ブタ野郎に親友を作っただけのお話   作:ノラン

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日常に紛れる大スター

 

 

 ぶくぶく、と。水の中で泡が立つ音が、放課後の物理実験室には小さく響いていた。

 水面で泡が生じては弾けて、生じては弾けてを何度も繰り返している。

 音の源はビーカーの中。アルコールランプで熱せられたそれに汲まれた水が、湯気を立ち上らせながら沸騰していた。

 

 静かな物理実験室。

 グラウンドで部活動に精を出す男子生徒の声が薄く聞こえる以外、音を立てる事柄はなく。

 窓から流れるそれを除けば、静寂の世界と表現するに足る空間がそこにはある。

 

 そんな空間に、一組の男女がいた。

 静寂に溶け込むような風にひっそりとした者が二人。それぞれ別のことをしていた。

 

 一人は、たった今、沸騰して熱湯になったお湯をビーカーからマグカップに注いだ白衣女子—–双葉理央。

 アルコールランプの火を消すと、彼女は用意していたインスタントコーヒーの粉をカップに投入。割り箸で中を掻き回し、慣れた手つきで学校の器具を使用して簡素なコーヒーを作った。

 

 それからビーカーを元の場所に戻し、空いた両手でマグカップを包み込むように持つ。

 「ふーふー」と冷まし、ずずっと音を立てながら空気と一緒に飲み、熱い液体が喉から落ちる感覚に「ほぅ」と息を吐く。

 

 それから理央はもう一人の存在、峰ヶ原高校の制服に身を包んだ男子生徒、

 

 

「……完全に寝てる」

 

 

 空野天の寝顔を見て、ため息を溢した。

 

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 

「すみません、双葉」

 

「なに?」

 

「六時間目に出された物理の課題が終わらなくて、今日中に終わらせてぱっと提出したいんですけど……。ここでやってもいいですか?」

 

「教室は?」

 

「うるさいのがいるので集中できなくて」

 

 

 始まりは、そんなやりとりからだった。

 

 放課後、いつも通り物理実験室で部活動という名の暇つぶしをしていたところに訪問者が一人。

 双葉の静寂の世界に磨きをかける存在——スクールバッグを背負った天が、扉を叩く音と共に顔を出した。

 

 どこか眠そうな色が表情に浮かぶ彼は、どうやら六時間目に出された課題を終わらせてから家に帰りたいらしく。

 教室でやろうにも、他の人がうるさくて避難してきたらしい。

 

 

「他に行けるとこはないのか」

 

「あると思うけど。集中できそうな場所を考えたときに一番に思い浮かんだのがここだから。だから、お願いします!」

 

「………終わったら帰ってよ」

 

 

 どこぞのうるさい二人組と違って天は静かだから、仕方なく許した理央だった。

 両手を合わせて「頼む!」と仕草でも語ってくる天を物理実験室に招き、自分は始めようとしていた実験器具を片付け始める。

 

 暇つぶしついでに実験をしようと思っていたのだが、彼が来るなら話は別。基本、実験は一人のときにやるのが理央のスタンスなのである。

 代わりに、天に言われて課題の存在を思い出した彼女は、バッグの中から数学の教科書とノートを取り出す。

 その理央を見ながら天は、机を挟んで彼女の左手側に椅子を置いて腰掛け、バッグから筆記用具と課題のプリントを一枚取り出す。

 

 そうして天は物理の課題を、理央は数学の課題を開始。

 机を挟んで向かい合う二人は互いに集中しているため、どちらからも声をかけることはなく、黙々と走るシャーペンの音だけが静寂の物理実験室には反響していた。

 

 そんな無言の時間が、どれくらい続いただろう。数学の課題が終わったところで、集中を解いた理央は一息ついでに天に視線をやってみた。

 すると、

 

 

「………空野?」

 

 

 作業に勤しんでいたはずの天は、いつの間にか寝てしまっていたことに気付く。

 「すぅ、すぅ」と規則正しい寝息を立てながら、彼は机の上に置いた左腕に頭を乗せて寝顔を理央に見せていた。

 

 どうやら、作業をしているうちに寝てしまったらしい。自分が知らない間に睡魔に襲われ、無言の無音で屈している。

 それでも、課題は終わらせているようだ。気になった理央が机から身を乗り出して課題のプリントを確認すると、問題が全て解かれたプリントが見えた。

 

