春巻きを頬張るかえでに心癒されつつも、思春期症候群の恐ろしさを改めて実感した天。
かえでに夕食を済まさせた彼は自宅に戻るが、思春期症候群のことが頭から離れず、その夜は勉強も手につかなかった。
だからとっとと寝た。寝て、明日に備えた。明日、咲太と会ってなにがあったのか聞こう。そんな思いを抱き、眠りについた。
眠りについた、のだが———。
「ーーーッ!!」
しんと静まり返った寝室に、突如として着信音が爆音で鳴る。スマホを耳元に置いて寝ている天の鼓膜を、その音が轟々と殴りつけていた。
「………んむぅ」
十秒ほど音が続いたところで、布団の中で熟睡する天に反応が見える。
強制的に闇から意識が引っ張り上げられた彼が、カエルの鳴き声のように低い声を漏らし、ゆっくりと目を開けた。首が横に動き、スマホに目が向く。
手で寝ぼけまなこを擦り、緩慢な動きで起き上がる。肩までかかっていた掛け布団がぽすんと音を立て、垂れ落ちた。
「誰だよ……」
半覚醒な意識のまま、天はスマホを手に取る。起床直後の眼球が画面の光に焼かれ、痛みすら感じそうな眩しさに「ぉ」と呻き、困惑。
寝ぼけていても、どこからの電話なのか判断できるくらいには頭は動いている。だからこそ、天は困惑させられた。
なぜなら、それが『非通知』であったから。
「……これ咲太か?」
首を横に振って眠気を振り落とし、天は数時間前の出来事を思い出す。
確かさっきも非通知から電話がかかってきて、咲太だった。だとするとこの非通知も咲太の可能性はあり得る。
こんな夜中——夜中二時を回るかというところで電話をかけてくる非常識な非通知、咲太以外に考えられない。
もし違ったとしても即行で切ばいいか。と、眠気もあって警戒心が緩む天は軽い気持ちで『応答』のボタンをタップし、
「咲太?」
「そうだ。……寝てたか?」
「寝てる以外にあると思う?」
「無いな」
「じゃあなんで電話かけてきたんだよ。今、夜中の二時よ、二時。分かってます?」
理由を聞くまでもないが、眠りを妨げられた天は僅かな怒りの感情を混ぜて嫌味を呟く。
そのいつも通りさのあるテンション感に、咲太は笑い混じりに「悪いと思ってるけどさ」と続けて、
「お前、まだ麻衣さんのこと覚えてるか?」
「覚えてるよ」
「はわぁ」と気の抜けた声であくびしながら言うと、咲太の「そうか、よかった」と安心したような声が返ってくる。
それから咲太は「実はさ」と眠気七十パーセントの天に長話の予感を感じさせ、
「かえでに夕飯食べさせてやってくれって電話したろ。あの前、麻衣さんのお母さんと会ったんだ」
「桜島先輩が、桜島先輩の母親と会ったの? それとも咲太が会ったの?」
「麻衣さんが会ったんだ」
誤解の紐を解く天に、咲太は電話越しに頷く。
なぜか、電話から薄くシャワーの音が聞こえてくることに違和感を覚える天に「そんで?」と聞かれると、咲太は数秒の沈黙を挟んで、
「覚えてなかった」
「……母親が?」
「そう。覚えて、なかったんだよ。麻衣さんのことを。自分の娘なのにさ」
そう言った咲太の声は苛立ちを孕み、小さく震えていた。自然、怒りに歪んだ彼の表情が目に浮かぶ。
「んー」と悩ましげに喉を鳴らす天。掛け布団の中で胡座をかくと、彼は「確認するけど」と前置き、
「桜島先輩の母親は、桜島先輩のことを覚えていなかったの? 姿が見えてなかった、とかじゃなくて?」
「その聞き方、なにか
「理解ったというか、仮説というか」
驚いたように声が跳ねる咲太。彼の期待の眼差しを受けた気分になる天は、「はわぁ」と二度目の眠たそうなあくびをして、
「夜ご飯食べてるとき、かえでちゃんに聞かれたんだよ。桜島麻衣って誰か、って」
「それは多分、僕がかえでに麻衣さんを覚えてるか確かめたからだと思う」
「ん、そのことも言ってた。で、そこでかえでちゃんが桜島先輩のことを忘れていることが発覚した。そっから色々と考えて、俺はとんでもない誤解をしてるのかもしれないって気づいた」
