今回はキャラ崩壊注意なお話です。そういったお話が苦手な方は読み飛ばしてください。読み飛ばしても特に問題はありません。
「……ん?」
「わっ!?」
とある日。任務を終えて居住区画への連絡通路を歩いていた──ギルバート・マクレインは、本来だったら神機使いたちのちょっとした憩いのスペースであるそこで、それを見つけてしまった。
「急に止まんなよな、ギル!」
「ん……あ、ああ……」
「……ギル?」
いきなり立ち止まったギルにぶつかったロミオが、文句の声を上げる──も、ギルのそのギルらしくないぼんやりとした様子が気になったのだろう。これ幸いと不満の声を上げたというのに、今は少々心配そうにギルの顔を覗き込んでいる。
「珍しいね、ギルがぼんやりするなんて」
「……もしかして、任務の疲れが出たのですか?」
「そうなの!? じゃあ、おでんパン食べる!?」
「いや……」
ヒロ、シエル、ナナ、そしてロミオ。四人のその視線すら今はどうでもいいのだろう。ギルは半ば吸い付かれるようにふらふらと歩を進め……そして、休憩スペースの傍らで静かに佇む自動販売機の前に立った。
「……なんだよ、喉乾いてんの?」
「……なあ、ロミオ」
ロミオのその問いかけを一切無視して。
ギルは、「それ」を指した。
「…………【販売中】になってる、よな?」
「……うん?」
自動販売機の下から二段目、一番右。【つめた~い】と表示されているそこには、販売中を示す青いランプが灯っている。
「販売中っぽいけど……」
それは、普通のジュースだ。いや、普通じゃないジュースなんて売られているわけが無いし、【自動販売機】という名称でこそあれど、ここにはジュース以外のものなんて売っていない。少なくともロミオは、ジュース以外のものを売っている自動販売機なんて見たことが無い。
「だよな……」
「……どうしたんだよギル、お前マジでなんか変だよ」
上の方が白くて、下の方が優しげなピンク色になっているグラデーション。白い水玉がいくつかあって、そして真ん中には大きく【はつ恋】と表示されているそのジュース。
「いや……なんかずっと売り切れになっていて気になってたんだよ、これ」
正式名称──【初恋ジュース】。極東の人間がこの現場を見たら、『マジでやめろ』、『今すぐ支部長をとっちめろ』、『即刻廃棄処分しろ』と誰もが口を揃えて叫ぶであろうそれに、ギルはすっかり釘付けになっていた。
「あれ……ホントだ、売られているの初めて見るかも。俺も飲んだことないや」
「……待って、二人とも」
初恋ジュースに興味を示しだした二人を、ヒロが止めた。
「……これ、初恋ジュースだ。もうずっと前に製造中止になった、今は売られるはずのないジュースだよ」
「……は?」
「三年前、榊博士が作ったらしい。俺もキョウヤからの又聞きなんだけど、このアナグラのみんながボロクソに非難するくらいに不味くて、ソーマさんやリンドウさんたちが総力を挙げて殲滅して……永久に、生まれてこないようにしたんだって」
極東支部の触れてはいけない
それこそが【初恋ジュース】であり、どういうわけかこの自動販売機にて発売中になってしまっているその缶の正体であった。
「……そう言われると、飲みたくなってくるな」
「あっ」
ちゃりんちゃりんと小銭を入れて、ギルはためらいも無く──今までずっと、押したくても押せなかったそのボタンを押した。
──がこん!
