ブタ野郎に親友を作っただけのお話   作:ノラン

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ハツコイ少女と空野天⑤

 

 

 ——天は、ぼーっとしていた。

 

 

 砂浜の上に大きめのレジャーシートを一枚敷いて、その上で靴を脱いでリラックス。

 かいた胡座の上に手を置き、力の抜けた情けない背筋を猫背にしながら、海を眺めている。

 

 何かを考えているわけではない。何かを考えようとしているわけでもない。

 頭の中は空っぽだ。ただ無心で、無感情で、視界を埋め尽くす夜の海を見ている。

 

 斜め上に目を向けると、月が見えた。今宵は満月だ。明かり一つない七里ヶ浜を、見事なまでに明るく照らしている。

 そのお陰で、この周辺には自分以外の人間が一人もいないことがよく分かる。

 

 夜の海は真っ暗だ。降り注ぐ月光を受けて鈍く輝いているのが薄く確認できる程度で、手前からずっと向こう側には闇が広がっている。

 

 だから目を閉じ、一切の視界情報を遮断した。

 

 聞こえてくるのは、一斉に寄せては引いていく波の音。夜の静寂に継続的に響くそれは、天が思っていたよりも力強い。

 頬に当たる海風は優しく、塩を含んで少しベタつく。けれど、慣れた今では心地よいものに感じた。

 

 夜の海で、一人。

 聞こえるのは波の音と、道路に走る車の音。尤も、後者は不規則だから基本的には前者の音しか聞こえない。

 揺れる海の音だけが、世界の音を形作っていた。

 

 

「………流石に、この時間にはいないか」

 

 

 ぽつりと呟く。天にしか聞こえない声量の弱々しい声は波の音に消されて、誰の耳にも届かない。

 

 目を閉じ、瞼の裏側に映るのは牧之原翔子の姿。海に来ると必ずいる、今となっては顔馴染みとなった年上のお姉さん。

 ここのところ彼女のことを考えると、不思議と鼓動がうるさくなってくる。

 

 午後七時を過ぎた今では、流石の彼女も海から帰ったらしい。

 いつかの夕方にダメ元で来たときはいたが、今回は彼女の姿はない。

 

 今日は塾が休みだからという理由で、藤沢の図書館で昼食と休憩を挟みながら一日中勉強。

 勉強を終えた後、家に真っ直ぐ帰宅するのも嫌だったから適当に夕食を済ませ。気になったからこうして海に来たのだが、

 

 

「牧之原さんはいない、と」

 

 

 別に、会いたいから来たわけではない。今日はたくさん頭を使って疲れたから、癒しを求めてこの場所に訪れたのだ。

 誰もいないこの時間帯に、一人で。わざわざレジャーシートまで家から持ってきて。

 

 海はいい。何も考えずにぼーっとしていられるから、やりたくもない勉強のことを忘れさせてくれる。

 心を無にできる唯一の空間だ。家にいると、自分の部屋にいると、勉強の教材が視界に映り込んで気が散ってしまう。なにも、落ち着けない。

 

 何もない、海しかない。誰もいない、自分しかいない。

 だからこそ、天は帰宅せずここに来た。

 

 

「でも、ちょっとは会いたい気持ちもあったり」

 

 

 嘘だ。

 

 翔子に会いたかった気持ちもある。ないわけがない。海に来るたびに会っていたのだから、当たり前に決まっているだろう。

 いない方が違和感。隣に在るはずの人がいない、それだけで寂しさを感じる。

 

 

「まぁ、いないのが当然か」

 

「いますよ」

 

 

 夜に一人で、こんな暗い場所にいる方がおかしい。自分のような、それなりに鍛えていて、なにかあっても大丈夫な男ならまだしも。

 彼女は女の子だ。月に照らされているとはいえど人目につかないこの場所では、変な人に目をつけられたら危険。

 

 その上、

 

 

