事あるごとに揶揄い、ニヤニヤ笑っては年下で遊んでくる翔子との追いかけっこをした天。
砂浜で二人、人組の男女がきゃっきゃする様子は外から見ればさぞ楽しそうに見えただろう。
尤も、長くは続かない。
朝練の反動に全身を痛めつけられる天が先に燃え尽き、何もないところで躓いて砂浜に顔面ダイブ——の前に前転して受け身を取って立ち上がり、翔子に「おー、すごい!」と拍手をされることで追いかけっこは終わった。
ただでさえ疲れている今、走ったのは失敗だったと思う。
かなりの勢いで走ったせいで息切れがひどく、走り終わった直後は視界が白と赤色に点滅していた程だ。
その上、追いかけてきた勢いを殺せずそのままの勢いで突っ込んできた翔子を受け止めたせいで、色々と疲れに疲れた。
「つか……れた、もぅ、なんで、突っ込んでくるんすか。ふつうに、あぶなかった……っ」
「そ……それは、天くんがにげるから……っ。あれです……。………ふぅ。車が急に止まれないのと同じです」
「牧之原さんは車じゃない、でしょう」
「でも、天くんなら、ちゃんと受け止めてくれると私は信じてましたよ?」
「そんな信頼、要らないです」
「受け止めてくれてありがとうございます」
「だから………。はい。どういたしまして」
走り終わった直後の会話だ。
膝に手をつきながら「ぜぇ、ぜぇ」と呼吸を整える天。胸に手を当てながら「はぁ、はぁ」と呼吸を整える翔子。
そんな会話をする二人の表情は晴れやかなもので、割と楽しかったのだと察することができる。
その際、翔子の息切れ声が色っぽく聞こえて、ちょっとだけ意識しそうになったのは天だけのナイショ。
「荷物とか階段に置きっぱだし、さっきの場所に戻りませんか?」
「はい。そうしましょう。私も疲れましたし、少し座りたいです」
呼吸を整えた二人は、座っていた階段に戻るために歩き出す。
二人とも疲れているからか歩く速度は遅く、一歩一歩を踏み出すテンポがのろのろしている。
波打ち際、永遠と押し引きを繰り返す波にギリギリ当たらない場所を選んで歩く二人。海側を歩くのは天で、砂浜側を歩くのは翔子。
もし、一度でも大きな波が来れば天の靴底がびちょびちょになるだろう立ち位置。
その位置に立ったのは無意識だ。友人と歩道を歩いているときに車道側を歩く癖が、こんな場所でも出たらしい。
変わらずの拳三つ分の距離。その間で交わされ続けるのはたわいない会話だ。
後ろ手に手を組む翔子と、ポケットに手を突っ込む天。彼らは、すぐそこから聞こえてくる波の音をBGMにしながらだらだらと談笑していた。
「天くんの制服姿、とても似合っていますよ」
「なんですか。藪から棒に」
「ふと思ったんです」
後ろ手に手を組みながら、物陰からひょこっと顔を覗かせるように天を覗き込む翔子。
その仕草が可愛くて足が止まりそうになる天。動作一つ一つが可愛くて変に反応する心に「お前、相当やばいぞ」と思いつつ、
「それはどうも」
と、適当に返す。
衣替えで半袖の着用が学校の規則として認められた天の服装は、半袖白シャツに灰色の長ズボン。
波に濡れることを懸念して、足の裾はくるぶしの少し上にまで上げている。
いかにも夏っぽい服装。サイズに余裕のあるシャツを着用しているため、全体的にゆるっとした印象。
更に、学校外では基本的にシャツの裾をズボンの中から出しているため、本人の見た目と雰囲気的にも若干の不良感があった。
颯と咲太曰く「雨の日に捨て猫とか助けてそう」らしい。まるで意味が分からない天である。
もちろん、それに気づかない翔子ではない。もはや隠す気もない天のシャツの裾出しに、めざとく目をつけると「あー」と、ニヤリと笑った。
「シャツの裾出してる。不良だぁ。いけないんだぁ」
「それだけで?」
「規則を破る人はいけないんですよ?」
「バレなきゃ犯罪じゃないんですよ」
決まり文句のように言い、天は揶揄いの目で見てくる翔子の視線を左から右へ受け流す。流れた視線は海へと放られ、天に届くことはない。
この場合、シャツを外に出すのはあくまで学校外のみ。学校にいるときは真面目にしているという意味合いのそれに、翔子は「はぁ」と分かりやすくため息をつくと、
「中学生からそれでは、将来が思いやられますね。もしかして、授業をまともに受けず学校に遅刻してくる俺カッケー、とか思ってる悲しい人だったりしますか?」