お金を入れてボタンを押せば、その商品が買える。そんな大原則の当然の帰結として……自動販売機の商品取り出し口に、よく冷えたそのピンク色の缶は落ちてきた。
「買っちゃった……というか、買えちゃった……?」
「皆さんがそんなに反対するなら、やめておくべきでは……」
製造中止になっているのに買えてしまったことを訝しむヒロ。忠告通り、飲むのをやめるべきではないかと思案するシエル。
そんな二人をよそに、ギルは特に気取った様子も無く、ごくごく自然な動きでその缶のプルタブを捻った。
「まぁ、大げさに言ってるだけだろ。いくらなんでもたかがジュースだ。製造中止っていうのも……リメイクとかそういうアレで再販したってだけじゃないか?」
「……そうかなあ?」
「マズいジュースなのは本当なのかもしれないが……ここの人たちのことだし、せいぜいがパーティ用のジョークグッズってところじゃないか?」
ギルは知っている。このアナグラのメンバーは良い意味で明るい人間が多く、割とお祭り好きだ。第一部隊の隊長でクレイドルでもあるコウタはその筆頭で、どんなに手強いアラガミに襲われたとしてもその笑顔や明るい雰囲気を崩さないし、なんなら自らおどけて場の空気を盛り上げようとしている節すらある。
最初はいくらなんでも浮かれ過ぎではないかと思ったが……今のギルにはわかる。このあまりにもアラガミによる被害が大きいこの極東では、ああいう明るい希望が何よりも大事なのだ。みんなが笑っているというそれは、時に数字ではとても測ることのできない大きな意味があることを、ギルは確かに実感しているのだから。
そんな彼らが、あまりにも大げさに『飲むな』と言っているということは。
「ま、話のネタにはなるさ」
それってつまり……『飲んでよい』、『そしてその感想で盛り上がろう』ということに違いない。むしろそれ以外に、たかだかジュースにそんな大げさなことを言う理由がギルには思いつかなかった。
「──ヴぇ」
アラガミの断末魔に似ているようで似ていないそんな奇妙な音と、ほのかにピンクの乳白色の液体を口の端から一筋漏らしながら。
ギルは──三十秒前の自分に思いつく限りの呪詛の言葉を投げかけ、そして備え付けのソファに倒れ込んだ。
「ぎ、ギル……? どうしたの……?」
「ははは……どうしたんだよ、ギル。お前らしくないって言うか、いつになくノリがいいじゃん?」
さすがにちょっと、心配に思ったのだろう。なんだかんだと言いながらロミオがギルの体を支え、しっかりとソファに座らせ直す。
「……」
だけど、悲しいかな。
今のギルは──心が憎悪を超えた何かで染まっている。ロミオのそんなささやかで温かい優しさに感謝を捧げるよりも、生物の攻撃的本能に基づいた感情……初恋のそれとはまったく異なるそれに心が塗りつぶされていた。
「……飲んで、みろ」
運命か、偶然か。あるいは単純に、あまりの劇物を口にしたせいで体が硬直していたためか。
ともかく、奇跡的にもしっかり握り止めていたその缶を、ギルはロミオに差し出した。
「え……」
「……俺たち、家族だよな? 家族なら、飲めるよな? お前、まさか俺の渡した物を……飲めないってわけじゃねえだろうなァ……!?」
「な、なんだよ……脅かすなよな。アレだろ、そーゆーノリだってわかってるんだから」
ギルのあまりにも鬼気迫る表情に、ロミオは思わずその缶を手に取ってしまう。生物としての本能がやめておけ、飲んだらろくなことにならない──と警鐘を鳴らしているのに、もしそんなことをしたが最後、目の前にいるギルにとんでもない目に遭わせられるという奇妙な確信が、ロミオにはあった。