「牧之原さん、普通にめっちゃ可愛いからなぁ。こんな暗い場所に一人で突っ立ってるわけねーよなぁ。いないのが普通だろ」

 

「いますよ」

 

 

 高校二年の時点であの可愛さだ。大いに将来が期待できる。多分、あんなに可愛いなら彼氏だっているだろう。

 そう思うと心がちくっとして、変に悲しくなってくるのはどうしてなのか。

 それはきっと———。

 

 

「………は?」

 

 

 そこまで熟考し、天は立ち止まる。無意識に口から出た音は、唖然の二文字が強く宿っていた。

 

 今、明らかに無視してはいけない声を聞いた気がする。一度ではなく二度も、聞き慣れた少女の声を聞いた気がする。

 すぐ真横、左側。視界を闇に閉ざして敏感になった感覚が、人の気配を感じていた。

 

 途端、心臓がドクンドクンと音を立てて強く波打つ。

 真横から感じる気配——その声は気配の正体を決定づけるには十分すぎるもので、誰がいるのか頭よりも先に心が理解した。

 

 確認しなきゃ。そう思って天は目を開き、声がした左側を恐る恐る見ると、

 

 

「………いつからそこに」

 

 

 すぐ真横。拳三つ分の距離で、ニコリと微笑む翔子と目が合った。少し、その頬が赤らんでいるのが見える。

 

 いつからそこに。一番初めに出てきた天の疑問に翔子は「んーー」と考える素振りをして、

 

 

「牧之原さんはいない、と。のあたりからです」

 

「そこからかぁ……」

 

 

 聞かれたくないところから聞かれていたと知り、がくりと肩を落とす天。ため息をつき、額に手を当てる。

 やっちまったと言いたげな彼の様子に、翔子は楽しそうにくつくつと笑った。

 

 笑い事ではない。そこから聞かれていたということはつまり、自分が彼女を可愛いと言ったことまで耳に入っていることになるのだから。

 可愛い——ハッキリとそう言った自分を彼女が見逃さないわけがない。

 

 海をぼーっと眺めて三十分が経過して、完全に油断していた。来ないとばかり思っていた。

 心の言葉を口にした自分も自分だが、タイミングが悪すぎる。

 

 

「天くん天くん」

 

 

 なんで今なのか。今さっきまでは黙って海を眺めていたのに——そう思うが絶対に口には出さない天の名を呼び、頬の力が緩む翔子がすっと近寄る。

 何を言われるか見当がつく天に「なんですか?」と若干嫌そうな表情で返されると、

 

 

「さっき、牧之原さん、普通にめっちゃ可愛いからなぁ。って言いましたよね?」

 

 

 天が触れてほしくなかった独り言に、容赦なく触れる。

 嬉々とした感情が態度に現れる彼女が、「言いましたよね? 私、聞きましたもん」と食い気味に確認しにかかった。

 

 拳三つ分を一つ分に詰められ、ちょっとでも動けば肩と肩が当たる距離。

 手を繋いだ日以降、距離の詰め方がやけに積極的になった彼女に、天は数秒間だけ沈黙。

 

 それから様々な葛藤に表情を歪ませながらも、無言で視線を海に逸らし、

 

 

「言ってません」

 

「嘘つけ」

 

「言ってません」

 

「言ったくせに」

 

「言ってません」

 

 

 見え見えの嘘がバレようが知らない。独り言で翔子を可愛いと言った自分を、天は頑なに認めようとはしない。

 そんな彼に翔子は「言った、って言えー」と、悪戯顔で天の左肩に自分の右肩をくっつけてだる絡む。

 

 ニヤニヤ、ニヤニヤ。口の端を持ち上げて笑みを浮かべ、自然な風に自分の体重を天に乗せた。

 それに気づかない天ではない。が、勉強で疲労中の彼は、触れることすら面倒に思ってしまうから黙っておいた。

 

 