そこまで話して、一旦、天は言葉を止める。
気になる止め方に「なんだ?」と、咲太に先を急かされると、天は唾を飲み込み、
「桜島先輩の思春期症候群は、他者から存在を忘れられるものなんじゃないか、って。認識されなくなる、って言った方が正しいのかな」
「認識されなくなる……」
訂正した言葉を呟く咲太。思案する彼に天は「ほら、あれだよ」と、
「双葉が話した観測理論の話。人間の認識がその存在の有無を確定させる、って理論。あの話に桜島先輩を当てはめると、そんな感じがしてさ」
「誰からも認識されず、観測されないから、存在が忘れられる。ってことか。透明人間の正体はそれか」
「俺はそー思ってる。本当かどうかは分からないけど、筋は通ってるでしょ」
「通ってほしくない筋だけどな」
「それは俺も思う」
恐怖感を共有し、二人は無意識に緊張感を和らげようとする。
存在を忘れられる現象、もはやそれは超常現象の一種と言っても過言ではない。思春期症候群そのものが超常現象と言えるから、超常現象の超常現象で、もう意味不明。
その効果範囲が時間の経過と共に広がっていくことも踏まえると、笑えないレベル。
この件と深く関わっている二人にとって、それは看過できない事態だ。一刻も早くなんとかしなければならないという思いが、じわじわと心を焦らせていく。
「どーしてだろうね。なんで存在が忘れられるんだろう。症状が分かっても原因がさっぱり分からない」
「双葉が言うには、峰ヶ原高校が鍵を握ってるらしい」
「双葉が? 峰ヶ原高校?」
なぜ双葉の名前が出てくるのか。
なぜ峰ヶ原高校が鍵を握っているのか。
二つの疑問が同時に浮上し、よく分からない天。ベットに寝転がる彼に咲太は「さっき話したんだ」と言葉を続け、
「国見と颯、二人に麻衣さんのことを覚えてるか電話で確認した後、双葉にも確認したんだよ」
「この時間に双葉に電話した勇気は褒めるとして。そんで?」
「三人とも普通に覚えてた。誰も麻衣さんのことを忘れてなかったんだ。今日確認した人たちはみんな忘れてたのに、だぞ」
「だから峰ヶ原高校?」
「覚えてる人の共通点がそれだ、って」
「あー、確かに」
スピーカーにしたスマホを胸に乗せ、後頭部で手を組みながら、天は記憶を漁って理解。
峰ヶ原高校では麻衣の存在は、確かにそこに在った。麻衣を探して二年の教室に行った際、そのクラスの人に麻衣の名前を出しても「誰?」とは言われなかったし。
反対に峰ヶ原高校以外の場所、例えば藤沢駅では麻衣は完全なる透明人間。今の咲太の話を加味すると、他の場所でも同じ状態なのだろうと推測できる。
「俺も覚えてんだから、それで間違えないのかな。そこ以外に考えられないしなぁ。でも、場所が分かっても原因そのものが……。んー、分かんねー」
「だから双葉には解決手段を考えてもらってる」
「こんなド深夜から? お前、次に双葉と会ったとき殺されるぞ」
「そのときは天に庇ってもらうとするよ。僕や颯と違って、天は双葉と仲良いからな」
「扱いが雑じゃないだけで、仲の良さはお前らとさほど変わんない。この時間から電話して、俺みたいに話を聞いてもらえてるのが証拠」
その上、無理難題を押し付けられても考えてくれているのだから、咲太と理央の関係地が高いことなど考えなくとも分かる。
思春期症候群に対して否定的な意見を持つ彼女が、色々と面倒に思いながらも咲太に力を貸してくれている。それが、天にとっては嬉しいことだったり。
なんだかんだ、双葉は優しい友達だ。接していて、伝わってくる。今、彼女が咲太からのお願いに頭を悩ませていると思うと尚更。
ともかく、
「現状は分かったからいいとして。で? 今更だけど、咲太と桜島先輩は今どんな状況なの?」
思春期症候群の認識を改め、原因解明の糸口を共有したところで、天がやや話を逸らす。本題と直接関係はないが、親友として心配な気持ちが言葉となった。
声色に感情が乗る天。話すうちに眠気が覚めてきた彼に咲太は「えーっとだな」と、
