咲太が入院している病院に行くべく天と颯が無断で学校を抜け出し、梓川咲太の中で二人の存在が一生の親友になった日。
空野天が牧之原翔子との出会いを果たし、彼女の笑顔に天が己のチョロさを自覚した日。
時間にして五時間程度の大冒険をした二人は、その翌日、学校に登校したおかげで予想通りの対応に苦しめられた。
中学校の一室。教室より遥かに小さな個室。長机を挟んで対面するソファーが二つ置かれただけの、簡素な部屋。
本来なら一時間目を受ける時間に、二人は担任によってその部屋——生徒指導室に呼び出されたのだ。
理由はもちろん、
「どうしてお前たち二人が無断で学校を抜け出したか、一応、理由くらいは聞いてやろう」
「咲太に会いに行くためだ」
「梓川咲太くんが精神的に死にそうと聞いて、居ても立っても居られなくなりました」
昨日、五時間目の本鈴を無視して学校を抜け出し、それ以降の授業をサボったこと。
五、六時間目の授業に二人の存在が確認できず、早退したという事実もないことから、担任が不審に思い。
更に、天が普段から熱心すぎる程に熱心に取り組んでいる部活動にまで不在という事実もあり、担任が二人の両親に連絡し、真実が学校側に伝わったのだ。
結果、見事に二人の特別指導が決まった。
「僕も颯も、特別指導を受ける覚悟はできています。変に言い訳するつもりはありません。罪の自覚はしているので」
「潔くいくつもりだ。なにも言わねぇから好きにしろや。元々、受ける覚悟で抜け出したしよ」
今さら足掻こうとはしない二人だった。
咲太が元気になってくれたなら、それで満足だったから。
そもそも指導されることを前提に行動したのだから、狼狽えても仕方ないというのが二人の思い。
言い訳せず、渡された処罰に「はい」と頷くのみ。
そんな二人に言い渡されたものは、
「反省文二枚。それで済ませてやる」
「それだけですか?」
「抜け出した理由がくだらん事だったり、悪事をするためだったらこんなもんじゃ済まさん。が、咲太の件に関しては頑なに黙ってた俺にも責任はある。だから、それだけで済ませてやる」
「なんだよ。先生ぇ。分かってくれるじゃねぇか。できればその調子で、特指そのものを無かったことにしてくれてもいいんだぜ?」
「颯の分だけプラス十枚にしてやってもいいんだぞ」
そんな感じで、軽めの処罰で許された。
本来ならば、教師と教頭による鬼の説教の末に大量の反省文を書かされるはずなのだが、意外と生徒の気持ちを慮ってくれる人だった。
二人が普段から真面目な生徒と認識されていることもあるのだろう。
颯に関しては授業中に寝たりしてはいるものの、集中する場面では誰よりも集中する生徒であり。
天に関しては日頃から真っ当に授業を受け、疑問点は質問し、テストでもそれなりの点数を平均して叩き出す生徒。
そんな真面目な二人が特別指導を覚悟してまで学校を抜け出す理由——それを聞いて、処罰の程度を柔らかくしてくれた。
そんなこんなで、二人は丸二時間かけて反省文を書き終え、特別指導は無事に終わったのだった。
尤も、それは颯だけの話。天には、もう一つの特別指導がその指導の前にあった。
バレーボール部の顧問による、鬼の指導が。
「おいごらぁ! 天! テメェ、昨日、無断で学校抜け出したんだってなぁ!」
「はいッ! 抜け出しました!」
「部活もサボったんだってなぁ!」
「はいッ! サボりました!」
「なら、やるこたぁ分かってんだろうなぁ!」
「はいッ! 分かってます!」
「だったらフライング! 体育館三周! そのあとスパイク、サーブ百本レシーブ! 死ぬ気で食らいつきやがれぇぇ!」
「はいッ!!」
死ぬかと思った。
なんの悪戯か。
その日は運が悪いことに朝練があり、体育館を全面使えることもあって。
他の部員が練習している横で顧問による鬼指導が、朝七時から八時までの一時間、みっちり行われたのだ。
全員が練習をしている中、一人黙々とフライングで体育館を三周。
それが終わったら、椅子の上に立つ顧問がネットの上から放つ
それが終わったら、エンドラインから一球ずつ放たれる顧問やら部員の