「つか、牧之原さんはなんでこんな時間に来たんですか?」

 

「話、逸らしましたね」

 

「なんで、来たん、ですか?」

 

 

 あまり独り言に触れられても困る。さっさと話題を変えようと天は語尾を強調して言った。

 可愛いと言ったことを認めると確実に揶揄われる。既に揶揄われている感が否めないが、被害は最小限に留めておきたい。

 

 そんな天の意志を感じ取ったか。あるいは別の理由か。翔子は一度だけ「ふふっ」と、幸に彩られた笑声を溢し、

 

 

「何度聞かれても答えは同じ。——天くんに会うためです」

 

 

 依然として赤らむ頬のまま、断言する。吐息が聞こえるほど近くにいる少年の横顔を一直線に見つめ、なんの躊躇いもなく言い切った。

 

 もう何十回と交わしてきたやりとり。その答えはいつだって同じだ。

 天に会いたい——それ以外に理由など必要ないと、そう言うかのように声には確かな意志が灯っている。

 

 普段から揶揄ってくる翔子の、嘘偽りのない純粋な想い。真っ直ぐなそれを向けられる天の答えもまた、いつだって同じだ。

 だから翔子は聞き返すことをせず、言われた天が「ふっ」と笑みを浮かべるのを見て、唇を綻ばせた。

 

 

「でも、こんな遅くに一人で海に来るのはどうかと思います。ほら、周りとかすごく暗いですし。変な人に絡まれたら危険でしょう? 牧之原さんみたいな人は特に、帰った方がいい」

 

 

 首をぐるりと回して周囲を確認し、最後に視線を翔子にやる。

 頬の赤さ以外は真剣に見える天の伝えたいことを察すると、翔子は「なるほど」と小さく頷き、

 

 

「それなら大丈夫です。今の私には、天くんという心強いボディーガードがいますから」

 

「なんで俺が戦うこと前提なんですか」

 

「だって天くん、強そうですし。天くんならちょちょいのちょいですよ!」

 

「ちょちょいのちょい、って……。簡単に言うね」

 

 

 遠回しに自分を盾にすると言う翔子に厚い信頼を向けられ、誰かを殴るように可愛らしく拳を突き出す仕草に天はため息。

 自分は颯と違って武術の心得があるわけでもない。体は鍛えているから多少なりとも抵抗はできるだろうが、相手を倒せる自信はない。

 

 それに、

 

 

「生憎と、喧嘩事とは無縁なもので」

 

「その見た目で?」

 

「傷つきました」

 

 

 あどけない表情で言われた何気ない一言が心に刺さり、翔子から視線を外す天が顔を顰める。

 顰めた(つら)を見せるのは嫌だから、真顔が完成するまでは前を向くことにした。

 

 その彼を、翔子は優しい目で見つめている。それ以上の言葉は口にせず、自分のことを見ない天をうっとりした表情で眺めていた。

 今、その目の奥で何を思いながら彼を見ているのか、真に理解できるのは彼女だけ。

 

 

「まぁでも……」

 

 

 言った瞬間、天が顔をこちらに向ける予感が翔子に走ると、彼女はその表情をさっと内側に引っ込める。

 どうやらその顔は見せたくないらしい。彼が翔子を見たとき、その目に映ったのは微笑み顔。

 

 その顔の彼女に「でも?」と小首を傾げられると、真顔を作った天は一拍の間を置き、

 

 

「もしそうなったら、俺は牧之原さんを全力で守りますよ」

 

「ーーっ」

 

 

 一瞬、面食らう翔子。

 

 その真面目な表情に心臓が跳ねたような気がして、表情に出さないように彼女は咄嗟にその自分を取り繕い、ぎこちなく笑った。

 

 

「親父から、お前の拳はお前の使いたいように使え、ってなんか変なこと言われてますし。そーなったら俺だって頑張ります。これでも男です。それに……」

 

