それから、天と翔子はたわいもない話をだらだらと続けた。
砂浜に敷いたレジャーシートの上で二人、流石に腕に両腕を絡めた体勢は崩したものの、代わりに右手と左手が固く繋がれて。
来年は受験だから大変だとか。天は峰ヶ原高校を受験するから自分の後輩になるとか。
学生結婚をしたいとか。そうなると色々と大変そうだなぁとか。
高校に入学したらバレーはするのかとか。部活があるならする、ないならバイトかなぁとか。
無駄話、冗談混じりな人生相談、コイバナと、談笑の幅は広い。何を話していても会話が弾みに弾み、恐ろしいことに途切れることがない。
この感覚は、颯と咲太の二人と話す感覚に近いなと天は思った。
二人と話していると話題があっちこっちに飛ぶから、基本的に途切れることがないのだ。
「少し、お散歩しませんか?」
話していると、不意にそう言った翔子が立ち上がる。自然、手を握られていた天も一緒に立ち上がり、引っ張られるがままに彼は彼女と海辺をお散歩。
荷物が心配だったけど、遠くに行くわけでもないし。人の気配は恐ろしいほどに感じない。多分、盗まれることはないだろうと気にしなかった。
「潮風が心地良いですね」
「そうですね」
翔子が濡れないよう天は海側を歩き、翔子は砂浜側を歩く。
波打ち際をゆったり歩く二人は、押しては引く波が当たらない境界線の上を、当てもなく。
聞こえるのは、自分たちの話し声と足音を除けば海の音のみ。車が通る音も、道路を歩く通行人の声もせず、人の気配すらしない、異様な静けさがあった。
世界を見下ろす三日月は淡い光を放ち、漆黒の海を弱く照らしている。月が鎮座する紺色の夜空は、星々が所狭しと煌めく綺麗な星空。
神秘的で、美しい光景を見ていると、まるで異世界を歩いているような気分になった。
自分と翔子は知らぬ間に異世界に迷い込んで、似たようで違う世界にいるのだと。
というよりも、この七里ヶ浜全体が元の世界とは切り離されたかのような雰囲気を漂わせていることを天は察している。
言葉で表現することは難しい。肌に伝わる感覚が、自分のいる場所は普通とは違うことを察していた。
この感覚は、なんだろう。
いや、なんだっていい。牧之原さんと過ごす時間が落ち着くから、どうだっていい。多分、なろう系の読み過ぎ。
そうして話していれば、時間はどんどん進むもの。楽しい時間はあっという間で、ポケットの中に眠る天のスマホは丁度、22時を示していた。
ついでに、父親からの『藤沢駅近くのコンビニで待機中。補導されたら呼べ』という優しい連絡も。
「やっぱり、気になります」
心配性で、子ども想いな父親のことなんて天は知らない。だって彼の意識は今、真横にいる牧之原翔子に注がれているのだから。
唐突で、脈絡のない言葉を投げかけられた翔子が「なにがですか?」と聞いてくると、彼は思い出すように言った。
「初恋の人の命と親友の命、どちらを助けるか。ってヤツ。なんで、あんなこと聞いてきたんですか?」
真面目な目で問い、手を繋ぐ翔子を見る。ざぁーと音を立てる波を視界の右端に収めながら、心に残っていた疑問を口にした。
別に、単に面白半分でトロッコ問題を出題したと思ったなら聞かなかった。
心理テスト的なノリで
けれど、あの反応はノリで聞いたとはとても思えないのだ。
決心した表情で聞いてきた事も、その後の衝撃を受けた反応をした事も。——泣いていた事も。
ノリで聞いたと思うには、あの二人とは態度が違いすぎる。
ただ純粋に気になった。そんな言い方の天に翔子は「んー」と悩む素振りを見せると、
「私の大切な人が、そのような立場に置かれたことがあって。その人は天くんとよく似ている方なので。似ている天くんならどうするのかな、って思ったんです」
「へぇ……だからか」
興味があるのか、ないのか、曖昧で薄い反応をした天が「俺と似てる人ねぇ……」と前を向きながら呟く。
自分と似てる人とは、どんな人なのかと思わなくもない。どうせなら聞いてみたいと思うが、
