──さすがに、今回ばかりは無理だろうな。
酷く荒い呼吸を必死に抑え込みながら、彼はぼんやりと思った。
今日もいつも通り、任務に出かけるまではよかった。最近ようやく出撃制限も解除されて、そこそこ遠くまで出向けるようになったのだ。休養もそれなりに取れたし、ここらでひとつガッツリ稼いでやろう……なんて、意気込みだって十分だった。
それなのに。
(くそ……っ! あいつら、あそこに陣取ってやがる……!)
(嘘でしょ……! もうホントやだぁ……!)
自分の隣には、泣きそうな顔をして神機を握っている二人の後輩がいる。たしか、数か月前にようやく神機使いになってから一年を経過したばかりの、まだまだ新人と言っても良いくらいの若い二人だ。
言いかえると──今この場で一番頼りになるのは、最も経験年数が多い自分ということになる。
(こうなったら、一か八かこっちから戦闘をしかけるしか……!)
(バカ、やめとけ。返り討ちにされるのがせいぜいだ。連絡は入れたんだから、このままジッと隠れるのが最善だって言っただろ)
彼はほんの少しだけ体を動かし、本来であれば帰路となっていたそこを忌々しそうに見つめる。
──どう見ても、ハガンコンゴウだよなあ。
筋骨隆々のたくましい金色の肉体と、背中に纏う羽衣。砕けた顔面からもがき苦しむように浮かんでいるのは、また別の人面。見ているだけで嫌悪感を抱かずにいられない容貌であるこのアラガミは、紛れもなくハガンコンゴウだ。
もっと言えば、今の彼らではどう逆立ちしても倒せないほど強力なアラガミで──そんなアラガミが、都合三体も居座っている。
(なんで……どうして! どうして接触禁忌種なんてヤバいやつらが平然とそこらを歩き回ってるんですか!)
(観測班はなにをやってるんですか! 作戦エリアに入られてから警告されたってどうしようもないじゃないですか!)
(気持ちはわかるが、マジで落ち着け。
後輩二人の気持ちは、彼には大いに理解できた。
だって──順調に任務が進み、次の討伐目標がいるエリアへ進もうとした矢先に「ヤバいアラガミが近づいている、急いで逃げろ」と連絡されたって、どうしようもない。たまたま運よく廃墟の影に逃げ込めたからまだよかったものの、あと十秒でも判断が遅れれば、きっと今頃三人まとめて仲良くあいつらのおなかの中にいたことだろう。
そもそもとして、彼は元々は別の支部で神機使いとなった身だ。その支部では期待の新人、エースなどと持て囃され、調子に乗って激戦区と名高いこの極東にやってきて──そして、自分が如何に世間を知らない人間であったのかを思い知らされたクチである。
コンゴウをひとりで倒せることが自慢だったのに、この極東ではヴァジュラをひとりで倒せてようやく一人前なのだ。そして悲しいことに、それが罷り通ってしまうほど……この極東という地は、悍ましいまでのアラガミの脅威に晒されているのだ。
(いいか、接触禁忌種だろうがなんだろうがアラガミには変わりないんだ。見つからなければ襲われようがない。下手に動かず、気配を消すことだけに集中しろ)
(でも……!)
(あいつらが居なくなるって保証、どこにあるんですか……っ!)
泣きそうな──というか、彼女の方は既に目からぽろぽろと涙をこぼしている。きっと、自分たちの力だけではどうしようもないことも、救援が来るまでにすさまじく長い時間がかかってしまうことも理解してしまっているのだろう。
つまり──現状、助かる見込みがまるでないことがわかってしまっているのだ。
──どうするかな、これは。
アナグラに連絡は入れてある。だからきっと、いつかは救援が来るのだろう。ハガンコンゴウは接触禁忌種とはいえ、それに対応できる神機使いもアナグラには存在している。そういう意味では、救援が来るまでジッと息を潜めて隠れるという彼らの判断は最善であると言って良い。
問題なのは、救援がいつ来てくれるか──救援が来るまでに、彼らが隠れおおせるかというその一点だ。
(……)
近くの作戦エリアには、神機使いはいなかったはず。となると、最速であっても救援が来てくれるのは数時間後となる。ハガンコンゴウの索敵方法は聴覚……つまり、日が暮れるまで耐えて、夜の闇に乗じて逃げ出すというのも難しい。そもそも三体もいる以上、日が暮れる前にいずれは彼らが潜んでいるこの場所を見つけてしまうことだろう。
冷静に、合理的に考えて。
彼らが助かる見込みは、ゼロに近い。
(まぁその、なんだ……)
自分を勇気づけるように、彼は後輩二人に声をかけた。
(少し前にあったろ、KIAになったやつがひょっこり帰ってきたってのが)
ほんの数週間前。やたらとバンダナを布教する一人の小さな神機使いがミッション中に行方不明になり──そして、見事に生還するというアナグラでもあまり聞かない奇跡が起きた。それも、部隊長クラスが相手取るような強力なアラガミに囲まれて、五日間も戦場を彷徨ったうえで生存したというのだから驚きだ。
(チハルさんの時は! 別種のアラガミ同士で共食いを始めた隙に逃げ出せたって話じゃないですか!)