 多分、問題を全て解いて力尽きた形。

 課題を終わらせなければという気持ちが消え、彼の意識を保たせていたものがなくなったから、その意識は夢の世界に落ちたのだろうと理央は思う。

 

 元より、寝そうだなとは思っていた。何が理由でその状態なのかは知らないが、ここに来た時点でうとうとしていた気配はあった。

 それなら、これは仕方ないと思うべきか、どうなのか。物理実験室の静寂も相まって、抗うことができなかったと目を瞑るべきか。

 

 

「寝られても困るんだけど」

 

 

 なんにせよ、そんな安らかな表情で眠られても困る理央だ。

 起こそうにも起こせず、かといってこのままにしておくのはよくない。課題が終わったのならさっさと提出して帰ってほしいところ。

 

 けれど、そう思う心に反して理央は天を起こそうとはしなかった。

 課題に出した教科書などをバッグに入れると、眠る天を横目に彼女はビーカーとアルコールランプ、マグカップを机の上に置く。

 

 帰ってほしいことに間違いはないけれど、別にいたところで迷惑になるわけでもないし。あの二人のようにうるさくならないのなら、いてもらっても構わない。

 いつ起きるのかは知らないが、疲れてるのなら起きるまで寝させてやろう。

 

 

 ーー感謝してよ

 

 

 そんなことを思いながら理央はコーヒーの準備を開始した。

 そして、

 

 

「………完全に寝てる」

 

 

 冒頭のシーン(今に至る)というわけだ。

 

 コーヒーを淹れ、課題終了直後のほっと一息タイム。本来は一人のことが多い夕方のこの時間は、しかし今日は違う。

 今、自分の右斜め前で天が寝ている。うるさい二人と同様、少し前からここにやってくるようになった友人なのかどうなのか曖昧な男が、口を半開きにして寝ている。

 

 

「空野。ちょっと空野。おーい」

 

 

 乾いていた喉が潤い、カフェインの苦味が味覚を刺激するのを横目に、理央は天の寝顔を覗き込む。

 試しに声をかけてみるも、反応はない。ピクリとも反応しない。起こさないように声量を抑えているのも理由の一つとしてあるだろう。

 

 それでも、近い距離で名を呼ばれれば僅かな反応くらいは見せるはず。それでも見せなかったのは彼の意識が夢の奥底に沈んでいるからか。

 

 

「ここ、私の場所なんだけど。早く起きてくれない?」

 

 

 安眠、熟睡、爆睡。どの表現でもよさそうな寝顔を見ながら、理央は呟く。

 言葉に反して声色は柔らかく、デフォルトの真顔には楽しんでいるような表情が薄く浮かび上がっていた。

 

 なぜだろう。なぜか、少し楽しく思う自分の存在を理央は感じている。

 理由はよく分からないが、彼が目を覚さないように声をかけるこの状況が、不思議と楽しい。

 

 

「……ほんと、よく眠ってるよね」

 

 

 言葉にし難い感情をコーヒーと一緒に飲み込み、息を吐いた理央は声を抑えて天に話しかける。

 持ったマグカップを机に置く——その音すらも立たせないようにしながら。

 

 お陰で目を覚さない天は、言葉通り本当によく眠っている。同級生に寝顔をばっちり見られているにも関わらず小さな寝息を立て、無防備な姿を晒している。

 気持ちよさそうなことで実に結構。普段から静かな彼が更に静かになって、意識していなければ存在を忘れてしまいそうだ。

 

 

「いや、それは流石にない」

 

 

 自分の考えに自分でツッコみ、理央は机に置いたスマホを手に取る。彼の寝顔を眺めてるのは飽きたから、別のことに意識を向けることにした。

 手慣れた手つきで数字を打ち込んでロック解除、様々なアプリが表示されたホーム画面が瞳に映し出され、

 

 

「——ふっ」

 

 

 と、不意に理央の口元が小さく持ち上がる。真顔に僅かな乱れが生じ、不敵に笑む。

 誰もが利用する青い鳥のSNSアプリを開こうとしたところで、カメラアイコンのアプリが目に留まったのだ。

 

 

「ただ寝かせるのもつまらないな」

 

 

 考えるよりも先に、親指は動いていた。感じたこともない不思議な楽しさに突き動かされるがまま、理央はアプリを起動する。

 スマホの画面に現実世界の光景が映し出されるとカメラを天に向け、スマホに映る世界の中心に天の姿を入れた。

 

 スマホを横に倒し、画角を調整。

 画面をタッチし、ピンボケを修正。

 誰にも見られていないか、周囲を確認。

 

