その日、咲太はのんびり昼食が取れる場所を探すべく、校内を歩き回っていた。
周囲に自分以外の生徒はおらず、昼休みに賑わう生徒たちの喧騒は遠い。
とても、静かな廊下だ。反響する自分の足音が鼓膜にはっきり聞こえてくる静寂は、授業中の静寂に近しいものがある。
「北棟と違ってここは静かだな」
そんな静寂の中、咲太はポツリと呟いた。その手には弁当箱が入った袋がぶら下げられており、彼がまだ昼食を取っていないのだと分かる。
今、咲太がいるのは、自分らが普段から使う北棟ではなく南棟。
その二つを繋ぐ一本の渡り廊下を渡り、北棟から南棟に移った彼は、平穏を求めてその中を彷徨い続けている。
全学年の普通教室が集合する北棟と違って、職員室や保健室、図書館や実験室などの特別教室が集合する南棟。
生徒の教室が一つもないこの棟は、用がなければあまり訪れる機会のない場所だ。
故に、静か。他の生徒を見かけることはあっても、片手で数えられる人数。
昼休みなら尚更、静か。唯一授業という鎖から解放されるこの時間では、どの生徒も教室で友人と駄弁るから、ここには生徒が一人もいなくなる。
もちろん。咲太もその中の一人なのだが、
「今は天いないしなぁ」
その駄弁る相手が、今はいない。
聞いたところによると四時間目の終わりに体調を崩したらしく、天は保健室に行ったらしい。
なら、そこで一緒に飯でも——と思って様子を見に行ったのだが、彼はすやすや寝息を立てていた。
結構、マジな方だった。
保険の先生によると微熱があるらしく、午後の授業に出るか否かは昼休みの状況次第だそう。
そういうわけもあり、本当にぼっちになった咲太。
例によって颯は1組のイケイケグループに押し付けてあるから、彼は高校初めてのぼっち飯を過ごすことになったのだ。
「どっか良い場所ねぇかなぁ」
散策ついでに南棟を歩き回りながら、咲太は眠そうな声で呟く。昼食を取れる場所を探して、かれこれ十分が経過。
既に空腹ゲージは頂点に到達しつつあり、獣の唸り声のような音が腹の中でずっと鳴り響いていた。
天が保健室にいる今、3組で昼食を取る理由がない咲太には必然的に1組しか場所がなく。そうなると、颯が色々とうるさい。
一人で昼食を食べる自分を放っておかない颯が、咲太自身は嫌がっているから抑え気味にではあるものの、あのグループに引き込もうとしてくるのだ。
それは勘弁だ。あのグループに自分が溶け込めるなんて微塵も思えない。それに、彼らが自分を受け入れるとも思えない。
第一、根も葉もないネットの噂を簡単に信じるようなピュアな連中と、友達になれる自信なんてなかった。
要するに、1組にいるとのんびりできないから、のんびりできる場所を探して南棟へ。
そんな場所があるのか定かではないが、どこで食べることになったとしても、少なくとも生徒がいる北棟よりマシ。
そう、思っていたときだ。
「お。開いてる教室発見」
様々な教室に入ろうとして、悉く施錠された扉に阻まれた何教室目。
三階から始まり、二階までの教室に阻まれ続け、ついに一階にまで降りてきた咲太は半ば諦めかけていたのだが、まだ女神には見捨てられていなかった。
場所は一階、階段前の踊り場を抜けて、一本の長い廊下を半分ほど歩いた位置にある教室——物理実験室、と書かれていた。
四時間目に使って、そのまま鍵をかけ忘れたのだろうか。なら、今はその忘れっぽい先生に感謝するとして、今日の昼休みはここで過ごそう。
そう思いながらスライド式の扉を開き、
「ーーーー」
「ーーーー」
その教室には、先客がいるのだと知った。
普通の教室よりも広い物理実験室に、一人の女子生徒がいる。
教師が授業中に使用する黒板前の机にアルコールランプとビーカーを用意した、眼鏡をかけた髪の長い白衣女子。
名前は確か、
制服の上に白衣という変なファッションで、天と同じく教室で浮いている1組の生徒だ。
自分の周りには高校開始一ヶ月弱にして教室に浮く人が二人もいるが、これはなにかを示唆しているのだろうか。