(そりゃまあ、そうだけど。もしかしたらあのハガンコンゴウも、実はめちゃくちゃ仲が悪いかもしれないだろうが)
涙をいっぱいに目を浮かべたまま、彼女は彼を睨みつけた。
(こんなときに……! そんなバカみたいな冗談言わないでくださいッ!!)
こんなときだからこそ、冗談言ってるんだけどな──という言葉を、彼は心の中に仕舞い込む。少しでも勇気づけようと慣れないことをしたのに、完全に裏目に出てしまっているのは確認するまでもない。
(……)
救援は絶望的。
隠れ切るのも絶望的。
そしてもちろん、自分たちで倒すというのも絶望的。
──やっぱり、今日がその日なのかねえ。
今までに何度も、死にそうな目にあって来た。
今までに何度も、今度こそ死ぬと思ってきた。
だけど、今日は。
今までに感じたことがないくらい、はっきりとした絶望を感じている。今までのそれが笑えてくるくらい、状況は最悪だ。自分でも不思議なことに、絶望や恐怖が振り切って……なんだか他人事のような、妙に冷静な気分になってさえいる。
(……)
ちら、と彼は時計を見た。
──無理だな、これは。
もうすでに、一時間くらいは経っているんじゃないか……と思っていたのに、まだほんの十分しか経っていない。こんなにもぴりぴりとひりつく緊張感の中に身を置いているからか、どうやら自分でも気づかないうちに精神的に参っているらしい。そうでなければ、こうも時間感覚が狂うだなんてありえないことだった。
そこそこ経験のある彼でさえこうなのだ。隣にいる二人にとってはさらに酷いストレスとなっていることだろう。こうなるともう、冷静に──否、正気を保てる時間はそれほど多くない。いずれ、我慢が効かなくなってこの物陰から飛び出してしまうはずだ。
──最期の言葉くらいは、言わせてやれるかねえ。
自分が奴らの目の前に出れば、少しばかりの時間は稼げるはず。それくらいであれば、最期の言葉をアナグラに伝えることもできるだろう。まだしも正気を保てている今であれば、きっとそれなりに満足できる言葉を残せるはずだ。
そう思った彼は、ハガンコンゴウの聴覚に引っ掛からないように切っていた通信機器の電源を入れようとして──そして、気付いてしまった。
(あ……?)
(……なんすか、そのイヤなつぶやきは。これ以上最悪な事態とか、マジ勘弁してほしいんですけど)
電源を点けてはいる。それは間違いない。
なのになぜか──通信が繋がらない。どのチャンネルに併せても、まるで通信が成立しない。
そう、これは……まるで。
(いや、大したことじゃないんだが、つうし──)
──ルゥゥゥァァアアアアッッ!!
「きゃっ!?」
「なんだっ!?」
凄まじい雄叫び。それと同時に轟いた雷鳴。
「いってぇ……!? 耳がじんじんする……!」
どん、どん、どどん──と、何発もの落雷。それもどうやら、かなり近くに落ちたらしい。地面から伝わるわずかばかりの振動に、特徴的な空気の震え……ついでに言えば、なんだか妙に焦げ臭い匂いもする。
というか、それ以前に。
「なんだよ……ッ! なんなんだよッ! あんな化け物の雄叫び、聞いたことないぞ!?」
「もういやあ……! なんで私ばっかり、こんな……!」
落雷とほぼ同時に聞こえたあの雄叫び。まず間違いなく、アラガミのものだろう。それも結構凶暴で、いかにもヤバそうな雄叫びだ。そこそこ離れているであろうと思われるのにここまでびりびりと空気を震わせるということは、それに見合った体格でもあると言うことになる。
もっと合理的に突き詰めれば──この落雷もまた、そのアラガミの能力と考えるべきだろう。雨も降っていないのに局所的に雷が落ちるなんてこと、あり得ないのだから。
「ハガンコンゴウに! 雷の化け物! 一体俺たちが何をしたって言うんだ!」
「落ち着け、バカでかい声を出したらそれこそ気づかれちまう……考えろ、これはチャンスだ」
自分に言い聞かせるようにして、彼はその言葉を口にした。
「ホレ見ろ、今の落雷で連中の注意は完全に逸れている。上手くいけばアラガミ同士で殺し合いをしてくれるかもしれない。それに……三体から逃げるよりかは、一体から逃げる方がいくらかマシだろ」
上手くいけば、マジに生きて帰れるかもしれない。
そう思って物陰から身を乗り出した考えは──あらゆる意味で、裏切られた。
──ルゥゥゥァァ!!