 そして、

 

 

「一枚、場所代としてもらうから」

 

 

 パシャリ。

 

 物理実験室にシャッターの音がして、再度、理央の口元が「ふっ」と笑みを描く。

 いずれ笑い話にされるであろう瞬間の記憶が、理央の記憶に強く刻み込まれた。

 

 音に反応しない天の様子を気にしながら、堂々と盗撮した彼女は撮った写真を確認。

 見たままの一枚が保存されると、不思議な背徳感を心に得て変に心臓がざわめく。

 

 

 ーー空野の弱み、握ったよ

 

 

 その言葉だけは口の中で呟き、理央は何事もなかったかのようにSNSアプリを開く。

 人生で初の体験を終えた彼女はコーヒーを喉に流し、迫り上がる感情を再び飲み込んだ。

 

 この場所に居させてやってるのは自分の方。だからこれはその対価。当然のギブアンドテイク。

 自分は場所を提供しているのだから、料金を貰うのは当たり前の話。今回は、それが寝顔だったというだけ。

 

 自分の中でそんな風に言い訳をしつつ、時折、理央は天の寝顔をチラチラ見ながらスマホに意識を向け始める。

 その意識を削ぐ連中が入ってきたのは、そんな時だった。

 

 

「双葉ぁ、入るぞー」

 

「邪魔するぜー」

 

 

 予兆もなく、物理実験室の扉が開かれる。

 

 自分の目の前で寝てる天とは違い、中の人間に対する配慮の欠片も感じられない開け方。

 考える必要もない。扉を開けたのは咲太と颯の二人だ。視線を向けると二人の顔が見えて、これからうるさくなるのだと嫌でも分かる。

 

 なら理央の言うことは決まっている。机に両肘をついてスマホを弄りながら、理央は細めた双眸で二人を見て、

 

 

「静かにしろ」

 

 

 真っ先に浮かんだ言葉が、それだった。

 

 「邪魔するなら帰れ」と。いつものように淡々と言おうとした口は、天の眠りを阻害する騒音を防ぐ言葉を放っていた。

 理由は分からない。けど、なによりも先に浮かんだのが、用意されていた言葉を押し除けたのが、その言葉だった。

 

 二人もそれに気づいたのだろう。あるいは、視界に映る天の寝顔を見て気づいたのだろう。

 理央と同じく、用意された言葉を言う口が寸前で止まり、目先にいる親友の姿に「お?」と小首を傾げる。

 

 それから天をまじまじと見つめて、

 

 

「寝てんのか?」

 

「そう」

 

「珍しいな」

 

 

 近寄り、咲太が物珍しそうな表情で天の寝顔を至近距離で見つめる。規則正しく聞こえる寝息を聞くと、「本当に寝てるな」と控えめな声量で言った。

 同じく颯も咲太の隣で天の寝顔を見つめており、彼が溢した呟きに「寝てるな」と頷く。

 

 流石の二人も親友が寝てるとなればうるさくできないらしい。一発目から響くはずの耳障りな声は立っていない。

 それくらいの配慮は利かせられるんだなと理央は変に感心しながら、

 

 

「さっきまで空野がそこで課題やっててさ。空野がやってるの見て私もやってたんだけど……。一息ついて、ふと見たら、いつの間にか寝てたよ」

 

「そうなのか。まぁ、最近コイツ、期末試験の勉強で忙しい、って嘆いてたもんな。夜は基本的に勉強してるから疲れでも出たんだろ」

 

「確かに。そうかもしれねぇな」

 

 

 理央の知らない事実を語りながら、咲太は自分と颯の椅子を適当に拝借。

 天が少し横にズレた位置に座っていたことで空いていた理央の正面に陣取り、机を挟んで二人して彼女の正面に腰掛ける。

 

 自然な風に腰掛けられた理央。彼女は、さも、それが当然であるかのような雰囲気の二人を軽く睨むと、

 

 

「それで? 二人はなんで来た」

 

「暇つぶしをするために」

「時間まですることがねぇから」

 

「帰れ」

 

 

 初めに言うはずだった言葉を言った。

 用意されていたそれを放ち、隠す気もない不快感を剥き出しにした表情を顔面に露出させる。

 

 反対に、目の前の二人は楽しそうな表情。咲太は「まぁ、そう言うなよ」と呑気な声で言い、颯は「俺たちとお前の仲だろ?」と面白そうな声で言っている。

 両者ともに、こちらの言葉を相手にしていない感しかしない。

 すぐ横で寝ている天は、自分がそう言えば「ん。分かった。またくるね」と言って立ち去るというのに。二人はこれだ。

 

