「元気してた?」
「天の目には、僕が元気に見えるのか?」
「いや。相変わらず目ぇ死んでる」
「正直な感想をどうも」
努めて『いつも通りの自分』を、自分にしかバレないように作る天。
気を抜けば強張りそうな自分をそうやって取り繕う彼のいつも通りの接し方に、咲太もまたいつも通りの返し方だ。
この一部分だけを見れば、自分らの友人はいつも通りの友人と言えよう。
今年になって友人になった梓川咲太は、普段となんら変わりないと思えよう。
けれど、
「お前……なんか、少しやつれたか?」
「そりゃ、病院で生活してればやつれもするだろ。ここの空気を四六時中吸ってもみろ、ふとした瞬間に気が狂いそうになる」
「いや、そういう意味じゃなくてだな……」
物理的な意味合いでやつれたと言いたいわけじゃない颯に、咲太は「お陰様で勝手に体重が減った」と変わらずの気だるそうな目を向けている。
その目——天が言った通り死んでいる目には、一切の光が宿っていなかった。全てを諦めたような、希望を捨てたような、そんな目をしていた。
その目を見た二人が息を呑んだのは、言うまでもない。患者衣を身に纏う友人の姿に、心臓が締め付けられるような痛みを感じる。
「とりあえず、そこの椅子に座れよ。立ち話をするためにきたわけじゃないんだろ?」
「おう」
「うん」
病室にある椅子を指差す咲太。指が指し示す方向には大人サイズの椅子が二つほど並べられて。
荷物を机に置く二人は促されるがまま、咲太が座る寝台の真横に添え置かれた椅子に腰を下ろす。
いつも通りの自分でいるのが一番——その言葉を心の中心に置き続ける二人。
そうであることが咲太にとっても自分らにとっても良いと思う彼らは、そうして梓川咲太と向き合う場に身を置いた。
視線を重ねる、二人と一人。
まさか、この構図が病院で展開されるとは思わなかったと。不意に浮上した思いを横目に、天は「咲太」とその名を呼び、
「色々と言いたいことはあるし、聞きたいこともある。けど、まずは言わせて」
揃えた膝に両手を置き、一直線に伸びた背筋を僅かに前のめりにしながら、
「咲太が無事でよかった。すごく、心配したよ」
「ーーっ」
言った瞬間、咲太の肩がピクリと跳ねる。死んでいた目に微小な光が宿り、その奥に揺れる悲喜交々な感情を颯は見た。
伝えたい意味以外になんの混濁もない、ひたむきで真っ直ぐな言葉。否、真っ直ぐすぎる言葉。
咲太のことをずっと気にかけて、心配していた天の声は、彼の心を確かに震わせている。
「おい。俺も忘れんなよ。俺だってお前のことが心配だったんだぜ。じゃなきゃ、こんな遠い所まで来ねぇよ」
「……あぁ」
唸り声のような声を低く鳴らし、二人から顔を背けて俯く咲太。行動の意味が分からない二人には、突然のことだった。
この二人の言葉は、今の彼にとっては天敵すぎる。
優しい。優しすぎる。かけられる言葉が、見つめられる目が、接する態度が、なにもかもが希望が乾き切った彼にはひどく心に染み渡っていく。
もちろん、そんなことなど二人が感じ取れるはずもなく。
故に、今、彼が心の中でなにを感じてるのか分からない彼らは、隠された表情を暴くような無粋な真似はしなかった。
数秒、数十秒だったかもしれない。しばらくして顔を向け直した咲太の顔を天は見ながら、
「なにがあったか、聞いてもいい?」
「それは………」
「嫌だったらいいよ。無理には聞かない」
言い淀む咲太の反応に即座に己の言葉を否定し、天は首を横に振る。
言った直後に浮き出た咲太の態度が、結構な勢いで拒絶を示していたからだ。
自分のことを聞きにきたはずなのに、友人を気遣って当たり前のように目的を破壊する天。
頭の声よりも心の声が最優先される彼の真摯な目を見ていると、「ふっ」と咲太は不意に笑い、
「それを聞くために、わざわざ僕の所にまで来たんじゃないのか?」
「そうだけど……」