「天くんは?」
「なにが?」
「どうして天くんは、初恋の人を助けてくれたんですか?」
と、問い返されたことで自分と似た人を知る機会は遠ざかってしまう。
聞かれた瞬間、天の手の中から翔子の手が抜け、ずっと結ばれていた二人の手が解ける。
どうして解いたのか聞く間も作らず、「ぇ」と息を漏らす天を他所にそのまま手を引っ込め、彼女は後ろ手に手を組んだ。
触れない方がいいかな。そう思う天は動揺を瞬きの間で断ち切り、意識を胸に投げかけられた疑問に向けると、
「色々と理由はあるけど。一番は……」
言い淀み、天は翔子を見た。
すぐ隣、ほぼゼロ距離。注視してくる自分に小さな疑問符を浮かべながら、あどけない顔で「一番は?」と首を可愛らしく傾げている、この夏の青春を見た。
きっと、一番はそれだ。
「初恋は、一度だけですから」
「ーーっ」
直後。
はっとする翔子の肩が跳ね、表情に歪みが生じる彼女のスローテンポな足取りが止まりかける。
何かを言いかけた吸息音は言葉にならず喉につっかえてしまい、口にするはずの言葉の出口を塞いでしまった。
それでも足は止めない。翔子は、その自分を悟らせんと天の横に並ぶ。動揺の波が押し寄せる感覚に、努めて真顔を保とうと必死になり、
「その親友には悪いけど、初めて好きになった人を大事にするよ。俺がその親友側だったらそうしてほしいし、俺なんかよりも初恋の人を選べ、って。ぶん殴ってでも言うよ」
「ーーっ!!」
それは、無駄な努力であったと知る。
真面目な声で
心の水面に一雫の想いが落ち、波紋する波が心を大きく揺らすと、胸の奥から噴火する激情に彼女は俯いた。
明らかな翔子の変化に、天は気づけていない。自分の横から足音が一つ消えたことに気づかず、話に夢中になる彼は歩き続けようとしている。
「でもまさか、牧之原さんの知り合いの体験談だったなんて」
——一歩。
遠のく天を見ることができない翔子が、何かを我慢するように歯を食いしばっている。
「そんなこと、あるんですね」
——二歩。
何かを堪えるように両の拳を握りしめている。その拳は、ひどく震えていた。
「その人は、どっちを助けたんですか?」
——三歩。
小さな嗚咽を固く閉じた口の隙間から漏らし、肩を震わせてポタポタと雫を落としていた。
「………牧之原さん?」
——四歩。
そこで、天は異変に気づく。
四歩目が砂浜についた瞬間、隣にいるはずの存在がいないことに気づいて振り返り、
「———ぇ?」
こちらに駆け寄る翔子が見えた次の瞬間、彼女の姿が視界から消える。
直後、『何か』が体に飛び込むように突撃した感覚が全身に襲いかかって、思わず後方に倒れかける。
反射的に片足を軽く下げて踏ん張ると、刹那もせずに突撃した『何か』の正体を理解して、駆け寄った翔子は消えたのではないと知った。
なぜなら———。
「ま、まきのはら、さん?」
——動揺が声になった、振り返った天の胸に、牧之原翔子が飛び込んでいたからだ。
「な……え? え? あ……はぇ?」
ふわっと甘い香りが鼻をくすぐり、柔らかい感触を全身で感じる天の声に、動揺が色濃く浮かび上がる。
突然すぎて状況に追いつけない彼は思考という思考が麻痺し、自分という存在が隅から隅まで牧之原翔子という存在に埋め尽くされていく。
柔らかい感触がするのは、翔子が天の背中に腕を回し、強く抱きしめているから。
彼女の体が、天の体に沈んでいくから。
「………ばか」
動揺し、何も考えられない天にかけられた一言目は、とても弱々しい罵倒。
普段の翔子からは想像もできないくらいか弱く、この静寂でやっと聞こえるほどに小さい。
一度でも想いを紡げば、彼女は止まれない。あとは流れに任せて叩きつけるように叫んだ。
「ばか……バカ、バカバカ! どうして天くんは、またそういうことを言うんですか! 私の気も知らないで……。天くんの……天くんのばかぁ……っ!」