「わかった、わかったって。飲めばいいんだろ?」
その缶に口を付けたロミオは。
「──おェっ」
薄れゆく意識の中で──こいつ、道連れを狙っていやがったんだ──と、ギルの真意を理解した。
「ろ、ロミオ先輩……!?」
ロミオの手から落ちそうになったその缶を、ナナが咄嗟に掴む。そしてロミオと言えば、最後の抵抗と言わんばかりに、残った力を振り絞って……ギルを押しつぶす形で倒れ込む。どうやらギルも避ける気力は残っていなかったらしく、二人はまるでボロ雑巾のように、休憩スペースの一角で倒れ伏すこととなった。
「……」
「……」
「……」
ヒロ、シエル、ナナが顔を見合わせる。この二人にいったい何が起きたのか、果たして本当にただマズいジュースってだけでこんなことが起きるのか、もしかしたら自分たちは何かとんでもないことに巻き込まれたのではないか──なんて、そんな不穏な想像が頭から離れなかったのだ。
「……それ、もしかしなくても劇物では?」
「ま、まさか……自販機でそんなの売ってるわけないって……」
「そ、そうだよ。それに……うん! なんだかすっごく甘酸っぱい香りで、とってもいい匂いだよ?」
もし、ギルとロミオにしゃべる気力が残っていたのなら。
だから余計にタチが悪いんだ──と、口を揃えて言っていたことだろう。
「もー……。ロミオ先輩もギルも、さすがに大げさだって……」
その甘酸っぱい香りを嗅いで、油断してしまったのだろう。まさか自販機でそんな劇物が売っているだなんて、思っていなかったのだろう。あるいは……【極東の食べ物は何でもおいしい】という、そんな今この瞬間だけは役に立たない思い込みのせいでもあったのかもしれない。
とにかくナナは、捨てるのももったいないよね……なんて思いつつ、その缶に口を付けてしまった。
「──うぇっ」
この日、香月ナナは。
生まれて初めて──この世には、存在してはいけない飲み物があることを知った。
「な、ナナ!?」
崩れ落ちるナナの体を、シエルが咄嗟に支える。どうやらふざけているわけでもなんでもなく、完全に力が抜けきっているらしい。シエルの腕にはナナの全体重がそのまま伝わってきていて……それは決して、普段じゃれついて抱き着いてくるときのものとは違う。シエルの経験の中でもっともこの感覚に近いのは、まさしく負傷した人間を運ぶ時のそれだ。
そして。
「……はっ!?」
どういうわけか──シエルの手には、ブラッドを三人も沈めてみせた缶が握られている。
「……シエル、ちゃん」
ナナは、思った。
自分はいつから、こんなにも醜い人間になってしまったのだろうか──と。
「……私たち、友達だよね?」
「な、ナナ……?」
「友達なら……わかる、よね?」
それだけ言って、ナナは意識を手放す。
これだけ言えば……シエルなら絶対に応えてくれるという、仄暗い確信がナナにはあった。
「……おふざけ、ってこと?」
「そうだと、思いますが……ナナに食べられないものがあるとは思えませんし」
「……飲むの、シエル?」
「……ふむ」
シエルは思案する。
少々大げさに見えるが、おそらくこのジュースはジョークグッズの類なのだろう。三人ともがここまでオーバーなリアクションをするなんておかしいし、家族であり友人でもあるナナが自分に危険物を勧めるなんて、絶対にありえないのだから。
だとすると、これはただ単にふざけているだけで……もしかすると、若干孤立しがちな
「……」
「……シエル? なんか、顔が赤くない?」
「……な、なんでもありませんっ!」
あと、順当に考えると。
自分が飲んだ後に、これに口を付けるのは間違いなくヒロだ。