「厨二病は卒業したのもので。あと、授業はまともに受けてますよ。テストでもそれなりの点数は出してます」
「ホントかなぁ?」
「ホントです」
目の形を揶揄いの目から疑いの目に変えた翔子を軽く受け流し、天はシャツについた砂を見つけてぱっぱと払う。
先ほど、前転して受け身をとったときに付着したものが残っていたのだろう。
間違ったことは言っていない。学校にいるときはシャツはインしているし、授業だって真面目に受けている。
定期試験でも平均65点から70点はキープしているし、数学は80点以下を取らないように頑張っている。そうしないと数学馬鹿な父親がうるさい。
その代わり、英語に関しては40点以上を一度も取ったことがない。それも、三年間で。
やんちゃしてそうな見た目に反して、真面目なところでは真面目な空野天。
周りから尖った印象を受けがちな彼のことを、翔子は頭のてっぺんから足先まで一瞥して、
「まぁでも、天くんは不良は不良でも、優しい不良って感じがします」
「なんですか、それ」
「雨の日に段ボールに捨てられた子猫を助けるやつです。傘をさしてあげて、大丈夫か? って優しく声をかけるのが天くん」
「ドラマの見過ぎですね。中学生でそれはない」
自分の評価をばっさり切り落とす天に「そんなことないですよ」と、翔子は微笑む。
その目の奥で揺れる憧れの感情に、彼は気づくことなどない。
その文化がどこから生まれたのかは知らないが、こうも一致されると自分はそうなのかと少しずつ思えてしまう。
自分をよく知らない彼女と自分をよく知る二人の意見が一致するのだから、周りからもそう見えていると考えるべきか。
とりあえず、横からの温かい視線がむず痒い天は話題を変えるために翔子を見ると、
「牧之原さんこそ。その制服姿……」
「似合ってます?」
「はい。とても」
「可愛いですか?」
「ーーーー」
「ちょっと、どーして黙るんですか!」
似合うと聞かれて即答していた天の口が止まり、お気に召さなかった翔子が不満げに声を上げる。
唇をムッとして尖らせ、人差し指で隣に歩く男の肩をつついた。
どうやらお嬢様は天からの「可愛い」をご所望らしい。
わざわざ彼の正面に回り込んでは「可愛いですか? 可愛いですか?」と、くるりと回って制服姿を披露している。
まるで、試着したドレス姿を周りの人に見せるような態度だ。
やりずらそうな表情をする天。
目の前にいる翔子を避けながら歩き続ける彼は、「ちょっとぉ!」と隣に並んでくる彼女に今度は肘で脇腹を小突かれる。
言うまで粘る気か。そんなことを思いながら天は仕方なさそうに吐息し、
「可愛いですよ。普通に可愛い」
「本心ですか?」
「言わせておいて、それ聞きます?」
「じゃあ、本心じゃないんですか?」
言わなくても分かっているだろうに。敢えて聞いてくる翔子に天は一度だけため息。
それから深く息を吸うと、ふっと真剣な表情を作りながら彼女を見て言った。
「本心に決まってんだろ。すげー可愛い」
言った途端、翔子の足が止まる。
恥ずかしさが限界突破しかけた結果、素の自分が出た天の荒っぽい口調を聞き、その表情が驚いたように固まった。
一歩、二歩、三歩と歩き、四歩目で彼女の異変に気づいた天が「ん?」と喉を低く鳴らしながら振り返る。
立ち止まる翔子が、俯いているのが見えた。スカートをぎゅっと握りしめる彼女の肩が、小刻みに震えているのが分かった。
よくないことを言ってしまったか。そう思って近づこうと一歩目を踏み出し、
「天くんのばーか。そこまではっきり言われると、少し照れます。私は、顔を真っ赤にして照れる天くんを期待してたのにな」
止めた足を動かす彼女からすれちがいざまに一撃、優しい力で肩をコンと叩かれる。
そのまま置いていかれそうな天。「え? え?」と困惑する彼は慌てて彼女を追いかけるとその隣に並び、
「じゃ、どうすればいいんですか」
「知りません。自分で考えてください」
「えぇ……」
困惑が当惑に変わったところで、天の表情が曇る。
顔を合わせようとしてもプイッとされてしまうし、今の一言で完全に機嫌を損ねてしまったような感じだ。
しかし、それも数十秒間のことだ。
ご機嫌斜めな態度におろおろする天のことを横目でチラと確認する翔子が、不意に「ふっ」と笑声を口元から溢す。