類は友を呼ぶ。一瞬、脳裏に過ぎったその言葉を頭の片隅に追いやる咲太。
そんな彼の登場に、白衣女子——理央は特に驚く様子はない。登場の瞬間はこちらに目を向けたものの、一瞬で興味を失ったように視線を手元に戻している。
否、興味など元からないのだろう。音がした方向に目を向けて、どうでもいいから逸らした。
そんな感じだった。
「ほとんどの生徒から白い目で見られているのに、梓川はよく毎日学校に来られるね」
手元に意識を向けながら、理央はそんなことを言ってきた。開始一発目にしては散々な言いようだ。
しかし咲太は特に気にせず、むしろ、ストレートに物を言ってくる彼女を珍しそうな目で見つめて、
「みんなに避けられてる。とか、自意識過剰だろ」
「そんなことないと思うけど? 頭、大丈夫? いや、ダメだからわざわざ学校に来てるのか」
「双葉って面白い奴だな」
言うと、「は? どこが?」という言葉と一緒に理央の視線が咲太の胸に刺さる。鋭く目を細めたそれは、嫌そうな目。
教室で見た感じ、基本的に理央の表情には色がない。デフォルトが真顔で、常にそのままの顔で過ごしている。
だから、少しの変化も分かりやすい。
確実に良くない感情を抱かれているなと思う咲太。物理実験室に足を踏み入れる彼は、扉を閉めながら、
「僕とこうして話をしてる時点で相当だぞ。僕が周りからどんな扱いを受けてるのか、知らないわけじゃないだろ?」
「それなら、梓川とよく話してる神崎はどうなる」
「アイツは中学からの知り合いだし。僕の自慢の親友その一だからな」
「答えになってない」
静かな物理実験室に、理央の呆れ声が小さく反響する。
扉を閉めると薄く届いていた喧騒は完全に遮断され、代わりに、開いた窓の外から見えるグラウンドで遊ぶ男子生徒たちの声が届いてくる。
自分とは無縁のそれを聞き流しながら、咲太は適当な椅子を拝借して、机を挟んで理央の真向かいに腰掛けた。
「なぜそこに座る」
「弁当を食べるために」
ビーカーの下に火のついたアルコールランプを置き、透明な液体を沸かす理央が嫌そうな顔をした。
多分、水を熱して熱湯でも作るのだろう。何かの実験をするのかもしれない。そんなことを思う咲太は弁当箱が入った袋のチャックを開けた。
「
「ここしか開いてなくて」
しっしと虫を払うような雑な動作で咲太を追い出そうとする理央は、その表情を深めている。
それを前から後ろに受け流し、咲太は二段の弁当箱を取り出すと、机の上に広げた。
「教室に帰れ」
「教室だと颯がうるさいから」
嫌そうな表情に敵意の色が浮かび上がったところで、理央の声に張りが出た。
尚も受け流す咲太は、弁当箱の蓋を開けると付属している箸を持ち、「いただきます」と手を合わせる。
理央の言葉はガン無視。否、聞いているが、受け流している。
咲太が物理実験室に顔を出した際、理央が咲太を放って自分の手元に意識を向けたように、彼もまた理央を放って手元に意識を向けるのだ。
話を聞かず、ついに昼食を食べ始めた咲太。遠慮も配慮もない傍若無人な態度を見せる彼を理央は睨みつける。
が、それも長くは続かなかった。数秒して「はぁ」と疲労感を含んだ吐息を溢すと、
「勝手にすれば」
「助かる」
「食べ終わったら出てけ」
と、デフォルトの真顔に戻る。
なにを言っても無駄だと思ったのだろう。あるいは、なにを言っても無駄な徒労を重ねるだけだから、追い出すことを諦めたのだろう。
どちらにせよ、咲太が落ち着ける場所を確保できたことに変わりはない。理央に感謝だ。
そうして邂逅一番に交わされた会話が落ち着くと、物理実験室は途端に静まり返る。
自分で作った弁当を食べる咲太と、アルコールランプでビーカーを熱する理央。
どちらも黙々と手元に意識を向けているため、二人の間に会話が生まれない。
その事実に、咲太は少し引っかかった。
「双葉は聞いてこないんだな」
「なにが?」
「僕の噂のこと」
自分と話している時点で噂を気にしているかなど愚問だが、気になるものは気になる。