 

 一度、言葉を止める天。表情に迷いが生じる彼は、その迷いを振り切るように歯を見せてニカッと笑い、

 

 

「牧之原さんの前で、カッコ悪いとこは見せたくありませんから」

 

「ーーっ!」

 

 

 堂々と言い切った直後、翔子の目が驚いたように見開かれる。何かを言いかけた吸息音は言葉にならず、喉に詰まらせて言葉の邪魔をする。

 天を見ているはずの目は、天ではない誰かを見ているようで。その人から、目を離すことができなくなっていた。

 

 女の子の前で堂々と守る宣言をするのは思った何倍もむず痒く、翔子が見てなければ胸を掻きむしってしまいたい天だった。

 迷いは振り切ったから実際にすることはないものの、反動というものはあるものである。

 

 

「天君」

 

 

 深く吐息し、胸に籠った熱を放出する天。感情に熱くなった心を冷却する彼の耳に翔子の声が届くと、次に届いたのは小さな衝撃だった。

 天に身を寄せた翔子の右手が、天の左手に重なっている。重なって、指先でちょんちょんと突いていた。

 

 言いたいことは分かる。一度、手を繋いでから会うたびに要求されているのだから。

 しかし天は、敢えて「なに?」と小首を傾げる。分かっていて、分かっていないふりをする。

 

 

「手、繋いでください」

 

 

 そんな彼に、翔子は欲求をストレートに投げかけた。

 くっつく少年しか目の中に映らない少女が、甘えるような声で、ねだるような態度で、己の意志を押し付けるように。

 

 この瞬間、天は毎回のように不思議な感覚に襲われる。気にしないようにしても勝手に意識に入ってくる、拭いようのない違和感。

 今、自分の目の前にいる少女が、自分ではない誰かを見ているような。自分以外の人と接しているような、そんな感覚。

 

 理由は分からない。実際に彼女がそうだという根拠もない。ただ単に、感覚が「そうだ」と心に訴えているだけだ。

 だからきっと、これは自分の思い過ごしなんだと天は思う。

 

 

「はい。どーぞ」

 

 

 だとしても。甘える声とねだる態度の女の子に手を繋ぐことを求められて、無視できる天ではなかった。

 軽く左手を差し出すと、翔子の右手がくっついて。流れるように指と指の間に細い指がするりと入り込み、天の指と絡み合う。

 

 互いの手の平が重なり、指と指が交互に組み合わさる。直接触れ合う肌と肌を通じて温もりを交換すると、翔子の表情が柔らかく砕けた。

 

 

「牧之原さん。俺と手ぇ繋ぐの好きなんですか?」

 

 

 堪えて堪えて、それでも堪え切れなくて破顔。そんな風にふひゃりとする翔子を横目に、天は海を見ながら聞いた。

 彼女を見ないのは、見ないのではなく見れないからだ。直視すると、その表情に釣られて自分までニヤけそうになる。

 

 ニヤケそうな自分を隠す天。その抵抗を見抜く翔子は、しかし敢えて触れずに反応を楽しみながら、

 

 

「嫌いだったら繋ぎませんよ」

 

「じゃ、好きなんですか?」

 

「どうでしょうね」

 

 

 軽く笑み、天の顔を覗き込む。

 その動作に伴って彼女のしなやかな髪がさらさらと零れ落ちた。小首を傾げたようなそれは、相変わらず愛嬌たっぷり。

 

 翔子の目に映る天は、依然として海を見つめたまま。頬の熱は冷めておらず、明らかに赤くなっていると一瞬で分かった。

 逆もまた然り。天を覗き込む翔子の頬は紅に紅潮していて、両者共に月光に照らされてよく目立っている。

 

 

「天くんは? 私と手を繋ぐの、好きですか?」

 

「嫌いじゃないです」

 

「それじゃぁ、好きですか?」

 

「どうでしょうね」

 

 