「お前が話したくないことを無理に聞いてもな。俺たちは、お前を苦しませるために来たんじゃねぇし。音信不通のまま学校を休んでやがったダチの顔を見にきただけだ」
「そうそう」と、便乗する天が颯の真横で首振り人形のように何度も頷く。
話を聞きたいのは二の次——というわけではないが、咲太の顔が見れただけでも二人としては十分だったから。
今、一番辛いのは、きっと咲太だから。この場では彼の意見が最も重要視される。最も尊いものとして扱われる。
咲太の身を案じることが、今の二人にできること。それしかできないから、できることに全力を注ぐのだ。
そんな姿勢を見たからだろうか。咲太は何度も何度も躊躇うような表情を見せ、葛藤するように瞳を揺らして、言おうとしても言い出せない言葉に口元を歪ませながら、
「……聞いたことを後悔しないなら話す」
「しないと約束する」
「聞く前に言われても分からないけど、後悔しないと言っておく」
おずおずとした咲太の言葉に、二人の声が続く。全速力で即答した颯の力強い声と、少し遅れて追いついた天の呑気な声。
性格の違いっぷりがあからさまに露出した場面は、咲太にとっては本当に懐かしくて心地が良い。
言った颯は、声と同等の力強さを孕んだ目で咲太の言葉を真正面から受け止める姿勢を見せて。
言った天は、颯とはまるで反対な態度だけれど、自分を見る目はとても優しいものだった。
その二つの声に、強く背中を押された気がした咲太。
彼はこの二人——自分が話していて心地が良いと思えるこの友人たちにならば、最後に期待してもいいかもしれないと思って、
「……一つ一つ、順を追って話すよ」
もう誰にも話さないようにしようと固く決めていたことを、静かに紡ぎ始めた。
▲▽▲▽▲▽▲
「事が起こったのは、五月に入った頃だった」
時間を遡り、語り始めた咲太。
長話になるだろうと思う彼は少し後ろに身を下げて壁に背を預け、布団の中にしまっていた両腕を外に出した。
その両の手の平には、強く握られたような爪痕が深々と刻まれていた。
「僕の妹——中学に入学した花楓が不登校になったんだ」
「不登校……」
言葉を呟き、口の中で意味を転がす颯が開始一発目から告げられた衝撃的な発言を咀嚼。
座する天は、話の邪魔をしないよう口を固く閉ざし、心に言葉を受け止めるスペースを作りながら、熱心に、静かに聞く姿勢だ。
「不登校、って聞くとどうしてもマイナスなイメージが湧いちまうが……お前の妹さんになにがあったんだ?」
「颯。それは流石にノンデリすぎ。聞くのは簡単だけど答えるのは難しいとか思わないの?」
「いや、いい。天と颯には全部話すつもりだから、変に気を遣わないでくれ。……特に、お前たちには遣われたくないしな」
颯の配慮のない傷を抉るような発言に天が突っかかるが、返された咲太の反応は颯の味方をしている。
気遣いしかしない天の態度を、その一言で内側に引っ込めさせた。
その心遣いは咲太にはとても嬉しい。優しすぎて乾いた心では胸を打たれそうだ。
けれど、今は違う。颯の態度の方が、今の咲太としては助かるのだ。
「誰にも信じてもらえなかったことを話すんだ。二人の口から僕に聞いてくれ。そうじゃなきゃ、今の僕にはとてもじゃないが、上手く話せそうにないと思う」
「な? だから言ったろ? いつも通りの俺らでいく方がいいに決まってる、って」
「お前はいつもそうやって………。まぁいいよ」
喉から出かかった言葉をぐっと堪え、呆れるようなため息をつき、天は「話を続けてください」と飲み込んだ。
その横では颯が「なら、もう一度聞くぜ」と謎のドヤ顔を光らせている。
友人に対しては土足に心の中に踏み入る颯の性格は時に頼もしく、時に目に余る。
今のは咲太が颯の味方についたからよかったけど、そうじゃなかったらどうするつもりだ。
深く考えず、物事を真正面から、そのままの意味で受け止めて受け入れる彼の性格が、偶に恐ろしく思える天だった。