峰ヶ原高校にいる全員がその噂を耳にして、色々と困った事態になっているのだから。
真実を理解し、自分のことを中学時代から知っているあの二人なら話は別。しかし、高校から知った人間が自分に馴染むのは極めて稀。
普通は聞いてくる。性格まで爽やかイケメンな佑真がそうであったように、自分に話しかけられるメンタルがあるなら、必ず聞くはずだ。
純粋な疑問を投げかけた咲太。
コロッケを口に含みながら視線を向けてくる彼を正面に、理央は徐々にぶくぶくと音を立て始めるビーカーの中を見ながら、
「別に。あくまで噂は噂。信じるかはその人次第。それに、普段の梓川を見てれば真偽くらいは察せられる」
「双葉っていつも僕のこと見てたんだな」
「死ね」
「ひどいな」
淡々とエグい言葉を突き刺し、理央はアルコールランプの火を消す。沸騰したビーカーの中のお湯をマグカップに注ぎ、その中にインスタントコーヒーの粉を投入。
実験をするのかと思いきや、単にコーヒーを作っていただけだったようだ。学校の器具をなんだと思っている。
今の発言を真に受ける咲太ではない。それが双葉の口調なんだなあ程度に受け流し、彼は口に含んだ咀嚼物を飲み込む。
少し喉が渇いたから、袋の中に入れていた小さめの水筒を取り出し、蓋を開けて茶を飲む。氷を入れていたからひんやりしていた。
「いつものは一緒じゃないの」
「いつもの……? 天のことか?」
「目つきが悪い人のことを言ってるなら、そう」
潤した喉で答えると、理央は両手で包むようにマグカップを持ちながら頷く。
猫舌なのか、「ふーふー」と何度か冷ました後、ずずっと音を立てながらコーヒーを喉に流した。
理央が天のことを知っていたとは、少し意外だった。彼は自分らと違って他クラスの生徒であり、1組にくる機会も少ないのに。
それ以前に、最近の自分が彼と行動をよく共にしていると知っていたことも意外。
いや、3組で『腫れ物コンビ』とかいう不名誉な呼ばれ方をしているから、それが1組にいる理央の耳にも届いたのかもしれない。
そうなると、天もクラスの枠を越えて学校でぼっちになってしまう未来が咲太には視えた。
「一緒じゃないな。天は今、保健室でぶっ倒れてる」
「怪我?」
「微熱だよ。37度らしい」
少しだけ天に対して生じた罪悪感を横目にしながら、咲太は机に頬杖をつく。食事中に行儀が悪いが、理央が咎めてくる気配はない。
咲太の行儀の悪さは気にせず、理央は小首を傾げ、
「それ、平熱じゃないの」
「天の平熱、35度5分だってさ」
「今すぐ帰らせた方がいいね。普通に発熱してる」
一瞬、ぱっと目を見開く理央が驚く表情を見せると、すぐにデフォルトの真顔に戻る。
それからマグカップに小さな唇をくっつけて、ずずっとコーヒーを飲んだ。
弁当の中身を口に運ぶ咲太も同じ意見だ。平熱が36度を越える自分には分からないが、平熱が天のように低いと、普通では平熱だと捉えられる体温でも厳しいらしい。
天の様子を見るに、かなり辛そうな感じだった。
ーー教室に帰る前に保健室寄って、天を家に帰らせるか。付き添いついでに僕も一緒に帰るか
心の中で呟き、咲太は小さな決意に「うん」と頷く。突然のそれに理央に目を向けられた。しかし数秒もすれば、視線は口元のマグカップに戻る。
「つか、双葉はどうやってここに入ったんだ? 鍵かかってたろ」
天を強制帰宅させることは頭の片隅に置いておくとして、咲太は不意に浮かんできた疑問を口にする。
仮に先生の鍵の閉め忘れとかだったら今の質問は意味を成さないが、違うのであれば物理実験室が一つの安らぎの地になるかもしれないと思ったのだ。
密かに期待を抱く咲太。彼の眠そうな目を向けられた理央は、白衣のポケットに手を突っ込むと、
「これ」
ポケットの中から出てきた手を机に置くと、握られた拳が開く。その中には、『物理実験室』と書かれたキーホルダー名札が付けられた鍵が一つ。
考えずとも分かる。彼女の手の中にある鍵は、二人がいる物理実験室のものだ。