朝からやっていいメニューではない。何度か顔面レシーブしたお陰で、途中からの記憶が彼方にトんでいる。
一年生が天の喘鳴を吐く満身創痍に戦慄し、二年生の表情が引き攣り、同期の三年生が「走れ走れぇ!」と笑顔でジャンプサーブを放つ絵面は、もはや地獄絵図。
もう一度言おう、死ぬかと思った。
それら全てを終える頃には朝練の時間も終わり、ボロ雑巾になった天が体育館の隅っこに転がる中で片付けは行われ、彼は無事に解放。
その後に颯と一緒に受けた指導も終え、彼もまた特別指導を終えたのだった。
これが、この日の午前中に起きたことである。
▲▽▲▽▲▽▲
放課後。
睡魔と戦った五時間目の歴史を越え、帰りのホームルームを終えた生徒たちが、思い思いの場所に向かうべくぞろぞろ移動を始めた頃。
移動する生徒の目的地は大きく分けて二つ。
一つは、今日の部活動の活動場所。
部活動に励む生徒は、授業が終わった放課後からが本番。それまでの眠気を払いながら、やる気を出して取り組む。
七月に入り、引退試合が刻一刻と迫る三年生は尚のこと熱を入れるだろう。
もう一つは、自宅。
なんの部活にも所属しない生徒たちは、放課後に学校に残ることもせず。
塾や習い事がある生徒はそれに意識を向け、何もない生徒は夏の暑さに文句を言いながら帰っていく。
神崎颯は、後者の生徒だ。
夕方に空手が控えている彼は学校が終わったら友人と話しながら自宅に帰り、少しの間だけ自由時間を過ごしたら道場に足を運ぶ。
空野天は、前者の生徒だ。
学校が終わった彼は自分以外の友人と仲良くする颯を横目に教室を出て、鬼指導を受けた部活動をしにいく。
はずだが、
「あれ? 天。お前、部活は?」
「今日はお休み」
「でもさっきバレー部の奴らが、外周するぞー! って気合い入れてたが?」
「お休み」
空野天。二日続けて部活をサボる。
明日、死ぬことは確定した。
バレー部が集結する正門ではなく裏門からそそくさと立ち去る様は、声をかけた颯とその友人たちには何かから逃げるようにも見えていて。
彼がバレーを熱心に取り組む人だと知っている颯からすれば、とても違和感のある光景だった。
サボる理由——そんなもの決まっている。
『天くんに会えたら、私はとても嬉しくなっちゃうかもしれません』
あの瞬間、牧之原翔子という少女が見せた笑顔。それがバレーボールの熱を上回ったのだ。
空野天という
なので———。
「——結局、来てしまった」
中学校から最寄りの駅に直行。十五分程度かけて藤沢駅に行き、藤沢から江ノ電に揺られること二十分。
彼は、昨日に続いて七里ヶ浜駅に足を運んでしまっていた。
時刻としては、午後四時を半分過ぎた頃。
今日は五時間授業だったために学校が早く終わり、部活をサボったこともあって、思ったより早く到着していた。
到着、したはいいのだが。
「あぁもう、俺のバカ。明日、マジでどーすんだよ。もぅ、あぁもぅもぅ、あぁあぁあぁあ」
余程、朝練の鬼指導がキツかったのだろう。
駅から七里ヶ浜に到着するまでの移動時間中、彼は後悔と絶望の狭間で悶えていた。
唸り声を漏らす彼の目は遠く、意味もなく空を見上げては「ははは」と感情のない声で笑っている。
一日サボっただけであの指導だ。二日連続でサボったとなれば、地獄を超越する指導が叩きつけられるだろう。
明日が、自分の命日になりそうな予感しかしてこない。
「……いや。もうやっちゃったもんは仕方ない。仕方ない……そう! 仕方ないんだよ! そうだよ! 仕方ない仕方ない! 気にしても仕方ない!」
最終的に、投げやりになった天だった。
今頃、二日連続で部活をサボった自分に対する指導が顧問の中で着々と構築されているはず。
部活はとっくに始まっているのだから、サボった事実を覆すことは不可能なのだ。
なら、もう考えてもどうしようもない。開き直って受け入れた方がいい。
明日、自分がどうなるか分かったものではないけれど、明日のことは明日の自分に任せるとしよう。
そんな風に自分を無理やり納得させ、鬼顧問による鬼指導から目を逸らす天。