今ここで口を付けなければ、ヒロが飲んだ後に口を付けるのは間違いなく自分だ。
その選択肢……あるいは決定権は間違いなくシエルに委ねられていて、そしてシエルの中の初心な乙女心は──前者のほうがイイと、そう判断を下した。
「三人ともおふざけが過ぎますよ。さすがにこれ以上は失礼になると思います……も゛っ!?」
どうして、危険だとわかり切っているものを口にしてしまったのか。
かつての自分であれば絶対にしなかったはずの行動に、シエルは自分で自分が信じられなかった。
「も゛っ……!? も゛っ……!?」
目の前がちかちかする。甘くて苦くてすっぱくて、舌が暴力的な何かに蹂躙されているのに、それ以外のことがわからない。
手足と背筋がピン、と伸びた状態で硬直──いや、痙攣しているのが自分でもわかるのに、どういうわけか体の動きが一切利かない。
ただしほかの三人とは違い、シエルはジュリウスの護衛として特殊な訓練を受けた人間だ。だから、本能的に……体がそれを毒物と認識した瞬間に、喉の奥をきゅっと締めてそれ以上それを飲み込まないようにしていた。
故にシエルは、まだなんとかギリギリ意識を保てている。少々乱雑とはいえ、咄嗟にナナをソファで転がる男たちのほうへと突き飛ばすこともできていた。
だからこそ、それはシエルに大きな苦難をもたらしていた。
「だ、大丈夫?」
「……っ!」
心配そうに、自分の顔を覗き込んでくるヒロ。普段であれば、そんなヒロの顔を見てシエルの心にぽかぽかと温かくてどこか切ないような気持が湧いてくるというのに。
「……ッ!!」
今のシエルには……自分の顔が真っ青になっていることしかわからない。こんな自分の姿なんて見てほしくないという、そんな気持ちしか湧いてこない。
「あの、その、本当にマズいなら……ああいや、美味しくないっていう意味じゃなくて、大変な事態ってことなら、吐き出しちゃったほうがいいって……」
吐き出す。
なるほど確かに、これ以上ないほど最高の選択だ。
実際、シエルはその気になれば飲み込んだものを自分の力だけで吐くことだってできるし、逆に人を吐かせる方法もぱっと考えただけで四つは思いつく。自分が喉を詰まらせても、誰かが喉を詰まらせても──あるいは毒を盛られたとしても、すぐに対応できる技術を持っている。
そして、今すぐにでも喉の奥に指を突っ込んでこの悍ましい何かを吐き出せと、本能はうるさく喚いている。
だけれども。
(……できないっ!)
命令よりも、自分よりも大事なものがあるということに気づいてしまった彼女にとって。
「大事なもの」の目の前で、自分の喉に指を突っ込んで胃の内容物を吐き散らすなんて真似は、できるはずがなかった。
乙女としての尊厳を失うくらいなら、いっそこのままで構わない──と、彼女の乙女心はそう判断したのだ。
「……シエル!?」
「ひ、ろ……」
ちょっと意外だったのは。
シエルが思っていた以上に、彼女の乙女心はしたたかだった……というところだろうか。
「ごめ、んね……」
せめて、倒れるのならキミの腕の中で。
転んでもただでは起きない──いいや、せめて何かしらの成果を得ようとしたのだろう。シエルはヒロの胸に縋りつくようにして倒れ込み、そしてヒロもまた、そんなシエルをしっかりと抱きとめる。この危機的状況の中で、普段はしっかり利いているリミッターが解除されたからこそできた芸当であった。
「これ、を……」
「え……」
涙ぐんだ、潤んだ目でシエルに見つめられたヒロは。
止せばいいのに、そのピンク色の缶を受け取ってしまった。
「えええ……」
ソファの上で、絡み合うようにして倒れ伏すギルとロミオ。
そんな二人を下敷きにして、ぐるぐると目を回して伸びているナナ。