それを理央が持っているということは、
「ここ、科学部の部室。私、科学部」
「つまり、部員の双葉は鍵を渡されてるからいつでも入りたい放題、ってことか」
「そ」
言うと鍵をポケットの中に入れ、ずずっとコーヒーを飲む双葉。
一口一口が小さいから、マグカップの中身を飲み切るのに何口つける必要があるのだろうか。予想は三十口。
「なぁ、双葉」
「なに?」
くだらない疑問を、さっと片付ける咲太。
実際に何口つけるかは心の中でカウントしておくとして、有益な情報を聞けた彼は理央のことを一直線に見つめると、
「これから、暇なときはここに来てもいいか?」
「来るな。出ていけ」
▲▽▲▽▲▽▲
放課後というのは、実にいいものだと理央は思っている。
ただ一人科学部に所属する身、誰もいない物理実験室で静かな時を過ごすことができるから。
それに、この部活は物理実験室のものをある程度は自由に扱える権利を与えられている。つまり、やりたい実験を自由にやることができるということ。
静かで、好きなことをやれて、コーヒーも飲める。なんて素晴らしい環境なのだろう。
峰ヶ原高校において、これ以上自分に適した場所などないと言っても過言ではない。
「よぉー双葉ぁ! 邪魔するぜー!」
コイツさえ、来なければ。
バン! と音を立てながらスライド式の扉を勢いよく開けたのは同じクラスの神崎颯。
学校が終わり、放課後になった今、特に来る必要もないのにやってくる1組の中心的人物。
相変わらずこの男の登場には驚かされる理央だ。かれこれ五回は経験しているが、やはり慣れない。お陰で彼女は肩をビクッと跳ねさせている。
それから、殺意すら孕んでそうな鋭い目つきを颯に向けると、
「うるさい。うざい。邪魔するなら帰れ」
「まぁ、そぉ固いこと言うなって。俺とお前の仲だろ?」
「私がいつ、神崎と物理実験室で話す関係になった。というか座るな」
背負うバッグをどすんと床に落とし、適当な椅子に手を伸ばすと、机を挟んで理央の真正面に座る。入室直後、流れるような動きで彼女と話す姿勢を作り出した。
その彼の表情はにこやかで、見ていて気持ちのいい笑みを浮かべている。
反対に理央は心底嫌そうな表情だ。
嫌悪感満載で、青筋を浮かべてそうなそれからは、「なんできた」や「早く帰れ」といった彼に対する数多の心の声が聞こえてくる。
「はぁー。今日も疲れた。マジ
「じゃ、早く家に帰れ」
「家に帰る体力が回復するまでいさせろ」
「ふざけるな」
咲太と同様に、理央の言葉をガン無視する颯。
一応、彼女の邪魔をしない配慮は利かせているつもりなのか、彼は何も置かれていないところでぐでーんと突っ伏す。
人様の領域にずけずけと入り込んでおきながら、まるで自分の領域だと言わんばかりのリラックス。
咲太と全く同じな傍若無人様を見ると、この男の頭を今すぐアルコールランプで燃やしてやろうかと考えなくもない理央である。
けれど、こうして座られた以上、颯は
自分が何を言おうとも、どう働きかけても、神崎颯と梓川咲太は出ていかない。
二人と過ごした理央が学んだことだ。
「はぁ……。ほんと、なんで神崎はいつもここにくるわけ? 神崎だけじゃなくて梓川もだけどさ。もっと他に行くとこないのか」
「放課後はないな。家に帰る、っつー意味では行くところはあるけどよ」
「なら帰れ」
「だから体力が——」
「それはもう聞いた」
颯の言葉を遮り、頭痛がしたように右手を頭に添え、理央は「はぁ」と二度目のため息を溢す。
実際に頭痛がしたわけではないが、頭痛がしそうなうるささは感じていた。
「ほんと、神崎ってすごいよね」
「なにがだ?」
「薄々思ってたけど……。神崎が来ると、その場の雰囲気が一気に変わる。ここでも教室でも同じ」
颯が来た途端、空間に満たされていた心地よい静寂は木っ端微塵に破壊。
理央だけの世界が理央の世界に変わり、外部からの侵入者によって空間が作り替えられる。理央があまり好まない、うるさい空間に。