 仕返しとばかりに翔子の言葉を反復し、天は言葉を閉じる。疑問に対する答えを声にはせず、会話は終了した。

 にも関わらず、二人の表情は晴れやかなものだ。望んだ答えを返されなかった彼らは、満足そうな態度を見せている。

 

 答えなど、聞くまでもないからだ。繋がれた右手と左手、それが答えだからだ。

 

 

「ーーーー」

 

「ーーーー」

 

 

 会話が閉じられると、二人の間には静寂が漂い始める。静かながらに立っていた声が消え、七里ヶ浜は静まり返っていく。

 聞こえてくるのは波の音と、互いの吐息する音。手を通じて高鳴る心臓の音が聞こえるのは気のせい。

 

 何も話さず、じっと海を眺める二人。

 天が翔子の体温を感じ、翔子が天の体温を感じ。無言の時間を温もりが埋め続ける中、何者も侵入できぬ世界に没入していった。

 

 

「天くんには、好きな人はいますか?」

 

 

 どれほど時間が経っただろうか。感覚的には一分もない甘美な時間。

 その時間を破ったのは翔子だ。不意に響いた彼女の声が静寂の世界を破壊し、二人の中に再び会話が戻ってくる。

 

 囁くような声、真剣な顔つきで問う翔子。頬から赤色が引っ込んだ彼女が雰囲気を変えてくると、天は緩む頬にさっと力を入れ、真剣な表情を作りながら、

 

 

「今のところはいません。俺、あんまりそーゆー機会はなかったので」

 

 

 「その見た目で?」と、言葉ではなく目で聞いてくる翔子に嫌そうに目を細めた。

 

 事実、そのような機会は自分の心には訪れていないのが現状。モテたいとか思ったこともないし、気になる子もクラスにはいない。

 可愛いと思う子はいる。けれど、それが相手を好きになることには繋がらないのだ。

 

 と、いうのは建前で。

 本心を言えば、真横にいるお姉さんが気になりつつあるが、恥ずかしいから絶対に言わない。

 年下好きだけど、年上好きになりそうだなんて、絶対の絶対に言わない。

 

 

「牧之原さんにはいるんですか?」

 

「知りたいですか? 気になっちゃいますか? やっぱり? 天くんは、私に好きな人がいるかどうか、気になってしまいますか?」

 

「別にそーゆーわけじゃ……」

 

 

 聞き返した途端、真剣な表情を崩した翔子がニヤニヤしながらぐいぐい迫る。

 ゼロ距離から更に詰め寄るものだから、勢いに押される天の体が横に傾く。

 

 まるで、天の本心を察しているような物言い。実際に気になるから強く言い返すこともできず、彼は寄りかかってくる翔子に微妙な表情を浮かべた。

 とりあえず、このまま無抵抗だと倒れるから腹筋に力を入れて彼女の勢いを相殺。上手くバランスを保ちながらため息。

 

 

「で。いるんですか? いないんですか?」

 

「いるよ」

 

「ぇ……」

 

 

 瞬間。

 

 天は己の心臓が、一度だけ高く跳ねたのを感じた。あまりにも高く跳ねたせいで、肩まで跳ねている。以降、心拍数が変に上昇を開始した。

 流れに任せて投げかけた疑問の答えに、心が敏感に反応しているのだろう。

 

 思わず顔を横に向けると、ふっと真剣な表情に戻った翔子が、こちらを真っ直ぐ見つめているのが視界に入った。

 目と鼻の先。照れ臭そうに笑いながら、少し上目遣いで見上げている。

 

 言葉の威力が高すぎて、自分で投げかけたことながらに思考が麻痺した天。言葉を発する力が奪われた彼を見つめたまま、翔子は言った。

 

 

「前から好きな人が、私にはいる」

 

 

 どきん。

 