 だから理央は、天にだけは「帰れ」と直球で言えないなと思っていたり。

 

 

「俺ら今さっきまで数学の補修受けててよ。それがやっと終わって帰ろうと思ったんだが、二人とも今日はバイトだから」

 

「それなら尚更、帰った方がいいんじゃないの。遅れたら大変でしょ」

 

「そうしたいんだが、そうできない理由があんだよ」

 

 

 よく分からないといった具合で理央は「ん?」と小首を傾げる。

 バイトがあるのなら早く行った方がいいだろう。なら早く帰れ——目でそれをアピールすると、颯の言葉を継ぐ咲太が「あのな」と、

 

 

「今から家に帰っても、時間的に帰ってすぐに家を出ることになるからさ。休憩しようにもできないんだよ。でも、今からバイト先に行っても少し早く着くから、行くわけにもいかない」

 

「早く着いたらダメな理由でもあるの」

 

「いや、無い」

 

「じゃあ、向こうで休憩してればいいだろ。休憩室くらいはあるだろうし。わざわざここに来る必要あるのか」

 

「僕らにとってここは憩いの場だから。どうせならここで時間を合わせて、のんびりしてから行きたいんだよ」

 

「邪魔だからさっさと行け」

 

 

 自分の空間がこの二人によって破壊されていく音を聞いた気がして、理央は冷たい視線と声色で二人の笑顔に攻撃を仕掛ける。

 しかし効果はない。効果がないどころか、その反応を受けてより一層のこと、楽しそうな表情が深まっていくばかり。

 

 つまり二人は、時間通りバイト場に到着するために学校を出る時間を合わせようと言いたいらしい。

 補修のせいで学校を出る時間が遅くなったから家に帰る時間はなく。けれど、今から学校を出たらバイト先で暇な時間ができるから、その暇な時間が作られないようにここで暇を潰すと。

 

 全く、本当にめんどくさい。もっと他に行くところはないのか。否、あったとしても二人は座った椅子から動かないだろう。

 勝手に来て、勝手に騒がしくして、勝手に帰ってく。それがこの二人であると理央は理解している。

 

 だから「少しくらいいいじゃねぇか」と机に頬杖をつく颯と、「そうだそうだ」と突っ伏す咲太に、理央は分かりやすくため息を一つ。

 今日は天が隣で寝ているから声量も小さいし、この感じならうるさくなることはない——そう判断して、

 

 

「……もういいよ。勝手にすれば」

 

「やりぃ」

 

「流石双葉。僕らの友人」

 

 

 勝手に友人認定されたことには触れず、理央はマグカップを持つ。

 ずずっと音を立ててコーヒーを飲んでいると、寝落ちた天が取り組んでいた課題を咲太が勝手に見ているのが見えた。

 

 完成させた天が寝てしまい、そのまま机に放置されていた課題。

 見た感じ大体の問題が正解だと理央が判断したそれを見ると、途端に咲太の目が光った。

 

 

「これ、僕らにも出された課題だよな? 颯」

 

「あ? ちょっと見せてみろ」

 

 

 プリントが咲太の手から颯の手に回される。机に広げられたそれを一瞥すると、颯は「同じだな」と言って頷いた。

 授業の時間は違っても担当の先生は同じなのだから、同じ課題が出されるのは当然の話だ。授業ペースに差はあるためタイミングの誤差はあれど。

 

 故に、全く取り組んでいない彼らは二人してニヤリと笑う。完全に、悪巧みをしている顔だ。

 それを見た理央は、二人が何をしようとしているのか瞬時に理解した。

 

 

「写すか」

 

「だな」

 

 

 思った通りだった。

 

 椅子の足元に置いたバッグの口を開けると、二人は中から筆記用具と物理のプリントを取り出す。

 写すことに迷いがないのか、本人が知らないところで勝手に共有した課題を写し始めた。

 

 その課題。理央としては三十分もかからない簡単なものなのだが、この二人は違ったらしい。

 

 

「へぇ。この問題ってそうやるんだ」

 

「勉強してるだけはあるな」

 

「途中式に公式まで書いてるぜ。完璧かよ」

 

 

 などと言いながら、感心した様子で模範解答を写している。それも、全てを写すのではなく必要なところのみを写している。

 他の生徒のを写したとバレないためだろう。公式を使って解く以上、正解の回答を導くのならほとんどの生徒が同じ字面になるのだが。

 

