「おいで、ルーちゃん!」
「こっち! こっちだノラミ!」
さて。
さてさて。
さてさてさて。
極東、エイジス島。いろんな意味で曰くがありまくるこの小さな島──今となっては私のお家であるこの島にて、腕を開いて必死に私に呼びかけている神機使いが二人。
一人は私の娘……もとい、私と最も縁が深い神機使いであろうチハルちゃん。ここ最近全然姿を見なかったけれど、どうやらようやっとこうして外出(?)することも許されるようになったらしい。見る限り血色も良く、体に取り立てて異常なところは無さそうだ。素敵なバンダナでばっちりおめかししていて、ママもとってもほっこりするっていう。
んで、もう一人もバンダナを着用した神機使い。それもびっくり、某所ではフラグブレイカーと名高いあのコウタくんだ。クレイドルのジャケットを羽織ったGE2時代の彼は、GEB時代の時よりもずいぶんたくましく、頼りがいのある立派な青年に成長している……のはいいとして。
「ほら、ルーちゃん! 久しぶりに顎の下をかいてあげるよっ!」
「お、俺だって! え、えーと……あ、頭をなでてやるから! だからほら、こっちに来るんだノラミ!」
チハルちゃんが、満面の笑みを浮かべて腕を開いている。
コウタが、腕を開いて必死になって私に呼びかけている。
おそらく、というか間違いなく。これは例の誤解──【体の匂いを嗅がせることで友好的な存在であると示している】ってやつなのだろう。さすがに何度もやればそのくらい察しはつくし、別段それ自体はどうでもいいことなんだけど。
「ルーちゃん!」
「ノラミ!」
……まさかとは思うけど、これが私の名前になるのだろうか? アラガミの名前ってなんかこう……もっと、格式ばったちゃんとした名前が宛がわれるものだとばかり思っていたんだけど。こいつぁマジにただのデカい犬扱いされているんじゃねって思わないことも無い。
ただまぁ、この二者択一なら、もはや考えるまでも無いわけで。
──ルゥ。
「あっ……!?」
「……よぉし! いい子だね、ルーちゃん!」
のそのそと動いて、チハルちゃんの体に鼻を寄せる。ぱあっと太陽のように笑ったチハルちゃんが、慣れた手つきで私の顔を抱きすくめてきた。そのまま流れるように顎の下をわしわしわし──と、もはやプロと言っても差し支えないレベルの流麗なる動き。この安心感よな。
「ず、ずるいぞチハル! お前がそう言う風に呼びかけたら絶対そっちに行くに決まってるじゃないか!」
「えー? 納得できない、呼びかけに反応する名前にすべきだ……って言ったの、コウタさんじゃないですかあ」
「もっとフェアな条件でやるべき! そうだ、今度はチハルがノラミって呼びかけてくれ!」
私の目の前でぎゃあぎゃあと騒ぐこの青年は、とてもじゃないけどあの第一部隊の隊長とは思えない……良い意味で、年相応に見える。たしかGE2で18歳のはずだから、私の感覚で言えば高校三年生男子ってところ。教室で友人たちとバカな話で盛り上がっているような年頃だ。
「もぉ……えっと、ノラミ?」
ちょっと心苦しいけど、当然無視。
「…………ルー?」
──ルゥ。
せっかく返事をしてあげたのに、コウタはがくりと肩を落とした。
「……バンダナだ。そうだ、きっとこいつはバンダナで個人を判別してるんだ。なあチハル、ちょっとバンダナ交換してやってみようぜ?」
「良いですけどぉ……」
しゅるしゅるしゅる、と二人はバンダナを解き、そしてきゅきゅっと交換したそれを頭に巻きつける。蜘蛛の模様が入ったちょっとダークでオトナなバンダナも、ウチの娘にはよく似合っていて良いですわね。
「おいで、ノラミ?」
「……こっちこい、ルー」
もちろん、ノラミの声だけ無視をする。いったいどうして、彼はここまで「ノラミ」という名前にこだわるのやら。シオちゃんの時もやたらとノラミって名前を付けたがっていたし……アレか、バガラリーに関する名前だったりするのかね?