普段は冷静で頼りになるシエルは、今や自分の腕の中であまりにも無防備な姿をさらしている。
「これ……どうすりゃいいんだよ……」
飲むべきか、飲まざるべきか。
究極の二択を突きつけられたヒロは、半ば現実逃避するようにシエルのうなじをちらりと覗き見た。
「──お前ら、何をやってる?」
「わっ!?」
後ろの方から、いきなりかけられた声。
おそるおそる、ヒロが振り返ってみれば。
「な……なんなの、この状況……?」
「あらあら……みんな、おねむなのかしら……?」
我らが隊長のジュリウス。
ジュリウスに車椅子を押されているラケル。
そして……白衣を纏ったレアが、この状況を見て目を丸くしていた。
「──神威副隊長。今の状況を簡潔に説明しろ」
さすがにただ事ではないと思ったのだろう。なぜだか妙に神経を張り詰めさせたジュリウスが、全力で辺りを警戒しながらヒロに問いかけた。
「え、ええと……三年前に製造中止になっていたはずの初恋ジュースが売られていて、それを飲んだみんなが倒れました」
「…………は?」
これ以上ないほど簡潔に説明したのだから、そんな変なものを見たかのような目で見るのはやめてほしい……と、ヒロは心の中だけでつぶやいた。
「ヒロ、お前……何を、言ってる?」
「あの、嘘っぽく聞こえるけど本当なんです……。なんかコレ、すごくマズいって悪い意味で評判で……だから、ギルが興味本位で買ったんだ。俺は飲んでないからわかんないんだけど、ふざけてる……のかも」
自分で言っていて、これは無いなとヒロは思う。もし逆の立場だったら絶対に信じないし、そんな劇物が自販機で売られているわけがない。だとするとこの状況は紛れもなくただのおふざけにほかならない……のに、こういう悪ノリはしないギルとシエルまでもが倒れ伏している。
というか。
もしかしなくとも、これって
「ヒロ……俺は、お前のことを信じたいと思っている。まだ数か月の付き合いだが、本当の家族だと思っている。だから……俺は、悲しい。お前に嘘をつかれて……すごく、寂しい」
「い、いや! 本当なんだって! 信じてよ、ジュリウス!」
「俺だって信じたいさ。けど……そんなふざけた話があるわけ──」
「こら、ジュリウス」
こつん、と悪戯っぽくジュリウスの頭を突いたのはレアだった。
「あなたももう少し頭を柔らかくしなさいな。このくらいの子供がふざけて騒ぐのなんて、普通よ普通。普段頑張っている子たちだもの、たまにふざけるのくらい悪くない……おおめに見てあげるべきよ」
「レア先生……いえ、ですが……」
「子供はね、大人の前では見せない姿を持っているものなのよ。……ふふ、私にも覚えがあるわ」
「……」
「それに……あのシエルが、こんな風に友達とふざける姿を見られるなんてね……やだ、ちょっと泣きそうかも」
ヒロの腕に抱かれるシエルの頭を、愛おしそうに撫でたレアは──何か面白いものを見つけたかのような、あるいは大人の魅力たっぷりの笑みを浮かべた。
「──ねえ、ヒロ? それ、私にも飲ませてくれる?」
「……えっ!? いや、それは──!」
「ふふふ。私もちょっと童心に返りたくなっちゃった……安心して、あなたの分は残すから」
「いや、そうじゃなくて……!」
「……あ、もしかして間接キスを気にしてる? ひょっとしてドキドキしてるのかしら? ……あとでシエルに言ってやろ」
「ちょ、ちがっ」
「もーらいっ!」
ヒロの手からぱっとその缶を奪い取ったレアは。
妖艶な笑みを浮かべ、見せつけるようにしてその魅惑の唇を缶の縁に付けた。
「──うェぷッ!?」
なんだ、これは。
私はいったい何を、飲まされている?