彼が心をきゅっと締め付ける緊張感から解放されていると、目の前に七里ヶ浜の海岸が見えてきた。
それと同時に、
「………いる」
太陽の光を反射させてきらきら輝く海を背景に、牧之原翔子が砂浜の上に立っている。
昨日と変わりない制服姿で、潮風に靡く後ろ髪を手で押さえていた。
仮に、彼女がいなかったらとんでもない事態——そんな懸念が破壊される音を聞く天。
彼は、「はぁ」と安堵の息を吐きながら、自分と翔子が隣り合って座った階段を一段一段降りていく。
階段を降り切って砂浜に足をつくと、足裏と砂浜の間でずさっと音が立ち、音に反応した翔子が海に背を向けてこちらに振り返った。
瞬間、その表情にぱっと花が咲く。
「こんにちは、牧之原さん」
「こんにちは、天くん」
挨拶を返す翔子が、丁寧に砂浜を踏み締めながら、ゆっくりとした足取りで天に歩み寄る。
溌剌とした表情の彼女に手を振られて、天は心の中で照れながらも手を振り返しながら歩み寄った。
二人の距離が縮まるのに時間はかからない。五秒もせず互いに触れられる距離まで近寄ると、翔子は「ふふっ」と小さく開けた口から笑みの音を溢し、
「やっぱり、来てくれたんですね。天くんなら来てくれると思っていました」
歯を見せてニカッと笑う翔子。
拳三つ分の距離は相変わらずで、背にする海よりも輝かしいそれを間近で見ると、天はまたしても頬の内側でお湯が沸く。
これが彼女の普通なのだろう。慣れていくしかない。
そう己の心に言い聞かせる天は「まぁ」と、バレないように足を滑らせて体一つ分だけ後退りし、
「行かなかったら変に気になるし、今日は部活もなかったので。せっかくなら、ってことで」
「私に会いに来てくれたんですね」
「その言い方には語弊があります。別に、牧之原さんに会いに来たわけじゃ……」
「でも、天くんはこうして、私の下に来てくれました。嬉しいです」
天が自分に会いに来ている方向で事実を完成させた翔子が、口元に手を添えながら笑む。
嬉しい。その感情以外に伝わってこない笑みは汚れがなくて、対応に困る天は「あはは」とやりづらそうに笑って誤魔化した。
素直な自己表現は時として武器になる。感情をストレートに伝えてくる翔子を見ていると、そんなことを天は思う。
颯しかり、翔子しかり。こういう人を相手にするのは実にやりずらい。
「牧之原さんは、いつからここにいたんですか?」
この状態のままだと照れ度メーターが上昇する一方な天は、自然体を装って話題を投げかける。
天が無言で開けた体一つ分の距離を無言で拳三つ分に詰めてくる翔子に、少しだけ息が詰まりながら、
「まさか、俺が来るまでずっとここにいた、なんて言いませんよね?」
距離を開ければ、即座に詰めてくる翔子。
無意識だと言われても納得のいく自然な動きを見せる彼女は、「んー」と喉を高く鳴らしながら頬に人差し指の腹を当てる可愛いポーズをとる。
それから、その表情を悪戯な猫のようにして天のことを見つめると、
「そうだと言ったら、どうしますか?」
「どうもしません」
「即答!?」
揶揄いには乗ってやらない天の即答に驚き、思わずと言った具合で声を上げた。
真顔の、マジトーンで、淡々と言われた翔子。その反応は予想していなかったのか、彼女は「えぇ……」と困惑しながら、
「私が、天くんをずっとここで待っていた、と言ったら天くんはどうしますか?」
「だから、どうもしません、ってば」
「本当に?」
「本当に」
「本当にどうもしないんですか?」
「しません」
再度、補強して同じ疑問を問いかけた翔子のしつこさに天は動じない。
「ほんとぉかなぁ?」とわざとらしく上目遣いでこちらを見上げる彼女のペースには、意地でも呑まれてやらないのだ。やばい、すごく可愛い。
もちろん、こんな可愛い子に待っていたと言われてどうもしないわけがない。
本当にそうなら、一番に待たせてしまったことへの罪悪感が浮き出てくる。その次にあるのは、女の子を待たせた自分に対する不甲斐なさ。喜びの感情は最後の方。
ただ、それを言うと揶揄うネタにされそうだから絶対に口には出さない。