颯という男は、本当にすごいと思う。彼がその場にいるだけで、不思議とその場が明るく活気付くのだから。
流石、1組のムードメーカー。クラスの中心グループの中心的存在なだけはある。
「具体的に言うと、どう変わる?」
「うるさくなる」
「ありがとうな」
「嫌味だよ」
そのせいで自分が苦労していることを、目の前で呑気にくつろぐ男はどこまで知っているだろうか。
知っていて、だとしても、こうしてうるさくしてくるのが腹立つ。少しは自分の苦労も考えてほしい。
こうなると、二人の口からよく聞く『空野天』も似たようなものなのではないかと思えてきた。
先が思いやられる。
「双葉って、なんで教室で昼飯食わねぇんだ?」
外から見たことしかない『空野天』のイメージ像に杞憂し、意図せず鬱屈感を抱く理央。
できれば、二人に倣って彼もここに来る——なんてことにならないといいと願う彼女に、颯は突っ伏したまま顔を上げ、机に置いた腕に顎を乗せた。
なんとなく聞いた感のある声色。特に意味のない質問に、理央は頬杖をついて、
「どこで食べるかなんて、私の勝手」
「そりゃ、そうだけどよ。もっとみんなと楽しく食べようとか、思わねぇのか?」
「思わないね。私は友人に囲まれてる神崎と違って、静かな環境で過ごしてきたから。これが普通なんだよ。今までも一人で食べてきたし。誰かと昼食を取る意味が分からない」
首を小さく横に振り、淡々と語る理央の言葉を聞き終えた瞬間、颯の目がすっと細まる。今の中で、少しだけ引っかかる部分があった。
『今までも一人で食べてきたし』
まるで、ずっと前からそうだったような言い方に感じられた。具体的な時間までは分からないが、理央の声色からどこか重みを感じる。
きっと、自分の思い過ごしだろう。中学時代にぼっちだった天と重なったから、変に反応しているだけだ。
心に生じた思いを簡単に片付ける颯。
彼女に天の影が重なることを伝えると本気で嫌がられそうだから、彼は「まぁ、なら別にいいけどよ」と言って、次の話題に移ることにした。
「そういや、前々から思ってたけどよ。双葉って、なんでいつも白衣着てんだ?」
「悪い?」
「いや、悪かねぇさ。ファッションは人それぞれだ。やりたいようにやりゃいい。ただ、単純に気になったからよ」
白衣に触れた瞬間、露骨に嫌な顔を面に露出させる理央が不愉快そうに小首を傾げた。
機嫌を損ねかけたのだと即座に察すると、颯は彼女の言葉を微笑みながら肯定し、悪気が無い意思表示。
その態度に理央は、「はぁ」とため息。
最近、ため息をつくことが増えたなと不意にも考えながら、颯の真意を覗き込むように目を細める彼女は、若干ジト目に近い目で彼を睨み、
「私は科学部だから、実験をすることが多いんだよ。その時に白衣を着るから、どうせなら最初から着てた方がラクだと思っただけ」
「それなら、実験やるちょっと前でもよくね? わざわざ授業中も着てる必要はねぇだろ」
「私の気持ちなんて、神崎には到底理解できないだろうね。色々あるんだよ。色々」
颯の指摘をその一言で蹴散らし、理央は手元に置いてあるインスタントコーヒーで喉を潤す。
鼻腔を抜けるほろ苦い味わいに「ほぅ」と吐息すると、表情をデフォルトの真顔に戻した。
よく分からないが、理央は色々と大変らしい。やはり、女の子には男には分からない色々があるのだろう。
彼女の様子から適当に察した颯は、それ以上突っ込んだことは聞かないでおく。彼女とそこまで仲良くなった気はしないから、深い詮索は無しだ。
「ふっ」と失笑する彼は、こちらに訝しの目を向けてくる理央を見ながら、
「なんか今の言葉、好きな男に告白できない女みてぇだな」
「黙れ」
▲▽▲▽▲▽▲
「あの……」
ある日の、放課後。
いつものように物理実験室でのんびりしていた理央の下に、一人の客人が訪れた。
開いた扉から流れてきた声は控えめで、扉の開け方は恐る恐るといった具合。
その開き方と声色で、今日の客人はいつものうるさい二人ではないことを理央は瞬時に理解する。