親友にそんなことを思われていることなど知る由もない颯。靴を脱ぐ彼は椅子の上で器用に胡座をかくと、
「で? お前の妹さんになにがあったんだ?」
「いじめを受けた」
「マジかよ」
あり得そうで、けれどあり得てほしくなかった不登校の理由に思わず声が出た。
途端、重苦しい空気が更に重苦しくなっていくような感覚に襲われて、天の表情が険しくなって眉間に皺が寄っていく。
空気が重苦しくなったのはきっと、この世界の主——梓川咲太の空気が重苦しくなったからだろう。
世界を支配する彼がそうなれば、自ずと彼を中心として展開される世界はそれに埋め尽くされてしまう。
「理由は?」
「メッセージを既読スルーしたとかで、クラスの中心の女子から嫌われて、それで………」
「ハブられた」
「そうだ」
「くだらねぇ。それだけでかよ」
この場合、「それだけでハブるか」という咲太の妹の味方につく意味合いの颯の発言に、天が「女子って、そーゆーの敏感な人が多いから」と小さく呟いた。
この場にいる男三人には分からない感覚。既読スルーされただけで嫌いになるとか、そんな理不尽で不条理な話があるのなら、天は今頃、颯に絶交されているだろう。
メッセージはあくまで軽いやりとりや連絡をするものであって、友達の輪を築く場所ではない——というのが天の個人的な考えだ。
しかし、理不尽な話しであると同時に、どこにでも起こり得る話だとも思う。
女子というものはそのような些細なことの一つで、気に障ったりするのだから。多分。
「でも、それだけじゃ済まなかった」
ぴしっ、と。空気が張り詰め、咲太の表情に深刻さが増す。
真剣な態度を表に出して静かに聞く姿勢の二人に、彼は言葉を繋げた。
「不登校になった花楓を、クラスメイトが更にいじめたんだよ。クラスメイトが使ってるSNSのコミュニティ内で花楓の悪口を書き込んでな。それはもう、非難轟々だった」
「咲太は、実際にそれを見たんだ」
「僕は基本、見た
「誰も、お前が嘘ついてるなんて言ってないよ。そんな目ぇしないで」
咲太のジト目に軽く笑みを浮かべ、「咲太の言うことは、なるべく信じるつもりだから」と言う天。
その控えめな態度がお気に召さなかったか、真横の颯が「お前、そこは全部信じる、って言い切れよ」と脇腹を手刀で小突いた。
くすぐったかったらしい。「うへぇ?!」と変な声を上げながら跳ねている。
真剣に聞く場面なのだが、平常運転の二人である。
けれど、そんな二人を見ていると肩の力が抜けていく咲太は、「話、続けてもいいか?」と二人の意識を集めて、
「そうやって悪口が書き込まれて……ある日、花楓の体に痣と切り傷ができた」
ピタっ、と。
颯と天の動きが止まる。戯れ合う姿勢を一瞬で引っ込めて真剣に聞く姿勢に戻った——戻った体勢のまま、表情が凍りついた。
時間が停止したと表現してもいいそれは、放たれた言葉を脳が処理するために、他の機能を停止しているようにも咲太には見える。
今、言葉を失った二人が頭の中でなにを想像しているか、分からない咲太ではない。自分だって初めは『それ』を疑ったのだから。
だから、
「言っておくが、花楓が自分でやったわけでも、暴力を振るわれたわけでもないからな」
「じゃぁなんでだよ」
「妹さんになにがあったの?」
脳内で作り出された言葉が今の言葉で壊されていく音に、二人の疑問が重なる。
同じように、同じタイミングで小首を傾げる彼らに咲太は「それは……」と僅かに沈黙。言葉と言葉の間に無言を挟むと、
「今、言ったような、ネットでのいじめを受けたから。ネットで悪口を書かれるうちに、花楓の体には服を着ても隠せない量の傷ができたんだよ」
「………は?」
理解のできない事実を語られ、そんな音が天の口をついて出る。
直後から彼は、咲太の真剣な眼差しを意識から外し、言葉の意味を頭の中で理解しようと必死になって、必死になって、そして、
「ごめん、咲太。信じたい気持ちはあるんだけどさ。悪いけど、言ってもいい?」
