時間は、正午を半分過ぎた頃。聞き慣れた喧騒が響く教室で、椅子を持ち寄り、一つの机を仲良く囲む男たちが三人。
窓際で、昼食をとっていた。
「咲太って、兄弟とかいるの?」
眠そうにあくびをした天が、椅子の上で器用にあぐらをかきながら、左斜め前に座る咲太に話を振る。
相変わらずの眠そうな目で、怠そうな雰囲気を周囲に漂わせる彼が、視線をやった。
その正面には、「それ、俺も気になる」と昼食のサンドイッチを頬張る颯がいる。
話し始めた天と違って彼は元気そうだ。母親が作った弁当を美味しそうに頬張る様は、見ていて心地がいい。
そんな、態度が対照的な親友二人組からの視線を受けた、天と同じく眠そうな目をした咲太は、口に含んだコーヒー牛乳を喉に通すと「僕か?」と、
「僕には妹がいるぞ。今年で中学生になった」
「へぇ。じゃあ、二年後には俺らと同じく受験生かぁ。大変だなぁ」
「その大変だなぁ。に、今まさに俺たちがなってんだが?」
「別に、気にすることでもないだろ。今すぐにテストがあるわけでもないんだし。思い詰めるだけ無駄だと僕は思う」
「それでいいのかよ、中学三年生」
のほほーんとした態度の天と咲太に苦笑。
中学三年生に上がったことで『受験』という単語を多く耳にするようになり、ゆるやかな焦りを感じ始めた颯が「面倒くせぇよな」と机に頬杖をついた。
対するのほほーん二人。この中の誰よりも早く昼食を食べ終わった天と、今しがた食べ終わった咲太の二人は、「そうだよなぁ」と適当な返しを一つ。
それから、三人で目を合わせると、なんだか面白おかしくて少しだけ頬が緩む。
——あの日の出会いからかれこれ一ヶ月が経ち、カレンダーの月が4から5に変わった。
神崎颯、梓川咲太、空野天。
誰とでも仲良くできて、誰からも好印象を抱かれることが多い神崎颯を中心として築かれ始めた三人の関係は、一ヶ月という時間が経過して順調に深まっていた。
まだ新クラスが始まってから一ヶ月しか経っていないけれど、その三人組が一つのグループとしてクラスの中で自然に定着しつつある。
元から仲が良い颯と天の間に梓川咲太という自分が入れるか——初期は、そんな懸念も咲太の中には少なからずあった。
自分が、今いる友人以外の人たちと仲良くやれるか。思春期の定番とも言える小さな悩みが、咲太の心には不安としてあった。
けれど、
「二人はどうなんだ?」
「俺には幼稚園に通ってる妹と弟。んで、高校二年の兄貴がいる」
「俺は姉ちゃんが。……そっかぁ。じゃあ、颯と咲太は二人揃って妹がいるんだ。ふぅーん」
今、こうして普通に溶け込んでいる。
それはきっと、自分の右斜め前で「そーなんだ」と眠そうにしている空野天の存在が大きい。
一人でいることを好み、自分と同じく友人が少ないという前提がある彼がいるから、溶け込めたのだと思う。
もちろん、積極的に話しかけてくれる神崎颯のお陰じゃないわけではない。
表裏のないただの良いヤツである彼がいるのも、自分の中では大きい。それに、三人の関係のきっかけを作ったのは他でもない彼だ。
天との関係を築く際にも、颯からだったことを加味すると、彼がいなければこの三人組が作られることはなかったと言っても過言ではない。
「妹とか弟がいる生活、ってどうよ。颯はともかく咲太は大変じゃない?」
「なんで?」
「ほら、中学生っつーと、徐々に反抗期に入るための準備が心の中で進められるものじゃん」
「つまり?」
「は? キモ! お兄ちゃんしね! とか、言われてそう………とか思ったけど、
「どういう意味だ」
それでも、やっぱり、どちらかと言えば天だと咲太は思う。
少し前の自分と同じく、クラスで孤立していたという事実もあるのだろう。理由は分からないが親近感が湧く。
そのせいで、話すのが苦じゃない。コイツに対しては自分のペースで話そうと思える。
