ブタ野郎に親友を作っただけのお話   作:ノラン

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バカ野郎どもとおるすばん妹

 

 

 早朝、日の出を迎えた太陽が夜の闇を完全に晴らし、日本に朝の訪れを知らせている頃。

 午前7時15分を過ぎた空は小さな雲が優雅に泳いでおり、雲を飾っている青白い空は、気持ちよく澄み渡っていた。

 

 本日は五月三十一日と、暦上では春の終わり。

 公園に咲き誇っていた桜は地に落ち、徐々に温かい気温が暑い気温に移り変わる予感を感じさせている。

 そのせいか、日本の住民たちは、頬を撫でるそよ風が少し生暖かいものに感じられていた。

 

 

「ふぁ……。(ねみ)ぃ」

 

「何時に寝たの?」

 

「夜中一時」

 

「そりゃ眠いだろうね」

 

 

 眠そうにあくびをした颯と、呑気な声で話す天もまた、その中の一人だ。

 そろそろ体に馴染んできた峰ヶ原高校の学生服に身を包む彼らは、家を出て五秒の場所にある梓川兄妹家——その扉の前でスタンバイ。

 

 

「なんでそんな遅くまで起きてんのさ」

 

「友達とゲームしてた」

 

「スマホの?」

 

「そうよ。今、流行りのやつ。お前も混ざるか?」

 

「遠慮します」

 

 

 今から学校に行くから、咲太を待っているのだ。彼が遅いのではなく、彼が出てくる少し前に二人が先に待機している形。

 高校が開始したときからずっと、学校に登校するのは三人一緒。家が近いからどうせなら一緒に行こうと颯が言い出した結果、今の形がある。

 

 

「そう言うお前は何時に寝たんだ?」

 

「十一時」

 

「昼の?」

 

「夜に決まってんだろ」

 

 

 別に、登校まで三人一緒にしなくてもいいじゃないかと思う天が一度だけ勝手に登校したことがあるのだが。

 その際、咲太に「なんで先に行ったんだよ」と小言をぐちぐち言われ、颯に「かえでちゃんのいってらっしゃいイベントを回避すんな」と言われてしまった。

 

 

「相変わらず寝るの(はえ)ぇな、お前は」

 

「起きてらんないだけ。今期のアニメとかリアタイで観たいんだけど……体力が持たない。録画して後で観てる」

 

「何個観てんだ?」

 

「十個くらい」

 

「すげぇな。そんな観てんのかよ」

 

 

 そう言われれば天も、三人一緒に行くしかないと思った。

 朝は咲太の妹であるかえでからの「いってらっしゃい!」が聞ける唯一の場であるし、彼女が自分らと声を交わし、その関係を深める毎日のチャンスでもある。

 彼女が自分らに馴染むのには、毎日の小さな積み重ねが必要なのだ。

 

 

「お前ほんと、見た目のくせして結構なアニオタだよな」

 

「アニメ好きに見た目はカンケーないよ。どんな見た目だとしても好きなものは好きなんだから。オタクだからって舐めたらぶっ飛ばすよ。オタクは怒らせたら怖いんだよ」

 

「お前が言うとリアリティあるからやめろ」

 

 

 朝の挨拶——その一言だけだが、そうして毎日のように言葉を交わして、声を合わせていれば、自然と心は慣れてくる。

 かえでと出会ってから早二ヶ月が経過した今、その傾向が良い形で彼女に生じつつあった。

 

 と、

 

 

「……来たかな?」

 

「だな」

 

 

 くだらない話を広げていたところで、正面にある扉の先から物音がしてきたことに二人は気づく。

 それまでの会話を一旦止めて、広げていたそれをさっと片付けた。

 

 間違えなく、梓川兄妹によるものだろう。

 咲太が学校に行くとき、かえでは必ず玄関前で可愛らしく「いってらっしゃい」を言ってくれるから、二人一緒に玄関に来るのだ。

 

 その数秒後、ガチャっと音を立てながら扉が開かれる。

 その先にいたのは扉を開けた制服姿な咲太と、玄関にいるパンダの柄をしたフード付きのパジャマを着用したかえで。

 

 

「じゃ、行ってくる」

 

「お兄ちゃん、いってらっしゃい!」

 

 

 眠そうな目をした咲太が振り返りながらかえでに軽く手を振ると、かえでは笑顔を顔いっぱい満開にさせて大きく手を振る。

 それから、扉の前で待機していた天と颯の存在に気づくと、二人と目を合わせながら、幼子のように無邪気な笑みを弾けさせ、

 

 

「天さんと颯さんも、いってらっしゃい!」

 

「おう」

 