「いいぞ」
「お前、なに言ってんの?」
咲太に許可をされた上で、彼の心を慮りながら、それでも思ったことを素直に口にした。
言葉にこそしていないが、真横にいる颯も同様。彼の場合は言葉を理解しようとして四苦八苦し、結果として再び時が止まっていた。
当たり前の反応だと咲太は思う。こんな話、初めから信じようとする方が馬鹿げている。他のみんなだってそうだった。
つまり、この二人は『超』がいくつあっても足りないほどにバカ野郎ということだ。
「SNSに悪口を書き込まれて、それで体に傷ができた……。それはつまり、コナン君が『言葉は刃物なんだ』って言ってたけど、アレは比喩表現でもなんでもない、実際に存在する本物の刃物で。それが咲太の妹さんを傷つけた、ってこと?」
「心に受けた傷が体の傷になってる。花楓を見て僕はそう感じた」
「なんだよ、それ」
理解できない。そんな風に頬を固くする天の隣で、ようやく颯が精神世界から帰ってきた。
理解はできていない、けれど無理やりにでも受け止めて受け入れた雰囲気を放つ颯。
彼は、「それで?」と咲太に話の先を促し、
「最初に見たときは、僕だってお前たちと同じことを考えた。誰かに乱暴されたんだ、って。でも、そうなった頃にはもう学校には行ってなかったし、外にも出てなかったから」
「乱暴された選択肢は消えたと」
「だから、その次は花楓自身に原因があるんだ、って疑った」
「お前、自分の妹が自分で自分の体を傷つけてると思ってたのか?」
「そーゆー考え方もあるよね、って話だよ。颯。咲太は、今でもそう思ってるわけじゃないんでしょ?」
「当たり前だ」
同じく妹がいる身として思うところがあるのだろう。
淡々と語る咲太に噛み付く颯の顔つきが兄貴のものになると、誰かれ構わず噛み付く彼を毎回のように止める天が、二人の間に「待て」と手を差し込んだ。
そこで「当たり前だ」と即答できるあたり、咲太は妹想いの良いお兄ちゃんなんだなと天は思いながら、
「そんで? それからどうなったの?」
「学校をサボって、花楓の傍にいてやることにしたんだよ。なにがあったのか本当のことが知りたかったから」
「ほぅ。お前、中々に良い兄貴してんな」
「やめてくれ」
「思ったことを言ってるだけだぜ」
顎に手を当て、ニヤニヤしてくる颯に咲太はうざそうな表情でため息。
実際、彼はその辺にいる兄貴よりもずっと良い兄貴をしていると思うし、苦しむ妹に寄り添う優しさは男として実にカッコいい。
あり得てほしくないけど、もし、自分の妹か弟のどちらかがいじめられたら、自分も咲太のように支えてあげたい。
それよりもまず、いじめた奴らをぶっ飛ばしにいくかもしれないが。
その咲太うざそうな表情に、どこか苦しそうな表情が混ざっている気がする天が、不意に「あぁ」と声を上げ、
「咲太が五月の初めから学校を休み始めたのは、咲太が妹さんの傍にいたから?」
「そうなるな」
なるほど、と颯と天は納得。
どうやら咲太は、中間テストという時期を潰してでも妹の傍にいたかったらしい。
一週間、二週間と休み続ける彼を心配する自分らを他所に、彼もまた誰かのことを心配していた。
そして、その心配の先にいるのが、学校でいじめられて不登校になった妹という事実。
傷のことを気にかけたからという理由もあるだろうが、それでも天は思う。
「ほんと、良いお兄ちゃんしてるね。お前」
「だから、やめてくれ……。僕は……僕は、そんな兄貴になんて……、違う……違うんだよ……っ!」
良い兄貴してんな。
良いお兄ちゃんしてるね。
二人から兄としての自分を褒められた途端、咲太は予感を感じさせることなく俯いた。
伸ばしていた足を折って膝を抱え込み、顔を布団の中に埋めて表情を隠してしまう。
膝を抱える腕は小刻みに震えていて、その震えが全身に伝播したおかげで声が弱々しく震え出した。
ーー地雷、踏んじゃったかな?