「行っけぇ、ルーちゃんッ!」
「……は?」
視線の先に、ハガンコンゴウが三体いる……のは、いいとして。
そのハガンコンゴウと向かい合っているアラガミは何だ?
どうしてそのアラガミの背中に、神機使いが乗っている?
──ルゥゥゥゥ!!
白く、大きな──狼のようなそのアラガミ。ハガンコンゴウが撃ちだした雷球を受けても怯んだ様子さえ見せず、ぴんぴんとしている。その巨躯とは似合わない俊敏さを以って大地を駆け、そして大きく飛び上がって──
「やっちゃえッ!」
だん、と大地が震える。まるでコバエか何かを潰すかのように、その白いアラガミは自らのガントレットをハガンコンゴウに叩きつけていた。
「な……なんだよ、アレ……?」
「うそ……ハガンコンゴウが、たったの一撃で……?」
その白いアラガミのガントレットの下で、ハガンコンゴウはまだなお生きている……が、ほとんど虫の息と言って良いだろう。あれほどの強固なアラガミ装甲を持ち、生半可な攻撃では傷をつけることさえできないというのに、胴体がまるごとぺしゃんこに潰れてしまっている。それも、たったの一撃でそうなったのだ。
──ルゥ。
「……あ」
ぐしゃ、と頭を踏みつぶされて。
そのハガンコンゴウは、とうとう完全に事切れた。
──アアアアア!!
──ガァァァア!
「!」
すっかり忘れていた二体目と三体目。仲間の死をなんとも思っていないか、あるいは思っているからこそか。その場から逃げ出さず、仲間の遺骸ごと巻き込むようにしてその白いアラガミに攻撃を放っていた。
「ひゃっはァ! いいねェ、撃ちごたえがある的はァ!」
──ギャアアアア!?
何が起きたか、彼にはあんまりよくわからなかった。
ハガンコンゴウの体当たりをあの白いアラガミが跳んで避けたと思ったら……その背中に乗っていた神機使いが、空中にいるままハガンコンゴウを銃撃したのだ。その結果、ハガンコンゴウは勢い余って地面に激突し、そして次の瞬間には、白いアラガミの鋭い牙がその身体を貫いている。
「なんだよ……いったいどうなってんだよ……?」
「ハガンコンゴウが、まるで相手になってない……? ううん、そもそもなんであのアラガミ、神機使いを背中に乗せてるの……?」
あれは、間違いなくアラガミだ。今だってほら、ハガンコンゴウの体をアラガミらしく貪っている。手を、足を、首をバラバラにして引きちぎり、そのはらわたをいかにも美味しそうに引きずり出して啜っている。口元はそのオラクル片で汚れていて、どう考えても話が通じるような存在には思えない。
なのにどうして──さも当たり前のように、その背中に神機使いが二人も乗っているのか。
というか、もしかするとこれは。
「まさか……これか? これが救援なのか?」
「「えっ」」
ハガンコンゴウを倒してくれている──つまりは、自分たちの危機を今まさに救っている存在。直接戦っているのはアラガミの方とはいえ、彼らは間違いなく神機使いだ。
ついでに言えば。
「あのちっちゃい嬢ちゃん……あの、バンダナは」
「あ……チハル、さん?」
「じゃああの野蛮な声は……キョウヤさん?」
よくよく見れば、なんだかすごく見覚えのある二人。白いアラガミに乗って揚々と指示を送っているのは、ついさっき話題にしたばかりの、奇跡の生還を果たした神機使いにほかならない。
「ご飯はまたあとで! 最後の一匹もよろしくね!」
──ルゥ!