爆発した感情を抑えて、抑えて、必死に抑えて、それでも抑えきれなくて、一気に溢れ出たように泣き叫ぶ翔子。
抱きつく天の右肩に額を押し付け、こすりつけ、取り乱す彼女はその表情を彼に隠している。
背中に回した腕で力一杯抱きしめ、感情を発散する彼女に、天は言葉をかけることができない。
抱きしめられたことに対する衝撃の処理中で、彼女の心を理解するだけの余裕がなかった。
「ほんと、ダメだなぁ。私」
溢れる涙を拭うこともせず、嘲笑混じりに翔子は呟く。それが誰に向けたものかなんて、考える必要などなかった。
いつもの笑顔が、壊れている。見慣れた笑みが、悲哀に塗り潰されている。
「我慢、できませんよ。できるわけないじゃないですか」
震える声で、独り言の想いを紡ぎ、浅く鼻を啜りながら天を抱きしめる。
天からすればこれが初めてなのに、その行為は慣れ親しんだことをするように滑らかで、彼女の体は彼の体に一切の抵抗なく馴染んでいた。
「ダメだって分かってるのに。ダメだと思ってるのに。
一方的に語り続けるのは、相手の理解を得られないことを意味する。
そんなこと、今の翔子にはどうだってよかった。今はただひたすらに、この胸を熱くさせる感情の発散がしたかった。
天に、全てをぶつけたかった。
「でも……! またそうやって、天くんに優しい言葉をかけられたら——。私は……私は……っ!! いつもいつも天君にばっかり無理させて……!」
ぎゅぅっと、翔子に抱きしめられる天。徐々に落ち着いてきた頭で考える彼は、やはり彼女の言っていることが理解できない。
どうして悲しんでいるのか、泣いているのか、そもそも悲しんでいるのか、冷静になりつつある頭で理解しようとするけれど、理解できない。
「私は、天君に……!」
言葉の続きは、彼女の中で続いたのだろう。心から放たれ続ける感情を言語化しようとして、口元が何度も動く。
しかし、頑張りの甲斐なく言葉にすることは叶わず。彼女はもう一度、天の体を強く強く抱きしめて、
「天くんのばか」
と。
言葉にできない感情を罵倒として声にし、息を切らしながら想いを叩きつけ切った。
その後は、永遠と啜り泣く翔子の悲痛な声だけが、七里ヶ浜に反響していくのみ。
今にも消えてしまいそうな声で、嗚咽を漏らしながら切なく泣く翔子。普段の翔子と比較しても、その差は歴然だった。
声を荒げることなんてないと思っていた彼女は、恥ずかしさすら捨てて泣いている。泣きついている。
その涙の意味を、天は計り知ることができない。彼女はきっと、自分が絶対に理解できない理由で泣いているんだと天は考える。
けれど、泣いている女の子に何もしない男にはなりたくなかった。
——腰と背中に腕を回し、そっと、天は翔子の体を抱き寄せる。
「あ………」
瞬間、息の詰まる彼女の体がピクっと跳ね、涙を弾き飛ばしながら目が見開かれた。
無意識に漏れた声は裏返っていて、額を擦り付けるように右肩から天を見上げる。
驚いた。そんな様子の泣き顔だった。
「ごめん、牧之原さん」
やっと状況の整理が済んだ天が、超至近距離で翔子と目を合わせながら、想いを言葉にし始める。
今までで最も近い距離にいる彼女に心拍数が上昇する一方でも、気合いで平常心を保ちながら、
「牧之原さんがなんで泣いてるのかも、悲しんでるのかも、俺には
「それに」と、想いを紡ぎ続ける。
「こーゆーとき、どうしたらいいかもよく分からない。自分が牧之原さんにこーゆーことをしていいのかな、って一番に考えちゃうからさ」
「でも俺は」と、紡いで止まらない。
「自分の胸の中で泣いてる女の子に、なにもしない男にはなりたくねーよ」
最後には荒っぽい声で紡ぎ切り、矛盾した想いがあると素直に言いながら口を閉じる。
少し遠慮しながら抱きしめる両腕に力を込め、手を繋いだときのように互いの温もりを伝え合う。
「うわ、柔らか……」とか思う心を消し飛ばしながら、強めに言った。