先程、咲太のうざそうな表情の裏に苦しそうな表情を薄く感じ取った天が心の中で呟く。
対応に困る彼は無言で颯に視線を向けると、向こうも向こうで天に助けを求めていた。
ポンコツ二人組である。
「……悪い。ちょっと取り乱した」
そんな中、胸の中に溜まった空気を深く吐いた咲太が顔を上げる。
己の中での気持ちの切り替えを済ませると、一番初めに不安そうな目でこちらを見ている天と目が合って、次に同じ目をしている颯と目が合った。
『あの子、ちょっと不安定だから気をつけるんだよ』
少しだけ、受付のおばさんの言っていた意味が分かったような気がする二人は、「いいや」と首をゆるゆる横に振り、
「大丈夫。誰だって、こんな環境にいたら気ぃ狂うもんだよ」
「そうだぜ。百連ガチャで大爆死した天よりは荒ぶってなかったから、気にもならねぇ」
「あぁ。あれか。推しどころか最高ランクのキャラすら出なくてスマホを窓の外に投げかけたやつ。あれは面白かった。僕の面白かったことランキングの五本指に入る」
「今、それ言う必要ある? 割とガチめの黒歴史だからやめてほしいんだけど。傷、抉るなよ。まだ癒えてないんだよ。無課金勢の五ヶ月分の努力返せよ」
「嘘だぁぁ!」と発狂して、教室の床で転がり回って、頭をブンブン回して、最終的に学校に内緒で持ってきていたスマホを窓からぶん投げかけた過去の天。
流石にあのときの天よりはマシ。そんなことを思う颯の笑い声に釣られて咲太が少しだけ笑い、遠い目をした天が空を泳ぐ飛行機を見ている。
その光景が、不安定な自分を励ますためのものだと理解するのに時間は使わなかった。
だから咲太は、不安定な自分に優しい言葉をかけてくるのではなく、いつも通りに接してくれる友人二人に心の奥で感謝したのだ。
やっぱり、この二人は他の人たちと違う。自分と、ちゃんと向き合ってくれる。
「それで? 妹さんの傍にいて、状況は変わったの?」
「悪くなった、って意味合いでは変わった」
「聞かなきゃよかったです」
「ここまで来たら最後まで付き合えよ」
「わーってるよ。心配すんなって」
ちょいちょいふざけてくる天に咲太が強めに念押しし、反応が頷くだけの彼の代わりに、親指を立ててグーサインの颯が自信満々に言い切る。
その颯の太陽のような眩しい笑顔に、咲太は心が軽くなるような感覚を得た。
ーーもう、全部話してもいいんじゃないか?