 

「二人揃って狡猾だね。少しは自力で解く努力をしたら? 期末試験も近いんだし。課題の内容から出る可能性は高いと思うよ」

 

 

 それでもバレないようにしようとする二人を鼻で笑い、理央は頬杖をつく。気になってスマホを見るフリをして天を見るも、彼が起きる様子はない。

 三人の声が彼を配慮した大きさになっているせいで、依然としてスヤスヤ寝ている。

 

 もしかしたら今この瞬間にも起きるかもしれない。そう思う颯は理央に顔は向けず、手を動かしながら、

 

 

「どうせ教えてもらうつもりだったんだ。これなら手間が省けてちょうどいいだろ?」

 

「天だって自分の勉強で忙しそうだしな。僕らに()く時間がなくなって、僕らも課題が終わる。万々歳だ」

 

 

 それで良いのかは知らないが、二人が良いと言うのなら理央は言葉を挟まないことにする。

 天の性格上、仮に見られていたことがバレたとしても「そっか」程度で済ませるだろうし。理央自身、注意する気にならない。

 

 それに、二人が写す作業に集中してくれるのなら静かになって都合がいい。

 一つのことに意識を向けてくれるお陰で、今日は珍しく二人がいるのに静かだ。天が寝ていることもあるのだろう。

 

 理央の心は、いつもより平穏である。

 

 

 ーーほんと、よく寝てる

 

 

 作業に集中し始めた二人を視界に入れつつ、理央は天の寝顔に視線を移し、心の中でボソッと呟く。

 自分らがこうして話していても起きないどころか反応すら示さない天を、少し観察してみた。

 

 見れば見るほど安らかな表情。ここまで起きないとなると、放っておいたら明日の朝まで寝るのではないだろうか。

 それは困る。学校が閉じる時間には理央も物理実験室の鍵を閉めて、学校から出なければならないのだ。

 そうなったら流石に起こそう。もちろん、寝顔を盗撮したのは内緒のまま。

 

 

「そういや、今日、友達(ダチ)から聞いたんだけどよ」

 

 

 数分前の盗撮の記憶を思い出すと、写真のフォルダを見たくなるからスマホを置いた理央。

 その記憶にそっと蓋をして施錠する彼女の耳に颯が話題を落とす声が流れ込むと、彼女は無言で視線を向けた。

 咲太も手は動かしているが耳は聞いている。「なんだ?」と返すと颯は「すげぇぞ」と前置き、

 

 

「なんと、この峰ヶ原高校に、あの桜島麻衣が通ってるらしいぜ」

 

「桜島麻衣、って……あの桜島麻衣か?」

 

「おうよ。あの桜島麻衣だよ。国民的大スターの」

 

 

 言われて、咲太の手が止まる。普段通りのくだらない会話が始まるのだと身構えておらず、まさかの発言に思わず颯のことを見て、

 

 

「マジか?」

 

「マジだ。今日、昼休みに佑真と二人で二年の教室に行って見てきた」

 

「僕も誘えよ」

 

「お前、三組で天と飯食ってただろうが」

 

「僕と天は仲間外れか?」

 

(ちげ)ぇって。んなことしねぇよ。本当にいるか確かめに行っただけだ」

 

 

 咲太の疑心が晴れたところで別の問題が発生しそうな予感が一瞬だけ二人の間に漂ったが、その一言で四散。

 確認が済んだところで両者は写し作業に戻り、その体勢のまま話を続ける。

 

 

「いやぁ、マジでいた。あれは本物の桜島麻衣だった。少し前からテレビ番組じゃ見なくなったが、やっぱいつ見ても可愛いな。可愛い、っつーか美人、っつーか。エロかった」

 

「話しかけたのか?」

 

「まさか。流石の俺も見るだけに終わらせた。なんか、話しかけちゃいけない空気があってよ、話しかけようにも話しかけられん。芸能人オーラがハンパねぇ」

 

 

 話し始めた途端から饒舌になる颯は、とても興奮した様子だ。目に焼きついた桜島麻衣の姿が忘れられないと、熱の宿った声で語っている。

 聞いている咲太も明らかに興味を示している。眠たそうな目が見開き、表情に活気が色づいた。

 

 その辺の感覚、理央にはよく分からない。

 だから、男にしか理解できない感覚なんだな程度に受け流し、エロいとかの話で盛り上がる二人には侮蔑の眼差しを送っておく。

 