「嫌だったら突き飛ばしていいよ。後ろは砂浜だから、おもいっきりやっても平気。俺自身、頑丈だから」
言葉を拒絶するように、翔子は首を強く横に振った。そのついでに涙を天の服で拭い、見上げた顔を再び右肩に埋める。
言葉を発する余裕すらなくなった彼女は、言葉以外で自分の心を天に伝えた。
正式に彼女からの許可が下り、天は「分かった」と優しく言ってから翔子の体を抱きしめることを継続する。
ぎゅっと抱きしめると、ぎゅぅーっと抱きしめ返されて。これ以上ないまでに、二人の体が密着した。
この瞬間、これはやばいと、天は確信した。
高校二年生という、女性として絶賛発達途中な彼女の乳房が、胸板に当たって形を変えている。少し、横に広がっている。
思ったより——あくまで、思ったよりある彼女のそれが、どうしても意識から追い出せない。
その甘美な時間が、どれだけ続いただろう。
衣服を間に挟んでいるのに、肌と肌が直接触れ合っていると錯覚するくらい温かい体温を感じ合っていると、不意に、翔子が口を開いた。
「天くんは……本当に優しい人ですね」
右肩に顔を埋めたまま、静かに呟く。頬を紅潮させた彼女の声は安らかで、抱きついているうちに荒れていた呼吸も落ち着いていた。
雨のように流れていた涙も、今は止まっている。腕の中にすっぽり収まる少女は、安心した様子で呼吸を繰り返していた。
そんな彼女に、天は「ふっ」と吐息するように笑い、
「牧之原さんに鍛えられたお陰だよ。色々とされて異性耐性がぐんと上がったからね。前の俺だったら無理。確実に無理」
「心臓バクバクのくせに。強がってるんだ」
「それ、特大ブーメラン」
天を揶揄えるだけの余裕が心に生じたところで、翔子は楽しげに囁く。追撃する間もなく反撃されて、お互いに心臓の音を確認するために黙り込んだ。
鼓動の音が、聞こえた。どくんどくん、と。
密着する胸を通じて、お互いの命の呼吸が、振動としてはっきりと響いている。
外側は落ち着いているのに、内側は大太鼓を打ち鳴らしているようにうるさい。
「ありがとう。天くん」
若干、涙の余韻が残る声で言い、翔子は目端に溜まる一粒の涙を拭う。もちろん、天の服で。
天の鼓動を聞く彼女は、「なにが?」と問いながらこちらを見てくる天を見上げると、
「初恋の人を大切にする、って言ってくれてすごく嬉しかった。やっぱり、天くんは天君だった」
「どーゆー意味?」
「分からなくていい。分からなくていいんです」
自分は自分だった。
言葉の意味が理解できず、難しい顔をする天を翔子は抱きしめる。
どれだけ抱きしめても足りないと行動で示し、密着する少年の温もりを欲した。
その発言に引っかからないわけがない天は、しかし疑問を口にはしなかった。
そうするのは無粋な気がして、頭の中に浮上したそれはゴミ箱の中に捨てる。
それ以前に、安心し切った表情の翔子を見てしまうと、全ての意識が彼女に釘付けになってしまい、余計なことを考えることができなかった。
いつもと違いすぎる、幼子のような表情を見せる牧之原翔子に、どんどん魅了されていく。
「やっぱり……ここは世界で一番安心します」
「やっぱり、って……。飛び込んだのこれが初めてでしょ?」
ふにゃりと頬を緩ませる翔子が喉を「うぅん」と鳴らして言い、甘く色っぽい音色に心を掻き乱される天が当然のように言い返した。
けれど、「いいえ」と首を横に振る翔子はやんわりその返答を否定すると、
「私の中では、もう数え切れないくらい飛び込んでいることになっているんです。ここは、牧之原翔子だけの特等席なんです」
「なんだよそれ」
苦笑し、思わず天は笑う。
釣られて、翔子も笑った。
意味が分からない。もう、なにを言っているのかさっぱり理解できない。色々と理解できなさすぎて、頭がパンクしそうだ。
だから、天は考えることを放棄した。翔子が楽しそうならそれでいい。その考えで全てを片付ける。
片付けてはいけないけど、もう知らない。