ふと、そんな言葉が聞こえてくる。天が発したものでも、颯が発したものでもないそれは、自分の心が発したもの。
鼓膜の内側から、二人のことを完全に信頼して、全部ぶちまけてしまえと声がする。
知り合って一ヶ月とちょっとだけど、自分を心配して、呼んでもないのに、こんな所にまで来てくれた人たちなのだから。
「んで? どう悪くなったんだ?」
「家にいるとき、花楓がスマホでSNSを覗いた瞬間、体に新しい傷ができた。本当に突然だった。太ももがスパッと切れて、血が流れて。傷の程度は書き込みを見るほど酷くなって、痣もできた。まるで……」
「心の傷が体の傷として現れるみたい、って?」
言葉を閉じた天の問いに、「うん」と咲太は頷く。
そこに肯定以外の意味は込められておらず、「マジかよ……」と颯が戦慄気味に声を漏らした。
「信じられねぇな」
「この状況で僕が嘘をつくと思うか?」
「思わないよ」
「思わねぇよ」
重なった二人の即答が、咲太の心臓を小さく跳ねさせた。跳ねたのはきっと、そう言った二人の目があまりにも真剣すぎたから。
さっきまではふざけていたくせに、こういうときは真面目に向き合ってくる、その態度が腹立つ。
馬鹿だ。大馬鹿だ。こいつらはバカ野郎どもだ。少しは信じれない態度を見せてもいいのに、一欠片も見せやしない。
だから咲太は、この単語を口にする覚悟を決めた。
「そういう現象をなんて呼ぶか、二人は知ってるか?」
「いや」
「知りません」
言えば後には引き下がれないと思う。
けれど、この二人にはそのことについて知ってほしかったから。
「すぅ」と息を吸い、落ち着いた声で、
「——思春期症候群、と呼ぶらしい」
聞いた誰もが否定したそれを、言い放った。
▲▽▲▽▲▽▲
「思春期……しょうこうぐん?」
咲太から聞いた言葉を受け、口の中で音の感触を確かめるように颯が反芻する。その単語を、意味すら曖昧な未知のモノであると受け入れて。
ーー咲太の友達が言ってた『思春期なんとか』ってこれのことか
そのすぐ真横では、天が心の中で密かに納得の声を溢していた。
移動中にどれだけ調べても出てこなかった、『解離性障害』とは別の気になる単語。
グーグル大先生の力を以ってしても不明だったその全貌が明らかになり、小さく頷く。
「他人の心の声が聞こえた、とか。知り合いの未来を見た、とか。誰かと誰かの人格が入れ替わった、とか。オカルトじみた出来事のことを総じて『思春期症候群』と呼んでる」
「実際にある症候群……。メタボリック症候群的な感じで、公的に説明されてる症候群なの?」
「いや、違う」
「じゃあ、なんなんだ?」
自分らが今回の一件、その核心に触れているのだと知りながらも、天と颯は聞くことをやめようとはしない。
ここまで話を聞いたのだから、言わせたのだから、友人として咲太の話を全て聞く責任があるのだと己に刻み込み、彼に先を促し続ける。
「精神科は、多感ゆえに不安定な心が見せる思い込みだと言ってるし。自称精神科は、現代社会が生み出した新種のパニック症状だと語ってたし。考察好きな一般人は、自分の主観で勝手な憶測を語ってたし。要は、一種の都市伝説」
「詳しいね」
「妹のために調べたからな」
ーーやっぱ、良いお兄ちゃんじゃん
そう言いかけた天が咄嗟に閉じた口の中で歯を思いっきり食いしばる中、颯が「都市伝説か……」と腕を組んで『思春期症候群』という言葉と、その意味を頭の中にある辞書に付け加える。
思春期症候群。文字の羅列と説明を聞いた感じ、ざっくり説明すると『心の病』のようなものだろうと解釈した天。
彼は「ふーん」と喉を鳴らし、
「2ちゃんねるのスレでありそう」