それに、あのゆるっとした性格が自分的には嫌いじゃない。目つきが悪くて、多少、雰囲気は尖っているけれど。
何度も言うが、颯が嫌いと言っているわけではない。
少しばかりアツ苦しいとは思わなくもないが、彼に向ける感情と天に向ける感情に大きな差はない。
「颯の方はどうなんだよ。幼稚園に通ってるとなると、四、五歳だから活発なイメージが思い浮かぶけど」
「そんな感じだな。お兄ちゃんお兄ちゃん! って帰ってきたら凄まじい勢いで突撃してくる。もう何度、アイツらのタックルを受け止めたことか」
「僕の妹が、颯の妹みたいにならなくて良かったと心底思った」
「へなちょこだからか?」
「ストレートに言ってくれるな」
「そもそも、園児の妹と中学生の妹を比較するのはアリなの……?」
つまるところ、梓川咲太はこの二人のことが気に入ったのだ。
出会ってから一ヶ月そこらでそう思わせてくれるのだから、その好印象の上がりっぷりは目覚ましい。
この二人の性格がいい塩梅でバランスを保って、その空間にいるのが心地よい。今のように話していると、時間があっという間に過ぎていく。
「弟と妹、ねぇ……。俺は姉しかいないから、その感覚は分かんないなぁ。羨ましい」
「僕は、姉がいる天の方が羨ましい」
「やめとけ。弟ってのはね、基本的に姉がいたら虐げられる運命なんだよ。イラついたときのストレス発散の道具にされるだけなんだよ」
「お前、家でどんな扱い受けてんの?」
「普段は優しいんだけどさ。たまに、豹変する」
こうしてくだらない話を広げるのは、これで何度目だろうか。分からない。分からないけど、数えるのも面倒くらいだというのは分かる。
これですごいのが、話題が尽きないところ。毎日のように話しているのに、話題が温泉のように湧いてくる。
朝のホームルームまでの時間。授業と授業の間にある小休憩の時間。昼休み。放課後。
放課後は、天が部活でいないから颯と二人だが、それでも普通に話せることに驚きだ。
全く、会話が途切れない。一つの話題から枝分かれするように、あるいは話題が飛ぶように、次々と展開されていく。
そのせいで、会話が迷子になることもしばしば。
「弟とか妹がいる人は、お兄ちゃんとかお姉ちゃんに憧れて。お兄ちゃんとかお姉ちゃんがいる人は、弟とか妹に憧れる。これ、割とあると思うんだよね」
「じゃあここにいる、弟も妹も兄もいる、この世の全てを手に入れた颯はどうなるんだ?」
「くたばれ」
「なんでだよ。いいじゃねぇか別に」
「羨まし」と。
呟く天の雑な返しに咲太の乾いた微笑が重なり、二人の反応を受け取った颯が「俺は一人っ子を望んだこともあるぜ」と言葉を付け足す。
こうした空間——なんでもないほのぼの空間が、咲太にとってはひどく居心地がいい。
以前からいる友人たちには申し訳ないけど、新しくできた友人たちの方が一緒にいて楽しいと思ってしまう。
そんな空間にいれば、自然と素の自分が顔を出してくるもの。
コーヒー牛乳を片手に、咲太は「言っておくが」と前置きして、
「僕は妹よりもお姉さん派だ。年上好きと言ってもいい。——Sっ気のあるお姉さんなら大歓迎だ」
「ぶっ!」
「わー!? 汚ねぇ!!」
キリッとした顔と声でナチュラルに性癖を暴露した咲太。
あまりにも言ってる内容と顔がちぐはぐすぎて、思わず水を飲んでいる颯が吹き出した。
その被害者は正面、手を伸ばせば届く距離にいる天である。
しかし流石と言うべきか。バレーボールで鍛えられた反射神経が効果を発揮し、神がかり的な反射で紙一重で回避。
弾け飛ぶようにその場から飛び退いた。
「てめぇ、颯、このやろう」と、ポケットから出したティッシュで濡れた机を拭く間一髪だった天。
隠れていた女子力が静かに顔を出す中、原因の颯はごくりと水を飲み込み、