「ちっくしょおお……! こんなにもノラミって感じの見た目をしているのに……!」
「うーん……ちょっとわかんない感覚だなあ……」
さて。なんだかよくわからんけど、ひとまず私は【ルー】って名前になった。たぶん、鳴き声からあやかって名付けられたのだろう。なかなか呼びやすくて良い名前なんじゃないかと思う。
で──当然のごとく、彼らもただ単純に私に会いに来たってわけじゃないだろう。第一部隊の隊長と、今の所私を唯一飼いならせる(?)チハルちゃんが連れ立ってやってきたのだから、その意味も推して知るべし、というやつだ。
というか、そもそもとして。
「うっわー……! 話には聞いていたけど、本当に人の言葉を理解しているみたいだね……!」
「顔はちょっとおっかないですけど……ふふ、大人しそうないい子ですね」
作業着姿のちっちゃいエンジニア──リッカさん。
いつものオペレーターの制服ではなく、動きやすそうな制服(?)に身を包んだ──ヒバリさん。
あとついでに、無言でじっとこっちを見ているソーマ。
このエイジス島に、ゲームの中でしか見たことが無かった人たちが集っている。や、ソーマはこの前チラッと顔を合わせることはできたけれども、まさか非戦闘員であるリッカさんとヒバリさんに出会えるとは。
ヒバリさんとはある意味じゃ一番会話するから必然的に親近感が爆上がりだし、そしてリッカさんとはGEBの病室でのイベントがヤバい。新人の頃、こっそりスタングレネードを横流ししてくれる茶目っ気も最高。最も会いたかった登場人物と言っても過言じゃない。
そんな二人が目の前にいるんだぜ? そりゃテンションも上がりますわ。
「えっと……さっきの二人みたいに、腕を開いて受け入れる……だよね?」
「な、なんかちょっと恥ずかしい……かも」
恥ずかしそうにはにかみながら、二人がそろって腕を広げる。
文字通り、受け入れ態勢バッチリのばっちこいって感じだけど……畏れ多くも、いったいどこまで許されるのやら。匂いを嗅ぐのってだいぶアウトな感じがするし、それ以外の親愛の表現……ワンちゃんとして頬を舐めるというのもだいぶアウトだと言わざるを得ない。見るからに子供や男相手なら全然気にもならないのに、実に不思議なものだと思う。
同性ならばセーフなのでは──と思ったけど、そもそもとして今の私が男なのか女なのかもようわからん。アラガミだから性別なんてあるわけないけど、人間としてのこの意識は男のものなのか、それとも女のものなのか。記憶が無いからさっぱりわかんねえや。
──まぁ、考えてもしょうがないことは考えないに限る。
「わ……!」
「お、思ったよりあったかい……!」
そろりそろりと足を進めて、二人の傍らでしゃがみ込む。上手い具合に体をずらせば……ふっかふかの自慢のワガママダイナマイトボディで二人を包めるって寸法よ。チハルちゃんと行動していた時は、休憩時間にしょっちゅうこうやってソファ代わりになってあげていたっけ。
「すごいね、こいつは……! アナグラのベッドとは比較にならないくらいに柔らかい……!」
「あそこで一番豪華なソファでも、このふかふか具合には敵わないかも……!」
そうでしょう、そうでしょう。いくらフェンリル関係者はそこそこの生活水準を保てるとは言え、こんな世紀末で高級な家具なんて望めるはずもない。ベッドがあるだけマシなこのクソッタレな極東において、私以上に快適なクッションなんて存在しないんじゃあるまいか。
……しかしまあ、リッカさんって実物(?)見ると思った以上に小さい気がする。体もほとんど私の白い毛皮の中に埋もれて、ぱっと見た感じ人がいるようにはとても思えない。
