【No Way Back】 後戻りはできない。あるいは──
「ねぇッ! ルーちゃん! ルーちゃんってばぁッ!!」
──これはもう、ダメだな……。
それが、その光景を見たときのジュリウスの嘘偽りのない本音であった。
▲▽▲▽▲▽▲▽
「神機使いの重傷者二名! ただちに輸送を! 非常に危険な状態です!」
「早く輸血の準備を!」
極東支部──アナグラから北東に約数キロメートルの地点。ジュリウスたちがその場にたどり着けたのは、緊急連絡が入ってからおよそ三十分後のことであった。
「いったい……何が、起きたんだ……?」
はるか向こうまで続いている破壊の痕跡。いったい何をどうしたらそうなるのかまるで想像ができないが、地平線のほうまで大地がめくりあがり、そしてあちこちにクレーターが出来ている。そこらのアラガミが暴れまわった程度ではとてもこうまで酷い状態になるはずがない──そうであるはずだとジュリウスは信じたいが、しかし目の前のその光景はそれが現実であると突きつけてくる。
「極東には……こんなことができるアラガミがいるのか……?」
「──いいや、いないはずなんだがな。……念のため、気ィ引き締めとけよ」
神機を肩に担いだリンドウが、あたりを警戒しながらつぶやく。一応、レーダー上では周囲500メートルの範囲で目立ったアラガミ反応が無いことを確認できているうえ、こうして救護班がヘリコプターで駆けつけることができる程度には安全が確保されているはずではあるが……今回に限って言えば、それは全く安心材料にはならないのだ。
『そちらの様子はどうだい、リンドウくん、ジュリウスくん』
耳元の通信機から聞こえてきた、榊の声。
──榊が直接連絡をしてくるというその事実が、事態の重大さを物語っていた。
「今ヘリコプターを降りたところだ。コウタとロミオが入れ替わりで回収された。一応、レーダー通り……周囲にアラガミはいないようだが」
『……くれぐれも、油断しないでくれ。例の攻撃はしばらくは起きないと踏んでいるが……それも、絶対ではない』
ロミオとコウタを乗せたヘリコプターが飛んでいく。これからアナグラの医療施設に向かうのだろう。ヘリコプター内ですでに輸血は始まっているはずだし、途切れ途切れの断片的な通信が正しければ、傷そのものは既に塞がってる──つまり、あとは本人たちの気力を信じるしかない。
だから、問題があるとすれば。
「ねぇッ! ルーちゃん! ルーちゃんってばぁッ!!」
「くそ……っ! お前ふざけんなよ……!」
それはきっと──ぐったりと倒れ伏す、ルーの方だろう。
「こ、れは……」
いくらアラガミとはいえ、生きているのが不思議なくらいの悲惨な状態。無事なところなんてどこにもないし、そもそも下半身がほぼ無くなっている。上等のベッドのように柔らかく暖かな尻尾はどこにも無いし、力強く大地を駆けるその足もまた失われている。
というか……半分になった体のその断面が見えてしまっている。
「うっ……」
「ひでェな、こいつぁ……」
血の匂い、なのだろうか。それとも自分の腹の底から込み上げてくる、饐えた匂いなのだろうか。あるいは単純に──死につつあるオラクル細胞の匂いなのか。
目の前の光景の凄惨さを語る術を、ジュリウスは持ち合わせていない。
「くそっ! 回復弾が効きゃしねェ……!」
──……。
顔面を真っ青にしながら、キョウヤがルーに向かって回復弾を撃っている。何発も何発も、それこそ後の事なんて考えないで乱射しているが……ルーの容態は変わらない。半分閉じかけた目でチハルのことを見つめながら、力なく喉の奥よりかすれた声を漏らすだけだ。
「交代だ……! 次は、俺がやる……!」
「わ、私も……!」
満身創痍。あちこちボロボロになったギルとエリナがキョウヤの隣に立ち、そして同じように回復弾を撃ちこんでいる。きっともう、何度も何度も同じことをやっているのだろう。ふと隣を見れば、地面にぺたりと座り込んだアリサが、必死に息を整えようとしていた。
「よう、アリサ……無事だったか」
「リンドウさん……! それに、ジュリウスさんも……!」
ぱあっと顔を明るくしたアリサは──次の瞬間、くしゃっと泣きそうな顔になった。
「ルーが……! ルーが、酷いことに……!」
見ればわかる。むしろ、気づかない方がおかしい。どう考えても、この場にいる仲間で最も重傷なのはルーで、そして誰がどう見てももう手の施しようがない。
かろうじて、息をしているだけでも奇跡的な話なのだ。いくらアラガミと言えども、もってあと十数分の命だろう──というのが、リンドウの見立てであった。