「お前と電話した後、麻衣さんのことを知ってる人を探しながら、熱海駅から大垣駅まで移動した。結果は惨敗、誰も覚えてなかった」
「そんで?」
「駅に着いたあたりで終電が終わったから、麻衣さんと近くのビジネスホテルで一泊中。同じ部屋だぞ」
「お前ほんとすげーな。色々と。なんかこう、すごいね。なんなの、その行動力。恋って人を狂わせるんだ」
「好きな人を追ってわざわざ峰ヶ原高校に入学したお前にだけは言われたくない」
驚きすぎて一周回って冷静になる天の語彙力の無さに笑い、咲太は彼が投げてきた言葉のブーメランを思いっきり投げ返す。
胸に突き刺さる軌道のそれを頭の中で避け、天は咲太の異常なまでの行動力の高さに舌を巻いた。
麻衣が思春期症候群を発症した事が発覚して以来、咲太には驚かされっぱなしだ。行動力が高いこと自体は薄々勘付いてはいたけど、流石にここまでとは思わなかった。
麻衣を助けたいからか、もしくは麻衣のことが好きだからか。多分、どっちもだと天は思う。
好きな人のために頑張りたい。その気持ちはよく理解できるから。
「颯にもそれ言ったの?」
「言った。奇声上げてビビり散らかしてた。眠気が一瞬で吹っ飛んでった、てさ」
「うわー、聞きたかったその声」
自分とは対照的な反応を見せたハヤトを想像し、残念そうに天が唸る。その声に電話越しの咲太が「あれは面白かった」と思い出し笑い。
咲太が麻衣とデートする——そう聞いた時ですら天地がひっくり返る勢いで驚いていたから、下手すると心臓発作を起こしてもおかしくなかろうか。
「反対に天は驚かないんだな」
「一周回って冷静になった。それか、驚き疲れただけ」
「お疲れさま」
「誰のせいだと思ってんだよ。驚きの中心にいるのは大体お前だからな」
笑い混じりに煽ってくる咲太に嫌味を溢し、天は疲労の吐息を一つ。横になって眠気が返ってきたのか「はわぁ」と大きくあくびをして、
「まぁ、状況は分かった。とりあえずこっから先は明日、学校で話そう。颯と双葉も交えて対策を練る」
「そのつもりだ。遅くても昼休みには行けるように頑張る」
「ん。分かった」
「じゃあ、もう切るぞ」
「あ、待って。最後に一つ」
眠たそうな声色から眠気ゲージを察した咲太が電話を切ろうとするが、天が待ったをかける。
呼び止められた咲太は「なんだ?」と、離しかけた受話器を耳にくっつけた。天は咳払いをして声の調子を整えると、
「色々とお疲れ様。精神的にも疲れたろうし、今はしっかり寝るんだよ」
「ここで速報、ベッドは一つしかない」
「この戦いを制した者が、安眠を確保することができる」
「僕はどうしたらいい?」
「男なら床で寝ろ」
「安眠とは?」
「んじゃ、おやすみー」
咲太の変調に合わせて軽口に乗り、テンポよく交わされたやり取りを最後に、天は電話を無慈悲に切った。
スマホを耳元に起き、掛け布団を肩まで被る。こうすればアラームで寝過ごすことは絶対にない。
「すぅ……はぁ……」
深呼吸。
体のリズムをリセットし、睡眠に向けて目を瞑り、意識を夢の中へと沈めていく天。
ーー母親に存在を忘れられる、か。本人からしたらかなり辛いよなぁ
徐々に体が重たくなっていくような感覚の中、先ほどの会話を振り返って思う。
麻衣は今日だけで自分の存在が忘れられていく実感をこれでもかとさせられたはずで、その度に想像もできない恐怖を味わったのだろう。
その最中、自分の母親にすら忘れられている事実の発覚。それも、親子対面して初めて気付かされるという悲劇的な発覚の仕方。
自分だったら耐えられない。
確実に精神崩壊する。
積み重なった恐怖心がそれをきっかけに爆発し、泣き叫んでいてもおかしくない。
だから麻衣の精神力は相当なものだと思うし、彼女を隣で支える咲太も然りだ。
なんとかしなければならない、二人のためにも。これ以上、二人を苦しめさせるわけにはいかない。そのために自分が親友とし———。
「ーーーー」
プツン、と。
思考が切れ、天が夢の世界へと旅立つ。数秒せず穏やかな寝息が聞こえ始め、寝室に静けさが戻った。