 そんな音が聞こえて、天の心が大きく揺れる。胸を貫通する声が、じわじわ熱せられていた感情を急激に熱していく感覚に、言い表しようのない興奮が漏れ出す予感がした。

 自分を見ているはずの彼女の目は、やっぱり自分を見ていないようで。溶けてしまうくらい情熱的な甘い感情を孕んだ視線が、とても熱く感じる。

 

 そうなったのは、思ってしまったから。

 前から好きな人がいると言われて、自分自身にも可能性があるのではないかと、少しだけ思ってしまったから。

 彼女の言う『前から』がいつからいつまでの期間を指すのか——それによって変わってくることだけれど、思った直後から変に意識し始めてしまう。

 

 翔子の上目遣いから、目が離せない。

 翔子の赤らむ頬から、目が離せない。

 

 牧之原翔子に、意識を釘付けにされた。

 

 

「一つ、聞かせてください」

 

「ーーーー。いいよ」

 

 

 天の全てを惹きつけた翔子が、神妙な雰囲気を纏い始めながら声を届ける。

 若干の沈黙の後、真剣な顔つきを崩さない翔子を見ながら天は小さく頷いた。

 沈黙があったのは、心を整えるために時間を使ったから。

 

 一度、深呼吸をする翔子。彼女は、暇な左手を胸元に当て、深く息を吐いて胸の中を空っぽにする。

 それから深く息を吸って、想いを声にする分の酸素を確保すると、

 

 

「天くんは、初恋の人の命と親友の命、どちらか一つしか助けることができないとなったら……どちらを助けますか?」

 

 

 真摯な声で、問う。

 

 いつも話している様子とはどこか違う、と。胸に突きつけられる疑問を聞いた天は思う。

 今の発言には、普段のように揶揄っていると一蹴りすることのできない真剣さが込められていた。

 天を見据える双眸には、冗談やふざけた態度を許さないという意志が宿っている。

 

 たった一つの言葉のみで雰囲気の変化を察せられるのだから、その態度の変わりようはあからさまだ。

 

 

「初恋の人の命と、親友の命……か」

 

 

 だから天も、真剣に考える。なんで聞いたのか、とか。どういう意味なのか、とか。浮かんでくる疑問はあるけれど。

 とりあえず、彼女の問いに向き合ってみることにした。

 

 

「難しい質問ですね。トロッコ問題みたい」

 

 

 一方を助ければ、もう一方は死ぬ。

 単純な問題。正解、不正解のない問題。

 

 究極の二択だ。初恋の人を助けるか、親友を助けるか。前者を助ければ後者は死に、後者を助ければ前者は死ぬ。

 突飛で、ぶっ飛んだ問題。けれど、答える人の人間性がよく現れる。

 

 

「考えたこともなかったから、想像しづらいな」

 

「初恋の人と親友を、身近な人に例えてみてください」

 

 

 上手く考えられず四苦八苦する天に、翔子が助け舟を出した。

 そうするよう誘導しているかのように、言葉選びに迷いはない。

 言葉のキャッチボール。ボールを天の胸に投げ、彼女は投げ返されるのを静かに待った。

 

 

「そうねぇ……」

 

 

 上手く想像ができないなら、言われた通りに身近な人に例えてみる。

 頭の中に自分が乗ったトロッコを用意し、分岐点のあるレールを敷き、それぞれの分岐先に知人を置いて考える。

 

 親友は颯か咲太のどっちか、否、二人でもいい。親友と呼べる友人なんて彼ら以外におらず、申し訳ないが命の危険に晒されてもらおう。

 初恋の人は———。

 

 

「ーー? なんですか」

 

「ううん。なんでもない」

 

 

 初恋の人は、牧之原翔子にした。

 彼女を自分にとっての初恋の人として、颯と咲太の二人がいるレールとは別のレールの上に置く。

 