「……ヒバリ、どう思う?」
「うーん……明らかに普通のアラガミとは違うと思いますけど。でも、シオちゃんみたいな感じもしない……ような?」
そう言えば、人型アラガミであるシオちゃんのことって、一部の人間以外には知られていないんだっけか。非戦闘員であるこの二人がやってきたのは、おそらく知性のある友好的なアラガミとの接触経験を買われてのものなのだろう。
「神機使いとじゃれて遊ぶって話は聞いてたけど……今のところは無邪気な子供って感じはしないね」
「どっちかっていうと落ち着きがあって大人しい感じがしますよね」
あらやだ、意外と高評価。彼女らの中ではそれだけシオちゃんの印象が強かったのだろうか。
「ヒバリさーん? リッカさーん? ……もしかして、寝ちゃいました?」
「あはは、仕事が無ければこのまま寝ちゃってたかもね!」
チハルちゃんの声を聞いて、リッカさんが私のおなかから体を離す。ヒバリさんは名残惜しそうにぎゅっと強く抱き着いてから、表情を引き締めてチハルちゃんの方へと向き直った。
「ひとまず、非戦闘員──神機使い以外の人間に対しても、友好的であることが立証されましたね」
「これだけ人慣れしているなら、実験や検証もスムーズに進みそうだよ!」
それならよかった──と、チハルちゃんがにっこりと笑って。
そして、史上初となる
▲▽▲▽▲▽▲▽
「お願い、ルーちゃん!」
──ルゥゥ。
凶悪な面構えをした白い大きなアラガミが、小さな少女の一声に反応してゆっくりと身を伏せる。言葉を理解しているかどうかはわからないが、少なくともその意図を理解しているのは明確で、あえて語るまでも無く──普通のアラガミとしてはあり得ない行動だった。
「まずはまっすぐ20m走って、そのあと歩いて戻ってきてね!」
「はいっ! ……ルーちゃん、走って!」
了承を示すかのように一声鳴いて、巨体に似合わぬ軽やかな足取りで颯爽と走って。ざっくり20m走ったところでチハルの指示通り足を止め、くるりと振り返ってゆったりと歩いて戻る。
一番最初の課題は、これにて難なく合格だ。トラブルの一つも無い、実に模範的な動きと言っても良い。
「よしよし、じゃあ次は……正方形を描く感じで歩いてもらえる? 左回りで歩いた後は、今度は右回りで円を描く感じで戻ってきて!」
「はーい……ルーちゃん、まずはまっすぐあそこまで!」
止まれ、曲がれ、進め、止まれ……とルーの背中に乗ったチハルが淀みなく指示を出していく。
「ちっくしょぉ……! いいなあ……!」
「まだ言ってるんですか、コウタさん……」
自分の隣で本気で悔しがる姿がなんともおかしくて、ヒバリは小さく笑った。
ちょうどまさにヒバリたちの目の前で、チハルを背に乗せた白いアラガミ──ルーが、ゆったりと歩いている。チハルの指示に従って右へ左へ、加速し減速し、そして時折大きくジャンプ……と、まるで一心同体であるかのような動きだ。
チハルがルーを上手く乗りこなせているのか。それとも、ルーのほうが聞き分けがいいだけなのか。いずれにせよ、ほとんど思い通りに動かせるというその事実は変わらない。
「だって……! いいじゃないですか、あの相棒みたいな感じ! 自分のつけた呼び名に反応してくれるとか、最高じゃないですか!」
「だからと言って、ノラミはねえだろ」
ヒバリの心の中で思っていたことを、淡々とソーマが告げる。あまりにもストレートすぎる物言いにコウタは反論すらできず、そしてソーマはそんなコウタを無視して独り言を言うかのように呟いた。