レアの脳ミソは、口の中にあるこの液体の正体を必死に探る。自分が知っている毒物の特徴と片っ端から照らし合わせ、最適な対象方法を探ろうと今までに無いほどフル回転している。
けれども……レアの知っている毒物の特徴とは一致しない。正真正銘、コレは全く未知の毒物であった。
「……ぅん゛ッふ!」
「……れ、レア先生?」
顔面を真っ青にしながら、レアは必死に両手で口を押さえる。ほんの少しでも油断すれば、妹や家族同然のジュリウスの目の前で乙女の尊厳を吐き散らかすことになってしまう。というかこのツーンとした特有の鼻の奥の痛みを考えると──乙女の尊厳が鼻からも噴き出る一歩手前の状況だ。
「……う、っぷ」
この場の誰よりも「お姉ちゃん」である自分がそんな無様な失態をするだなんて、レアのお姉ちゃんとしてのプライドと乙女心が許さない。もしそんなことをしてしまったら──この先ずっと、ぽんこつお姉ちゃんという汚名を着させられかねない。それだけは絶対に、避けねばならない。
「……ぉ、ぇ」
でも。
本当のことを言えば──科学者としての自分は、今すぐ胃洗浄をするべきだと言っている。胃洗浄をして、すぐに設備の整った医療室で精密検査を受けて、然るべき処置をするべきだ……と、そう言っている。
でも、できない。
だって……ラケルもジュリウスもヒロも、みんなが自分を見つめているのだから。
「…………ぅ、ぅ」
レアは心の底から、泣きたくなった。
こんなにも悍ましいものを口に含んだままでいる自分が、世界で一番不幸な人間だと思えてならなかった。
「……ね、お姉さま」
「……ラケル先生?」
そんな、レアの気持ちが伝わったのだろうか。あるいは、全く伝わっていないからこそだろうか。
ラケルが、どこかキラキラした瞳でレアに呼びかけた。
「それ……私にも一口いただけますか?」
「ラケル先生ッ!?」
ジュリウスの悲鳴。それもそうだろう。いったいどうして、この状況を見てそんなことが言えるのか──ジュリウスは、本気でラケルの考えていることがわからなかった。
「やめてくださいッ!! この惨状が見えてないのですか!? あなたに万が一のことがあったら……アナグラとフライアの友好にヒビが入るのですよ!? 外交問題になりかねないんですよ!?」
「でも……お姉さまだってふざけているじゃない。みんながはしゃいでいるんだもの、私だって気になるわ……」
フェンリル極致化技術開発局の開発室長が。組織の上層が、率先して
「ラケ、ル……あ、なた……」
姉としては、止めるべき。レアの理性は、確かにそう言っている。愛する妹が苦しむ様子なんて見たくないと、間違いなくそう言っている。
けれども。
「……ありがと、お姉さま」
一度でいいから、その顔が歪むところを見てみたい──と、そんな黒い好奇心を押さえられるほどの気力が、今のレアには残っていなかった。
「こういうジュースなんて、飲む機会はほとんどないけれど……」
「ほ、本当に飲むんですか……? ラケル博士、やっぱりやめておいたほうが良いんじゃ……」
「酷いこと言うのね、ヒロは。私だけ仲間外れだなんて寂しいじゃない……」
こうなったラケルは、もう何を言っても止められない。
もはやすっかりあきらめの境地に至ったジュリウスは、ただ黙ってラケルがその缶に口を付けるのを見守ることしかできなかった。
「……おいしいっ!」
ごく。
ごくごく。
ごくごくごくごく──ごくり。
そんな音が聞こえてきそうなほど、ラケルは軽快に喉を動かしている。缶を両手で持ち、幸せそうに目を細めて、ごっきゅごっきゅと豪快にそれを飲んでいる。
「ああ……なんて美味しいのかしら……!」
「……えっ?」
「すごく、すごく美味しい……! こんなに美味しい飲み物、初めて……!」
「……ど、どういうこと?」
ジュリウスは、ラケルも倒れるものだと思っていた。
ヒロもまた、ラケルも気絶するものだと思っていた。
だというのに、実際は。
「……! ……!」
すごく、すごく美味しそうに。
ラケルは、初恋ジュースを飲んでいた。
「あの……ラケル博士? ひょっとして、無理をされていませんか……?」
「……? すごく、すごく美味しいですよ? ……あっ、良ければ残りはいただいても?」
「え、ええ……」
「ふふ……ちょっと卑しいかもしれませんが、それほど……ああっ!?」
「ら、ラケル先生!?」
「もう無くなっちゃった……そんなぁ……」
「「……」」
かつてないほどしょんぼりとしたラケル。
自分の妹のことを、化け物か何かであるように見ているレア。
ジュリウスとヒロは顔を見合わせて……この状況をどう理解するべきなのか、いったい何が起きているんだと、その困惑した気持ちを伝えあった。
「あ……まだ、売ってる……!」
「……」
「……ねえジュリウス? すみませんが、ちょっと立て替えてもらえませんか? その、今は手持ちが無くて……これ、カードは使えないみたいですし」
「え、ええ……」
生憎、ジュリウスも小銭は持っていない。が、現金を持たないラケルとは違い、紙幣は持っている。いったいどうしてこんなことをしているんだろうと心のどこかで思いながらも、ジュリウスは自らの財布から取り出したその紙幣──10,000fcを、自動販売機へと入れた。
「えい」
──がこん!