▲▽▲▽▲▽▲
翌日、朝。
アラームによって六時きっかりに叩き起こされた天は耳元で吠えるスマホを親指で黙らせ、一日を開始した。
背伸びしながら窓を開けて換気し、脱衣所で顔を洗って睡魔を殺す。それから洗濯籠に突っ込んだ洋服、主に筋トレとランニングの時に着る服が大半を占めるそれらを洗濯機に突っ込み、洗濯開始。
その間に敷布団をベランダの手すりに干したら、次は着替え。ぱぱっと脱いでぱぱっと制服に着替え、畳んだ寝巻きを適当な場所に投げた。
着替えた彼はリビングに移動し、テレビをつける。チャンネルは1、現在時刻が表示されていればどこでもいい。
テレビから流れるニュースキャスターの声を横目に台所に移動し、戸棚から食パンを取る。トースターに入れてつまみを回し、トースト開始。「頼んだよ」と機械に話しかけ、その場を後にする。
自室に戻ると教科書とノートをバッグに入れ、欠けている物がないか確認すると、それを片手にリビングに戻り、ソファーに置いた。
——ここまでが朝の一連の流れであり、天のルーティン。バッグをソファーに置いてやっと、彼は落ち着けるのである。
「六時三十四分。うん、大体いつも通り」
ソファーに腰掛け、天は誇らしげな表情。不意に喉から迫り上がるあくびを噛み殺し、
「昨日は夜中に起こされたから起きれるか心配だったけど、平気だったな」
ニュースの内容を意識の半分に置き、天は無事に起きれたことに安堵。どうやら約一ヶ月後にサッカーで日本代表の試合があるらしい。
特に気にせず、咲太と麻衣の二人が今どうしているかなんて思っていると、トースターが「チンッ!」と音を鳴らして合図した。
トーストした食パンにピーナッツバターを塗り、コーヒー牛乳を添えて朝食。五分ほどで食べ終えると食器をさっと洗う。
再び脱衣所に向かい、既に役目を終えた洗濯機から洗濯物を取り出し、慣れた手つきでベランダに干す。
それらを終える頃には六時五十分を過ぎる頃——家を出る十分前に朝の家事を終えた。
あとは歯を磨いて寝癖を整えるだけなので、焦ることもなく三度目の脱衣所へ。二つを簡単に済ませ、戸締りをして七時ちょうどに家を出た。
「あー、眠っ」
手すりに寄りかかり、勝手に浮かび上がるあくびに天は大きく口を開く。自分以外に誰もいない廊下だから我慢せず、思いっきり。
目端に滲む涙を拭き取り、ポケットに手を突っ込んで待ちの体勢をとった。
天は毎日、颯と咲太の三人で登校している。言葉そのままの意味で真横に住んでいるのもあり、自然とその流れになった。
集合時刻は七時十五分で、集合場所は家を出て目の前にある廊下。そこで合流し、三人仲良く高校に行くのが基本だ。
だから十五分前行動を心がける天は、いつもこの時間に待機しているのである。
「ーーーー」
ぼーっと、空を眺める。
他二人は時間ギリギリで来るか、少し遅れてくるかのどちらかだから、二人が来るまでのわずかな時間、天は暇だ。
暇つぶしにポケットからスマホを出し、SNSアプリを開いて流れてくる情報を流し見。
「——よぉ、天。おはよう」
無心になってタイムラインを眺めていれば十五分なんてあっという間で、扉の開く音と一緒に颯の声が聞こえてくる。
顔を上げて前を見れば、眠そうな顔をした颯がいた。七時十七分、二分遅れだ。
スマホをポケットの中に入れ、「おはよ、颯」と天は挨拶。それから体をエレベーターの方向に向けると、
「んじゃ、行こっか」
と言って頷く。
いつもならあと一人、咲太も一緒だが、彼は大垣の方で麻衣と小旅行中。このマンションはおろかこの地域にすらいない。
深夜の電話によれば今日の午後、昼休みには間に合うようにすると言っていたから、彼と合流するのはそのときになる。
颯も電話で咲太と話したのだから、そのことを知っているだろう。そう考えた天は自然な流れで歩き出した。
が、
「おい待てよ、天。咲太がまだ来てねぇぞ」
「は?」
肩に手を置かれ、物理的に歩みを止められた天の口から、素っ頓狂な声が出た。
