ブタ野郎に親友を作っただけのお話   作:ノラン

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ブタ野郎とバカ野郎ども⑥

 

 

 

 ——なにを言われたのか、颯にはよく分からなかった。

 

 

 今、自分が肩に手を添えている男は、なんと言った。

 孤独の中で膝を抱え込み、怯えた子どものように体を震わせ、呼吸が荒くなりつつある自分の友人、梓川咲太は、自分自身の口からなんと言った。

 

 自分の思考が麻痺した感覚。頭の中が一瞬にして真っ白に染められていく。

 告げられた言葉が許容値を遥かに越していて、身構えていたのに、事実がいっぱいになった許容の器からこぼれ落ちていく。

 

 溢れ落ちて、溢れ落ちて、それでも溢れた分を拾おうと動かない頭を回して考える。

 けれど、なにも考えられない。理解に必要な情報の量すらも溢れ落ちていくのに、考えられないから拾うことすらままならない。

 

 ——この瞬間、神崎颯の思考は完全に止まった。

 

 

「ーーーぇ」

 

 

 その隣。自分にすら聞こえない息を漏らし、表情が凍りついた天。

 颯と同じ状況の彼の脳裏には、不意に自分が口にした言葉がぐるぐる回っていた。

 

 回っていたのは、きっと本能がそうさせたからだと思う。

 彼の本能が、彼の理性を叩き起こしている。処理落ちした頭を、何度も何度も叩いている。

 

 叩いて、叩きながら記憶の中の自分は言った。

 

 

『解離性障害——簡単に言うと、それまで『自分』と認識してたものが『自分』だと思えなくなっちゃう……心の病らしい』

 

 

 電車の中。最寄りの駅から藤沢駅に向かっている最中。

 桜島麻衣の話から話題が移って、咲太の友人が語っていた『かいりせいなんちゃら』を調べた時に放った言葉。

 

 颯にそのことを聞かれて、自分は言ったのだ。

 

 

『記憶が無くなっちゃう症状がその一つとしてあるっぽい』

 

 

 瞬間。

 

 自分の中で、点と点が一本の線で繋がった。

 感覚がしたわけでもなく、気がしたわけでもない、ずっともやもやしていたことが、ようやく理解に至った。

 

 理解してしまったことが、天にとっては最悪だったのかもしれない。

 それは、咲太と話した友人から聞いた話だから、語られた単語は全て梓川咲太本人に直接関わることだと思っていたからだ。

 

 でも、今ので理解(わか)った。理解って、しまった。

 咲太があの友人に話していたのは、きっと自分のことじゃない。咲太は——梓川花楓のお兄ちゃんである咲太は、ずっとずっと妹のことを周囲の人間に話していたのだ。理解を求めていたのだ。

 

 つまり、解離性障害というのは咲太に起こったのではなく———。

 

 

 ーーマジかよ

 

 

 血の気が引く。とは、このことを指すのだろう。自分が目の前にした悲劇的な事実に、自分の心臓は、冷静さを保とうとする本人の意思に反して動悸している。

 

 言葉をそのまま受け止めて、受け入れる。その颯ですら凍りついている今。

 ならば、自分が話のきっかけを作る必要がある。颯がこうなってしまった以上、他に言葉を言える人は自分しかいない。

 

 咲太から話させるのは、嫌だ。

 

 

「……悪い。また、取り乱した」

 

 

 そう思っていた矢先、感情の第二波が過ぎ去った咲太が顔を上げる。

 上げた顔には明らかな憔悴が色濃く浮かび上がり、二人を映し出す二つの瞳はひどく潤っていた。

 

 膝を抱え込んだ体勢のまま、肩に添えられた颯の手をそっと払う咲太。

 抵抗する力もなくだらりと垂れ下がる手を視界に収めると、彼は目元を布団に押し付けて、何かを拭うように首を横に揺らした。

 

 なにを拭ったかなんて、想像するまでもない。だから天は「大丈夫。気にしてない」としか言わず、彼の不安定な心を受け止めて受け入れた。

 

 それから、隣で惚ける親友の脇腹を「しっかりしろよ」の意を込めて肘で軽く小突くと、

 

 

「話し、続けられそう……? 無理そうならそう言って。そうなら今日はそれで俺らは帰る」

 

「話す。………話させてほしい」

 

「ん。分かった。じゃあ、咲太のペースでいいから話してね」

 

 

 目元に擦ったような赤い痕が刻まれた咲太に話す選択肢と話さない選択肢を与えたが、咲太は逃げなかった。

 今の動作で要らないものを全て拭い落とし、彼は再び、自分ですら受け入れ難い事実と向き合う気概だ。その目には、頑固たる強い意志が宿っている。

 