「知ってますか?」
これより、全ての無理解を『牧之原さんが楽しいならそれでいい』で片付けることにした天。
この短時間で色々と心に降りかかったせいで、ついに思考を放棄した彼に、翔子は初めて会った瞬間を思わせる口ぶりで聞いた。
そのお陰で最初の出会いが脳裏を過ぎる天に「なにが?」と、お決まりの返し方をされると、
「天くんは、ご自身では気づいてませんけど、実はとても包容力のある男の子なんですよ。物理的にも、精神的にも」
「なんでそんなこと牧之原さんが——」
「翔子」
自分の隠れた部分をどう見抜いたのか聞こうとした声が、不意に放たれた翔子の声に遮られる。
天の声を押し除けてまで自分の名を呼んだ彼女は、目を細めて彼を軽く睨みつけ、
「私のこと、いつまで苗字で呼ぶつもりですか。私はずっと、天くんのこと天くんって呼んでいるのに、私だけ不公平です」
天を見上げながら、不満を声にした。
身長的に、抱きつく彼女の頭が天の肩に埋まる都合上、見上げると必然的に上目遣いになる。
その上で、ムスッとした表情を浮かべて言われれば、天は簡単に悩殺される。
運の悪いことに、泣いた後の潤む瞳は赤らむ頬と相性が完璧で、可愛すぎる表情を作り出している。
「翔子、と。そう呼んでください」
この瞬間、天は悩殺された。
甘えるような、ねだるような。そんな声で言われて、抱きしめる少女をもっと強く抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。
同時に、自分の腕の中にいる人が、これまで自分が見てきた牧之原翔子と同一人物であるか、本気で疑った。
なんだ。なんなんだ。この人は一体、誰なんだ。
知らない一面を見せられすぎて、別人なのではとさえ考えてしまう。
けれど、これまでは特に触れてこなかったことを今になって指摘する彼女は、牧之原翔子以外の誰でもなくて。それ以外に見えなくて。
牧之原翔子は牧之原翔子だと、心が言っていた。
「まき………しょうこ……さん」
抱きしめたい衝動をフルボッコにしつつ、天は牧之原さん呼びから翔子呼びに切り替える。
最後に『さん』が付いたのは、頑張って制しようとした照れる心が反発した結果だろう。
抱きしめて、抱きしめられておいて、今更、下の名前で呼ぶことに狼狽えてどうする。
余計なものが名前の後にくっついた翔子は、沈黙の間を置くと、仕方なさそうに「はぁ」とため息を吐き、
「いいでしょう。さん付けで勘弁してあげます。その代わり、牧之原さん呼びは禁止ですからね?」
「はい。牧之は………しょうこさん」
「よろしい」
既に怪しい片言な返答を受け取る翔子の口元が、小さな笑みを描く。満足げに「ふふん」と鼻を鳴らし、嬉しがっている反応。
そして彼女は、視線を逸らして天の右肩に再び額をくっつける。溢れる微笑を音にしながら、猫のように額をすりすり擦り付け始めた。
人が変わったと言われても十分に納得できる甘え様に、天は不覚にも息が詰まる。
自分たちから作り出される絵面が普段と違いすぎて、頬が燃えるように熱い。
普段のこの二人の絵面といえば、年上のお姉さんに年下の少年が揶揄われる、というものが殆ど。
揶揄って揶揄われてが当然で、ほのぼのが広がっているのが日常。
しかし、今だけは違う。
この瞬間だけ二人の年齢が逆転していて、年下の少女が年上のお兄さんに甘える絵面が、そこにはあった。
甘えて甘えられての関係が成立して、甘々な光景が広がっている。
その成立した光景も、頬を真っ赤にする天を見れば長くは続かないことが分かるが。
「あの、そろそろ離れない? 流石に……俺の……心がキツいんだけど」
おずおずと言い出し、天は翔子の様子を窺いながら言葉を選ぶ。
初めて女の子を抱いた緊張、初めて感じた女の子の感触、初めて甘えられた動揺などなど。
初めてのことが立て続けに起こった彼の心はキャパオーバー寸前で、頭がくらくらしそうな予感を察知している。
