いていたはずのそれが、酷く悍ましいもののように変質していく。
「『おかあさん、おかあさん』って……チハルさんが、泣いてたんです」
「……そ、れは」
「『助けて、おかあさん』……って、泣いてたんですよ……」
桜田チハルは、明るい少女だったとリンドウは記憶している。話を聞く限りでは、面倒見が良いムードメーカーでもあったという。そして、その上で……先輩として、自らを囮として後輩を逃すという、勇気ある最期であったと聞いている。
そんな、勇敢な神機使いが。
最期は、どこにでもいる少女として死んでいった。
そのあまりにも生々しい死にゆく声を、このオペレーターは聞いてしまったのだ。
「変な話ですけど……一次報告を聞いて、チハルさんらしいなって思ったんです。チハルさんなら、そうするだろうなって。……でも、やっぱり。すごく、すごく怖かったんだなって……」
「……」
「そりゃそうですよね。死にたい人なんているわけないですもの。いくら神機使いといっても、チハルさんはまだ十五歳の、私より年下の女の子、なんですから……」
「……」
「あはは……おかしい、ですよね。こんなの、別に初めてじゃないのに。なのに私、新人みたいに震えちゃって……」
「……」
「どうして、あの時だけ聞こえちゃったのかなあ……っ!」
もう、リンドウは何て声を掛ければよいのかわからなかった。覆しようのないその事実を、どう受け入れればいいのかわからなかった。無駄に年だけを重ねている自分を、アラガミを屠ることばかりに長けて気の利いた言葉の一つもかけて上げられない自分を、あまりにも無力でどうしようもない自分を、思いきり殴り倒したくなった。
「……聞こえるん、ですよ」
ぽた、ぽたと雫が机を打つ音が少しだけ収まって。
嗚咽交じりのその小さな声は、容赦のない現実を突きつけた。
「眠ろうと思って、目を瞑ると……チハルさんの声が。暗闇の向こうから、『助けて、おかあさん』、『痛いよ、おかあさん』……って」
「……」
「……そんなわけ、ないのに」
だから、眠れない。だから、こんな夜遅い時間なのに一人でラウンジにいる。だから、こんなにも酷い顔をしている。
そしておそらく……このオペレーターの性格を考えるならば。
こうして誰かに打ち明けたのも、これが初めてなのだろう。今までずっと自分一人で抱え込んでいたであろうことは、想像するまでもない事だった。
「そうだな……俺から言えるのは、三つだ」
せっかくその理由がわかっても、リンドウにはどうすることもできない。涙の一つも止めてあげることができないし、慰めの言葉もかけてあげることができない。
──あまりいい方法じゃないんだが。
だから……リンドウは、素直にそれの力を頼ることにした。
「──まずは泣け。思いっきり泣け。声が枯れるまで泣け」
「……」
「泣いてダメなら飲め」
「……えっ」
「そんで寝ろ。ぐっすり眠って……明日の自分に任せちまえ」
ぐ、とリンドウはグラスに残っていたそれを一息で呷った。
「眠れないってのなら、朝までいくらでも付き合ってやる」
「……」
「そうでもないと、
結局、人の心を癒せるのは時間でしかない。リンドウにできるのは、その間の心の苦痛を少しでも和らがせることだけだ。
「リンドウさん……」
リンドウの言いたいことが、わかったのだろう。
ヒバリは、未だ涙の痕が残る顔で弱弱しく笑った。
「……それ、三つじゃなくて四つでは?」
「……それもそうだな」
ヒバリさん、かなり大人っぽくてデキるおねーさんみたいな雰囲気醸し出していますし、事実としてオペレーターのリーダー格みたいなところありますが、何気にアナグラのメンバーの中では下から数えたほうが早いくらいに若いです。
GE2開始直前時点にて、ヒバリさん(20歳)より年下のネームドのゴッドイーターはアリサちゃん(18歳)、コウタくん(18歳)、エリナちゃん(14歳)しかいないです。アリサちゃんはあの性格ですし、エリナちゃんはまだ配属されたばかりなので、【それなりに付き合いが長い、普通の年下の女の子のゴッドイーター】の殉職は今回が初めてだった……とここではしています。
ビールは配給だって? ……配給対象外の、逆に現ナマでしか買えない高級なお酒だったということでお願いします。