ラケルがボタンを押すと、そのピンク色の缶が取り出し口に落ちてくる。
車椅子のラケルに代わり、ジュリウスはそれを取り出そうとして──。
「えい」
「えっ」
──がこん!
「えいえい!」
──がここん!
「えいえいえいっ!」
──がここここん!!
一心不乱に、ラケルはそのボタンを連打する。ヒロとジュリウスがドン引きしているのなんて気にすらせずに、楽しそうに連打する。まるで子供がおもちゃで遊んでいるかのように……高額紙幣が投入されているのをいいことに、一切の遠慮もためらいも無くそのボタンを連打していた。
そして。
「あ……売り切れちゃった……」
おそらくは、30本ほど。取り出し口が詰まる前に必死にヒロとジュリウスが取り出した缶の数はそれくらいで──そして計算が正しければ、それは神機使い四人と成人女性一人を30回ほどノックアウトするのに十分すぎる量である。
「再入荷は……いつなんでしょう……」
悲しそうに、【売り切れ】の表示をラケルは見つめる。
一生しないでくれ、とヒロとジュリウスの気持ちはひとつになった。
「ねえジュリウス、それにヒロ。すみませんが……これを私の部屋まで運ぶのを手伝ってくれませんか?」
それだけ言って、ラケルは膝に乗せられるだけの缶を拾って部屋に戻っていく。ふんふん、るんるんと……ラケルが上機嫌に鼻歌を歌う姿を見るのは、ジュリウスもヒロも初めての経験であった。
「……」
【初恋ジュース】を飲んだシエルたちは、みんな倒れた。
【初恋ジュース】を飲んだラケルは、とても美味しいと言った。
ならば。
【初恋ジュース】とは……いったい何なのか。
「これは、劇物……なのか?」
「や、でも……ラケル博士は美味しいって言ってる。アナグラの人もマズいって言ってたけど、開発者である榊博士はこれが好きだって……それこそ、電気とかを止めてまで作ったほど思い入れがあるって話で……」
「じゃあ、どうしてシエルたちは倒れている……?」
「……わか、らない」
結局これは何なのか。ジュリウスは必死に考える。
性別や年齢で味の感じ方が異なるとは思えない。もしそうであったとしても、ラケルが美味しく飲めてレアが倒れるというのは説明がつかない。であれば、もっと別の何かでこれは層別できるはずで、神機使いかそうでないかも関係が無いのであれば……ぱっと考えただけではわからない何かがあると考えるべきだろう。
「……待て」
そして、ジュリウスは思い当たってしまった。
「これを美味しく飲めたのは榊博士とラケル先生だ……! つまり、この二人には【初恋ジュース】を美味しく飲める何かしらの共通点がある……!」
「う、うん……」
「そしてヒロ! お前がさっき言っていた、【マズいと言っていたアナグラの人】と言うのは誰だ?」
「え……キョウヤ、だけど」
その言葉を聞いて。
ジュリウスは自分の考えが間違っていないことを確信した。
「──キョウヤは三年前はまだこのアナグラにいない! つまりキョウヤのそれも又聞きだ! そして俺たちブラッドがこうして倒れているのに……キョウヤに話をしたその人物は、【マズい】というごく一般的な感想だけで……普通にこのジュースを飲めている!」
「じゅ、ジュリウス……?」
「ヒロ! お前の直感で良い……! 【キョウヤにそういう話をしそうな】、【こういうジュースを率先して飲む】……そんなアナグラのメンバーは誰だ?」
「えーっと……たぶん、コウタさんじゃないかなーって……」
榊とラケルに──そして、コウタ。
