ブタ野郎に親友を作っただけのお話   作:ノラン

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ハツコイ少女と空野天⑥

 

 

 翔子が黙って、どれくらい経っただろうか。

 

 時間を測ったわけじゃないから正確には分からないけど、感覚としては五分。

 実際はもっと長いかもしないし、短いかもしれない。実は一分くらいしか経ってないかもしれない。

 

 けれど、天としてはそんなことどうだってよかった。

 ぼーっとしているふりをしながらも、頭の中は真横にいるお姉さんのことでいっぱいだったから。

 こちらに寄りかかる翔子。親友か初恋の人のどちらを助けるか、その解答を言った途端から、様子を変えたお姉さんから、意識が離れなかったから。

 

 様子を変えた彼女は、それ以降から天に顔を背けて言葉を発さなくなった。時折、鼻を啜る音と「ぅ」と言う極小の声を漏らすのみで、黙り込んでしまった。

 ふるふる、小刻みに体が震えている。何かを我慢しているような、堪えているような、そんな震え方だった。

 

 なにか、自分の言ったことで心に触れるものがあったのか。

 初恋の人を助けると言ったことだと考えるけど、どうしてその言葉に反応したのか天には分からない。

 

 だから彼は何も聞かないし、何も言わなかった。気休めの言葉もかけず、理由を聞くこともせず、ただ黙って彼女の手を握った。

 どうしたらいいか分からないから、やれることを精一杯やった。

 

 握ると、翔子は応えるようにぎゅっと握り返して。彼女に応えるようにぎゅっと握ると、また握り返して。

 そんなやりとりに夢中になっているうちに、時間なんてあっという間に過ぎていった。

 

 

「——ずるい」

 

 

 不意に、翔子が声を落とす。呟きと変わらない声量は、この静寂の砂浜でならよく聞こえた。

 恥ずかしがるような、甘えるような、そんな声。声色は先ほどよりも落ち着いて、静かだった。

 

 

「天くんは、やっぱりずるいです」

 

 

 顔を向けると、そう言った翔子と至近距離で目が合う。

 彼女は、こちらの左肩に自分の右肩を当てて寄りかかっているのだ。ちょっと左側を見れば、言葉そのままの意味で目と鼻の先に彼女の顔はある。

 

 小さな吐息すら聞こえる距離にいる、牧之原翔子。その瞳はあくびをした後のように潤んでいて、降り注ぐ月光を僅かに反射していた。

 頬は紅色に赤らみ、表情には泣いた痕跡がほのかに漂い、余韻が尾を引きながら徐々に消えつつある。

 

 一目見て、泣いた後だと理解できる表情。けれど、彼女の様子から負感情は伝わってこないから、天は敢えて触れない。

 

 触れないまま、「ん?」と小首を傾げ、

 

 

「なにがずるいんですか?」

 

「こういうところです」

 

 

 ずるい理由の見当はつくけど曖昧だから惚ける天に、翔子は拗ねるように言う。

 それから、自分の右手をぎゅっと握り続ける天の左手を、ぎゅっと握った。

 

 手を握り続けてくれたことが嬉しかった。そう解釈した天はすっと視線を海に逸らし、

 

 

「俺には、それくらいしかできないから。それに、あんな様子の女の子に何もしないわけにもいかないし」

 

 

 それくらい。が、どれだけ自分の心を優しく包んでくれたか、目の前の少年は知っているだろうか。

 今、自分がどれだけ安心して、穏やかな気持ちにさせられているか、この人は知っているだろうか。

 

 知らないだろう。でも教えない。天と同じように視線を海に逸らす翔子は「ふふっ」と笑みを溢し、

 

 

「優しいんですね。私、優しい人は好きですよ」

 

「またそーゆーこと言って……。揶揄うのも大概にしてください。牧之原さんが言われたくないこと言いますよ」

 

「そう思ってる時点でアウト」

 

「思わせてるのは牧之原さん」

 

 