「かえでちゃん、今日もありがとう。よくがんばったね」

 

「はい! かえでは頑張りました! なので、お家に帰ってきたお兄ちゃんの、いい子いい子を期待しています!」

 

 

 ぱぁっ、と笑顔の花を咲かせる。

 

 かえでがそう言った途端、咲太が「僕の妹に変な事を吹き込んだのはどっちだ?」と天を見つめた。

 どっちだと言いながらも、事の元凶の予想はついているらしい。

 

 「さぁ?」とわざとらしく小首を傾げる天。手を広げて戯ける仕草をすると、彼は「さ、行きましょうか」と適当に笑って歩き出す。

 「じゃ、行ってくるぜー」とかえでに笑いかける颯がその背を追うと、やれやれと言いたげな咲太がかえでの期待の眼差しを受けながら扉を閉め、鍵をかけ、二人を追いかけた。

 

 

「順調にブラコン化が進んでるじゃねぇか」

 

「誰かさんが余計な事を言うせいでな」

 

「俺は単に、頑張ったご褒美でもお願いしたら? って、去り際に言っただけだよ」

 

 

 エレベーターを呼んだ天の背に追いつくと、颯は隣に並んできた咲太に視線を向ける。微笑ましそうな目だ。

 向けられた咲太は、颯とは逆サイドにいる天に視線を向ける。少し恨めしそうな目だ。

 結果的に二人に視線を向けられた天はそれには目を向けず、エレベーターの現在地を示す階数表示を見ていた。呑気そうな目だ。

 

 

「去り際、って……いつの去り際だよ」

 

「そんなタイミングあったか?」

 

 

 天が視線を向けないことを察した二人が、彼と同じく視線を階数表示に向ける。エレベーターは止まることなく順調に進み、三人の家がある五階まであと二階といったところ。

 あと数秒後には点灯するであろう『5』の数字を見ながら、天は「ちょっと前」と言葉を繋げ、

 

 

「さっきみたいに、かえでちゃんに挨拶された時。咲太が忘れ物を思い出して部屋に戻って、その咲太を見て思い出した颯も部屋に戻った時。その時に一言」

 

「天とかえでちゃんしかいなかったときか」

 

「そ」

 

「体育着を取りに行ったやつか」

 

「そ」

 

 

 納得。

 

 そんなこともあったなあと思う二人が別々の感想を抱く中、ピンポーンという高い音が廊下に響く。

 一秒もしないうちに「ドアが開きます」と言う電子の声が聞こえると、横開きの扉が開かれた。

 

 

「かえでちゃんは普段から頑張ってるから、なんか咲太にご褒美でもお願いしたら? って言った時のあの子の目の輝き方と言ったら……反射的にスマホに伸びた腕を制した俺を褒めてほしい」

 

「こいつ、やっぱ警察に突き出した方がよくね?」

 

「同意見だ。けど、その前にスマホの写真フォルダを確認するぞ」

 

「やめてー」

 

 

 扉が閉まり、一階へと降り始めたエレベーター。

 

 その中で、棒読みで言いながら隅っこに逃げる天がポケットからスマホを出し、両手で体を抱きしめる。

 その彼を見る二人の視線の温度は絶対零度で、冷めた目をしていた。

 

 尤も、今の発言は冗談が大半を占めると知っているから、それ以上はない。

 天はかえで関連でぶっ飛んだ発言をすることがたまにあるものの、彼はその発言を上回るくらいかえでのことを気遣ってくれていると二人は知っているからだ。

 自分たちの親友は、礼儀正しくてとても優しいやつだと。

 

 初っ端から颯のように馴れ馴れしいわけでもないし、目を見て会話ができないかえでのことを慮って背中を向けて会話をすると言い出したのも彼。

 因みに、朝のいってらっしゃいイベントを毎日発生させるキッカケを作ったのも彼。

 

 年下好きで、妹属性好きな天。

 そのせいで、妹道を極めんとするかえでを見ると稀に裏で暴走しそうになるが、表ではちゃんとしているのだ。

 

 だから二人は辛辣な目と言葉を向けながらも、本気でそう思っているわけではない。

 が、その状態の彼を放っておくのは忍びないから、天の脇を肘で小突いておく二人である。

 

 そんなやりとりをしているとエレベーターは一階に到着。聞き慣れた電子の声に続いて扉が開き、三人はエントランスを抜けてマンションの敷地から出た。

 

 

「かえでちゃん、だいぶ俺らに慣れてくれたね。目ぇ合わせられるようになったし」

 

「さっきみてぇに、普通に話せるようにもなったしな」

 

「二人のおかげだよ」

 