音を聞いた天に「え?」と変な声で反応されると、彼女は「うそですよ」と笑いかけて、
「可愛い、って言ってくれてすごく嬉しかった」
「ありがと」と。
そう言葉を閉じる翔子の笑顔に、天は自分の頬が熱くなっていく感覚を自覚した。
多分、今、外から見ても明らかに赤くなっていると言える程に赤くなってると思う。
当然、彼女がそれを見逃すわけがない。だから天は早く熱が冷めるように祈りつつ、頬を指摘される前に別の話題を投げかけた。
「その制服って、どこのものなんですか?」
「それなら……」
翔子は左手側——海岸から上がった道路側を伸ばした左手で示すと、
「あちらを見てください」
「あちら?」
言われて見ると、翔子の左手が指し示す方向には一つの建物があった。
ぱっと見で学校だと分かる建物。それ以外にないだろうと思える白い建物。
この瞬間、天は七里ヶ浜を調べたときの記憶が脳裏に過ぎった。
グーグルマップで七里ヶ浜駅と海までのルートを調べたときに、一つだけその近くに高校があるのを見たような気がする。
名前は確か、
「……峰ヶ原高校」
「あれ? 知っていたんですか?」
「この場所を調べたときに、すげー海に近い高校があるなと思ったので」
意外だといった風に小首を傾げる翔子に、天は軽く頷く。
彼女の反応からしてそれで正しいらしい。自分の記憶に間違いはなかった。
「峰ヶ原高校。海の目の前に建っている高校ですから、教室からは海が見えて綺麗ですよ。天気がいい日はキラキラしていて、時間を忘れて見てしまいます」
「そーなんですか」
「はい。学校一番の魅力です」
他の高校には無い魅力を語る翔子は明るくて、これまでにも海を学校から眺めていたんだなと天は思う。
確かにそうかもしれない。教室から海が見える高校、峰ヶ原高校——キャッチフレーズとしては申し分ない。
考えが甘すぎかもしれないけれど、少なくとも天はそれを聞いたら気になる。今の環境では教室から海が見えることなんて考えられないし、近くにあったら通ってみたいと思うかも。
近くにあったら、の話だが。
「私は今、峰ヶ原高校の二年生なので、もしも来年に天くんが入学すれば、先輩と後輩の関係になれますね!」
「入学すればね」
「しないんですか?」
「遠いからしませんよ」
「え? だって………」
言いかけて、翔子は言葉を止める。言おうとした言葉をさっと引っ込め、声にする寸前で堪えたような止め方だ。
目を丸くする彼女の反応に、天は「ん?」と目を細める。
自分が入学するとでも思っていたのだろうか。その反応は予想していなかった。
「入学するにしては今の家からだと遠いし。それよりも近い高校があるから、進路はそこらへんにしよっかなって思ってます」
「入学……しないんですか?」
「もしするなら、今の家からは引っ越す必要がありますから。わざわざ引っ越してまで入学しようとは……ちょっと考えられないですね」
「親にも反対されるだろうし」と。
淡々と語る天の意見は実に現実的で、最もなものだった。
実際、通ってる塾で受けた模擬試験の結果として峰ヶ原高校よりも近い高校で良い判定が出ているものはあるし、わざわざ遠いところに行く必要はない。
語られずとも、その余裕の態度からそうだと察した翔子。唖然としていた彼女は、なにかを振り払うように首を小さく横に振ると、
「いいえ。天くんは峰ヶ原高校に入学しますよ」
「なんで?」
「私には分かります。入学するんです」
「今の一瞬で未来予知でもしたんですか?」
「しました」
適当なことを言ってくる翔子に天が「へー」と適当に返すと、彼女は「絶対、入学するんですから」とやけに熱心に、強い口調で天に言い聞かせた。
それなら、是非とも視た未来を言葉にして教えてほしいところだ。
こちらをじっと見つめる目で、彼女は空野天のなにを見たのか、事細かく教えてほしい。
そんな能力があるなら。
「峰ヶ原高校は、海が見える以外にも良いところはあるんですよ」
「例えば?」
未来予知をし、天が自分が通う高校に進学するのだと強く言う翔子。
話題を変えるためか、あるいは別の理由か。自然に話を逸らす彼女に天は小首を傾げる。
その様子からして、視たことは教えてくれないらしい。否、そもそも視ていないのだから教えようがないのだろう。
意地悪するつもりはない。話題を逸らされたことには特に指摘しない天に彼女は「そうですね……」と考えて、