理解できたのは、あの二人の扉の開き方とは違いすぎたから。とてもゆっくりで、中の人間に対する遠慮が窺える。
音に反応して扉に視線をやる理央。デフォルトの真顔な彼女の視線の先には、人一人分だけ開いた扉からひょこっと顔を出す男子生徒の姿。
七三で分けた髪を全て後ろに流した、元ヤンに見えなくもない目つきの悪い少年。
間違えない。空野天だ。
「なに?」
あの二人が物理実験室に来るようになってから実に二週間。ついに最後の一人がやってきたのかと思うと、途端に嫌悪感が燃え上がる理央。
嫌そうな表情を薄く浮かべる彼女の声は若干尖っており、天に対する第ゼロ印象は最悪らしい。
その表情を見る天。「帰れ」という言葉が心に突き刺さったような気がした彼は、「えっとぉ……」と気まずそうに笑いながら、
「颯と咲太に、放課後ここに何も考えずに行け、って言われたんですけど……」
「あの二人の差し金なら帰ってくれない? うるさくしないでほしいんだけど」
あの二人によって空野天の第ゼロ印象が『うるさくて礼儀知らず』というものになった結果、平穏な日常を邪魔させんと理央が強めに言い切る。
すると、肩を竦める挙動を見せた天の表情が萎縮気味に強張った。
「………すいませんでしたぁ」
小さな謝罪と共にこちらを覗いていた顔が引っ込み、静かに扉が閉まる。数瞬もしないうちに扉の外に見える影が消え、静寂の廊下に一つの足音が立ち始めた。
連続して立つ足音は徐々に遠くなり、遠くなり、三十秒もしないうちに完全に消えていく。
「………え?」
少し、驚く理央。自分以外に誰もいない空間で一人、彼女は思わず変な声を漏らしてしまう。
まさか、本当にいなくなったのかと疑いながら扉を見るも、天が消えた扉から人の気配はない。
けれど、その疑心が続くのは少しの間だけだった。
あの二人の友人なのだから本当に帰ったわけがないだろうと決めつけ、警戒心に神経を尖らせる。扉に視線を向け、足音に耳を澄ませた。
どうせ戻ってくる。あの二人の連れなら、あの男も同じように勝手に来て、うるさくするはずだ。全くもってめんどくさい。
そう思って、理央は待ち構えて———。
「———本当に帰ったんだ」
その日、天は本当に帰った。
▲▽▲▽▲▽▲
「あのぉ………」
翌日の、放課後。
再び、理央の下に天が訪れた。昨日と同じ控えめな声と態度で物理実験室の扉を小さく開け、顔をひょこっと覗かせている。
理央を見る表情は昨日よりも萎縮気味で、この場に訪れた自分に対する彼女の反応を窺っているように見えた。
理央が目を向けると、気まずそうな苦笑いを天は浮かべる。
普通、颯と咲太ならこの時点でずかずかと理央の領域に侵入してくるのだが、彼はこちらの反応を座して待つ姿勢だった。
帰れと言われたら、また帰るだろう。
『アイツ、見た目の割に純粋で、ちゃんとしてるから発言には気をつけろ』
『僕たちと違って、天は冗談を真に受けやすいタイプだから。あんな見た目してても僕らの中で一番真面目なんだぞ』
その天を見ていると、あの二人から昼休みに言われたことが脳裏を過る。
昨日のことを知った二人が、ご丁寧に忠告しにきたのだ。言葉には気をつけろ、と。拒んだことを咎められた。
どうしてそんなことを言われなければならないのかと心底思う。自分の領域に勝手に人を送り込んでおきながらなんたる言い草。
自分はそれを許可した覚えなどないし、許可する気もない。それは、あの二人だって同じだ。
勝手にやってきて、勝手に居座って、勝手に帰るから。仕方なくいさせてやってるだけなのに。だから、自分が天を招く必要性などどこにもない。
尤も、入れなかったら入れなかったで、色々とあの二人にうるさくされそうだ。それは困る。
「……勝手に入れば」
「失礼します……」
天を招くか、招かなくて二人にうるさくされるか。二つを天秤にかけた双葉は、前者を選んだ。
態度を見た感じ、あの二人と違ってうるさくしなさそうだし、とりあえず入れてやろう。
そんな思いで招かれた天はぺこりと頭を下げ、静かに扉を閉める。