「かっ、回復弾を……っ! 回復弾を撃ってるのに、全然効かないの……! 回復錠も食べる気力が無い……!」
「……」
リンドウとジュリウスは、顔を見合わせる。
人間の治療法ならばともかく、アラガミの治療法なんてわかるはずがない。人間の医者でさえ数が少なく貴重な中で、獣医師ならぬアラガミ医師なんて存在するわけがない。アラガミと人間とでは体の構造が根本的に違うのだから、人間に有効な医術がアラガミにも適応できるかどうかはかなり怪しいところだ。
そんな中で、回復弾を使っての治療というのはなかなか有効であるように思える。オラクルを使った治療方法としてはメジャーなものだし、かなり限定的なケースとは言え、アラガミがアラガミを回復弾で治療した事例も報告されている。神機使いだって究極的にはアラガミみたいなものなのだから、神機使いの回復弾がルーに効かない道理はない。
けれども。
どう見ても、これは。
「交代だ……! 俺がやる……ッ!」
「や、やだっ! 私だって、まだやれるもん……っ!」
「いいから退け! 少しでも体を休めて次の回復に備えろ……! チハル! いつまで泣いてんだ! 泣くヒマあるならさっさとお前のアンプルをよこせ!!」
明らかに殺気立ったキョウヤが、泣きじゃくるチハルのコートをまさぐってアンプルを取り出す。そのまま乱暴に自分の腕に突き立てて、ほとんどゼロ距離でルーに回復弾を撃ち込んだ。
「ルーちゃん……! おねがい、目を開けてよぉ……!」
「くそ……! これだけ撃ちこんでるのになんで……! てめェ、このままくたばるなんて許さねェからな……!!」
ほぼ絶え間なく撃ち込まれる回復弾。キョウヤとエリナ、アリサとギルの四人での治療。特にキョウヤの神機は銃撃に特化している──射撃に関するオラクル効率が通常の神機使いのそれを明らかに超えている、すなわち既にとんでもない量の回復弾が撃ち込まれているはずなのに、状況は何も変わっていない。
『ルーさんのオラクル反応……弱まって、ます……』
通信機から聞こえてきた、ただの事実。アラガミのオラクル反応が弱まっているのだから、いつもだったら嬉しい報告のはずなのに……ジュリウスもリンドウも、どうしようもなくやるせない気持ちでいっぱいになった。
「いったい何が起きたんだよ……なぁ、ソーマ?」
「……」
旧型の剣型神機であるために、治療行為に参加できなかったのだろう。苦虫を噛み潰したかような忌々しげな表情をして座るソーマに、リンドウは声をかけた。
「……わからん。最初はコクーンメイデンの異常活性個体だと思ったが……それだけじゃ、説明できない」
「……ま、だよな。そもそも
「……」
ちら、とリンドウは改めてルーの容態を確かめる。
──下半身は喪失。上半身もほとんどボロボロ。マントも千切れかけているし、声を上げる気力すらもないらしい。既に内臓や体液はあらかた流出してしまった後らしく、見ていてびっくりするほど体が
「榊博士……やっぱ、事前の報告の通りだ。はっきり言って、もう……」
『うむ。しかし、諦めるわけにはいかない……リンクエイドを、試みてくれ』
「了解……おうお前ら! 一回離れてくれ!」
リンクエイド。物理的接触を介して、自らのオラクルを呼び水に相手のオラクルを活性化させる技術。活動停止に近しい状態になったオラクル細胞を、外部からのオラクル的刺激により再度活性化状態に持っていく──人間で言うなれば、心臓マッサージのようなもの。
その性質上、外傷や欠損、毒などを治療することはできないが……しかし、相手は
「アリサ! お前リンクエイド得意だったよな? 俺たちと一緒にリンクエイドやってくれ……残りはそのまま回復弾だ!」
そしてリンドウは、泣いてルーに縋るチハルの頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「嬢ちゃんも、ベソをかくのはあとでもできるんだ……やれることやって、絶対こいつを助けるぞ」
「リンドウ、さん……!」
「そら、立った。リンクエイドでも回復弾でも、好きな方に回ってくれ」
ぴた、とリンドウはルーの額に触れる。じっとこちらを見つめてくるその瞳は、いつもと違って元気がない……というよりも、もうあんまり見えていないのだろう。閉じかけた瞼の向こうにあるその瞳は静かに揺れていて、こちらのことを捉え切れていないのは明白だった。
「お前ら、準備はいいな?」
「いつでも行けます……!」