「……少し、聞き分けが良すぎる気がする。意志の疎通ができたとして、どうしてあんなにもスムーズに動かせるんだ?」
「それは……」
リッカの送る指示──訓練メニューに則り、ルーの背中に乗ったチハルが指示を送る。最初は単調で簡単だった指示も、今やジグザグに動け、ダッシュと急停止を繰り返せ……といったように複雑なものになっている。
そんな複雑な指示を、この白いアラガミはこともなげにこなしている。余裕綽々というか、ゲーム感覚で軽々とこなしていると言っても良い。
「人慣れしているというのもそうですが、チハルさんとルーさんは五日間も一緒に行動していたわけですから。あのスタイルでアラガミとも戦っていたわけですし、そこまで不思議な話じゃないと思いますが……」
「……」
たしかに少々、賢すぎるように見えないことも無い。判断力と反応性を確かめる項目……急な指示変更に対しても、ルーは問題なく対応できている。というかそもそもとして、もはや【伝えられた指示を理解する】、【指示を実行する】の能力については、この場の誰もが疑っていない。
「女子供の方が懐かれやすいって話だったか?」
「ええ。定性的なデータとなりますが、ルーさんの友愛行動は年齢や性別で明確に違いが出ることが分かっています。体の匂いを嗅ぐことが基本となりますが、男性ほどその時間は短く、女性はやや長め。また、出会った回数が多い場合……つまり友好度が高いと、体を寄せてきたり尻尾で包んできたりするみたいです」
定量的なデータとしては示せないが、それは紛れもない事実だ。それがはっきりしたからこそ、非戦闘員であるリッカと自分がこうしてこの場にやってくることができたのだということも、ヒバリは理解している。
「あれ、そう考えると……ヒバリさんもリッカさんも、いきなり友好度高かったってことっすか?」
「そうなりますね。……ただ、最近はエリナさんやレイナさんも尻尾で包んでもらったり、体に触れさせたりしてもらえることが多いようですし、単純に人間に対する警戒度そのものが下がっているだけ、とも言えるかもしれません」
一方で、男性神機使いにはそういったことはほとんどしないこともわかっている。接触回数としてはレイナと全く同じであるはずのケイイチに対しては、ルーは自分からそういったことは一切行っていないのだ。
「『俺が触れようとすると露骨にイヤそうな顔するんだよ』……なんて、キョウヤさんは言ってましたけれど」
「あー……そういや、背中に乗ろうとしたら思いっきり逃げられたってボヤいていたなあ。チハルが一緒の時は普通に乗せて貰えてたのに」
「男は乗せたがらない……か。そう言えば、いったいどうやって指示を伝えて……いや」
言葉を一度区切ったソーマは、彼にしては珍しく──腕を大きく上げて、チハルたちに向かって手をひらひらと振った。
「……ソーマさん?」
「直接聞いた方が早いだろ」
そんなソーマの意図は、しっかりと伝わったらしい。意外そうに目を見開いたチハルが、ルーをゆったりと歩かせてヒバリたちの元へとやってきた。
──ルゥ?
「そ、ソーマさん? どうしましたか?」
「……なあ、どうやってこいつに指示を送ってるんだ?」
「どうって……普通に言葉でお願いしているだけですけど……」
「言葉を発しないでも動いているように、俺には見えたが」
「あー……進むときは背中をぽんぽん叩いて、右に行きたい時は右の方を叩いて……って感じでお願いしたりもしてますね。この子はすごく賢いから、ある程度こっちの意図を汲み取ってくれるんです。例えば──」
──ルゥ?