 

 いつも通り咲太を真ん中にして、通学路を仲良く並んで歩く三人。

 こうして歩くときはなにかしらの話題が誰かによって投下され、そこから無限に会話が広がっていくが、今回の話題はかえでのことだった。

 

 

「毎日、二人がちょっとずつかえでと接してくれてるから、かえでも慣れたんだと思う。挨拶だけだけど、かえでにとっては大きかったらしいぞ」

 

 

 かえでと二人が出会ってから早二ヶ月。それまでのことを思い出す咲太は、しみじみした様子で妹の成長を語っている。

 たった二ヶ月ちょっとで生じた明らかな変化に兄として思うところがあるのか、過去を回想する表情は嬉しそうだ。

 

 初めの頃は、今のように目を見て挨拶をすることなんて到底できていなかった。

 自分らと仲良くなりたいと言って頑張ろうとするかえでのために、「じゃ、まずは朝の挨拶から始めようか」と提案してくれた天に頷いた彼女には、かなりの苦労をかけてしまったと思う。

 

 朝の挨拶を始めたばかりの頃は、声だけだった。

 二人が視界に入ると緊張して声が震えてしまうから、二人は今のように扉の奥で待機せずに扉の真横で待機し、まずは互いに姿を見せないところから。

 

 それでも、色々と大変ではあった。

 姿は見えずとも『そこにいる』という感覚がかえでを緊張させ、始めた日から一週間はぎこちない「いってらっしゃい」を聞かせていた。

 その彼女のことを気遣ってなのか、緊張を和らげようとして二人が変な声で「行ってきます」を言って、不意打ちにかえでが笑ったのは良い思い出。

 

 そうやって、毎日毎日、二人に「いってらっしゃい」をしているうちに、少しずつ声色から緊張がなくなって。

 二人には見えていないかえでの表情から、怯えた小動物のような不安感が抜け切ったある日、

 

 

『き、今日は天さんと颯さんの、お、お顔を見ながら…いってらっしゃいを言いたいです!』

 

 

 その日から、かえでは二人の顔を見ながら「いってらっしゃい」を言えるようになった。

 今から丁度一週間ほど前だろうか。緊張しながら、それでも決意と覚悟を宿した声で、彼女は踏み出せずにいた一歩を踏み出した。

 

 それから一週間が経った今では、咲太の前にいる時のような自然体で接することができている。

 その証拠が、挨拶の時に見せる笑顔。初めて会ったとき——咲太の背に隠れておっかなびっくりしていた少女とは思えない表情。

 

 そこに辿り着くまでに二ヶ月——かえでは本当によく頑張ったと咲太は振り返った。

 

 

「そういや、かえでが、また二人を家に呼んでほしい、って言っててさ」

 

 

 過去を回想し、少しばかり感傷に浸っていた咲太。意識を過去から現在に帰還させる彼は、ふと思い出したように言った。

 左にいる天に「そーなの?」と言われて、右にいる颯に「大丈夫なのか?」と聞かれると、咲太は「うん」と頷き、

 

 

「かえでがそう言ってるから大丈夫だと思う。今は二人の顔を見ても怖くないし、不思議と緊張もしなくなった、って言ってたぞ。もう前みたいにはならない、って意気込んでる」

 

 

 前みたいにとは、かえでが二人と初めて出会ったときのことを指す。はじめましての挨拶をする、それだけのために顔を合わせた瞬間のこと。

 

 あのときは、それはそれは怯えられてしまったと二人は思う。これまで誰とも会ってこなかったのだから仕方ないが、今思うと少し申し訳ない。

 隠れた咲太の体から、一ミリも離れなかったくらいだ。あの怯え様は人見知りの限界点と表現してもいい。

 

 家に呼ばれるとなると、その記憶が脳裏に過る二人だ。しかし、最近になって見せてくれるようになったかえでの笑みがその記憶を破壊すると、

 

 

「なら行こうか。かえでちゃんにそう言われちゃ、行かねぇわけがねぇ」

 

「かえでちゃんがそう言うのなら。無理のない程度に顔を合わせようか。無理のない程度に。明日から土日だし、ちょうど良いよ」

 

 

 親指を立ててグーサインをした颯が力強く言い切ると、続く天がかえでの心を気遣いながらも彼女の意思を尊重する。

 懸念がないわけではないけれど、かえで自身がそう言うのなら、頑張りたいと言うのなら、応援する方向で頷いた。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

 ——二人が梓川兄妹家に訪れたのは、それから二日後のこと。土曜日を越えて、日曜日。

 

 