 男に好きとか簡単に言う女は尻軽女——口にしなかったのは天が翔子の心を慮ったからだろう。

 前に一度、それを言って本気で悲しませてしまったことがある彼にとってそれは禁句。だから言葉にしなかったが、どうやら無駄だったらしい。

 

 結局、思ったことすら有罪だと言う彼女に弱めの体当たりを食らったが、今回は前回と違って悲しそうには見えなかった。

 寧ろ、この状況を楽しんでいるように見える。

 

 星々が輝く夜空の下、月に見られながら砂浜で二人っきり。天に身を寄せて、手を繋ぎ、同じ時を過ごす。

 その状況を、楽しんでいるように見える。

 

 

「まぁでも」

 

 

 今になって、この状況の雰囲気の良さに気づいた天。

 このタイミングで牧之原さんに告ればいけるんじゃね? とか舐めたことを思う心をフルボッコにする彼は、紺色の夜空を見上げて、

 

 

「実際にその状況になってみないと、なんとも言えないかも」

 

「さっきの質問ですか?」

 

「そう」

 

 

 こちらを向く翔子の視線を感じながら、天はゆっくり頷く。

 さっきの質問——初恋の人の命と親友の命、どちらを助けるかというやつ。答える人の人間性が浮きそうな、究極の二択。

 

 それに対し、天は初恋の人の命を助けた。親友の命、自分の中だと颯と咲太の命を犠牲にして、翔子の命を助けた。

 けれど、

 

 

「実際に初恋の人の命と親友の命、二つの命を天秤にかけるような出来事に遭遇しないと、自分の答えはよく分かりません」

 

 

 言うだけなら簡単だ。少し考えて、思ったことを口にするだけで答えが出る。

 それだけで終わるなら実際に誰か死ぬわけでもないし、判断に迷いはあったとしても答えが出ないなんてことはないと思う。

 

 けれど、もし、本当に、そのような状況に立たされたとしたら。自分はどうするだろう。

 颯と咲太か、牧之原翔子か。どちらか一つしか助けられないとなったら、自分はどちらを助ける。

 

 答えは単純、分からない。

 

 

「アニメとかドラマであるじゃないですか。君のことはなんでも分かる、とか。辛い気持ちは分かるよ、とか。そーゆー、人の心に寄り添うセリフ」

 

「ありますね」

 

「俺、アレあんまり好きな言葉じゃないんだよ」

 

「どうしてですか?」

 

 

 興味を示す翔子に横顔を見られながら、天は「だってさ」と真面目な声で語り始める。

 

 

「実際にその人の立場になってみないと、なんも分からないじゃないですか。その人と同じ状況に立って、痛みを実際に受けて、苦労を体験しないと、ちゃんと理解することはできない」

 

 

 ーーだから俺は、咲太の苦しみを全部理解してあげられない

 

 心の中で呟いた途端、翔子が見つめる横顔に変化が生じる。痛みでも受けたように歪む様は、間違えなく精神的な苦しみによるものだ。

 何かを堪える彼が下唇を噛み締め、言葉を生むまでの時間稼ぎとしている。

 

 咲太の話を聞いて、色々と思うことはあった。咲太自身の事や、妹さんの事に、思春期症候群の事。

 話されること全てが現実離れしていて、あれから既に一ヶ月が経つけれど、未だに全てを理解することも信じることもできていない。

 

 だからこそ、天はそう思う。自分は真に咲太のことを理解するのは難しいのだと。

 彼の痛みは彼しか真に理解できず、自分のような人間が本当の意味で寄り添うのは、自分が思っている何億倍も難しいのだと。

 

 

「だから、分かった気にしかなれないと俺は思うんです。誰しもが、その人にしか分からない痛みを、一つは抱えてるもんですから」

 

 

 空に浮かぶ月を眺めて言い、天は息を吐く。吐息に含まれた感情はなんだろうか、言った彼の横顔は翔子の目には儚く映っている。

 話し始めた瞬間から、徐々に重苦しい雰囲気を纏い始めた天。スイッチが入ったのか、彼の表情は依然として苦しそうだ。

 