そんな天の弱音に反発したのか。彼の思いとは裏腹に、翔子は抱いた体をぎゅーっと抱きしめ、
「もう少しだけ、このままでいさせてください」
猫撫で声で、囁く。
「マジ……?」と更なる弱音を溢す天の反応を聞くと、離れたくない意思を示すためにもっと抱きしめ、
「天くんの前でだけは、わがままな翔子さんでいさせてください。——そう言って、私を弱くさせたのは天君なんですよ?」
「そんなこと言った覚えないんだけど」
身に覚えのない事実を口にされて困惑する天は、変に力が入る体から、どうにか力を抜こうとする。
今、力が入ると翔子を抱きしめる腕にも力が入ってしまいそうで、それだけは避けたかった。
その間にも、翔子の甘えは勢いを増していく。天の精神を凄まじい勢いで削る行為は止まることなく、徐々に制御という言葉を手放していく。
「ここ、落ち着きます」
「俺は落ち着かないけどね」
囁かれる声は極めて優しく、調子は温かで、目を閉じた彼女は今にも眠ってしまいそうな安心し切った表情をしている。
反対に、天はおめめぱっちりだ。先程からずっと動揺の波が引いては押し寄せ、水飛沫を立てて心に衝突する度に緊張が走る。
打開策として回した腕を離そうとするが、
「離さないでください」
その一言で嫌がられてしまう。離そうとした刹那で拒否されて、どうしようもない。
無理やり離すという強行突破もあるが、そんなことができたらとっくにしている。
できないから、こうなっているのだ。
「天くんの胸の中、すごく温かい。温かくて、幸せで、天君って感じがします」
「どんな感じだよ……。いや、ほんと、まじで、そろそろ離れてくれない?」
「イヤです」
即答し、断固たる意思を見せつける翔子。頑なに離れようとしない態度に「えぇ…」と困惑の声が上から降ると、彼女は口元に笑みを浮かべて、
「天君は、私がわがままを言っても全部受け止めて、受け入れてくれる優しい人。ですから、天君の前では、牧之原翔子はわがままな女の子になるんです。それは天くんも同じです」
「だから、俺も知らない俺のことをなんで知って……」
言葉は、最後まで続かなかった。
天の言葉をまるで聞いていない翔子が、自分の世界に入ったのが見えたからだ。
言っても聞かない。聞いても答えない。己の考えを押し通す我儘少女にはお手上げな天である。
その彼女は今、包まれる腕の中でひどく落ち着いている。離れようとする言葉を言っただけで嫌がる少女は、目を瞑って寝ようとしている。
恐ろしい光景。冗談抜きで勘弁してほしい天は苦笑すらできずに表情が固まる。
そんな彼の心を更に乱す行為が始まったのは、その直後のことだった。
「すぅ……。すぅ……」
不意に、翔子の呼吸のリズムが変化する。
通常のリズムよりも遅く、ゆったりとしたものになり、吸う息と吐く息の間隔が急激に伸びた。
静かに息を吸い込み、静かに息を吐く。その度に密着する彼女の胸が大きく膨らんで、小さく萎んで、大きく膨らんで、小さく萎んでを無限に繰り返す。
——深呼吸が始まった。
「そこで深呼吸されると、色々とまずいんだけど」
「胸が押しつけられて興奮しちゃうからですか?」
目を閉じたままの翔子が、確信めいた風に呟く。
それは、確信犯であると自白したようなものだが、幸一色に染まる彼女は知らないふりをしているように見える。
隠しても無駄なことは分かっている。が、素直に認めると何か言われそうなので、天は動揺をできる限り抑えながら言った。
「
「口調が荒っぽくなりました。アタリですね」
結局、バレた。
激しく動揺すると顔を出す、素の自分。
颯が普段から使う荒っぽい口調は自分には似合わないと思っているのに、このような場面では必ずと言っていい頻度で吐き出される。
それは彼の心が揺れていることを意味し、嘘や隠し事をしていると言っていることに他ならず。
空野天の性格をよく知る人間にとっては、動揺を知らせる一つのサインと言ってもいい。