 昨日、天は暇だったのだが、咲太は朝から夜までバイト、颯は夕方から空手ということもあって、三人が暇な日曜日に集まることになった。

 時刻は、お昼時を過ぎて午後2時。昼食を終えた人間が、各々やるべきことに励み始める時間帯。

 

 

「——咲太ぁ。来たよぉ」

 

 

 そんな時間に、天は梓川兄妹家のチャイムを鳴らした。その隣には颯がいて、二人とも涼しげなラフな格好に身を包んでいる。

 手ぶらというわけではないらしい。その二人の手には、ギフト包装が施された一つの物があった。

 

 颯は、水玉模様の包み紙で包んだ本のような形をした物を小脇に抱え。

 天は、口が赤色のリボンで可愛らしく閉じられた大きめな袋を両手で大事そうに抱えている。

 

 一目見てプレゼントだと分かる。そして、それが誰に向けてのものなのかも。

 

 

「入っていいぞ………かえでにか?」

 

「そ」

 

「ったりめーよ」

 

 

 咲太も瞬時に理解した。

 

 チャイムを鳴らされて玄関に行き、扉を開けて二人を出迎え、一番に目に飛び込んだそれに若干の沈黙を挟むと、受け取った答えに「ありがとな」と優しく微笑む。

 

 二人が、かえでのためにサプライズをしてくれるのだろう。

 まさか、プレゼントをしてくれるとは思わなかったが、考えてみればやりそうな二人ではあるなと思った。

 

 この二人は、そういう男たちだと。

 

 

「なにが入ってるんだ?」

 

「開けてからのお楽しみ」

 

「そーゆーこった」

 

 

 咲太の質問を軽く受け流す天が「お邪魔します」と一声かけて扉を潜り、同じ態度の颯も「邪魔するぜ」と言って梓川兄妹家の中へ。

 自分にも隠す必要はあるのかと思う咲太も、扉を閉めて鍵をかけてから二人を追いかけた。

 

 それから、先頭に立つ天は玄関の空間とリビングの空間を隔てる扉を開けようと、取っ手に手をかけ、

 

 

「………かえでちゃん。そこにいるの?」

 

 

 止まる。

 

 取っ手を捻って扉を開けようとしたところで一時停止し、彼は中に声をかけた。

 突然に止まった天の背に颯が「おぶっ」と声を漏らしながらぶつかり、その颯の背にぶつかった咲太が「ぶへっ」と変な声を漏らす。

 

 ふと、思ったのだ。もしかしたら彼女は、自分の部屋ではなくリビングにいるのかもしれないと。

 どうしてそう思ったのかは分からない。けれど、思ってしまったら聞かずにはいられなかった。

 

 かえでの事となると、割れ物を扱うように慎重になる天。そんな彼に返されるのは静寂の沈黙か、かえでの返事か。

 その答えは———、

 

 

「は、はい! かえではここにいます! 天さん!」

 

 

 後者だった。扉の奥から、溌剌としたかえでの声が聞こえてくる。一度だけ言葉に詰まりながらも、はっきり返ってきた。

 

 呼びかけてから数秒間だけあった沈黙は、かえでによるもので。それは多分、約二ヶ月ぶりに家に遊びに来た天と颯と会うのに少し緊張しているからだろうと天は思う。

 当たり前だ。いくら慣れたといえども、こうして家に上がって話すのはこれが二回目。緊張しない方が難しい。

 

 

「俺と颯、来たけど……入ってもいい?」

 

 

 それでも、かえでが頑張りたいのなら応援しようとする天は後ろ向きな言葉に蓋をし、少し開けた扉の隙間から手を出すと、その手を振った。

 ふりふりと振られる天の片手に、扉の奥にいるかえでは「はい!」と元気よく頷き、

 

 

「かえでの心の準備は万端なので、いつでも大丈夫です!」

 

 

 若干、勢いに任せてる感がしなくもない返事を受け取り、天は後ろを振り返る。

 先程から声の大きいかえでが無理をしているのではと思った彼は、彼女の兄に最後の確認を取った。

 

 本当に大丈夫なのか。小首を傾げて咲太に視線で問うと、小声で「大丈夫だから」と言われた天。

 手前にいる颯に「早く開けてやれよ」と言われると、彼は「分かった」と頷き、

 

 

「じゃぁ、開けるよ」

 

 

 実は、心の奥底で密かに緊張している天は扉をゆっくり開く。開いて右手側を向くと、視線の先にかえではいた。

 出会った時の服装——いつものパンダのパジャマではなく、白のブラウスに吊りスカートを着用した少女が、猫を抱えて正座している。

 けれど、表情は固くない。緊張しているけれど過度なものではないのだろう。初めてのときと比較すると、その差は明らかだった。

 