今もなお、「ねぇ、本当にそうなんですか?」と絡んでくる少女に「じゃ、逆に聞きますけど」と小首を傾げ、
「牧之原さんは、俺にどうしてほしいんですか?」
「お姉さんを待たせた罰として、パピコを買ってくるくらいのことはしてほしいです」
「欲求丸出しじゃないですか。それ、単にパピコが食べたいだけですよね」
天のツッコミには取り合わず「誠意を見せてください、誠意を」と、不満そうな顔で翔子は天を見上げる。
身長差の都合上、拳三つ分の距離まで近づくと必然的に翔子が天を見るためには、やや斜め上に視線を上げる必要があった。
その上目遣いに天の心拍数がどれだけ上がっているか、彼女は知っているだろうか。
「買いませんからね。なんで俺が奢らなきゃいけないんですか」
「女の子を待たせるのは重罪ですし」
「それは牧之原さんが俺を待っていたら、の話でしょう」
そこで「牧之原さんが勝手に待ってただけじゃないんですか?」と、揶揄い返さないあたりが天らしい。
あくまで彼女のペースに呑まれないようにするだけで、自分のペースに彼女を巻き込もうとはしていなかった。
そんな余裕が無いだけかもしれないけれど。
「とりあえず、昨日の階段に座りましょうよ。今日は色々とあって疲れたんです」
「それはつまり、疲れているのに私に会いに来てくれたということですか!」
「牧之原さんって、毎日退屈しなさそうですね」
自己解釈が甚だしい翔子を無視し、天は彼女に背を向けて歩き出す。
午前中だけでも心身ともに疲労した彼は「そーいうことですよね!」と、解釈を押し付けてくるニコニコした彼女に横から覗き込まれると、
「そーいうことにしておいてください」
と、面倒になったので適当に便乗しておいた。
▲▽▲▽▲▽▲
「———はぁ」
五段ほど上がった階段に腰を下ろし、背負うバックを横に置くと、勝手に出てきたため息を深くつく天。
その横。定位置になりそうな拳三つ分の距離にちょこんと座る翔子は、目を瞑る天のため息に疲労感を感じ取ると、
「なにやら深刻そうなため息。お姉さんでよければ話を聞きますけど?」
顔を横に向け、天の態度を窺う翔子。
目を瞑って深呼吸を繰り返す彼に彼女は柔らかく微笑みかけるが、視界を闇に閉ざす彼はそれには気づかない。
しばらくして音もなく目を開けると、スパイク百本レシーブの時に強打した頬に手を添えながら、
「今日は大変だったんです」
「どうしてですか?」
「学校で特別指導を受けたんですよ」
「特指ですか?」と、不思議そうに聞いてくる翔子に「はい。特指です」と頷く天。
天を見る翔子の目には疑心の色が混じっていて、それ一つで自分が疑われていると彼は察した。
普通に生活していれば、まず受けることのない特別指導。余程学校の目に余ることをしなければ、言葉すら聞くことのない特別指導。
誰もが空気という名のルールに従って生活する世界において、それを受けることは集団から外れた行動をしたことに等しい。
翔子には、天がそんなことをする人には見えないのか。「どうしてですか?」と興味そうな声色で聞いてきた。
そんな彼女に天は「そうねぇ……」と、言葉を選ぶための沈黙を作り、
「ちょっと学校から抜け出したくらい」
「それはまた大胆なことを……。でも、抜け出したら特指になることが分からない天くんではないと私は思いますが?」
「もちろん。分かってますよ」
「それなら、どうして?」
深まる興味に疑問が止まらない翔子。彼女の視線を受ける天は海よりもずっと遠く——水平線を眺めている。
興味そうな目をしている彼女と比較して、彼の目は遠い。心の中で何を考えているのか、海の彼方に視線を放る彼の雰囲気は神妙そうに感じた。
「……入院してる友人の顔を見に行ったんですよ」
一段、トーンが下がった声だった。
途端、翔子の目には後悔に色付く天の横顔が映る。
その横顔に何か言いかけようとして、けれど彼女は口を閉じた。言葉にしようとした感情は、言うべきではないと思ったから。
天の話を、黙って聞いた。
「そいつ、二ヶ月前から学校に来てなくて。すごく心配してたんです。だから学校で、そいつが病院に入院してる、って聞いたら居ても立っても居られなくなっちゃって」