 

「私も、桜島麻衣が峰ヶ原高校に通ってるのは知ってるよ。ネットの掲示板でそう書かれているのを見たことがある。いや、それ以前に実際に登校してるのを見たこともあるね」

 

「芸能人って、実在したんだなぁ」

 

「テレビの中だけの存在ではなかったな」

 

 

 話に入ってきた理央の言葉に咲太が驚いた声色で言葉を返し、隣の颯は咲太の感想を面白く思って笑いを音にした。天は爆睡中。みじろぎひとつしない。

 

 ——桜島麻衣。

 

 その名を知らない者は、おそらく日本にはいない。それ程までに桜島麻衣は国民的大スターなのだ。

 幼少期に子役として芸能界入りを果たし、デビュー作の朝ドラで大ブレイク。以降、子役から抜けても役者としての実力を買われてドラマや映画、CMにも多数出演。

 その美貌も相まって世の中の男たちを虜にし。大ブレイクの余韻が抜けても芸能界の最前線で活躍し続けた、日本を代表する芸能人。

 

 

「そんな人が、この高校に通ってるなんてね。正直、実際に見るまでは半信半疑だったけど」

 

「誰だってそうなる。俺もそうだった」

 

 

 だから、目にした時は本当に驚いた。

 

 颯と理央が同じ感想を思い出す中、咲太は写し間違えた部分を消しゴムで消しながら、

 

 

「確か、その人って活動休止してなかったか?」

 

「してるね。多分……一年くらい前から」

 

「なんでだろうな。俺だったら注目されまくって楽しいし、そんなことしねぇのに」

 

「芸能人なんだから、色々とあるんでしょ。神崎には到底理解できない色々が」

 

「芸能人にしか分からない苦悩がある、ってことか」

 

 

 「うん」と、頷く理央が冷めてきたコーヒーを喉に流す。

 その彼女に「到底理解できねぇ、ってなんだよ」と颯が突っかかるのを聞きながら、咲太は確かにそうだと彼女の意見に納得していた。

 

 芸能人なのだから、色々とあるのだろう。色々というのは——色々だ。考えたところで意味はない。考えたもの全てが当てはまる。

 気になるなら実際に聞きに行こうかと少しだけ思うも、そこまで非常識な人間ではないから却下。

 

 

「どうせなら話しかけてみてぇ……。せっかく大スターがそこにいるのに、話しかけちゃいけねぇ空気があんだよなぁ。クラスにいた二年の先輩も無視してたし、なんだよあれ。なんなんだよ」

 

「その場の空気って怖いよな」

 

「梓川が言うと説得力が違うね」

 

 

 空気によって学校社会で強制的に孤立させられた咲太の言葉に、理央が半笑いを浮かべる。

 それには取り合わない咲太が着々と作業を終わりに進める横で、颯は「くぅー!」と悔しそうな声を溢しながらシャーペンを握りしめ、

 

 

「俺は空気なんぞには負けんぞ。次こそは話しかけてやる」

 

「話しかけて、そのあとは?」

 

「考えてねぇ」

 

「ないのかよ。ま、空気と戦っても無駄だから諦めた方がいいと僕は思うけどな」

 

 

 有名人に会ったら取り敢えず近寄る野次馬の精神で、桜島麻衣に近づこうとする颯。

 理由はどうであれ、完成された空気と戦う心意気をよく思わない咲太。

 そろそろ写し作業も終わる二人を見ながら、理央はふと思ったように天を見て、

 

 

「空野って、そういうのに興味あるのかな」

 

 

 瞬間、順調に動いていた二人の手がピタリと止まる。その言葉に引っかかったのか、同時に止まった二人は顔を上げ、理央と同じく天を見た。

 

 全く目を覚さない、空野天。

 周囲の女子から普通にモテそうな容姿をしているくせに、雰囲気と性格的な問題で宝の持ち腐れとなっている、自分らの友人。

 牧之原翔子という一人の女性に強い好意を抱く彼は、桜島麻衣に興味を示すのか。

 

 考えて、考えた、三人の答えは、

 

 

「ないな」

 

「ねぇな」

 

「ないと思う」

 

 

 完全に一致。

 

 「好きな女優は?」と聞かれて、女優の名前が一人も思い浮かばず。

 中学時代、颯と乗った電車の中で桜島麻衣のポスターを見かけた際に「誰それ?」と言った彼は、きっとその人を見ても何も思わないだろう。

 