「そんな感じだな。大体が噂話程度にしか思われてないし、今のところ、まともに信じてる人間なんてこの世界に三人しかいない」
「しかもその三人は、偶然にもこの部屋に集まっていると」
「偶然にもな」
「ーーっ」
淡々と返された二人の言葉を聞いた瞬間、咲太の喉に言葉が詰まる。
穏やかだった鼓動が一度だけ強く波打ち、目の奥が急激に熱せられるような不快感を感じた。
その発言。二人としては普通のことを言っただけなのだろう。一切の疑いを捨てて、当たり前のように自分の言葉を信じて、その上で口にした思いなのだろう。
でも、だとしても———。
「お前たちって、本当にバカだな」
「なんで?」
「それが分からないからバカなんだよ」
二人を試すような発言をした自分を、強く咎める咲太だった。
この二人の呆れるほどのバカさ加減に、意図していない笑顔が頬を緩ませる。
その笑顔を見ながら、天は「じゃあ」と購入したストレートティーを喉に通し、
「妹さんに起こった現象が、その思春期症候群だ。ってこと?」
「僕はそうだと確信してる。悪口を見ただけで体に傷ができるなんて現象、それ以外の言葉で説明できないだろ?」
「確かにそうだな」
確かにそうかどうかは知らないが、二人して共感し合う颯と咲太に水を差さないために、天は黙って頷いておく。
現段階ではその言葉以外では説明できそうにないし、咲太が「そうだ」と言ってるなら、それを信じるのが友達として今の自分にできることだ。
そう思うと、そこで「確かにそうだな」と率直に言える颯は本当にすごいと天は思いながら、
「思春期症候群のことは分かった。で、その後、妹さんはどーなったの?」
それが、咲太のスイッチだった。
妹の身に起こったことを初めて聞いた二人のように、咲太の時がピタリと止まる。
世界の主の時が止まると、準じて世界の時も止まり、一瞬にして病室が静寂の世界に作り替えられた。
その明らかな変化に気づけない二人ではない。
この身に襲いかかる嫌な静寂——呼吸音を立てることすら躊躇するしんと静まり返った空間に、異様な緊張感に心を鷲掴みにされる。
妹について触れること自体が、彼の感情を大きく揺さぶることになる。そんなこと分かっている。
咲太が妹想いの良い兄貴であることは、態度からひしひしと伝わってくるから。
だから、言葉には気をつけたつもりだった。気をつけた上で、容赦なく切り込んだつもりだった。
それでも、そこから先の妹のことを聞くのは、どうやら地雷だったらしく、
「花楓は……。花楓は……っ!」
と。
妹の名を呼ぶ兄貴の声は、一言前の声と比較して格段に沈んでいた。
気がつけば友人二人と交わっていた視線は抱えた膝下に落ち、膝を抱える両の拳に力が入っている。
布団を握り潰す力は強く、布団を整える看護師が頭を抱えるほどの皺が布団に刻まれていた。
その態度に、最悪な想像が脳裏に過った二人。今にも泣いてしまいそうな咲太の悲哀一色に染まる様子はまるで、まるで、
——妹さんが、亡くなったような。
「妹さんに、まだ……なんか起こったの?」
絶対に、口が裂けても、言わない二人。
もし、その一言を言えば咲太との縁を自分から切る——己の心にそう深く刻み込む颯は、何かしてないと気が済まず、そっと咲太の肩に手を添えた。
天は颯のように動くことはせず、心底心配そうな目を咲太に向けている。
誰にも受け止め切れない。受け入れ切れない。そんな悲劇的な事実をいくつも背負う、中学三年生の咲太。
その中でも、今から話すことは一番だろう。この二人にも受け止め切れない、受け入れ切れないかもしれない。
そんな風に思いながら、彼は胸の奥から噴火する嗚咽を押し殺して言った。
「僕の妹——花楓は、もう僕の知ってる花楓じゃない」