リンドウ、チハル、ソーマ、アリサがルーに触れて。
キョウヤ、ギル、エリナ、ジュリウスが回復弾を撃つ準備をして。
「いいか、息を合わせろよ……三、二、一!」
合図とともに、リンドウは自らのオラクルをルーに送り込む。神機使いになってから、何度も何度もやったことのあるこの動作。どくん、と心臓の鼓動が跳ね上がると同時に、体が瞬間的に熱くなって……どこか痺れるような感覚が、全身を貫く。
「っ!」
「おねがい……っ!」
「ルーちゃん……!」
同じようにルーに触れている三つの腕。リンクエイド特有のオラクルの鼓動の高まり。さすがに四人同時のリンクエイドなんて前代未聞だが、それは間違いなく成功した──少なくとも、失敗はしていないようにリンドウには思えた。
「──今だ!」
「おう!」
「はい!」
「っす!」
ほとんど同時に叩き込まれた回復弾。四人分の回復弾ともなれば、普通だったらあらかたの傷は治癒できるほどの効果となる。ましてや戦闘中ではない……つまり、外す心配も無ければこれ以上傷つく心配もないのだから、その治療効果は想定以上のものがあるだろう。
「どうだ……!?」
「やったか……!?」
リンクエイドは、うまく行ったはず。少なくとも、手ごたえはあった。
けれど、結果は。
『ダメです……! ルーさんのオラクル反応、弱まり続けています……!』
状況は変わらず。ルーの呼吸は弱弱しいし、傷の修復もできていない。もう既に、リンクエイドじゃどうにもならないほどオラクル細胞が弱まっているのだろう。
「そ、そんな……! も、もう一回やれば……!」
「……交代でリンクエイドと回復弾を続けるんだ。まったく効果が無いってわけじゃないんだから。だよな、ヒバリ?」
『は、はい……! ですが、ほんの少し持ち直すだけ……いいえ、オラクル反応の減衰が多少ゆっくりになるだけ……』
『こ、このままでは……もって、あと五分ほどで……』
「……」
五分。それが、ルーに残された時間。たったそれだけのわずかな時間で、リンドウたちは知識も道具もろくにないまま、アラガミの治療という前代未聞の難題をクリアしなくてはならない。
「治療法……アラガミの治療、か……」
「そもそも……リンドウ殿、そんな方法が本当にあるのですか? アナグラには、その……そういう知見が?」
「いや、さすがにそんなものはない……が、アラガミも神機使いも似たようなもんだ。いや、神機使いに比べりゃアラガミのほうがよっぽど丈夫で頑丈だ。ぶっ殺したって死なないんだから……リンクエイドで持ち直す可能性は、高かった」
「……」
「──話が違うぜ、榊博士。回復弾もリンクエイドも、想定よりもはるかに効きが悪い」
『……』
報告を受けた瞬間に、リンクエイドによる治療を思いついたのは榊だった。というか、このアナグラにおいて少しでもその手の知見があるのは榊くらいしかいない。もとより専門家なんているはずがないのであれば──オラクル技術の開祖とも呼べる榊以外に、リンドウたちが頼れる相手なんているはずがないのだ。
「一応言っておくが、リンクエイドをトチった感じはしなかった。少しでもオラクル反応に違いが出ている以上、効果自体はあったはずだ。……単純に、人間のオラクルがアラガミに効きにくいってことは」
『……可能性は、否定できない。しかし断言するには、あまりにも情報も時間もない』
「……ま、そうだろうな。結局は今できることを精いっぱいやるしかないってか」
『──いいえ、まだやれることはありますよ』
突如として割り込んできた、若い女の声。
上品で、淑やかで──そして穏やかで温かいのにどこか冷徹な雰囲気を持つその声は、意外な人物を名指しして声をかけた。
『ソーマさん……聞こえますね?』
「……ラケル博士、か?」
『ええ……時間がおしいので、結論だけ言いますよ』
問いかけるわけでも、意見を聞くわけでもなく。
ラケルにしては珍しく、断定する形で言い切った。
『あなたなら、ルーの中のアラガミがどこにいるのか……わかりますね?』
「……」
『ええ、きっとわかるはず──であれば、余分なものを取り除けばいいの。回復弾もリンクエイドも効きが悪いのは、単純にあの子の体が大きすぎるだけ。神機使いを想定した出力規格じゃ、全然足りないだけなんですよ』
「……」
『今は命を繋ぐのが最優先です……生きてさえいれば、いつか必ず立ち上がれます。アラガミはあなた方が思っている以上に、強い存在なのですから……』
「……言いたいことはわかった。が、どうして断言できるんだ? なんで、