 近づいても大丈夫。そう考えた天は目線の高さを合わせるために、彼女に近づいて腰を下ろすと、

 

 

「こんにちは、かえでちゃん。俺は、かえでちゃんのお兄ちゃんの親友やらせてもらってる、空野天。よろしくね」

 

 

 和かに笑いかけ、優しい声で自己紹介をする。

 二ヶ月前はかえでの口から聞けなかったから、ちゃんと話せるようになった今、二度目のはじめまして。

 

 突然のそれに、彼に続いて部屋に入ってきた二人が「今更?」と不思議そうにしているが、かえでには天の意思が伝わったのだろう。

 一度、はっとした様子で目を見開くと、彼女は胸に手を当てて深呼吸。

 

 天の目を一直線に見つめながら、

 

 

「こ、こんにちは、天さん。かえでは、梓川かえでです。お兄ちゃんから天さんのお話はよく聞きます。なので……その……は、話せて嬉しいです」

 

「うん。俺も嬉しい。……ちゃんと、目を見ながら話せるようになったね」

 

「はい。かえではもう、前のかえでではないんです。ちゃんと、天さんと目を合わせられるようになりました…………はい! 目を合わせられるようになりました!」

 

 

 自分で口にして、その成長を実感したのだろう。今こうして、目の前にいる天の目を見ながら話せている——その事実一つが心に響いた瞬間、かえでは大きく喜んだ。

 

 溜め込んでいた感情が、爆発する。

 

 

「かえでは今、天さんの目を見ながらお話できています! 天さんと目が合っています! お話ししています! 一人で、天さんとお話しできています!」

 

 

 全身で嬉しいという感情を表現した結果、抱いていたなすのを離して両腕を小さく振り、体を左右に揺らす様はるんるん。

 そのまま立ち上がってスキップでもしそうな程に上機嫌で、部屋の雰囲気が一気に明るく染まる。溢れ出る嬉々とした感情が、天の心を穏やかにしていく。

 

 それ程までに、彼女は上機嫌だった。彼女の雰囲気が、部屋の空気を染めたのだ。

 

 

「かえでは、ちゃんとお話できていますよね? 天さん!」

 

「うん。お話できてるよ。ちゃんと目が合ってる。よく頑張ったね。えらい。もぅ、すごくえらい! 拍手も贈っちゃう!」

 

 

 パチパチと音を立てながら、天は目の前で笑顔を見せながら喜ぶかえでに拍手を届ける。

 「最強! 俺の中でかえでちゃん世界一!」とバカっぽく声をかけているのは、彼女の緊張を一つ残らず和らげるためだろうか。

 後ろから眺める二人には、実に滑稽に見えた。

 

 

「おいおい。なに二人だけで楽しんでんだよ。俺らも混ぜろ」

 

「天に拍手貰えてよかったな。かえで」

 

 

 拍手を贈る天と、贈られて喜ぶかえで。

 

 座る天の膝下に擦り寄るなすのを除外すれば、完全に二人だけの空間になりつつあることを察し、颯と咲太が声と一緒に二人に近寄った。

 咲太はかえでの隣に座り、颯は天の隣に座り。しれっと自分らの背中でかえでへのプレゼントを隠すと、颯は正面の梓川兄妹を見る。

 

 隣に座ってきた咲太に、かえでは「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」と子犬のようにはしゃぎながら、

 

 

「やりましたよ、お兄ちゃん! 天さんから拍手を貰いました! これで、かえでは天さんの中では世界一です!」

 

「そうだな。かえでは世界一だ」

 

 

 目を輝かせ、喜びを爆発させるかえでの満開の笑顔に、咲太は笑みを浮かべる。

 この時、彼の脳裏には塞ぎ込み切ったかえでの姿が過っていた。

 誰にも会いたがらず、誰とも話したがらず、兄という存在以外に完全に心を閉ざしていた頃の、自分の妹の姿が。

 

 こんな笑顔を見たのは、自分がかえでを『花楓』ではなく『かえで』として受け入れたとき以来かもしれない。

 こんなに誰かの名を呼ぶかえでを見たのは、初めてだ。交流が無かったのだから当たり前だが、そういう話ではない。

 

 あの日——『花楓』がいなくなって『かえで』が誕生してから、既に一年が経つ。

 絶望のどん底に突き落とされてから、既に一年が経つ。

 あの頃は、自分も妹もどうなるかと思っていた。誰も助けてくれなくて、理解してくれなくて、どうしようもないのだと。未来なんて真っ暗だった。

 

 でも、

 

 