翔子は、空野天の性格をよく知る人間に分類される少女。
つまり、彼が自分の胸を意識して興奮しそうだと分かったことになる。
「私の胸で、天くんはドキドキするんだ」
「………しない方が、おかしいだろ」
「ふーん」
渋々といった具合で認める天に、翔子はニヤつく。閉じた瞼がゆっくり開くと、内側から無邪気な悪戯っぽさが宿った瞳が姿を現した。
この彼女を野放しにしておくのもよろしくない。これまでの経験からそう考えた天が、咄嗟に話題を変えようと口を開き、
「まき……」
「まき?」
「しょ……翔子さん。冗談抜きで、いつまでこうしてるつもり?」
苗字呼びを刹那で咎められ、爪を立てて背中の肉を抓る翔子に慌てて修正。
冷や汗が垂れそうな怒られ方をされながら、天は顔を引き攣らせて問う。
「んー」と、喉を高く鳴らして見慣れた考える素振りを見せる翔子。
チラッと天を見た彼女は「うん」と頷くと、
「私が満足するまで」
「えぇ……」と。天の困り果てた低い声が頭上で聞こえて、翔子は「ふふっ」と笑む。
そうだとしても抱きしめる腕から力は抜けず、自分のわけの分からない行為を素直に受け止めて、受け入れてくれるんだと思うと、彼女は止まれない。
「ここ最近、天君には会えていないので、天くんで天君を補給します」
「俺で俺を補給するってどーゆー意味よ。そもそも、俺に会えてるのに俺に会えてない、って意味が分からない………」
言葉を途中で止める天。
依然として無理解な事実を言われた彼は、『牧之原さんが楽しそうならそれでいい』を思い出すと、「まぁいいや」と疑問をさっと片付け、
「これも、分からなくていい、って?」
「はい。私が分かってるからいいんです」
「そーですか」
疑問の解消がされないのは引っかかるけど、解消しようにも本人がこれではやりようがない。
詳しく聞くのも面倒だし、聞くことよりも大切な事が胸元にあるから、気にしないのが一番。
そうやって気持ちを切り替えると、彼の意識は途端に牧之原翔子一色に染まった。
幸せそうに喉を鳴らし、安心した様子で深呼吸を繰り返す、ゼロ距離を通り越してマイナスの距離にいる、抱きついて離れない少女一色に。
自分の意識が、彼女に吸い込まれていくのが分かる。
勢いに任せるのは嫌いだけど、勢いに任せるしかない状況で頑張って抱きしめた可憐な体を、もっともっと欲してしまう。
もし、自分に彼女ができたら、その人ともこんな風に抱き合うのだろうか。中学生の今では遠いことのように感じる関係とは、こんな感じなのだろうか。
分からない。けど、不思議と癖になってしまいそうな感覚だ。恋愛に対した興味が湧かない自分が、ひっくり返りそう。
「なにを考えているんですか?」
本格的な恋愛という概念に触れ、自分の中に新たな感情が芽生えつつある天。
考えが深くなりそうな結果としてぼーっとし始めた彼に気付き、翔子は頭の上に疑問符を一つ浮かべる。
一瞬、声と一緒にぎゅっと抱きしめて意識を引き寄せる翔子と目を合わせると、
「彼女ができたらこんな感じなのかな、って考えてました。俺、あんまりそーゆーの興味とかなかったけど………」
「けど?」
小首を傾げる彼女に対し、天は照れ臭そうに笑みを浮かべながら言った。
「これを知っちゃったら、ヤバい気がする」
一瞬、唖然とする翔子。
ポカンとした顔つきになる彼女は、数秒間だけ表情が固まる。
それから、感情が溢れたように満面の笑みをぱっと咲かせると、
「………ばか」
愛おしく呟き、抱きしめる。
衣擦れ音が両者の中で立ち、布を挟んで肌と肌が触れ合う。温もりを交換し、互いの体温で心が温められていく。
その中で一つ、言葉の要らない時間に入る寸前で、翔子は最後に呟いた。
「本当に、天くんは天君なんですね」
最後まで、その意味は分からないままだった。
▲▽▲▽▲▽▲
心が溶けてしまいそうな時間は、本当にあっという間だった。