「ルーちゃん、ジャンプ!」
とんとん、とチハルが背中を叩いたその直後。
ほんの少しだけ後ろに下がったルーが、チハルの指示通りにその場で高くジャンプした。
「こんな感じ、ですね。背中を叩くのは歩け、走れ、止まれ……の時なんですけど、今は目の前に皆さんがいるから、別の指示だと意図を汲み取ってくれたんです」
「それなら、別の誰かでも指示を送れるってことだよな?」
こちらの意図を汲み取ってくれるほど賢いのであれば。チハルでなくとも、別の人間の指示であっても言うことを聞いてくれるのではないか。
そう考えるのはごく自然なことであり──当然、そんなことを榊博士らが考えていないはずも無かった。
「別の人を背中に乗せた場合の確認訓練……本当はもうちょっと後にやるつもりだったけど、先にやっちゃおうか」
手元の確認表に記入を行いながらリッカが呟く。訓練があまりにもスムーズに進みすぎたために、本来やるべき項目が既にあらかた終わってしまったらしい。確認する必要が感じられないほど良い結果を出している、というのもあるのだろう。
「えーと、まずはチハルちゃんと二人乗りでの確認だね。そうやって慣らしてから、今度は一人で──」
「いや、最初から一人でやってくれ。乗るのは……ヒバリだ」
「「えっ」」
本来なら、安全を考慮して最初は神機使い──コウタかソーマが乗る予定のはずだった。神機使いであれば、不慮の事故で振り落とされたりしたとしても大したケガは負わないのだから、至極真っ当な話だろう。
そこで十分に確認を取ってから、非戦闘員であるヒバリやリッカも乗れるかどうか確かめるという流れになっていた。当然、そんなのはソーマも承知していたはずなのに、事前のブリーフィングとは異なることを言い出したのだ。
「簡単に二つ三つ指示を出すくらいでいい。その後は……俺が乗る」
「ちょ、ちょっとどうしたのソーマくん? 何で急にそんな……」
「そうだぜソーマ! ここは予定通り、俺が……!」
「コウタ、ちょっと耳貸せ」
「あだっ!?」
ぐい、とコウタの耳を引っ張って。
ソーマはボソボソと──ほんの三歩の距離しか離れていないヒバリにも聞こえないほど小さな声で、コウタに何やら呟いた。
「……わかったか?」
「ええー……たしかにそうかもしれないけどさあ」
不満そうな顔をしながらも、それでも納得はしたのだろう。わざとらしく耳をさすったコウタは、それ以上の文句の言葉は言わなかった。
「えっと……とりあえず、ヒバリさんを乗せればいい……んですよね?」
「ああ」
チハルの指示に従い、ルーが伏せる。その上から手を差し伸べられてしまえば、ヒバリにはもう断るという選択肢はない。
「いけますか、ヒバリさん?」
「んぅ……っ! ちょ、ちょっと辛いかも……!」
チハルが軽くひらりと飛び乗っていたために忘れていたが、伏せていたとしてもルーの背中はヒバリの目線よりさらに高い位置にある。事務職でインドアなヒバリからしてみれば、例え補助があったとしても乗り移るにはなかなか難儀する高さだ。
「ちょっとお尻押すよ、ヒバリ」
「きゃっ!?」
意外なほど強くがっしりと引っ張ってくれる小さな手。
遠慮の一切も無しに尻を押し出してくるたくましい手。
そんな二つの補助があってようやっと、ヒバリはその白くふかふかな背中に乗ることができた。
「わ、わ……!?」
いつもよりはるかに高い視界。座席はおろか、安全柵の一つも無い。ちょっとでも油断をしたらあっという間にこの背中から転げ落ちて……命の心配こそないかもしれないが、骨折の一つや二つは免れないことだろう。
「思いっきりしがみついちゃって大丈夫ですよ!」
ヒバリを引っ張り上げたチハルは、ひらりと華麗な身のこなしでルーの背中から降りる。こうなるともう、正真正銘ヒバリは自身の力のみでこの大きなアラガミにしがみつかないといけない。
──ルゥゥ。
なるほど、確かに賢くて大人しい性格をしているのだろう。結構派手に毛をひっつかんだのに身動ぎの一つもせず、このアラガミはヒバリの指示を待っている。