 天とは、そういう男だ。

 

 

 

 

▲▽▲▽▲▽▲

 

 

 

 

「ふぁ……」

 

 

 夜の暗がりに覆われつつある空を見上げながら、天は大きなあくびを一つ。スクールバッグを雑に背負いながら、目尻に浮かぶ涙を白シャツの袖で拭った。

 自分以外、峰ヶ原高校の制服を着た生徒が一人もいない貸し切り状態の道のど真ん中を、のろのろ歩く。

 

 時刻は既に午後六時を半分過ぎ、夏の到来につれて伸びつつある日も落ちていた。

 寝落ちる前の空は青かったのに、理央に起こされて見た空は真っ黒。いつの間にか周囲も夜の闇に満ちつつあって、夕刻の終わりを知らせている。

 

 

「結構、寝ちゃったなぁ」

 

 

 踏み切りを一本渡り、駅まで徒歩五分程度の道のりを歩きながら、天は自分の失態を思い出していた。

 人通りが少なくなった通学路を歩きつつ、やらかしてしまったと振り返る。

 

 もちろん、課題をすると言って居させてもらった物理実験室で寝てしまったことだ。

 眠い気配は感じていたが大丈夫だろうと思っていた矢先、見事に寝落ちたことだ。

 

 課題を始めた瞬間はなんでもなかった。眠いけれど耐えられない眠気ではなく、問題はないと思っていた——思っていた、だけだった。

 異変を感じたのは課題の半分が終わった頃。それまでは安定していた意識の揺らぎが始まり、その時から徐々に朦朧とし、課題が終わる頃の記憶はない。

 

 双葉には悪いことをしてしまったと心底思う。一人の時間を邪魔した挙句、彼女が帰る時間までずっと居座ったのだから。

 「起きろ、空野」と言って体をゆすってきた数秒後、半覚醒した意識で状況を理解した瞬間は今年で二番目に焦った。

 ちなみに一番は、咲太が峰ヶ原高校の一次募集に落ちたとき。

 

 ともかく、

 

 

「双葉には今度、茶菓子でも持って行こう」

 

 

 今回のお詫びとして、少しだけ良いものを買おうと天は思う。

 なぜか、彼女は謝った自分に「別に。疲れてたんでしょ」と言って許してくれたが、なにかしないと天自身の気が済まない。

 彼女の優しさに対するお礼を、払わなければ。

 

 

「アイツらから聞く分には、双葉は辛辣な言葉をかけてくるらしいけど……俺からすればそんな感じには感じられないよなぁ」

 

 

 普段の様子からは、そんな印象は受けない天だ。二人がいつもかけられている「出ていけ」といった類の言葉を聞いたのは初めて出会った時だけで、それ以後は耳にしていない。

 颯と咲太に対しては辛辣なようだが、どうやら自分に対しては優しいらしい。否、あの二人がずけずけと入り込んでいるだけだろう。

 あんな風に距離を詰められたら、誰だってそんな態度にもなる。

 

 悪いのはあの二人と、そんな二人を突き放さない双葉の三人だ。

 

 そう考えながら天は一人、夜の帰り道を歩く。翔子と出会った海を横にしながら歩くと毎回のように彼女との思い出が脳裏に過ぎり、会いたいなあと思いながら。

 

 翔子と過ごした夏を思い返しているうちに、七里ヶ浜駅に着いた天。

 定期のICを読み取るカカシのような機械が一本立っただけの改札を抜け、近くに立つ駅員の横を通ると彼は駅のホームの中へ。

 

 駅には、割とたくさんの人がいた。けれど、峰ヶ原高校の制服を着ている人は片手で数えられる人数。

 この時間となるとスーツ姿の社会人が多い。多分、日中の激務を終えて帰宅する人たち。ごった返しているわけではないにしろ、数えるのは面倒だ。

 それ以外には、私服姿に身を包んだ大学生らしき人たち。スマホを弄ったり友人と話して時間を潰している。

 

 まだ翔子との思い出に浸る天は、その人たちの前を通り抜け、他と比較して人が並んでいない列へ。

 人が少ないと疲れない。ただそれだけの理由で、ホームの中では数少ない峰ヶ原高校の制服を着る生徒の隣に並び、電車を待った。

 

 

「ちょっと、君」

 

 

 直後、天の耳に声が飛び込んでくる。

 