 そんな彼を見つめる翔子は、彼に寄り添うように控えめで、けれど励ますように少し明るめの声で言った。

 

 

「では、天くんの好きな言葉はなんですか?」

 

「好きな言葉?」

 

「そうです」

 

 

 話題を変えられた天は「んー」と、喉を低く鳴らしながら考える。

 それが自分を気遣ってのものだとは知らず、素直に好きな言葉を探し始めた。

 

 好きな言葉。好きな言葉。好きな言葉——いまいちぱっと思い浮かばない。

 考えたこともなかったから、思い出の中から上手く引っ張り出せそうにない。

 

 

「考えたこともなかったもので……。よく分かりません」

 

 

 翔子を横目で見ながら素直に分からないと言った天に、彼女は「それなら……」と少しだけ考えて、

 

 

「例えば、ごめん、って言われるのは好きですか?」

 

「好きか嫌いかで言ったら嫌いです」

 

「私もです」

 

 

 共感する翔子が「うんうん」と頷く。

 

 正直なところ、天的には好きでも嫌いでもないが、二択で答えろと言われたらそうだ。

 その言葉が好きな人など、いないことの方が多いだろう。好きと言う人がいるのなら、是非ともその心情を聞いてみたい。

 

 そう思う天に、翔子は優しい声で語る。

 

 

「『ありがとう』と『がんばったね』と『大好き』——私は、この言葉が好きです。三大好きな言葉です。子どもの頃、ある人から言われて、そのときの私は救われました」

 

 

 聞いた天がはっとし、苦痛に揺らいでいた表情が和らぐ。言葉が心に落ちた瞬間、優しく波紋する波動が心の奥底まで浸透していく。

 今の中で心に響くものがあったようで、「ふっ」と息を漏らす口元が柔らかく綻び、緊張していた頬が緩んだ。

 

 

「ありがとう、と。がんばったね、と——」

 

「大好き」

 

 

 一つ一つ。記憶に馴染ませるように言葉を反復する天に、翔子の声が重なる。最後の一つだけ声を継ぎ、彼が言うはずだった言葉を奪った。

 

 その瞬間の翔子の目は、やはり天を見ていない。大好き——感情の込められた声色で囁く彼女は、他の誰かを見つめている。

 天を見ているけれど、天を見ていない。おかしな矛盾を抱える瞳は、彼の横顔を恍惚とした様子で見ていた。

 

 

「がんばったね。って、なんかいいですね」

 

 

 真横の事情には気付くことなく、天は緩む頬で微笑みながら呟く。

 その笑みに苦痛の色はなく、釣られる翔子もまた「ん?」と小首を傾げなから微笑んだ。

 

 

「俺、頑張れ、って言葉………どうしても、あんまり好きになれなくて」

 

「どうしてですか?」

 

「そう言われたら、言われなくても頑張ってるよ、って思っちゃうから」

 

「中々に捻くれた考え方ですね」

 

 

 クスッと笑う翔子に、釣られる天もまたクスッと笑う。互いの笑みに釣られ合うと、両者の間で気持ちのいい笑声が弾けた。

 そのまま笑いの衝動に任せて笑い合い、それから静かにその声もフェードアウトしていく。

 

 そして、その衝動が収まれば、天は思いを紡いだ。

 

 

「もし、その言葉をかけられた人がめちゃくちゃ頑張ってたとして……そう言われたら、今の自分じゃ足りない、もっと頑張れ、って言われてるように感じちゃうんじゃないかな、って思うんです」

 

 

 思うんです、と。

 

 思ったことを語るにしては重みのある態度で天は語る。まるで、過去に自分が体験したことを話しているような口ぶり。

 

 頑張れ、という言葉にどんな感情を抱くかは人それぞれだ。

 それを励ましだと受け取り、声援を力に変えて前に進む颯タイプか。あるいは、己を追い詰める脅威として認識し、嫌悪する天タイプか。あるいは、何も思わない咲太タイプか。

 

 少なくとも、天は二番目の人間。

 めちゃくちゃ頑張っている中にそう言われてピキッときた経験だってあるし、もっと頑張らないと、と追い詰められたことだってある。

 