バンダナ娘の指示に一声鳴いて。そしてその白いアラガミは、疾風と化してハガンコンゴウに飛び掛かる。
「……なんか、普通にアラガミに指示してませんか?」
「……してるな」
「それも、アラガミの食事を中断させるって……そんなの、できるんですか?」
「……できてるもんは、しょうがないだろ」
もはや、目の前で行われているのは戦闘ですらない。戦闘と呼ぶにはあまりにも一方的で、そしてあまりにも格が違いすぎる。既に最後の三体目も白いアラガミに食らいつかれ、ほとんど抵抗することも無く焼け焦げて……最後にぴん、と体を伸ばしてからだらりと力なく果てていた。
──ルゥゥ!
「えへへ、えらいぞルーちゃん!」
そう、これは。
戦闘ではなく──ただの食事でしかないのだ。
「どういうことなの……? 神機使いが、アラガミを乗りこなしているの……?」
「しかも、どう見たって結構慣れている……よな?」
「……」
後輩二人は知らなくとも、彼は知っている。
フェンリルという組織は、その実かなり真っ黒でヤバい組織だ。アラガミから人類を守る最後の砦、平和の守護者だ──なんて振舞っているが、裏ではとてもじゃないけど公表できないヤバいことを当然のようにしている。それなりに長い間この業界にいる人間であれば、直接それを見たことはなくとも信憑性が高い噂を三つや四つは聞いているし、公然の秘密として誰もがなんとなく感じ取っている。
そんなフェンリルなのだ。実はこっそりアラガミを飼いならす手段を見つけていたりだとか、あるいは……完全に人間の制御下における、人工アラガミを製造していたとしても何ら不思議はない。というか三年前にも、この極東にて秘密裏に人工アラガミを製造していたとされるそれなりに根拠のある噂が出回っていたりする。
「ま、まぁでも……助けに来てくれたんだよな?」
「だ、だよね……」
──本当に助けにきてくれたんなら、いいんだが。
KIAから奇跡の生存を果たした神機使い──その間の動向は一切不明。
ハガンコンゴウを複数体相手取ってなお、余裕であしらえる未知のアラガミ。
そんな怪しげな神機使いと強力なアラガミが、手慣れた様子で協力して戦っている。
そして自分たちはいくらでも替えの利く人材で、これと言って重要なポストにいるわけでもない。
その上で……今なお繋がらない、まるで意図的であるかのように使えなくなった通信。
──これ、本当に大丈夫な奴なのか?
悲しいことに。
彼がその考えをすぐに否定できない程度には、フェンリルは真っ黒な組織であった。
「えっとぉ……ルーちゃん、近くに神機使いがいるはずなんだけど……わかる?」
──ルゥ。
「……本当にわかってんのかこいつ? いいか、ご飯じゃなくて人間だぞ。間違ってもいきなり食らいついたりするんじゃねえぞ?」
「もぉーっ! 何でそんな言い方しかできないのさっ! そんなんだから嫌われるんだよっ!」
ぎゃあぎゃあと喚きながらも……たしかに彼らは、こちらへと近づいてくる。どういうわけか、こちらの存在を感知することができるらしい。
「お……おーい! こっち! こっちだ!」
「た、助けに来てくれたんだよねっ!?」
──若いって、いいなあ。
文字通り、九死に一生を得たとばかりに満面の笑みを浮かべて、後輩二人が表へと出ていく。
こうなったらもう腹をくくるしかないと、彼は悲壮な覚悟を決めて二人の後に続いた。
「あーっ! よかった、無事だったんだあ!」
「なんだ、救援対象ってお前らだったのかよ……おい、まさかとは思うがチビってないだろうなあ?」
──ルゥゥ。
今のところは普通。アラガミも大人しくて、そして目の前にいる彼らは彼が知っている通りの二人──つまりは、明るくて面倒見の良いバンダナ娘と、へらへらと悪ぶって笑う微笑ましい少年でしかない。
少なくとも、フェンリル暗部のヤバいエージェントといった雰囲気はない。
そうでありますようにと、彼は心の底から何かに祈った。
「……さて、お前ら。いろいろ言いたいことはあると思うが」
意地悪そうにへらへらと笑ったキョウヤが、いかにも気安い感じで後輩二人の肩に腕を回す。
「……え?」
「ちょ……何するんですか?」
「災難だったとは思うが……フェンリルの闇を見てしまった以上は、もう普通の生活には戻れないぞ」
「「えっ」」
「こいつのことを知っているのは一握りの人間だけだ。……わかってるよなあ?」
「こぉら! 何でそんな脅かすようなこと言うのさ! キョウヤくんのばかっ!」
「いってぇ!?」
──そういやこいつら、こういうやつだったっけ。
その様子を見て。
彼は今度こそ、安堵の息を吐くことができた。
『作戦エリアに入られてから警告されたってどうしようもないじゃないですか!』