「それで抜け出したんですか」
「衝動的に、ね。俺と、俺の親友を連れ出して一緒に抜け出して、病院に行きました。……ひとりで辛い思いとかしてほしくないし、させたくないですから」
「そこでもまぁ、色々とありまして」と、そう語る天は依然として翔子を見ていない。海も、水平線も見ていない。
見ているのは、脳裏に焼きついた咲太のひどく死んだ目。全てを諦めた彼の、一切の光がない目。
昨日のことを思い出すと心に積もった疲労も思い出して、「はぁ」とため息が重く出た。
だから天は気づかない。自分を見る翔子の目が、強く焦がれている人を見る目に変わったことに。
だから天は気づけない。自分を見る翔子の視線が、甘くとろけてしまうような熱を帯びたことに。
牧之原翔子の目の色が、明らかに変わったことに。
「天くんは、とても優しい人なんですね」
なに一つとして翔子の変化に気づかない天。そんな彼との距離をバレないよう拳二つ分に詰め、翔子は優しい声で語る。
「なんでですか?」と、視線はそのまま意識だけを天に向けられた彼女は「だって」と、
「友人のために自分を犠牲にして行動ができる人は、世の中には多くはありません。友人だとしても、何かに罰せられることと天秤にかけて、それでも行動を起こせる人は少ないです」
「そう……ですよね。俺も不思議に思ってます」
唇を綻ばせて語る翔子の言葉を、天が肯定する。頭の中に流れる記憶——咲太に手を伸ばすように必死に声をかけ続ける自分を見ながら、彼は言葉を繋げた。
「なんであそこまで必死になれたんだろう、って。ちょっと前の俺なら、あんなこと絶対にしなかったのに」
「多分、よくない風に当たりすぎたせい」と、思い出してちょっと恥ずかしくなってきた天がはぐらかすように微苦笑。
そんな彼を見て、翔子もまた小さく笑った。思い出し笑いをしているような、そんな笑い方だった。
よくない風とは、この場合だと神崎颯のことを指す。友人のためならば損得勘定なしに動ける、良い奴すぎる良い奴のことを意味する。
自分の歯車が狂ったのは、彼と知り合ったせいだ。彼と知り合って、その生き方に憧れを抱いてしまって、無理なのに真似しようとしたからだ。
全く、自分らしくもないことをした。
「その入院してたヤツ、それなりにハードなもん背負っててさ。誰からも理解されない痛みと、ずっとひとりで戦ってたんだ。不安なのも我慢して、必死になって、助けを求めてたんだ」
「ーーっ」
言った瞬間、翔子に僅かな動揺が走る。
注視していても分からない程に小さなそれは、肩が数センチ跳ねることで形となった。
その変化に天が気づくことはない。覗いていた記憶から目を逸らす彼は現実世界に目を向け、色鮮やかな海を見た。
「それ知っちゃったから、なんかもう、気にしないわけにはいかなくなっちゃって。俺みたいなガキに何ができるのかな、って昨日から頭の片隅でずっともやもやしてるんです」
自分みたいな子どもが考えたところで、良い結果が得られるわけがない。
咲太を取り巻く脅威から彼を助けることは、今の自分にはできない。
妹のことも、思春期症候群のことも、咲太自身のことも、すぐには解決できない問題だから。
信じると言った以上、できる限り咲太には寄り添ってあげたいと思っている。
学校的な面でも、人間的な面でも、今の彼は孤立してしまっているから。これ以上、彼をひとりにするわけにはいかない。
そう思っている——そう思っているだけで、実際に彼にできることは何かと聞かれれば、すぐに答えは出ない。
寄り添うとはどうやればいいのか。今の天の未熟な精神にはとても難しいことだった。
「誰かに寄り添う、って難しいんですね」
「難しく考えることはないですよ」
自分のできることに悩み、難しく考えすぎて同じ疑問が頭の中をぐるぐる回る天。
考えてはため息が重なりそうな彼をやんわり否定する声がすると、不意に、その左肩に温もりが乗った。
考えるまでもない。温もりは左に座る翔子。天の肩に自分の肩を当て、ゆっくり体重を乗せる彼女が、天の体に寄りかかっている。