振り返ると、「なにしてんだ?」とでも言いたげな颯が表情に薄い困惑を浮かべ、こちらを見ていた。
その表情に同じく困惑し、天はぽかんと口を開けたまま固まる。停止した時間が動き出すと「いやいや」と首を横に振り、
「アイツが家に居ないの知ってるよね」
「は? なんで居ねぇの?」
「え?」
さも、それが当然であるかのように言った天は、間を置かずに返された返答に更に困惑。
二重の困惑に理解が遅れ、またしても素っ頓狂な声が、度が増して出る。
おかしい。
会話が全く噛み合わない。
驚き、天の言葉の意味を理解していないように見える颯の態度は、嘘を言ってるようには見えなかった。
その態度を見た天の脳裏に、なぜか、昨日の記憶が唐突に過ぎる。嘘をついているように見えず、本心から麻衣を忘れたと語る、かえでの姿が。
「ーーーー」
いや、そんなはず。
そんなはずがない。
本当に事情を聞いていない可能性だってある。
颯のことだ、きっと咲太が麻衣とビジネスホテルで一泊する話題で盛り上がり、そのテンションまま事情を聞かず通話が終わったに違いない。
「昨日……正確には深夜、電話あったでしょ。そんときに聞かなかった? お前とも話した、って咲太は言ってたけど」
「電話ぁ?」
嫌な予感を感じ、神妙な声色になる天。彼の目の前で腕を組み、颯は眉間に皺を寄せて考える素振り。
少しして「あー」とはっとした表情になって思い出したようだが、直後に「あ?」と顎に手を当て、
「そういや、電話したな。したけど、なに話したのか思い出せねぇ。あれ、もしかして夢か?」
「寝ぼけてたんじゃない? 桜島先輩を覚えてるか、って聞かれたでしょ」
「桜島先輩?」
平常心を保って違和感なく投げかけた問い。密かな祈りが込められた天のそれに、颯は疑問系で返していた。否、返してしまっていた。
小首を傾げた颯は、怪訝な目で天を見つめている。天にはその目が、口にされた名前自体が分からないと、言っているようにも見えてしまって。
「………マジで?」
ドクンッと心臓が鈍い重低音を鳴らし、動揺に跳ね上がる。眩暈を起こしたように世界がぐにゃりと歪み、全身から力が一気に抜け、膝から崩れ落ちてへたり込んだ。
「天っ!?」と驚きと心配の混じった颯の声がする。しゃがみ、目線を合わせる彼が体を支えてくれているのが分かる。
「颯。ちょっと、聞きたいことがあるんだけどさ」
「いいけど、大丈夫かよ。急に座り込んだりしてよ。どっか体調でも悪いのか?」
「大丈夫。俺は大丈夫だよ」
「それ大丈夫じゃねぇやつの言葉だぞ」
「本当に大丈夫だから。心配しないで」
今にも消えてしまいそうなほど弱々しい声で自分に言い聞かせ、天は発狂しかける心を寸前で立て直す。
こちらの身を案ずる颯に手すりに寄りかからせてもらいながら、半ば確定してしまった事実と向き合う覚悟を固める。
深呼吸をしてる暇はない。
聞け、今すぐに聞け。
「颯」
「なんだ?」
「知ってるか知らないか。二択で正直に答えて」
「いいぞ」
息を詰め、拳を握りしめる。ぐっと顔を上げ、正面にいる颯と目を合わせ、
「桜島麻衣って、知ってる?」
「知らねぇ」
天の呼吸が、止まった。
日常会話のような気軽さで、呆気なく答えられてしまった。
期待も、願いも、祈りも、全て否定して。目の前の親友は曇り一つない瞳で、桜島麻衣を知らないと語った。
ゆっくり、じっくり、天はその意味を咀嚼する。一番身近な人間が思春期症候群に支配された事実を、頭に理解させ、心に浸透させる。
そうして全ての処理が済んだ後、天は自分の罪を自覚した。
自分は、麻衣の思春期症候群に対する真の理解が、遅すぎたのだと。
「さくらじままい……誰だ、そいつ?」
「芸能人……、だけど」
「お前が芸能人の名前を口にするなんて珍しいな。さては、よほど可愛かったか? 立ちくらみ起こすくらいだもんな。牧之原翔子とどっちが可愛かったんだ?」
その軽口に付き合える精神力を、今の天は持ち合わせていなかった。