 

「そんな人に、頑張れ、って。酷な話だと思いません? もっとユルくていいんですよ、ユルくて」

 

「実体験?」

 

「まぁ……、ちょっとね」

 

 

 言った直後、ずっと海を眺める天の横顔に影が差す。後ろめたいことがある人間の顔をする彼は、遠くを見ていた。

 気になる。天の暗い部分が照らされて好奇心に目を光らせる翔子は、しかし、深く聞くことはできなかった。

 

 それ以上に、意識を奪うことが直後にあった。

 

 

「だから……牧之原さんのが、好きです。寄り添う形で励ますのが、なんかいいなって思いました」

 

「なるほど。つまり、私のことが好きなんですね」

 

「うん?」

 

「うん、って言いましたか!?」

 

 

 己の耳を疑う翔子が驚き、声を上げて目を見開きながら肩を押し付けるように体を小さく揺らす。

 既に密着した二人の体、詰め寄る間隔がない彼女が、別の方法で驚きの感情を表現したのだ。

 

 一瞬、耳元で上がる声に表情が驚く天は、その次に困った顔をする。それから、やれやれと言わんばかりのため息を露骨に吐き、

 

 

「うん? って言ったんです。疑問符を聞き逃さないでください」

 

「言いましたよね!?」

 

「話を聞け」

 

 

 目を輝かせた翔子は積極的だ。手を繋いでいるから逃げようにも逃げれない彼に「だって!」と、興奮した様子で、

 

 

「今、牧之原さんが好きです、って言いました!」

 

「牧之原さんのが、好きです」

 

「つまり、私が好きなんですね!」

 

「話し聞かねーな、この人」

 

 

 苦笑。

 

 天が自分を好きだと言ったと言って譲らない翔子にやや押され気味になり、彼女の平常運転ぶりにはそろそろ呆れてくる天だ。

 

 ああ言っても「天くんは私が好きなんですね!」と溌剌として言い。

 こう言っても「それってつまり、好きってことですよね!」と笑顔で言い。

 最終的には「やっぱり、お姉さんの魅力にイチコロだったんですね!」と着地させられる始末。

 

 実際に自分が彼女を好きかなんて心に聞けばすぐ分かるが、聞いたら頬が赤くなりそうだから却下するとして。

 天は「話を聞いてください」と翔子を宥めながら、

 

 

「俺は、牧之原さんを好きというわけではありません。変に勘違いしないでください。というか、今のは完全にそっちの聞き間違えですって」

 

 

 「それに」と、こちらの言葉に耳を傾けてくれるようになった翔子を見ながら、

 

 

「俺、どっちかってーと、年下好きなんで」

 

「それ、お姉さんの前で言うことですか」

 

「なんでちょっと嬉しそうなんですか」

 

 

 そう言われた年上の翔子は、どこか嬉しそうだった。

 今、自分のことを好きだと決めつけた年下の相手にナチュラルにフラれたというのに、なぜか、暇な左手を口元に添えて上機嫌に笑っている。

 

 普通に考えたら不機嫌になるところ。しかし、彼女としては嬉しかったらしい。

 相変わらず、考えていることがよく分からない不思議なお姉さんだと天は思う。笑ったときの可愛さも、相変わらずだ。

 

 ひとしきり笑うと、「ふぅ」と吐息。疲れたようなそれを深く吐き、翔子はやっと静かになった。

 

 

「ねぇ、天くん」

 

 

 静かになって、ふっと顔色を変えると、天のことを一心に見つめて、二人にしか聞こえない声で囁く。

 

 

「——キスしよっか」

 

 

 どきん。

 

 鼓膜を撫でる甘い誘惑に、天の心臓は一度だけ高く飛び跳ねる。

 男としての本能を逆撫でする小悪魔的な声に、翔子に向けた視線が釘付けになる。

 

 ぞくっとする、凄まじい興奮だった。

 言い表しようのない、高揚だった。

 