 これで準備は整った。

 頭の中にある光景——一本から途中で二本に分岐するレールが敷かれていて、片方には颯と咲太(親友)が、もう片方には牧之原翔子(初恋の人)がいる。

 自分の体はレールに乗るトロッコの中にあって、そのトロッコは分岐点の手前にいる。

 

 さて、ここからどうする。自分は、どっちを助ける。

 

 親友を助けたら、親友に感謝される。初恋の人を助けたら、初恋の人に感謝される。

 親友を助けなかったら、初恋の人に罪悪感を抱かせてしまうかもしれない。初恋の人を助けなかったら、親友に罪悪感を抱かせてしまうかもしれない。

 

 なるほど。どちらを助けても、招く結果に大した変わりはないらしい。感謝されるし、罪悪感を抱かせてしまうし。どの道、誰にとっても後悔が残る結果になる。

 

 あくまで自分の浅い考えだから、本当にそうかは分からない。考えれば考えるほど、様々な可能性と結果が導き出されるのだろう。

 けれど、中学三年の自分の中ではその結果になると固まった。

 なら、自分は———。

 

 

「初恋の人の命を助けたい」

 

「ーーっ」

 

 

 言った瞬間、翔子の息が詰まる音がした。

 すぐ真横、こちらに寄りかかる彼女の目が見開き、何かを言おうとして失敗している。

 

 光が宿る目でこちらを見つめる彼女が今、心の中で何を考えているのか。天には理解(わか)らない。

 

 理解(わか)らないけれど、言葉を紡いだ。

 

 

「その親友には申し訳ないけど、俺は初恋の人を助けるよ」

 

「その親友が、初恋の人と同じくらいかけがえのない存在だったとしても……。そうだとしても、同じことが言えますか?」

 

 

 繋いだ手をぎゅっと握り、翔子は問いに問いを積み重ねる。

 妙に頭の中で想像した絵面に当てはまる事を言われて、天はすぐに答えを返すことはできない。

 

 少し考える。そんな風に真摯な目でこちらを見据える翔子から視線を外すと、彼は地平線の彼方まで続く海に視線をやった。

 

 実際にその状況に立たされてみないと、分からないことだと思う。

 言うのは簡単だからなんとでも言えるけど、本当にどちらかが死んでしまうとなったら、自分はどちらを助けると言うだろうか。

 

 答え方にひどく困る彼は、けれど「うん」と深くゆっくり頷き、

 

 

「そうだとしても、俺はその人の命を優先したい。その人と生きる道を、その人と歩きたい。そのせいで……………親友が死んじゃったら死ぬほど苦しいと思うし、後悔もすると思う。初恋の人にも罪悪感とか抱かせちゃうかもだけど」

 

 

 「それでも」と、天は真横——肩が触れる距離に座る翔子に視線を戻す。

 ほんの少し潤っている瞳を一直線に見つめ、真剣な顔で手を握り返しながら言った。

 

 

「そうだとしても、初恋の人を大切にさせてほしいな」

 

「ーーっ!!」

 

 

 ぽっと赤。

 

 先程よりも高く肩が跳ね上がる翔子の頬が赤く染まり、一瞬、彼女の瞳が月光を浴びて煌めく水面のように輝く。

 何かを我慢している唇が固く閉ざされて、小刻みに震えるそれが、泣き顔という表情を形作っていた。

 

 それが見えたのは一瞬。その一瞬が過ぎる頃にはもう、彼女は天から顔を背けている。

 顔を見ることはできない。完全に表情を隠す彼女は天に後頭部を向けていて、「見るな」という意志がこれでもかと伝わってきた。

 

 だから、天は見ない。

 

 その態度の理由を聞くべきなんだろうけど、見られたくないものを無理やり見ようとするほどノンデリではないから。

 彼女が落ち着くまで、静かにする。声をかけることも、背中をさすることもせず、黙って時が流れるのを待つ。

 その代わり、繋がれた手をぎゅっと握った。

 

 握り続けた。

 

 

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