 凛として、はっきりとした声。鮮明で、一音一音が鼓膜に強く刻み込まれるような声。

 一度でも聞けば忘れられないとまではいかないが、それでも耳に残る透き通った声だった。

 

 なにかしてしまっただろうか。翔子との思い出に浸るのを中断すると天は声の方向、右隣に視線を向けて、

 

 

「なんですか?」

 

 

 言いながら、とても美人な人だなと思った。

 

 長い手足に、腰まで伸びた黒髪が印象に残る、顔のパーツが異常に整った小顔な女性。こちらを見つめる顔つきは大人びており、制服姿でなければ大人の女性と見間違えそうになる。

 身長は百六十センチ半ば。全体的に線が細く、すらっとしたモデルのような体型。外から見ただけでも簡単に分かるスタイルの良さが、制服の下から浮き出ていた。

 

 普通に美人さん。それも、かなりの美人さん。

 可愛いというよりも、美人の方が似合っている。容姿端麗という言葉はこの人のためにある——そう言われても納得できるほどに。

 

 その姿に、牧之原翔子の姿を重ねた天。黒髪ロングの女性を見ると彼女を思い出してしまう彼は、喉元にどっと押し寄せた緊張感を唾と一緒に飲む。

 そんな彼を、その女性は感情を読み取らせてくれない表情と目で見て、

 

 

「君は、なんで私が並ぶ列に並んだの? 見て分かると思うけど、君以外、誰も並んでないのよ?」

 

「……は?」

 

 

 言われて、考えるよりも先に天は周囲を見渡す。

 そして、過去の回想に意識を向け過ぎて周囲にそこまで意識を向けていなかった彼は、その通りだと理解した。

 

 確かに、並んでいない。

 他の列には人がいるが、自分とこの女子生徒の並ぶ列だけが異様に少ない。というよりも、自分たち以外に並んでいない。

 おかしい。周囲から向けられる嫌な視線も含めて、天は自分のいる場所には他とは違う空気が漂っていることを感覚的に察した。

 

 察せたのは、似たような視線と空気を数多く経験したから。故に、周りからそのような目で見られるのは慣れっこ。

 気にしたところで無駄だと思う彼は感じたそれらを意識から遮断すると、口をこじ開けたあくびを噛み殺し、

 

 

「特に理由はありません。人が少ないところに並ぼうとしたらこの場所があったので、適当に並びました」

 

「それ、私が誰か分かってて言ってる?」

 

「誰なんですか?」

 

 

 小首を傾げて反射的に返した言葉に、女子生徒の表情に乱れが生じる。なに言ってんだコイツ。そう言いたげに目がぱっと見開かれ、息の詰まる音が僅かに聞こえた。

 けれどそれも一瞬のこと。恐ろしく早い速度で生じたそれを修正すると、今度は天のことを視線で一直線に貫く。

 心の中を覗き込むそれは、こちらの真意を探っているようにも天には見えて。とても美人な女性に至近距離で見られるものだから変に緊張した。

 

 しかし、そこは去年の夏に培った経験が力となってくれた。牧之原翔子に色々とされた最後、強く抱き合った彼にそれは通用しない。

 息が詰まる思いを除けば平常心を保っていると、その女子生徒は予兆もなく「へぇ」と吐息するように声を溢し、

 

 

「驚いた。——私のこと、本当に知らないんだ。君くらいの年齢の子は、みんな知ってると思ってた」

 

「だから、誰なんですか?」

 

「知らないならそれでいい」

 

 

 天の疑問を相手にはせず、女子生徒は視線を前に戻す。

 自分から話しかけたのだから、終わらせるのも自分。そんな風に彼の声を断ち、「誰なんですかー」と聞いてくる存在を意識から切り離した。

 

 なんだコイツと思わなくもない天。話しかけておいてその態度——まるで女王のような態度を見ると、不満よりも前に唖然の二文字が心に宿る。

 が、言ったところで無駄だと凛とした横顔に言われた気がして、彼は口の中で暴れる不満を無理やり飲み込んだ。

 

 それ以降、二人の間に言葉はない。

 女子生徒は、両耳にイヤホンを入れて音楽の世界に入り。

 天は、女子生徒に対する思いをさっと片付けて電車が来るまで小説の世界に没頭。

 両者ともに自分の世界に入ったことで小さく広げられた会話は終わり、続くことはない。

 

 ただ、この瞬間、

 

 

 ーー変な人

 

 

 隣にいる存在に対し、お互いにそう思ったのは確かなことだった。

 

 

 






次回、やっと原作に入ります。

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