二人も気づかないうちに言葉の要らない時間に入って、波の音を背景に抱き合っていれば、時間なんて一瞬で過ぎてしまう。
それ即ち、別れる瞬間がやってきたことになる。
「もう帰らないと。天くんが警察に捕まってしまいます」
「それは翔子さんも同じだよ」
「なら尚のこと、帰らないとですね」
「うん。そうだね」
抱き合う最中、補導時間を懸念した翔子によって二人は離れることになった。もっとくっついていたい欲を押し込めて押し込めて、合図を口にした。
補導されたら何かと困る。警察にも親にもお叱りを受けて、学校にも連絡が回りそうだ。
それはお互いのためにも良くないだろう。共通してそう考えた二人は離れようとして、
「離さないんですか?」
「翔子さんこそ」
離れようとして、
「離してもいいんだよ?」
「天くんこそ」
離れようとして、
「分かった。じゃ、せーので離そう」
「分かりました。では、いきますよ」
電話をどちらが先に切るかを争うカップルのようなやりとりをして、「せーの」で同時に離れた。
翔子が抜けた胸元には、天から離れた体には、じんわりと温もりが残っていて。けれど、空気に晒されて冷えていく。
その寂しさに名残惜しさを感じつつ、今日はお開きとなった。
レジャーシートを敷いた場所まで戻り、広げたそれを畳んでビニール袋の中に入れる。
勉強の教材が入ったバックの中に突っ込むと、荷物をまとめたそれを天は背負った。
帰る準備は整った。否、整ってしまった。
時間が許す限りは一緒にいたのだから、これ以上はない。そんなこと頭では分かっている。心がわかってくれないのだ。
「天くん」
そんな名残惜しい気持ちを孕みながら、名を呼ばれた天は振り返る。
瞳に映るのは、この夏の青春。自分が初めて——初めて本気で好きになった初恋のお姉さん、牧之原翔子。
こちらを見る彼女は、ふわりと微笑んでいた。
「またね」
月を背景に、微笑む翔子。
潮風に髪を靡かせ、月光のライトアップを受ける彼女の笑みは、見惚れてしまうくらい魅力的で。
一輪の花が満開になったと錯覚させられるそれは、意識していないと呼吸を忘れてしまう程に綺麗だった。
「またね。翔子さん」
吹き上がる感情を抑えつつ、天は微笑みを返す。いいものを目に焼き付けられたのを最後に、彼は翔子に背を向けて歩き出した。
振り返ることはしない。振り返ったら、戻れなくなる気がする。このタイミングで帰らないと、ダメだと理性が警告している。
故に、「振り向け」と囁く本能の声は蹴散らされた。背中を撫でる翔子の視線を感じながらも、絶対に振り返らない。
砂浜から出て階段を上がり、七里ヶ浜から外に出る。階段を上り切った直後にある信号を渡り、七里ヶ浜駅に向かって一直線。
もう、振り返っても砂浜は見えないだろう。牧之原翔子は見えないだろう。
それでも、天は振り返らない。振り返らないったら振り返らない。
意識から外していたスマホをポケットから取り出す、時間を確認して苦笑。
ロックを解除する、父親と母親からのエグい通知の量に唖然。
着信履歴を見る、父親からの五件以上の着信に戦慄。
「あー」
『今から藤沢に向かいます』とだけ父親にメッセージを送り、天は空を見上げて声を溢す。
困った。そう言わんばかりの表情をしながら、口角を釣り上げた。
「やっべー」
しかしそれは、両親にどう言い訳しようか考えて困ったものではなく、
「次、どんな顔して翔子さんに会えばいいんだよ」
確実に恋をしてしまったお姉さんとの接し方に困って、困って、困りまくって。その果てに、勝手に浮かんだ笑みであった。
しかし、その悩み事は本人が望まぬ形で解消されることになる。
次の日、いつも通り七里ヶ浜に訪れた天の前に彼女が姿を現すことはなく。その次の日も訪れたが、彼女の姿はどこにもなく。
その次の日も、その次の日も、七里ヶ浜に訪れた天の前に彼女が姿を現すことはなかった。
——この日を最後に、牧之原翔子は天の前から姿を消した。