いったいどういうことだ──と、リンドウはジュリウスに顔を向ける。どうやらジュリウスも何を言っているのかさっぱりわかっていないようで、困惑した面持ちで首をふるふると横に振っていた。
『まあ……おかしなことを言うのですね……』
「……」
『他人な気がしない、と仰ったのはあなたですよ……? なら、何も不思議はないのでは……?』
「……それもそうか」
ぐ、とその白い神機を構え直したソーマは。
「──らぁッ!!」
全力の一撃を以て、ルーの首を断ち切った。
「え……」
「は……」
千切れ飛ぶ肉片。びちゃびちゃと地面に零れていくオラクル片。仮面の下のルーの瞳が大きく広がり、ゴロゴロという水と空気が弾けて混ざったかのような特有の音が、首があった場所から聞こえてくる。
「な……何やってんだよアンタッッッ!?」
真っ先にソーマにつかみかかったのは、キョウヤであった。
「自分が何やったのかわかってんのかッ!? 俺ら今、必死にこいつを助けようとしてるよなァ!? ここまで運んでくれたのは……! 俺たちを助けてくれたのはこいつだって、わかんねェわけねェよなァ!?」
「
「え……」
「だから要らない部分は切り落とした……! どうせ首から下はもう使い物にならない。余分なモノがない分、回復の効きは良くなるはずだ。少しかもしれないが……助かる確率は、上がる」
ただの事実。
ルーのコアは脳にあたる部分にある。そして今この状況においては首から下の部分──具体的には、上半身や両腕はあっても邪魔にしかならない。そんなところに回復のリソースを使うくらいならコアの方にオラクルを集中させるべきだし、リンクエイドだって全身を活性化させようとするよりも、ピンポイントで大事なところだけに集中させた方がその効果も高くなる。
「……何も言わずにやって、悪かったな。でも、説明する時間が惜しかった」
「あ……すみません、俺……」
「別にいい。謝るくらいなら治療に戻れ」
「っ!」
言葉を発する時間さえも惜しいと言わんばかりに、キョウヤは再び回復弾での治療に戻る。ソーマもまた、どこか申し訳なさそうな顔をしながらリンクエイドの体勢へと戻った。
『ラケル博士……キミは……』
『
『……』
『──! ルーさんの反応、わずかに持ち直しました!』
頭だけになったルー。先ほどまでに比べてその
『ですが……! 依然としてオラクル反応は弱まり続けています……! 少し時間が稼げただけ……!』
「そんな……! やだ、いやだよルーちゃん……!」
「まだ足りねェってのかよ……! 大喰らいにもほどがあるぞお前……!」
Oアンプルをいくつつかったかわからない。
何度リンクエイドを試みたかもわからない。
しかしそれでもやっぱり、ルーの状態は変わらない……ゆっくりと、たしかにそのオラクル反応は弱まり続けている。
「なぁ、ラケル博士……」
『……なんでしょう?』
後のことは全部榊にブン投げることにして、リンドウは意を決して問いかけた。
「この際だから聞くけどよ……なんかこう、ないのか? ルーを助ける方法ってやつは」
『……それを、どうして私に?』
「……
『アラガミの体の仕組みを少しでも知っている人間なら、誰でも思いつくことですよ。尤も、思いついたからと言って口に出せるのは、この場では私しかいなかったというだけの話です』
「……」
『それよりも……
「……生憎、そう都合のいい何かなんて──」
『──無いわけでは、ないね』
榊の声。回復弾を撃っていたジュリウスが驚いた顔をしてリンドウのことを見てくるが、リンドウもまた、驚愕の表情を隠せないでいた。
『──強制解放剤を投与しよう。アレが持つ賦活作用であれば、今のルーくんを活性状態に持っていくことも不可能ではないはずだ』
強制解放剤。神機使いの携行品の一種で、使用するとアラガミを捕喰したときと同じ効果がある──つまり、
『回復の効きが悪いのは、オラクル細胞が死につつあるからだ。オラクル細胞の特性上、強制解放剤で一時的にでも活性状態にすれば、リンクエイドによる賦活効果と回復弾による回復で持ち直すことが──』
『──ダメだよ博士!』
割り込んできた通信。若い女の声ではあるが、ラケルのものでも、ヒバリのものでも、ましてやフランのものでもない。
「……リッカ? お前、どうして……」
それは──神機整備士であるリッカからの通信であった。
『確かに強制解放剤はオラクル的な強心剤……! 賦活作用があるから活性状態にもっていけるかもだけど! でも、体への負担が大きすぎる! 今のルーじゃ耐えられない!』