背負っていたバッグを理央が使用する机に立てかけると近場の椅子を拝借し、理央の正面とは少しズレた位置に腰掛けた。
見た目の割に行動一つ一つがひっそりとしていて、丁寧だ。
あの二人とは偉く違う態度。
彼らが来たときと言えば、うるさくして理央が作り出した静寂を無慈悲に破壊するというのに。
天の場合は、磨きがかけられている。世界に漂う静寂を壊さないようにしていた。
「空野はなんで来たの」
「行け、って言われたから」
第ゼロ印象の『空野天』が崩れ、第一印象の『空野天』が作られていく中、理央はその返答に意図せずため息。がくりと肩を落とした。
やはり今回も、あの二人の差し金らしい。一体、二人はどこまで自分の平穏を崩せば気が済むのか。
最近は、あのうるささに耳が慣れ始めてきたのが恐ろしい。
騒がしすぎて耐性がついてきた理央。明らかに嫌そうな態度を表に出す彼女に、天は申し訳なさそうな表情で「まぁ、だから」と膝に手を置いて、
「少ししたら帰るよ。あんまり双葉さんに迷惑かけたくないし。なんか疲れてるっぽいし」
言った瞬間、理央の目がぱっと見開く。デフォルトの真顔が僅かに崩れると、内側から驚いた表情が顔を出した。
その表情を言葉にするなら——呆気にとられる、と表現するのが適している。
なにか、マズイことを言ってしまったか。心に不安が生じる天は小首を傾げ、
「なんですか? そんな顔して」
「神崎と梓川に、こんな知り合いがいると思わなかったから」
「………と言うと?」
「うるさくないし、礼儀正しい」
「おぅ……」
天の何とも言えない声が漏れる。淡々と即答された迷惑宣言に苦笑し、コメントに困る彼は「あの二人がすんません」となによりも先に謝った。
机に突っ伏し、「アイツら、また無神経なことを……」と呟く様はちょっと面白い。
なるほど。颯が「見た目の割に——」と言っていた意味が分かった。
確かにこれは見た目の割に、だ。あの三人の中では一番ヤンチャしてそうなのに、蓋を開けてみれば落ち着いた常識人がそこにはいた。
「あの二人、なんか双葉さんに嫌なことしてません?」
「そう思うなら、あの二人がここに来ないように言って。私が迷惑してるから来るな、って」
「ごめん。それは無理。俺一人の力じゃあの二人は止められない。まぁ、やってみるけど」
突っ伏した体を起き上がらせ、上履きを脱ぐ天が胡座をかいて背筋を伸ばす。
姿勢が良いのか悪いのか判断しかねる彼を見ながら、理央は「ん」と小さく頷いた。
どこか、対応があの二人とは違う理央だ。目立つほどの大きな差はないが、少しばかり態度が柔らかい。
それは理央自身も感じている。あの二人に抱く苛立ちの感情が、目の前の男に対しては抱かないなと。
多分、うるさくないからだろう。あの二人がうるさすぎるから、第ゼロ印象と第一印象のギャップに安堵しているだけだ。
なんとなく、それだけではない気がするけど。
「この空間……、静かでいいですね」
空野天の第一印象が『落ち着いた人』に固まったところで、理央の意識は心の中から外に引き戻される。
声に反応した意識が外の世界に戻ると、彼女は物理実験室を見渡している天を見た。
「空野じゃないときは騒がしいけどね」
「やっぱり、咲太と颯もここに来るんだ」
「来るよ。勝手に来て、勝手に騒がしくして、勝手に帰ってく。ほんとに面倒」
そう言っておいて、あまり面倒そうに見えないね。とは、口が裂けても言わないとして。天は「ふーん」と喉を低く鳴らした。
どこから持ってきたのか、マグカップでココアを飲む理央に視線を戻すと、
「でも、なんだかんだで話に付き合ってくれる双葉さんは優しいね」
「帰れ、って言っても帰らないだけ。空野とは違って」
言うと、丁寧に冷ましたココアを喉に流す。味覚を撫でる甘い味に「ほぅ」と息を吐き、両手で包むように持ったマグカップを机に置いた。
そんな彼女に天は「ふっ」と笑み、胡座に置いた手を適当に組む。
無理やり追い出そうとしない時点で、優しいことに違いない。それを諦めた感が否めないものの、理央は二人に付き合ってくれているようだ。