「超進学校よりは合格しやすいこと」
「なるほど」
「あと、私が通っていること」
「なるほど?」
ちょいちょい自分に対する肯定感の高さがチラリズムする翔子に苦笑。
果たして、それが峰ヶ原高校の良いところなのかは曖昧である。
仮に彼女が『桜島麻衣』のような国民的スターなら話は別だが、そうじゃないなら良いところにはならないだろう。
もしや、彼女は峰ヶ原高校一の美女なのかもしれない。それなら納得がいく。高校の良いところという事実ではなく、その自己肯定感の高さに。
そんなことを考えていると、二人はようやく座っていた階段に到着。
荷物も特に盗まれていないようで一安心しながら階段を五段程度上がり、天は腰掛ける。
天が腰掛けるのを確認すると、翔子もまた彼の真横に腰掛ける。
ここが定位置だと言わんばかりの、拳三つ分の距離でちょこんと座った。
「なんで牧之原さんがいることが、学校の良いところになるんですか?」
どこまでが冗談で、どこからが本気なのか。その境界線が曖昧な彼女に天は問いかける。
「ふぅ」と疲れたような吐息を溢しながら、彼はその視線を海に放った。
同じく視線を海に放る翔子は「それはもちろん」と言葉を繋げて、
「私に会えるからです」
「ご自身を峰ヶ原高校のマスコットキャラか何かかと勘違いしてます?」
苦笑。
そんな自信満々に言える自己肯定感が天には羨ましい。
嘘であれ冗談であれなんであれ、自分をそうやって肯定することは誰もができることではない。
それを恥ずかしさを感じさせずにやるのだから、その精神力には感心すらしてくる。
けれど、それなら別に峰ヶ原高校に進学する必要はないと天は思う。
合格しやすいことや海が見えることは魅力的だが、進学する高校の絶対条件というわけでもない。
その上、
「牧之原さんにはここに来れば会えますし。別に、遠い学校に入学してまで会いに行く必要はないと思うんですけど」
「それ、私が常に海にいる暇人、って言いたいんですか?」
「牧之原さんが言ったんですよ。明日も、そのまた明日も、そのまた明日も、私はここに来ます、って。相当の暇人だと勝手に思ってます」
これを暇人と言わずしてなんと言う。
実際に彼女が暇人であるかどうかは知らないし、興味などないが。こうして海にいるということは、結構な暇人だと天は想像している。
彼女も高校生なら試験やらで忙しい時期のはずだが、全くそんな風には見えなかった。事実、天が海に着く頃には待機していたし。
そんなことを思う彼を見る翔子は顔を顰めて、
「暇人とはなんですか。ひどいことを言いますね」
「違うんですか?」
「違います。私、こう見えて忙しいんですから」
「ふーん」
「疑ってますね?」
「疑ってないですよ」
疑ってることを疑ってくる翔子に天の返しはそっけなかった。
今の「ふーん」は疑いのものではなく、ただ単に興味がないだけだ。忙しいなら忙しいで完結して、それ以上に知りたいとは思わない。
忙しかったとしても彼女に会えることに変わりはないだろう。明確な確証も理由もないけれど、なぜかそう思えてしまう。
きっと、明日も、そのまた明日もくる——そう語った彼女の目に異様な決意と覚悟が宿ってたからか。
明日も、そのまた明日も会える———。
「牧之原さん」
ふと、思ったことがあった天。
その名を呼ばれて「なんですか?」と返事を受け取ると、彼は彼女を見ながら、
「昨日、牧之原さんは、俺が来てくれたら嬉しい、って言ってくれたじゃないですか」
「言いましたね」
「それ、難しそうです」
言うと、頭の上に疑問符を浮かべる翔子が「ん?」と喉を高く鳴らしながら小首を傾げる。
言葉の真意を問いただす仕草に、天は「実はですね」と、面倒そうに言葉を紡ぎ始めた。
「再来週に期末試験があって勉強が忙しかったり、引退試合に向けて部活の練習が忙しかったり。ここにくる余裕が割とないんですよ」
成績に大きく関わる期末試験。
中学までが義務教育とか言っておきながら高校卒業が学生としての一般的な基準になっている今、決して無視できない大切な試験だ。
無論、テストの平均点を維持しなければならない彼が気合いを入れているのは言うまでもなく。二週間前の今ならば、既にテスト対策は始まっている。
七月の下旬に控えたバレー部の引退試合。