『普通の強制解放剤ならその通りだね。だけど、【強制解放剤 極】であれば心身への負担はほとんどないはずだろう?』
『それでもゼロじゃない! 結局のところ仕組みは
【強制解放剤】は自身が触媒的な役割を果たし、神機使いのオラクル細胞を強制的に励起状態にする。その際に、神機使いのオラクル細胞を使用するために、励起状態になるにあたって体力を大きく消費してしまう。
【強制解放剤 極】はルーという強力なアラガミのオラクル細胞を、活性状態のまま加工することで作成されている。細胞自体が強力で活きが良いから、それ単体でも無理なく神機使いのオラクル細胞を励起状態にすることができる──つまり、普通にアラガミを捕喰したときと同じ効果を得ることができる。【強制解放剤】と違って、体力の消費は起きないし効果時間も長い。
だけど、その投与対象がルー自身である場合。
オラクル細胞を励起しようとした際に、自身のオラクル細胞と解放剤のオラクル細胞を区別することができないかもしれない。解放剤のオラクル細胞を喰わずに、自身のオラクル細胞を喰ってしまうかもしれない。
それすなわち──【強制解放剤 極】の長所が全く活きず、ただの【強制解放剤】と同じ効果しか得られないかもしれない。そればかりか、全く何の効果も得られず、ただ無駄に体力を消費するだけの可能性すらあるのだ。
『それでも、やるしかない。このままではどうにもならないのだから……すべての責任は、私が取ろう』
『……っ!』
榊の決断。そうするしかない以上、たとえ分の悪い賭けだとしても乗るしかない。何もしないというのはルーの死を受け入れるのと同義であるのだから──ほんの少しでも可能性があるならば、それに賭けるのが今この場における最適解なのだ。
「嬢ちゃん! 博士の声は聞こえてたよな!? 【強制解放剤 極】の手持ちはあるか!?」
「あ……あります! 二本だけだけど、持ってます!」
『ルーさんの反応、弱まり続けています……! 急いでください!』
タイムリミットは近い。
ならばもう、迷っている時間はない。
「お前ら! 嬢ちゃんが強制解放剤をブッ刺した瞬間にリンクエイドと回復弾をありったけ叩き込め! 一瞬でも活性した状態になってくれりゃあ、絶対何とかなるはずだ!」
おそらくこれが最後のチャンス。これが失敗すれば、もう後戻りはできない。
「やれるな、嬢ちゃん!」
「はい……!」
コートの内ポケットに入っていた、たった二本のアンプル。あれだけの衝撃を受けてなおヒビの一つも入らずに無事であったのは、容器の造りが良いからか、はたまたコートの性能が良かったからか。おそらくはその二つであるとチハルは信じて……これらの製作にかかわった全ての人に、チハルは心からの感謝を気持ちを捧げた。
「待ってろよルー……! すぐに楽にしてやるからな……!」
あるものはリンクエイドの体勢に入り、またあるものは回復弾を撃つ構えに入って。
「絶対助けてあげるからね、ルーちゃん……!」
そしてチハルは──アンプルのキャップを外し、ルーの額にめがけてその注射針を振り下ろした。
──ぱきん。
『──ルーさんのオラクル反応、変化なし! どんどん弱まり続けています!』
『ねえ!? どうなったの!? うまく行ったの!?』
「なんで……なんで、なんで!?」
『状況は!? リンドウくん、状況はどうなってる!?』
『ジュリウス……? ねえ、どうなってるの!?』
「どうして!? どうしてよぉっ!?」
『現場のみなさん! 状況を報告してください!』
「なんで! なんでなんでなんで!? なんでよぉっ!?」
何度も何度も。
ボロボロと泣きながら。
チハルは必死に──そのアンプルを、ルーの額に叩きつけている。
自らの拳が痛むのも厭わずに、何度も何度も。
──それにはもはや、何の意味も無いというのに。
「針が……折れ、た」
純然たる事実。
──
「やだぁ……! やだよぅ、ルーちゃん……!」
──……。
針が折れ、中身が駄々洩れになったそれを、泣きじゃくりながらチハルはルーの額に叩きつける。
「おねがい……! 何でもするから……!」
──……。
何度も何度も叩きつけるうちに、アンプルはすっかり砕けて……もはや、原型は残っていない。
「どうか……! 神様、おねがい……!」
──ル、ゥ……。
「ルーちゃん!?」
力なくゆっくりと瞼を開いたルーが。
傷ついたチハルの手を、ゆっくりと舐めて。
「ルーちゃ……!」
──……。
──そしてそのまま、動かなくなった。
──元には戻れない。