「誰も聞いてねぇよ。真面目な顔して言うな。危うく飲んだ水、吹きかけたぞ」
「いや、吹いた。吹きました。俺にかかりかけました。もしかかったら咲太で拭くから」
「全力で逃げるぞ」
ちょっとだけ吹いた口に手を添え、口周りについた水分を服の裾で拭う颯。
椅子を引いて、颯の射程圏内から逃げようとする天。
明らかに嫌そうな顔をして、天から体を遠ざける咲太。
開けた水筒に蓋をする颯。それを見ながら「ちなみに」と軽く手を上げ、使ったティッシュを丸めてポケットに突っ込む天が二人の視線を集めると、
「俺は妹派。お兄ちゃぁん、って呼ばれて甘えられたいです」
「僕の家に近づかないでくれ」
「俺の家にも近づくな」
「ちょっとボケただけなんだけど」
引っかかった咲太が「ちょっと?」と、半笑い。若干、ドン引きの色が宿る目で天を見る。
視線を受け流した天は「アニメに影響されたんだろうねぇ、きっと」と、空を眺めて笑い。
親友二人のうち一人がマゾ野郎で、一人が妹属性好きの事実に、颯は笑うしかない。
——そんな感じで、各々が別々の理由で笑う三人は、順調に仲良し三人組として落ち着きつつあった。
▲▽▲▽▲▽▲
五月、中旬。
いよいよ来週に、中間試験を控えた生徒たちが勉強にラストスパートをかけ始めた頃。
ある異変が、起こっていた。
「最近、咲太のやつ来ねぇな」
そう言い、道端に転がる小石を蹴り飛ばしたのは颯。
バッグを雑に背負う彼は、道路を走る車を横目に気にかけるような声で呟き、隣に並んで歩く男に視線をやる。
「んね。来ないね」
その隣にいるのは、言葉を返した颯の親友である天。
胸にスポーツメーカーの名前が筆記体で刻まれた半袖Tシャツに、膝まで隠れる短パン——簡単に言って部活着の彼は、颯が蹴った小石を蹴り飛ばし、マンホールの中にシュート。
ちゃぽん、と。マンホールの下で小石が水の中に落ちる音を聞きながら、二人はその場を通り過ぎる。
「なんかあったと思うか?」
「分かんない。けど、連絡しても既読つかないよ。電話しても出ないし」
「そうか。咲太のやろう……なにしてやがる」
ゆっくり歩く二人。この場にいない親友の名を出した颯は、なんとなく、夕陽色に染まる空を仰いだ。
数時間前まで空色だったそれは、気がつけば夜の予兆を孕んだ山吹色。日が沈み、月が昇るまでの少しの間だけ、空を塗りつぶしている。
ぼーっと眺めていると夕陽が眼球を焼く痛みを感じて、颯は眩しげに目を細めた。
「来週、中間テストがあんのによ。アイツ、大丈夫か」
理由があって学校に居残っていた颯と、部活に精を出していた天。
偶然にも下校のタイミングが重なったことで、珍しく一緒に帰路に着く親友二人。その間にある話題は、咲太のことだった。
なぜなら——、
「咲太が休んでから、もう二週間。流石におかしいよ。心配になる」
「だよな」と頷く颯に「うん」と頷き返し、天は最近になって感じ始めた明らかな異変に顔を顰める。
梓川咲太が、学校に来なくなった。
突然——本当に突然のことだ。
今から二週間ほど前、五月が始まってから少しした頃に、珍しく休んだ日があって。その日以降、彼は学校に姿を見せていない。
予兆はなかった。休む日の前日に、咲太の様子がおかしいとは思えなかった。話していた感じ、いつもとなんら変わりなかった。
予感はなかった。割と人の不調に敏感な颯も、他人を気遣うことを常に心がける天も、そのような異変は感じ取らなかった。
否、感じ取れなかっただけかもしれない。
「一日二日そこらならサボってる、って思えなくもないけど。二週間は異変だよ」
「俺は、一週間目から既に異変だと思ってたけどな」
「俺もだけど? なんなら、先生に咲太のこと聞いたけど? なにか? ああ?」
謎に張り合ってくる、絡み方がヤンキーで、友達想いな天。