背中の上は極上のカーペットのように柔らかくてふわふわで、そしてあったかい。人の目が無ければ、きっとヒバリは存分に抱き着いてこの心地よい感触を確かめていたに違いない。
「そ、その……! ここからいったい、どうすれば……!?」
「落ちないようにしっかり跨って、背中をぽんぽんって優しく叩きながら声をかけてあげてください!」
最初の指示は【歩け】。最も基本的で、最も単純で、最も簡単な指示だ。この指示によりルーはゆっくりと……具体的には、人間が小走りするのと同じ程度の速さで歩いてくれる。
この程度であれば、お互いに初めてであっても上手く意思疎通ができるのではないか。この賢いアラガミであれば、問題なくこなしてくれるのではないか。
誰よりもこのアラガミのことを知っているチハルも、ついさっきまで間近で訓練状況を観察していたリッカも、そして──これからまさしく指示を行う張本人であるヒバリも、そう思っていた。
なのに。
「──歩いて!」
言われた通り、背中を優しく叩きながらかけた言葉。
チハルがやっていたのと全く同じ──見様見真似ではあるが、そもそもとして特別でも何でもないその動きを、ヒバリは見事に再現して見せたのに。
──ル、ルゥウ……。
「……あれっ?」
歩いている。
進んではいる。
それは間違いない、のだが──。
「えええ……? なんか、すっごくぎこちない……!」
「歩きづらそうというか、見るからに窮屈そうにしてる……?」
すごく遅い。遅いというか、動きがぎくしゃくしている。乗っているヒバリでさえそう思うのだから、傍から見ている人からはもっと顕著に感じることだろう。
「わ、私何か間違えちゃいました……!?」
「そんなことないはず、だけどなあ……。チハルちゃんの時は、全く同じように指示してもっとスムーズに動いていたし……」
「おっかしーなぁ……指示自体は通じているみたいなのに……」
首を傾げ、うんうんと頭を悩ませる二人に対して。
「うっそぉ……!? マジでそうなの……!?」
「……やはり、か」
目を見開き、二人とは違う意味で驚愕しているのはコウタで……そして、得意そうに小さく笑っているのはソーマだった。
「どういうこと、ソーマくん? こうなるって……わかってたの?」
「簡単な推測だがな。上手く指示を聞き取れないか、あるいは聞き取れはするが判断に迷っているような素振りを見せるんじゃないかと思っていた。こいつの賢さなら、ぎこちなく歩き出すくらいはできるだろうと踏んだんだが……」
「それって……もしかして、この子の意思疎通のメカニズムがわかったってこと?」
「……さぁな」
言葉とは裏腹に、ソーマの顔には好奇心にあふれた小さな笑みが浮かんでいる。
「だが、確信は深まった……面白いものを、見せてやる」
「あっ!?」
言うや否や、ソーマは素早く駆けだして──タン、と軽快にルーの背中へと飛び乗った。
「邪魔するぜ」
「いえ……」
ヒバリの目の前に、金色のクレイドルの紋章がある。ソーマの背中は思っていた以上に大きく、そして何とも言えない頼りがいがあった。
「肩でも腰でもどこでもいい、しっかり捉まってろ」
「え……? ソーマさん、いったい何を……!?」
ヒバリに返事をするのさえ惜しむように。
どことなく弾んだ声音で──ソーマは、高らかに叫んだ。
「──Loup, cours !」
反射的に、ヒバリはソーマにしがみついた。
ソーマが何やら命令したのは明確で、そしてあの前振りだ。きっと何かとんでもない指示をしたのではないかと、知らず知らずのうちに目をぎゅっと瞑っていた。
なのに。
「……あれ?」
待てども待てども、何も起こらない。
先ほどのようなぎこちない体の揺れも……ましてや、軽快に風を切る音も、何も感じない。
「……ソーマ、さん?」
おそるおそる、目を開いてみれば。
「…………えっ」
信じられないとばかりに目を見開いているソーマと、全く動かない白いアラガミ──そして、そんなソーマを見てコウタがおなかを抱えて笑っていた。
あんまりそういうイメージないけど、リッカさん(21)の身長は150cm、つまり12歳の平均身長と同じくらいでめっちゃちっちゃいです。