あの二人だって、彼女が本当に嫌そうだったら帰るはず。でも、そうならずにこの状況が続いているということは、そういうことだ。
案外、彼女も二人と話すのが嫌いじゃないのかもしれない。
読み違いだったら怖いから口には出さないけれど。
「空野って、部活はしないのか」
天の中の双葉理央の第一印象が『優しい人』に固まったところで、理央が話を持ち出す。
藪から棒なそれに、天は言葉を選ぶための沈黙を設けると、
「例えば?」
「バレーとか」
「えっ……」
すっと言われたスポーツ名に、天の驚き声が重なる。小さく漏れた心の声は、どうして分かったとでも言いたげだ。
それ以前に、どうして自分が部活をしていないと分かったのか。否、放課後に暇してる時点でしていないと言っているようなものか。
湧いた疑問を、自分の中だけで素早く片付ける天。その態度を横目に、理央は澄まし顔のまま、
「私、空野のこと中学のときに見たことあるけど」
「は?」
更に、天を驚かせる発言を放った。
いつ、どこで、どんな状況で。言葉を起点に様々な疑問が一挙に浮上する天。
どれから聞こうか迷った結果、唖然として「は?」の口のままぽかんとする彼に、理央は「ふっ」と小さく笑う。
人を面白がる反応を見せると、マグカップを唇に近づけながら、
「いつかの土曜に、教室に忘れ物を取りに学校に行ったことがあってさ。体育館を通り過ぎたときに、うちのバレー部が練習試合をやってて」
「そんときに俺を見たと」
「そ」
ずずっと音を立て、ココアを飲む。その様に喉が渇いた天もバッグの中からストレートティーを取り出し、喉を潤した。
よく出来た偶然だが、彼女の様子からして嘘は感じられない。
自分が嘘に鈍感なだけかもしれないが、この場において変な嘘をつく必要性もないし。彼女は本当のことを言っているのだろう。
だとすると、彼女の記憶力は凄まじい。
「よく覚えてたね」
「空野は印象に残るからね。良くも悪くも。バレーしてる時の空野はあの二人以上にうるさかったし」
「部活中なんだからいいでしょ」
その頃の記憶を思い返す天。過去に思いを馳せる表情は柔らかく、「あの頃は血気盛んだったからなぁ」と呟く声色は寂しげだった。
「空野の中学、公式大会でベスト8常連、って聞いたけど」
「誰から?」
「バレー部が練習してる横を通り過ぎた時に、話していたのを聞いた。この前、練習試合した中学がベスト8常連だ、って」
「ほーん」
哀愁漂う天の様子には特に触れず、理央はココアを飲もうとマグカップに唇をつける。しかし、先ほどので飲み干したらしい。いつの間にか空になっていた。
仕方ない。手にしたそれを机に置くと、理央は頬杖をついた。
「バレーのことはよく知らないけど、それってすごいことなんじゃないの?」
「すごいことなんじゃない? 十本の指に入る、ってことだからね。ま、良くも悪くもベスト8止まりだけどさ」
特に意味もなく机に置かれたメスシリンダーを爪で
同じ体勢をしてきた天を見る理央は窓の外——グラウンドで走るバスケ部の集団を見ると、
「ここでもやらないのか」
「やんない。なんか、見た感じゆるい部活だったから。バレーガチ勢の俺が入ると空気を乱しそうだからやめた」
「じゃ、ほんとはやりたいんだ」
「そりゃね。まぁでも、
「そうなんだ」
興味なさそうに喉を鳴らす理央。
自分で話を振っておきながらその態度はなんだ——あの二人ならそう言いそうな場面だが、天は違った。
彼女のつまらなさそうな態度に彼もまた「そーゆー感じよ」と適当に返し、言葉を閉じる。
その後も、取り止めのないやりとりが三十分程度交わされるだけで、特に大きなこともなく。
別れ際に「じゃ、またね」と言い、「またね」と言われると、天は物理実験室から家に帰った。
いつもなら口癖のように言うはずの「帰れ」は、一言も言うこともなく。
あの二人とは違って落ち着いた雰囲気の天と話すのも悪くない、そう思う双葉理央であった。