「かえでちゃん。今度は俺とも自己紹介しようぜ。俺は神崎颯。咲太の親友だ。よろしくな」

 

「はい! かえでは、梓川かえでです! お兄ちゃんの妹です! よろしくおねがいします、颯さん!」

 

 

 あれから一年が経った今、自分らはこうして楽しく過ごせている。かえでも、自分も、真っ暗だった未来で元気にやれている。

 かえでが颯と自己紹介のやり直しをできたように、それを見て自分が笑えているように。

 

 そのことに、咲太は言葉にできない安堵を不意に感じていた。

 かえでが頑張れたことに、とてつもない喜びを感じていた。

 

 

「ほんと……、よく頑張ったな。かえで」

 

 

 はしゃぐかえでに手を伸ばし、咲太は妹の頭に手を添える。

 優しく労わるような手つきでさらさらした感触を指先に感じると、髪に触れる手を小さく揺らした。

 その態度は妹の成長を嬉しがる兄以外になくて、彼がどれだけ嬉しいかなんて考えずとも理解できる天と颯だ。

 

 しかしかえでは、それには気づいていない。彼女は今、咲太に頭を撫でられてご満悦。

 「お兄ちゃんに撫でてもらえました」と目の前の二人にふにゃりと破顔し、無自覚ながらに天を悩殺している。

 

 

「………あ、そうだ」

 

 

 姉妹睦まじい光景は自分らが帰ってから好きなだけやってもらうとして、一瞬で心を立て直した天は声を上げる。

 いつの間にか胡座の中で落ち着いていたなすのを撫でながら、彼は三人の視線を自分に引き寄せ、

 

 

「実は、かえでちゃんに渡すものがあるんだよね」

 

「かえでに……ですか?」

 

 

 頭を撫でていた咲太の手が離れる感覚に名残惜しそうにしながらも、かえでは小首を傾げる。

 妹の頭を撫で終えた咲太も気になるらしく、話を持ち出した途端に意識を二人に向けていた。

 

 一言で梓川兄妹の意識を引き寄せた天は背中に手を回すと、持ってきたプレゼントを二人に見せる。

 颯も同じように、背中に隠していたプレゼントを二人に見せた。

 

 天はそのプレゼント——赤色のリボンで口を閉じた大きめの袋をかえでに渡そうとして、

 

 

「待った。まずは俺からだろ。多分、いや、絶対にお前の方がすげぇから。まずは俺からにしろ」

 

 

 と、横から伸びた颯の手に止められる。

 

 同じタイミングの、同じ場所で買った都合上、互いになにを渡す気なのか知っているが故だ。

 あの袋の中になにが入っているのか知っているから、颯は自分が先に行くと言って絶対に譲らない。

 

 逆もまた然り。颯の提案に「あー」と低く喉を鳴らす天は少し考え、「それもそうか」と呟くと、「じゃ、先に渡していいよ」と言って渡しかけたプレゼントを引っ込める。

 渡す順番が決まったところで、颯は水玉模様の包み紙で包まれた本の形のような物をかえでに差し出し、

 

 

「これ、俺からのプレゼントだ」

 

 

 言うと、かえでが差し出されたプレゼントを見る。しかし、即座に受け取る気配はない。

 初めての経験をした彼女は、どうしたらいいのか分からない様子だった。

 

 プレゼントから咲太に視線を移すかえで。困惑した結果、兄にどうしたら良いのか目で問うと、

 

 

「こういうときは、素直に受け取っておいた方がいい。かえでに対しての贈り物なんだから、きっと、かえでにとって嬉しいものが入ってると思うぞ」

 

「分かりました」

 

 

 兄の言葉もあって、かえでは颯からのプレゼントに手を伸ばす。卒業証書を受け取るような風に、丁寧に両手で受け取った。

 すると、なにが入ってるのだろうかと不思議そうな表情を浮かべ、それをペタペタ触り始めた。

 

 

「これは、なんですか?」

 

「開けてみ」

 

 

 語るよりも見た方が早い。隠そうともしないニヤニヤ顔の颯にそう言われて、彼に見られながらかえでは包み紙の開け口を探し始める。

 妹になにをプレゼントしたのか気になる咲太の視線もかえでに注がれており、天は颯のニヤニヤ顔を見て半笑い。

 

 二人の視線を感じながら、開け口を見つけたかえでは包み紙を丁寧に取って中身の正体を知る。

 瞬間、再び彼女の表情に喜びに満ちた笑顔が咲き誇った。

 なぜなら、

 

 

「これは……パンダ! パンダですよ! お兄ちゃん!」

 

 