優しさで言えば自分よりもレベルが高い彼に「いや、なんでもねぇよ」と、颯は溢れたように笑った。
実際、彼が先生に話を聞いていたのは事実。連日、咲太が学校を休んだことに違和感を感じ、「先生ぇ。ここ最近、咲太が来ませんけどなんかあったんすか?」と一週間前に尋ねていた。
当たり前だ。毎日、咲太と話している二人からすれば異変に思わないわけがない。気にしないわけがない。
緊急性の高いときほど行動力が高くなる天。
頭よりも先に体が動く颯が驚くくらい即断であった彼が、朝のホームルームを遮ってまで先生に突撃したのだ。
それで返ってきた言葉といえば、
『電話で聞いたが、ちょっと体調不良らしい』
それだけ。
「一週間も休んだ理由が、ちょっと体調不良——俺、悪いけど、全然納得してないよ」
インフルエンザならば話は別だが、そうならそう言うはず。体調不良と曖昧な言い方をしたのには、何か理由があるはずだと天は思う。
考えすぎかもしれない。深く考えすぎて、そこから一生抜け出せなくなるのが自分の悪い癖なのだから。
でも、あの咲太が体調不良だけで学校を休むとはどうしても思えないのだ。一見、不真面目そうに見えて、割と真摯な部分もあるあの男が。
「明日、もっかい先生に聞いてみよう」
「おう。そうしようぜ」
住宅街から車の通りが多い大通りに出て、赤信号で立ち止まる二人。彼らは明日、一週間前に聞いたことを再び聞きに行く。
そこで同じ回答が出たとしても、今度はもう少し粘る気概だ。二週間も休んで体調不良——流石にそれは無理があるだろう。
なにか、重い病気に襲われているのかもしれない。そんな考えが脳裏から離れてくれない。
なにか、自分たちの知らないところで咲太が苦しんでいるのかもしれない。そんな想像の光景ばかりが心を突き刺す。
だから意地でも、咲太の現状を聞き出す。
そうでもしないと、気が落ち着かない。
そんなことを思いながら、信号が赤色から青色に変わった二人は横断歩道に踏み出した。
「もし、体調不良じゃなかったとしてさ」
「おん」
ポケットに手を突っ込み、流れる街並みを眺める天。
住居を見ていると、咲太の家はどこにあるのかな。なんてことを不意に考える彼は、隠した手を軽く握り締め、
「なにが理由だと思う?」
「なにが、って……言われてもな」
言い淀み、考える颯は黙り込む。彼の歩く速度が遅くなったのを察し、天が歩道の車道側を歩き出した。
それらしい理由は、考えた分だけ挙がる。二週間も休むほどの事態だ。それなりに大きなことだろう。
学校に来れない理由が咲太自身にあるのか、彼を取り巻く環境にあるのか。そもそも、体調不良が正しいこともあり得る。
その場合、二週間も休まなければならない程に重い病気にかかっていることになるが。
となると——、
「俺が、一番初めに、ぱっと思いついちゃったのはね」
声がして、思考の海から引き上げられる颯。
いつの間にか俯いていたことを知ると同時に、考え込む自分が車道に出ないよう、天が車道側を歩いてくれていたことを感覚的に理解する。
本当に、小さな気遣いのできるいい奴だなと颯に思われる中、ため息をつく天。彼は少しだけ間を置いて、
「——いじめ」
一言。
一段、トーンが下がった声で、表情に影を作りながら言った。
頭をがつんと殴られたような衝撃に、意図せず足を止めてしまう颯。
今、頭のてっぺんから足先にかけて雷が落ちたとさえ思えるそれに、彼は「そんなわけねぇよ!」と声を荒げ、その先の言葉を紡ごうとするが、
「だから、思いついちゃった、って言ったの。そんなわけないと思うけどね」
と、吐き出す言葉を塞がれてしまう。
その次に「でも、ゼロじゃないでしょ?」と、言葉を繋げ、彼は颯の先を行く。
足を止める親友をガン無視する様子は、言葉の返答を拒んでいるようにも見えた。