天が通う中学校の男子バレー部はそれなりに強豪で、夏の引退試合となる都大会ではベスト8が常連だと顧問から聞いている。
実際、引退した三年生たちが結果を残してきたのを天はその目で見ているし、先輩に負けないようにと同期と一緒に燃え上がっているところだ。
この期末こそは英語40点以上。数学90点以上。平均点を70点以上にしてやる。
この大会こそは関東大会進出。ベスト8止まりでは許さない。リベロの意地を見せてやる。
そんな野心を轟々と燃やす天には、こうして遊んでいる暇なんて本当はない。普通に考えて、色々とサボって来れるわけがない。
けれど、昨日の牧之原翔子の笑顔があまりにも魅力的すぎたから、本能に負けて来てしまっていた。
「でも、七月の下旬……遅くても八月になれば色々と終わるので。そうしたら、この海にも来れるようになると思います」
「なので」と、翔子に頭を下げて、
「ごめんなさい。明日からは、この場所には来れそうにないです」
真剣な声色で、申し訳なさそうに言い切った。
最悪なタイミングで出会ってしまったと思う。
もう少し余裕のある時期だったのなら、強いて言うなら夏休み中なら、塾と勉強の合間に遊びに来れたかもしれないのに。
残念なことに、今が学生にとって一つの山場。歯を食いしばって、気合いを入れて、目の前の壁に全力で体当たりしなければならない時期なのだ。
誠心誠意、天に頭を下げられた翔子。
律儀と言うべきか、会って二日目の少女にそんなことを言ってくれる素直さを受け取ると、彼女は無言で小さく微笑む。
それから、柔らかい声で「はい」と言いながら天の肩に手を添えて、
「分かりました。それなら、天くんの環境が落ち着くまではお別れですね。試験と大会、両方とも応援しています」
「ありがとうございます」
真剣な態度には真剣な態度で向き合ってくれる翔子の言葉に、天は胸の奥で燃える炎の勢いが増していくのを感じる。
自分はなんて、単純な男なんだろう。こうも簡単に昂ると、単純すぎて笑えてくる。
お陰で彼女の「応援しています」の声が、心の中から離れていかなくなってしまった。
これは頑張らなくては。次会ったとき、彼女に良い報告ができるようにしておかなければ。
「天くんは、なんの部活をしているんですか?」
心の底で真っ赤に燃ゆる感情が、音を立てて燃え盛る天。
今、自分の何気ない一言によって目の前の少年がやる気に満ちているとは知らない翔子に聞かれると、彼は軽く笑みを浮かべながら、
「バレーをしています」
「踊る方の?」
「打つ方の」
「牧之原さんが言ってるのはバレエです」と、全く別の競技にされかけた天が食い気味に修正を入れる。
天然なのか冗談なのか。相変わらず曖昧な返答をしてくる彼女に天は、「ボールを使うやつですよ」と言いながら手を組んでアンダーレシーブのポーズ。
それで理解したらしい。「それは良いですね!」と手を合わせると天に近づき、
「私、天くんがバレーしてるところを見てみたいです!」
「は?」
目を輝かせ、突拍子もないことを要求した。
予想していなかった。否、予想のしようがない提案に唖然とする天だが、翔子の目は気にせず輝いている。
その輝き方は、おもちゃ売り場に訪れた子どもの目に近しい。
「えっと……一応、理由を聞いても?」
「見たいからです!」
「ーーーー」
見たいから見たい。真っ直ぐで純粋な理由を述べられた天は言葉を失う。
単純で、簡単で、それでいて難しいことを平気で言ってくる彼女になんと言うべきか。
なにが彼女の心に触れたのかは分からない。分かるのは、寄ってくる勢いがすごいことくらい。
昨日のパピコ同様、こちらが了解するまで粘る気すら感じさせてきた。
「んーー。そうねぇ……」
困る天。彼は考え始める。
自分がバレーをするのは学校の部活中以外にはなく。
となれば彼女がバレーを見る機会は天が学校で部活をしているときか、引退試合中の二択。
どっちも困難だ。
部活中に見るとなると、彼女が中学の門を無事に潜れるわけがないし、潜れたとしても絶対に目立ってしまう。
その彼女に「あ! 天くん!」なんて呼ばれたら——想像しただけでも寒気が。
引退試合中は論外。そもそも大会の会場がどこかなんて顧問から伝えられておらず、今ここで彼女に伝えることができない。
伝えて、彼女を一人で見に来させたとしても、彼女が天を見つけられるかどうか。