 かえでに渡されたそれは、やはり一冊の本で。表紙にはパンダの写真が大きく貼られていたからだ。まるで、この本の主役がパンダであると示唆しているように。

 否、実際にそうだった。先程からずっと目を輝かせっぱなしのかえでが本を開くと、彼女の目に飛び込んできたのは数々のパンダの写真。

 

 笹を食べているパンダ。寝ているパンダ。パンダと戯れているパンダ。草原でぐでーんとしているパンダなどなど。

 大人パンダ、子どもパンダ、赤ちゃんパンダまで、パンダの様々な一面を捉えた写真たちが、一ページに三枚ずつ紹介されている。

 全80ページにも渡ってパンダの写真が文字と共に紹介されるそれは、パンダの全てが一つの本に凝縮されたと言っても過言でない程に内容が濃い。

 

 つまりこれは、

 

 

「パンダの写真集か?」

 

「その通りだ」

 

 

 咲太が導き出した予想に、颯が指をパチンと鳴らしてニカッと笑う。笑みを堪える必要がなくなって、我慢していたものを一気に解き放った表情。

 「わぁ……」と感動の声を漏らし、「わぁ」の口のまま写真に釘付けになるかえでを見ると、颯は嬉しそうに笑い、

 

 

「かえでちゃんは、普段からパンダのパジャマを着てるだろ。だから、もしかしたらパンダが好きなんじゃないか、って天に話したんだよ」

 

 

「そしたらよ」と、笑う颯はなすのの顎の下を撫でる天に視線を向け、

 

 

「今度会うときに、パンダ関連でプレゼントでもする? って天に言われてな。昨日、買ってきたんだよ」

 

「ってことは、天のもパンダ関連なのか?」

 

 

 自分のサプライズが成功して満足気味な颯が堂々と語り、話の流れから予想を立てた咲太が天に視線を向ける。

 写真集に夢中になるかえでを除く二人から視線を向けられた天はというと、少し不満そうな目で颯を見て、

 

 

「まぁ。そんな感じ」

 

「なんだよ、その目」

 

「俺のが終わってないのに喜ぶなよ。俺のが微妙だったらどーすんの」

 

「大丈夫だって。だってお前のはパンダの——」

 

「言うな言うな言うな」

 

 

 危うく口を滑らせかけた颯に軽く体当たり。自分のサプライズが台無しになるところだった彼は、「マジでやめろよ」と強めに念を押して颯の口を黙らせる。

 パンダの、なんだろう。気になる咲太は天の前に置かれた大きめの袋に視線をやった。

 

 かなり大きい。高さとしては、かえでの腰から胸あたりにまで届きそう。厚みもそれなりにあって、彼が渡すプレゼントが大きくて分厚いもの、ということが分かった。

 颯も、天のプレゼントの方が自分のよりもすごいと言っていたし、期待が高まる咲太である。

 

 

「天さん! 次は、天さんのプレゼントを開けてみたいです!」

 

 

 それは、かえでも同じだ。

 

 一旦、パンダの写真集を机の上に置く彼女は、興奮した様子で天のプレゼントを要求。

 「ください!」と言わんばかりに両手を差し出し、膨らむ期待に目をキラキラさせて、胸を躍らせている。

 

 もう、そこに緊張感はない。笑顔一色で彩られたかえでの様子は、自然体そのものだった。確実にプレゼント効果だろう。

 

 

「いいよ。はい、どーぞ」

 

「ありがとうございます!」

 

 

 断る理由もない。期待が最高潮にまで高まったかえでに天はプレゼントが入った袋を渡した。

 受け取ったかえでは、クリスマスにサンタから贈られたプレゼントを開ける子どものような勢いでリボンを解くと、中身を取り出す。

 

 そして、

 

 

「ーー! 今度もパンダです! 大きいパンダのぬいぐるみさんです!」

 

 

 喜びが、噴火した。

 

 袋の中から姿を現したのは、パンダのぬいぐるみ。それもかなり大きめの。流石に袋よりは小さいが、かえでが抱きしめるのにはちょうどいいサイズ。

 感極まったかえでが思わず抱きしめると、ぬいぐるみは彼女の体の中でふわっと形を変えた。もふもふのふわふわらしい。

 

 大のパンダ好きなかえでには、嬉しすぎるプレゼント。

 そのまましばらく感触を堪能する様子は幼子と言う他になく、天にとっては大満足なリアクションだった。

 

 

「かなりデカいけど、あんなのどこで買ったんだ?」

 

「昨日、二人で上野の動物園に行ってきた」

 

「マジか」

 

 