ありえないと思うと同時に、可能性がなくはないと思ってしまう颯だった。
二週間も学校を休んだとなれば、もうなにが起こっていてもおかしくない。
中学三年生の突飛な発想の全てが、起こり得るパターンとして有効化される。
もしそうなら、自分と天が黙っちゃいない。
咲太をいじめた奴を引っ張り出して、ボッコボコにしてやろう。
「ありえない……と、いいが」
「ん。ありえないのが一番だよ」
隣に追いつく颯の言葉に、天の同調の声が続く。そのとき、颯が見た天の横顔は、心なしか辛そうに見えた。
しかしそれも一瞬のこと。その顔をさっと引っ込めると、天は「だから」と颯を見て、
「明日、先生に聞こうね」
「おうよ」
再度、決意を新たにする二人。いつになく真面目な声色をしている彼らは、本気だ。
力強い目つき。揺らぎのない態度。梓川咲太という友人に向ける感情に突き動かされるがまま、この瞬間から本格的に動き始める。
想像を遥かに越える事態に巻き込まれる始まりだとも、知らないまま。
▲▽▲▽▲▽▲
颯と天が決意した翌日。
朝のホームルームが終わり、一時間目の準備を開始する生徒が各々の動きを見せる教室。
眠たそうにあくびをする者、机に教科書とノートを出す者、トイレに行く者。十分後の授業に向けてわらわら動く生徒に紛れて、
「——先生ぇ。ちょっと待ってください」
男二人が、動きを見せていた。
ホームルームが終わり、担当科目の授業をしに他クラスに移動しようと教室の扉を潜る担任の先生。
その後を追いかける天が廊下に出て呼びかけ、後ろから颯が続く。
「なんだ?」と振り向く担任に、シャーペンを握りしめた天は「あのですね」と言葉を紡ぎ出した。
「二週間前から欠席の咲太について教えてください。アイツ、どうして二週間も休んでいるんですか?」
「それ、一週間前にも聞いたよな?」
「はい。聞きました」
「だったら聞く必要はないだろう。体調不良——」
「二週間も休んだ理由が体調不良……俺と
ギロリと眼光を光らせ、双眸を鋭く尖らせた天が担任の目を真っ直ぐ射抜く。
睥睨になりかけた視線がその目に固定され、一切離れていかない。
その瞬間、淡々と語る口に反して態度は熱心であり、至極真剣な真顔が担任の前には現れた。
「咲太が休んで二週間——もう二週間ですよ。来週に中間テストがあるってのに、受験生にとっては内申に関わる大事なものなのに、そんなに休むってありますか?」
「ただの体調不良で」と。
担任の言葉を突っぱね、詰め寄りながら、言おうとした言葉を強調する。
心身ともに姿勢が前のめりなその後ろでは、「そうだぞ」と言わんばかりの颯が目を細めていた。
この状況において、自分が話すと話がヒートアップしかねないと天に懸念された颯。
感情が言語化しがちな傾向のある彼は口は閉じているが、その内側では言いたい言葉が乱反射中である。
「なんか、あったんですか? 咲太に——俺たちの友達に悪いことでもあったんですか? 担任の先生なら、なにかしら知ってるはずですよね」
ぎち、っと。握りしめたシャーペンが小さく軋む。
シャーペンを握っているのは、授業用ノートに今日の日付を書こうとして、教室から出ていく先生を見て焦って飛び出したからだ。
自分がシャーペンを握っていることすら忘れるくらい、天の意識は担任に一直線だった。
その真摯な態度に、担任はしばし沈黙。それから言葉を作るための酸素を吸い、
「体調不良だ。それしか言えん」
とだけ言うと、背を向けて歩き出す。天の態度を相手にもせず、次の授業に向けて意識を切り替えるように断った。
もちろん、今の天がその背を追いかけないわけがない。追いかける天の背に、颯が続かないわけがない。
「待ってください、先生」
「俺にも授業があることくらい分かるだろ」
「分かりません」