 たった一言で荒れる意識。それらを必死に押し除ける天は動揺を吐息として発散し、

 

 

「もっといい人を探したほうがいいですよ。そーゆーのは、冗談でも言うべきではないと思います」

 

「冗談じゃない、って言ったら?」

 

「は?」

 

「本気だって。そう言ったら、天くんは私とキスしてくれますか?」

 

 

 なにを言われたのか、理解できなかった。しかしそれも一瞬のことで、その僅かな時が過ぎれば理解した心が強烈に燃え上がる。

 

 ——真横、ゼロ距離。息を凝らす翔子が、じっとこちらを見つめていた。

 

 

「本気って………」

 

 

 抑えても抑えても次から次へと襲いくる大波のような動揺に、天は息が詰まる。続く言葉が己の中で作られることはなく、黙り込んだ。

 

 一体、何度その真剣な眼差しを見てきたことだろう。視線を刹那も外さない二つの瞳に、どれだけ悩まされてきたことだろう。

 だから、彼女の目が揶揄っているものではないことが、天には感覚的に理解できた。

 

 自然、瑞々しい桜色の唇に意識が引き寄せられる。

 息遣いさえ触れ合う距離にいる翔子の存在に頬の内側からマグマが湧き上がり、頬が真っ赤に染まっていると自分でも分かる。

 

 自分だけではない。翔子の頬も赤い。自分で言っておきながら照れてるのか知らないが、隠し切れていない。

 その頬を見る天が、なんとか絞り出した言葉は、

 

 

「マジで……揶揄うんじゃねーよ」

 

「わっ。天くんにしては珍しい荒っぽい口調。動揺が分かりやすいですね」

 

「う……うるさい」

 

「照れちゃって可愛い」

 

 

 一度は苦鳴を漏らした天だったが、ニヤつく翔子にぐうの音も出ず。恥ずかしさが限界突破しかけた結果として、視線を思いっきり背けた。

 本当に、本当に、このお姉さんには心を掻き乱される。出会った頃からそうだったが、不意にドキッとさせられると毎度のように対応に困ってしまう。

 

 だからいつも、最後には天が照れて翔子がニヤつくという絵面が二人の間で広がる。

 どっどっど、と。心臓がうるさいくらい騒いでいた。

 

 

「今、ドキドキしました?」

 

 

 見透かしたような翔子が、わざとらしく聞いてくる。顔を背けてるから彼女の表情は分からないけど、ニヤけているに違いない。

 沈黙の間を挟むと、「ふぅ」と喉に詰まった息をゆっくり吐き出し、

 

 

「分かってることを聞くの、意地が悪いですよ」

 

「分からないから聞いてるんですが?」

 

「うそつけ」

 

 

 寄りかかる体に体重を乗せ、密着した己の体をアピールしてくる彼女の揶揄いを受け流す天。

 気まずくなった彼は茶を濁すつもりでポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。

 

 ほんのり光る液晶。スマホのロック画面を見た天の目を引き付けたのは、画面上部にある時間を示す表示ではなかった。

 引きつけたのはその逆、画面下部からするっと出てきた一つの通知。

 

 通知は父親から。メッセージアプリを介して一つの連絡が入っていた。5分程度前のもの。

 

 

『図書館の閉館時間とっくに過ぎてるけど、お前、今どこにいんの? 藤沢にいるなら迎えに行こうか?』

 

 

 どうやら、心配をかけているらしい。

 母親からも『今どこ?』という端的ではあれど短い連絡が、午後7時以降——海に意識を彷徨わせ始めてから10分に一回は来ている。

 マナーモードにしているから、どちらにも気付けなかった。

 

 当たり前の反応、と思っていいのか。時刻は午後8時を過ぎ、完全に世界が夜に変わった今。

 中学三年生が一人で、それも家から遠く離れた藤沢にいるなんて、親からすれば気にかけないわけがないと思うべきか、どうなのか。

 

 あまりの通知の多さに、流石に長居しすぎたと若干の焦りを抱く天。スマホを閉じた彼は、横から覗き見していた翔子を見ると、

 