 喜ぶかえでを見ている最中、ふと浮上した疑問を口にし、即答された回答に咲太は素の声で驚く。

 一応、本当か確かめるために颯に疑いの目を向けるが、返ってきたのは「マジだぜ」という言葉。

 

 

「だって、パンダ関連の物が売ってるお店なんてそこ以外に思いつかなかったし。俺も颯もバイトが入ってなかったから、颯を叩き起こして朝一番で行ってきた」

 

「俺もびっくりした。まさか、動物園に連れて行かれるとは思わなかったぜ。実物のパンダが見れたから良かったけどよ」

 

 

 語る二人の目に嘘はない。どうやらマジらしい。

 

 昨日、自分がバイトに熱を注いでいる間、二人はかえでへのプレゼントを買うためだけに動物園に行ってきたと。

 パンダのプレゼントがしたいから動物園に買いに行こう——一体、どんな思考回路をしたらその答えに辿り着くのか本当に不思議だ。

 

 颯の発言的に、提案したのは間違えなく天だろう。全く、自分が考えもしないことを普通にやってくる男だと本当に思う。

 そのお陰でかえでが喜んでくれたから、感謝しかない。

 

 

「これは、俺らからのご褒美的な感じのやつ。かえでちゃんは今までずっと頑張ってきたから、これくらいのことはさせてほしいな」

 

 

 ちょっとした裏話を終わらせると、天は視線をかえでに向けながら言う。

 そして、上がり続けた感動と興奮が静まってきたタイミングを見計らって、自分の言葉を彼女に紡いだ。

 

 こちらを見るかえでと視線を絡め、

 

 

「本当によく頑張ったね、かえでちゃん。何回頑張ったねって言うのか、って思われるのかもだけど……。何度も、頑張ったね、って言いたくなるくらいにかえでちゃんは頑張ってるから」

 

 

 何回でも言いたい。

 

 そんな想いを声に乗せてかえでに届け、天はふっと唇を綻ばせる。

 自分が贈ったぬいぐるみを抱きしめる様を視界に入れていると、その笑みは深まった。

 

 

「だな。天の言う通りだ。かえでちゃんは俺らと目を合わせるのが怖かったのに、今じゃ、こうして話せるくらいになった。これを頑張ったと言わずしてなんと言う。ご褒美があって当然だ」

 

 

 その横で、颯もまた笑みを浮かべる。

 腕を組み、自分も妹がいる彼は自分でも知らないうちに、妹に見せる兄の表情が顔に出ていた。

 

 そんな二人を見ていると、かえでは自然と笑みが溢れてしまう。多分、そう言われて嬉しいのだと自己分析すると、途端に恥ずかしさが頬に浮き出た。

 

 自分の頑張りを褒めて褒めて、褒めまくってくれる少年二人。

 一人は、怖く見えるけど口調が柔らかくて、不思議と温かさを感じる人。

 一人は、怖く見えないけど口調が荒くて、不思議と兄と似通った雰囲気を感じる人。

 

 初めて出会った頃と全く同じ二人なのに、今だと感じ方が全く違う。怯えることも、怖がることも、不安になることもない。

 それは、自分がこの二人の温かさに触れたからだとかえでは思う。毎日のように挨拶をして、自分の緊張を和らげようとしてくれる姿勢に、優しさを感じたから。

 

 だから自分は今、心から笑っている。

 

 

「——ありがとうございます」

 

 

 だから、あのときと同じ言葉を、かえでは途絶えることのない笑みと一緒に二人へ届けた。

 

 自分が一番初めに、二人にかけた言葉。あのときは声が震えて、表情も怯えていて、情けないものだったけれど。

 今は、今は違うから。違うということを、同じ言葉を発することで証明した。

 

 

「天さん。颯さん。かえでは、このプレゼントをずっと大切にします!」

 

 

 そしてこの瞬間、かえでの中で二人に向けていた警戒心が完全に解かれる。

 

 兄の親友だから頑張って仲良くならないと。そう思っていた心は気がついたら消えて、純粋にもっと仲良くなりたいと思い始めた。

 プレゼント効果が大きいのかもしれない。けれど、彼らに抱く感情が決してそれだけによるものではないことを彼女は察している。

 

 日々の積み重ねが、彼女の心を開いたのだ。

 

 

「俺らの方こそ。ありがとうな」

 

「よく頑張ったね、かえでちゃん」

 

 

 だからこそ、二人もまた同じ言葉をかける。

 あのときのかえでを思い出しながら、一歩踏み出したかえでを褒め称えて、三人一緒に笑い合う。

 

 その瞬間のかえでの笑顔は、一生忘れられないだろうなと、咲太は思ったのだった。

 

 

 少し、泣きそうだった。

 

 

 

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