呼び止め、背にかかり続ける声を無視する担任。相手の中では既に話は済んでいるようだが、しかし二人は諦めない。
執拗に、うざったく、つきまとう。苛立たせて、心の奥にある言葉を、引っ張り出す。
「まだ話は終わってません」
「終わった。これ以上、言えることはない」
一週間前ならば、違ったかもしれない。
梓川咲太と友達になる前ならば、違ったかもしれない。
もしかしたら——神崎颯に出会うまでの自分ならば、違ったかもしれない。
「体調不良なら重い病気かもしれない。そうじゃなかったら、理由を知りたい。今、アイツがどうなってんのか、俺たちは知りたい」
「なんでだ」
「心配だからに決まってんだろーーッ!」
頑なな態度に我慢できず、口の中で膨らみ続ける言葉——その一端を颯が吐き出した。周囲を歩く生徒が驚き、視線が集まる。
そのとき、一瞬、担任の足が止まる。また、すぐに歩き出す。その動揺を、天の目は見逃してやらなかった。
「なにか知ってるんですよね? 学校の先生として、自分のクラスの生徒がこんなに休んでて、なにも知らないわけがないですよね?」
「ーーーー」
「なにか言ってください……っ!」
声を殺し、叫ぶ。
まだ、声は届かない。
自分が、空野天という自分が、どうしてここまでしているのか。
きっと、背中にいる男に影響されたのだ。
この男は、誰に対しても馬鹿正直に優しい。友人ならばもっと優しい。
助けを求めたら「おう」の一言で助けてくれる。それが暴力に関わることだとしても、この男は必ず来る。
先のこととか、颯の頭には無いんだろう。颯が考えているのは、自分の感情一つ。心が向く方へ、彼は体を動かし、ときには拳を振るう。
そんな男の傍にいたせいで、自分もそんな人に憧れた。憧れて、そうなりたいと思った。思って、しまった。
自分のような、彼とは対照的な人間が。
「咲太になにかあったんですか!? アイツ、不真面目そうだけどこんなに学校を休むほど不真面目じゃない、と思う。絶対……多分、なんかあったんですよね! 先生は、それを知ってんですよね!?」
「どうしてお前たちがそこまで聞く必要がある!?」
ついに爆発した感情が声に宿り、噴火した灼熱の想いが言葉となって放たれる。
必死な訴えに思いっきり心を殴られたような気がして、声を荒げる担任がようやく振り返った。
長い廊下を歩き、三階から二階に降り、自クラスからどんどん離れ、おそらく一時間目は遅刻が確定した。
それでも追いかけた。先生が振り向くまで。話を聞いてくれるまで。
自分と颯人が、そこまで引き下がらないのは、
「友達だからですよ!」
「友達だからだよ!」
授業開始直前の、誰もいない静寂の廊下に、重なった二つの声が強く木霊する。
その鬼気迫る勢いに担任がたじろぎ、何人か、教室の中から顔を出す生徒がいた。
歯を食いしばり、喉の手前まで湧き上がる暴言を必死に抑え込む颯。
下唇を噛み締め、今すぐにでも吐き散らしてしまいそうな暴言を必死に殺す天。
双方ともに、担任に向けていい目をしていない。完全に睥睨する瞳は、殺気すら放ちそうな勢いだ。
そして訪れる、無言の時間。目でものを語る二人が担任に訴えかけ。
彼らの必死な目に、分かりやすく表情を歪める担任が言葉を発しようとしては止まり、発しようとしては止まる。
けれど、なにかしらの決心がついたのか。二人のことを初めて真剣な眼差しで見つめると、
「咲太は———」
その先に続く声を、二人が知ることはなかった。不意に鳴り響くチャイムによって、続くはずの言葉が掻き消されたからだ。
スピーカーから鳴る設定された電子音が、無感情に二人と一人の間に壁を隔てる。
それが、なにかを語ろうとした人間の決意に揺らぎを与えてしまった。
チャイムが鳴る——それが意味するのは一時間目の開始。けれど、この二人にとっては全く違う意味。