要するに、二択の両方が潰れた。やはり、リアルタイムで見ることは難しい。
となると、
「実際に見たいとか、そーゆー感じ?」
「形には拘りません。天くんがバレーをしてる姿を見ることができれば、それで満足です」
「ん。分かりました」
ニコニコしながら言う翔子の言葉を聞いて、考えていた天の頭が一気にクリアになった。
思考をかき乱していたもやもやが晴れ、一つの答えが導き出される。
それならなんとかなる——気がする。実際に見なくても大丈夫なら、やりようはなくはない。
そうなると、どのバレーをしている自分の姿を見せるかが問題となるが、その問題は後に回してもいいだろう。
「うん」と。小さく頷く天は顔の前でグーサインを作りながら言った。
「やれるだけやってみます」
「はい。次、天くんに会えるのを楽しみにしていますね!」
そう言った瞬間の牧之原翔子の笑顔を、自分は一生忘れられないだろうなと思った。
▲▽▲▽▲▽▲
——最後に牧之原翔子と会ってから時は経ち、七月から八月に入った。
この月になると既に学生は夏休みに入り、中学三年生は『勝負の夏』と言われて受験勉強に励み始めるものだ。
夏休み気分に浮かれて遊びにうつつを抜かし、来年になって地獄を見ないよう勉強漬けの日々を順々に送っていく。
歩道をのんびり歩きながら、正面に見える海を眺めている天もまたその中の一人。
午前中の塾を終えた彼は今、バックを背にしながらいつもの場所を目指す中で、ここまでの奮闘を振り返っているところだ。
期末試験の結果は上々——とは言えない。
二週間前からちょこちょこ対策していたこともあって勉強自体はスムーズだったが、それでも押さえ切れないところはあった。
颯と勉強会なるものをして対策したものの、まだ足りなかった部分はあった。
平均点69点。数学88点。英語39点。
目標がなに一つとして達成できず、泣きそう通り越して虚無になった天だった。
その際、英語で62点を取った颯に「お前、ほんと英語だけはゴミカスだな」と言われたから、数学の解答用紙を無言で顔面に押し付けておいた天である。
自分は将来、理系に進むとしよう。
ちなみに、咲太に関してはテスト期間中にも入院中だったため、学校側からそれなりの処置がされたとか。他の生徒とは別で、試験を受けれたようだ。
中間試験のように受けれないような事態は避けられて一安心。
その代わり、彼が病室で頭を抱えながら勉強をする光景が、お見舞いに行った自分と颯の目に映ることになったけれど。
期末試験が終われば、次は夏休みに入ってから行われた引退試合。
結果からすると、ベスト8止まりだった。
初っ端からエンジン全開、対戦校をぶっちぎって順調に勝ち進み、決勝リーグにまで駆け上がったまではよかった。
しかし、そこから先が強かった。今年こそはと意気込むのは自分たちだけではなかったようで、フルセットのデュース、限界の限界まで戦って負けた。
関東大会には及ばず。いつも通りのベスト8という形で天の中学バレーは幕を下ろしたのだ。
最後は、リベロである天がエースのスパイクを取れなかったという、本人からすれば最悪の形で。
あんな泣いたのは結構久しぶりかもしれないと、あの瞬間の記憶を振り返って天は思う。
それだけ必死だったし、なにがなんでも勝ちたかった。
それでも、悔いはないから良しとする。
空手で忙しい颯と、やっと退院した咲太も応援に来てくれたことだし。二人にカッコいいところを見せれて良かった。
関東大会に行けなかったのは死ぬほど悔しいけど。
そんなこんなで、期末試験と引退試合を終えて夏休みに突入した天。
色々と済んだ彼が今、どこに向かっているかなんて考えるまでもないだろう。
——目の前に広がるは、塩水の大地と空色の世界の天井。
太陽の光を反射して宝石のように輝きながら揺らめく海と、大小様々な雲が泳ぐ空。二つの間には、一本の水平線が引かれていて。
天が見つめる先には、その光景を背景にして砂浜に立っている一人の少女が見える。
これで三度目となる、制服姿の黒髪少女。海という限定的な場所でしか会えない、不思議な雰囲気を纏う少女。
振り返り、ふわりと微笑みかけてくる少女に、天もまた笑いかけた。
「久しぶりです。牧之原さん」
「お久しぶりです。天くん」
空野天の夏は、ここから始まる。