今のジュリウスなら、【初恋ジュース】を飲むことができた人間──その三人の共通点が理解できてしまう。
さらには──極東支部のトップがどうしてただの嗜好品のジュースを開発していたのかという、そんな違和感にも気づけてしまう。飲料の開発になんで電気を止める必要があったのかという、そんな違和感にも気づけてしまう。
そう──つまり、これは。
【初恋ジュース】とは、ジュースという見た目をしているだけの……もっと別の
「そうか……! そういうことか……! まだまだだが、俺にも少しだけ
「じゅ、ジュリウス……?」
そしてジュリウスは、床に転がる缶を手に取った。
「理由も理屈もわからない……! だが、その共通点は……これを普通に飲めるのはその
いつかきっと、ラケルたちと同じくこれを【美味しく】飲めるようになると──そう、信じて。
ジュリウスは、そのプルタブを勢いよく捻り、そして中身を一気に呷った。
「────がはァッ!?」
どう、とジュリウスが倒れ伏す。
そして奇跡的にも──その缶は、ヒロの手にすっぽりと収まった。
「ジュリウス……ジュリウスが何を考えていたかなんて、俺にはわかんないけどさ……」
目の前で倒れている、六人の家族。まだまだたくさん残っている、【初恋ジュース】。これを全て自分一人でどうにかしないといけないと察したヒロは……【たまにはふざけるのも悪くない】というレアの先ほどの言葉を思い出した。
「単純に、ラケル博士たちの味覚がおかしいってだけじゃないのかな……」
一人だけ仲間外れは、ヒロだって寂しい。
というかもう、何も考えたくない。
にこりと儚く笑ったヒロは、シエルをしっかり抱きしめたままソファに座って……。
そして、【初恋ジュース】に口を付けた。
「…………うっ」
──鬼の形相をしたソーマとリンドウが榊の部屋を襲撃したのは、その日の夜の話であった。
・あの世界の通貨であるfc(フェンリルクレジット)ですが、現金として流通してるのかは不明。「フェンリルから報酬として支払われる通貨で、フェンリル内部のみならず外部居住区でも使用可能」とのことですが、世界観的に貨幣も紙幣も作るの難しそうですし、国という制度が崩壊している中で円やドルがどこまで有効なのかもわかんないですね……。ここでは、「外部居住区でも使ってるんだから小銭(貨幣)くらいあるでしょ」と解釈しています。
・ギルがずっと売り切れ表示になっている初恋ジュースに興味を示していた、というのは公式です。
・私も、初恋ジュースはそうとう美味しくないジュースだと思いますも、「評判に反して現在のところ売れ行きは好調」とデータベースに記載があるので、さすがに気絶するほどではないと思っています。
・シエルちゃんの「も」ですが、『私は、高い行動力と戦闘能力を兼ね備えた素晴らしい部隊だと思いますも』のあとに、「でもまだまだ改善点が必要です」……てきなことを言ってたと思うんですよね。つまりこの「も」って逆接の意味の「も」であって、あまり聞きなれない古めかしい表現でありながらも日本語としては一応正しかったんじゃないかなって……。たぶん、「素晴らしい部隊だと思うも、やはりまだ改善点が必要だ」……って感じで全体も表示されていたら、少し違和感も減るのかと。まぁ、もっと伝わりやすい表現があるのは間違いないですが。
・一区切りついたので、再び書き溜め期間に移ります。今度こそ本当に、次回より最終章です。65話~が3.5部のつもりだったんですけど、普通にここまで5部構成って感じになっちゃいましたね。