どきん、と。彼女の無防備な態度には毎度の如く心臓が跳ねる天。はっとし、一瞬だけ逃げる挙動を見せた彼は、しかし逃げることはしなかった。
それはきっと、寄りかかる翔子の顔がとても安らかなものだったから。
目を瞑り、深呼吸をしている少女が、ひどく落ち着いているように見えたから。
「今のように、こうして誰かが隣にいる。それだけでも人は安心するんです。ひとりじゃないことは、ひとりだった人にはとても大きなことなんです。それだけでも救われる人は確かにいます」
妙に重みを感じさせる言葉に、天はなんて言えばいいのか分からなかった。
くっつかれて緊張してるとか、どうやって離れてもらおうとか、色々と考えてることが渋滞しているからだと思う。
けれど、
「天くんのその姿勢は、その友人さんにとっては一つの救いになっています。寄り添ってあげたい——そう考えてくれる人が一人いるだけで、その人の世界は変わるんです」
この温もりが、とても心地良く感じて。この声が、自分の中のもやもやを晴らしていく感覚がした。
翔子の言っていることが正しいとは限らない。けれど、そうだとは思えない『なにか』が彼女の言霊には込められていた。
気がつけば、天は翔子のことを見ていた。翔子も天のことを見ていた。至近距離で視線が交わり、両者が無言で見つめ合う。
昨日会ったばかりなのに、不思議とそんな風に思えない少女、牧之原翔子。
彼女の接し方が、まるで空野天という一人の人間を
「そんなもんなんですか?」
「そんなもんなんです」
翔子が「ふっ」と笑うと、釣られて天が微笑を浮かべる。
彼女が自分の意志を肯定してくれたのだと分かって、なんだか肩の力が抜けた。
あまり見つめているのも恥ずかしい。そう思った天は羞恥心に破裂しないうちに顔を背けようとして、
「——私、優しい人は好きだよ」
その言葉に、身動きを封じられた。
背けようとした顔も、逸らそうとした視線も、離れようとした体も、全てが金縛りにあったように動かない。
頭の中が、白で塗りつぶされる。心の奥底から、形容し難い感情が吹き上がってくる。
何も考えることができず、その瞬間に、天の思考はピタリと動きを止めた。
優しく、小さな声ではあった。遠くの波の音に掻き消されそうな、弱い声。
けれど、簡単には折れない芯の強さがあって、優しくて弱いのに、とても力強い。
脈絡のない言葉を急に受けるのは、これで二度目だ。
それなのに、言葉の破壊力が段違いすぎて、天はこちらを見つめる翔子の思いから目を背けられない。呼吸が止まり、表情が固まった。
自分に言ってるわけじゃない。分かってる。それくらい分かってる。
なのに、それなのに、
「——大好き」
その目で言われると、勘違いしそうになる。
この人はそうやっていろんな男を誑かす人なのかもしれない——そう思えたら、どれだけ気持ちが楽になっただろうか。
俗にいう尻軽女みたいな人だと思えたのなら、今この瞬間に突き飛ばして帰りたい。
自分が見抜けていないだけか。
本当に純粋な気持ちで言ってるだけか。
また揶揄われているだけか。
深く考えすぎて、たった一言の言葉だけで目を回してしまいそうな量の情報を生み出し、麻痺した思考で処理する天。
結局、その思考を放棄したくなった彼は言葉の縛りから抜け出すと顔を背けた。
その幼い態度に翔子は「あ」と声をこぼすと、悪戯に成功した幼い子のような顔をして、
「今、照れました?」
「照れてません」
簡単に見抜かれる嘘をつく天。
彼自身、バレるとは分かっている嘘に翔子は「ふふ」と楽しげに笑い、
「うそです。絶対に照れました」
「照れてません。つか、流石に離れてください」
「恥ずかしいからですか? お姉さんにくっつかれて恋しちゃうからですか?」
「ちがっ……。あーもう、やだこの人!」
天のうんざりした声が海に木霊し、翔子の溌剌として楽しむ声が空に高く響く。
相変わらず馴れ馴れしい彼女に天がその場から逃げ出し、翔子が彼の背中を「待てー!」と言いながら笑顔で追いかける。
二人はそのまま、しばらく砂浜を走り回っていたのだった。