 

「もう八時なんで、そろそろ帰りますかね。親にも心配かけてますし。牧之原さんも帰った方がいいですよ」

 

 

 返信するのは、駅に向かう電車の中でもいいか。

 

 そう思う天はスマホをポケットの中に突っ込み、いつも通りに翔子と別れようとして、立ち上がろうとする。

 しかし、それはできなかった。なぜなら、

 

 

「ーー?」

 

 

 繋がれた手を、翔子が強く握りしめて離さなかったから。

 普段なら「分かりました」と言って手を離し、「またね、天くん」と言って終わるはずのお話が、今日は終わらなかったから。

 

 

「牧之原さん?」

 

 

 不思議そうに名を呼び、立ち上がろうとして込めた力を足から抜く天。

 立つことを中断した彼は小首を傾げて目を細め、こちらを見つめる翔子と視線を合わせる。

 

 どこか、寂しげのある表情をしていた。数秒前まで年下を揶揄ってニヤついていたお姉さんは、スマホを見ていた僅かな時間で顔つきを変え、不安そうな瞳が小刻みに震えている。

 

 理由が分からず困惑していると、翔子は首を横に振り、

 

 

「イヤです」

 

 

 一言。

 

 ハッキリと口にした。一音一音を天の心に押し付けるように、

 

 

「まだ一緒にいたい」

 

 

 自分の意志を押し通すように、

 

 

「天くんと離れたくない」

 

 

 握りしめた手を離し、天の左腕に自分の両腕を絡めながら言い切った。

 目も、声も、態度も、真剣以外になくて。それ以外に考えられなくて、ただ「離れたくない」という意志を真っ直ぐ彼の胸に投げている。

 

 直球も直球、ど直球すぎる離れたくない宣言に、天は呼吸を忘れてしまう。

 その上、左腕に抱きつく翔子の柔らかさに思考がショートしかける。

 

 それでも、やることは決まっていた。考えるよりも先に体が動いていた。

 ポケットからスマホを取り出してロックを解除し、慣れた動作で親指を動かす。

 

 開くのは、通知が流れてきたメッセージアプリ。[父]と表記されたトーク画面を開くと、素早く文字を打ち込んで送信。

 

 一連の淀みない流れに翔子は「ん?」と喉を高く鳴らし、

 

 

「今、なにを?」

 

「父親に連絡したんです。『友達と公園で会ったので、少し話してから帰ります』って」

 

 

 言った瞬間、翔子の目が期待に光る。ぱぁっと明るくなる表情は嬉しさに満ち溢れていて、喜んでくれてるんだなぁと天は思いながら、

 

 

「いいですよ。今日は、牧之原さんの気が済むまでここにいます」

 

 

 「偶には、夜の海も悪くないですし」と。

 

 言葉を添えた天は閉じた口を軽く釣り上げ、笑窪を作りながら微笑む。

 立ち上がるべく込めた力を体から抜き、胡座の体勢な彼は脱力して、仕方なさそうに笑った。

 

 一度、「ふふっ」と笑みを声にする翔子。自然を装って天の左腕に抱きつき、その体勢を維持する彼女は頬を赤くしながら、

 

 

「天くん」

 

「なんですか?」

 

「友達と公園で会った。の、『友達』の部分を『彼女』に変えてくれてもいいんですよ?」

 

「勘弁してください」

 

 

 苦笑し、受け流す。

 

 どうして離れたくないのか、とか。腕に絡みついてきたのか、とか。めっちゃ可愛いですよ、とか。

 色々と思うことはあったけれど、彼女を見ていたら全部吹っ飛んでいってしまったから。

 

 返信を読んだ父親とのやりとりを最後に、天はスマホの明かりを落とした。

 

 

『何時に藤沢か、教えてくれれば迎えに行くぞ』

 

『ありがとうございます』

 

補導時間(23時)には間に合わせろよ』

 

『了解です』

 

 

 本当に良い父親だなぁ、と思った。

 

 

 






今日は、もう一話、更新します。

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