それは、
「話は終わりだ。お前達がなにを聞いても、俺からこれ以上のことは言えない。——これしか知らないからな」
「待っ——」
「お前たちも教室に戻れ。遅刻に関しては先生から言っておいてやる」
颯の声をばっさり切り落とし、二人の目の前で扉が閉まる。
天が伸ばした手は虚空を撫で、大気を握る。
少しして、扉の奥から「先生、なにかあったんですかぁ?」という女子生徒の気の抜けた声がして、声色を変えた担任の着席を促す声が聞こえた。
その態度に、担任の意識から無理やり追い出されたような気がした二人。
否、追い出されたのだろう。扉の奥では既に授業が始まり、自分たちを置いて普段通りの光景が広がっている。
「……クソが」
「ちっ」
だから彼らは、扉の前で立ち尽くすしかなかった。
やるせない気持ちの捨て場に困り、震える拳でシャーペンを握る天も。行き場のない気持ちのぶつけ先に困り、扉を殴りかけた自分を制した颯も。
「行こ。颯」
「……………………おう」
教室に、帰るしかなかった。
▲▽▲▽▲▽▲
その日から一ヶ月半ほど経ち、世界は六月を通過して七月に突入した。
雨が降り頻る梅雨を越えた日本の季節は春から夏に移り、いよいよ暑さも本腰を入れてきたように感じる。
外を歩けば灼熱の日光に焼かれる季節だ。肌を照りつける光は眩しく、まとわりつく蒸し暑さと蝉の鳴き声が嫌になる。
幸い、そのような意味合いでは教室は快適な場所と言えた。空調設備が整備された空間は涼しくて、衣替えで半袖を着る颯には最高の空間だ。
「ーーーー」
咲太がいれば、もっと最高なのに。
そんなことを考えながら、颯は机に突っ伏す。
二時間目を終え、三時間目が始まるまでに挟む十分の小休憩。
次の準備を終えた彼は、真っ暗な世界の中でため息をついた。
いつまで経っても、咲太は学校に来ない。
中間テストにも来なかった。成績に響くとても大切なテストなのに。
中間テストが終わった次の日も、咲太は来なかった。その次の日も、来なかった。その次の日も、次の日も、次の日も、次の日も———。
日々を重ねていくうちに、いつしか月を跨いでいた。六月に入っても、それでも咲太は姿を見せない。一ヶ月以上も、咲太は学校にいないことになる。
窓際、一番前、角席、その席だけがずっと空席。
それなのに、クラスメイトは誰一人として気にかける様子はなかった。自分が指摘しても、「え? あぁ、うん。そうだね」としか反応せず。
まるで、咲太がいてもいなくても変わらない——そう言われたような感じがして、ムカっときた。
天と颯以外、梓川咲太というクラスメイトの存在を忘れかけている。
ダメだ。そんなこと自分がさせない。彼が教室に帰ってきたとき、居場所が無くなってるなんてことにはさせない。
絶対に、絶対に———。
「颯ーー!」
不意に、天の声が思考の海に漂う颯の意識を現実世界に引き戻す。
彼にしては珍しい、荒っぽい声。声に一切の余裕が感じられず、切羽詰まっているのだと感覚的に理解できた。
顔を上げ、声の方向を見る颯。
視線の先には、向けられるクラスメイトの視線を無視しながら、乱雑に並ぶ机の間を滑らかな動きで抜ける声の主の姿があった。
当然、天だ。自分と同じく咲太の不在が心配でしょうがない親友は、息を切らし、強い焦燥感が渦巻く顔つきで自分の下に向かってきている。
「なんだよ?」と、小首をかしげる颯。初めて見たかもしれない姿からただならぬ事態を察した彼は、沈んでいた上体を起き上がらせた。
その間にも、天は颯の目の前にまで接近して、
「颯。ちょっと聞いて」
「だからなんだよ」
錯乱し、取り乱した様子の天。
乱れた呼吸を整えることもせず、誰にも聞こえぬよう、彼は声を潜めて言った。
「——咲太が暴力沙汰で、何人か病院送りにしたらしい」