 その意志は颯も感じ取った。そしてそれは、颯自身にも影響を与える。

 一番辛いはずの咲太が頑張っている。なら、自分も頑張らないわけにはいかない。彼が頑張るのなら、自分はその何億倍も頑張ろうじゃないか。

 

 気合い一つで停止した思考を無理やり動かし、凍りついた自分の心を真っ赤に燃える意志の炎で溶かす。

 この程度で弱るなんて情けない。それでも神崎颯か。言わせているのだから、最後までちゃんと聞けこのクソ野郎。

 

 そう、自分のことを叱咤した。

 

 

「咲太。ちょっと聞きたいんだけどさ」

 

「なんだ?」

 

「その……妹さんってさ。もしかして——」

 

 

 そこで言葉を止める天。

 先の言葉を口にすることを躊躇する挙動を見せる彼は、咲太の目から逃げるように視線を逸らす。

 

 しかし、自分の中でなにかしらの決意を固めたのか「うん」と頷き。迷いを振り払うように首を横に振ると、再び視線を合わせて、

 

 

「——解離性障害。だったりする?」

 

「ーー! 知ってるのかーー!?」

 

 

 驚愕に目を見開き、ぐいっと体を動かす咲太の両手が天の胸ぐらを掴んで引き寄せた。

 「うわっ」と天が声を漏らし、椅子に座る体勢が崩れそうになる。

 

 天を見る目には、驚きと喜びと戸惑いの三つが渦巻いていて。

 天を掴む手には、溺れた人が、やっと見つけた浮きに縋り付くような必死さがあった。

 

 その必死な形相にどうしていいか分からず、とりあえず天は「話すから、ちょっと落ち着け」と眼前にある頭に手を置いて、

 

 

「このままじゃ俺が椅子から転げ落ちるよ」

 

「あ……あぁ。悪い。知ってるとは思わなかったから」

 

「気にすんな。転げ落ちても天は頑丈だから」

 

「それもそうか」

 

「納得しないで?」

 

 

 場を和ませる颯の軽口に、反射的に乗っかった咲太の軽口が重なり、天の苦笑がそれらを蹴散らす。

 いつも通りの会話をして、いつも通りの精神状態をどうにか保とうとする三人。

 

 流石に部屋の空気までは変えられなかった。一度は和んだ三人の空気は、数秒と経たずに部屋の緊張した空気に浸食されてしまう。

 否、それでいい。今は、決してふざけていい場面ではないのだから。真面目に、咲太と向き合う場面なのだから。

 

 その空気に便乗するように、「そもそもね」と天は語り出した。

 

 

「俺と颯が、咲太がこの病院に入院してる、ってことを知れたのは咲太に会いに来た咲太の友達に話を聞いたからなんだ」

 

「僕の友達……? あぁ、アイツらのことか」

 

「心当たりあるんだ」

 

「数少ない友人()()()からな」

 

 

 咲太について教えてくれた人を含めた、自分らよりも前に咲太の様子を見に来た、彼の友人のこと指しているのだと二人は思う。

 きっと、その友人たちにも、自分たちに話してくれた内容を話したはずだとも。

 

 過去形になっている時点で、結果を察した颯と天である。咲太のことを教えてくれた友人も咲太のことをおかしな奴と言っていたし、他の友人も同様だろう。

 それ以前に、そう語る咲太の目が、友人のことを話しているとは思えないほどに冷めている。

 

 多分、破綻したんだろう。

 

 

「その人がね、咲太から解離性障害について聞かされた、って言ってたから。学校からここに来るまでに、ちょっと調べたんだよ」

 

「わざわざ調べてくれたのか?」

 

「分からないのをそのままにするのが嫌なだけ。それに、解離性障害、ってやつが咲太に関わってるんだとしたら、知っておいた方が話が理解しやすいと思ってさ。だから、俺も颯もなんとなくは理解してるよ」

 

 

 「まさか、こーゆーことだとは思わなかったけど」と、皺になった服を整えながら天は呟く。

 その横では、椅子の上でかいた胡座を組み直している颯が「おう」と頷いていた。

 

 本当に、優しい(バカな)奴らだと咲太は思う。同時に、自分は本当に良い友人を持ったんだなとも。

 

 話を聞いた後の人間が調べるなら分かる。

 スマホの上で指を動かせばなんでも分かる時代だ、話の中で気になって調べる人間だっているかもしれない。

 自分の場合は話に現実味が無さすぎて嘘つき呼ばわりされたり、相手にされなかったり、信じてもらえなかったりと散々で、その域にすら達していないからそんなこともなかったけれど。

 

 けれど天は、天から話を聞いた颯は、話を聞く前から調べてくれていた。

 自分から聞かされることを、理解しようとしてくれていた。それがなにかも分からないのに。

 

 その姿勢が、咲太にとっては嬉しすぎる。

 誰にも信用されなくて、誰を頼ったらいいかも分からなくて、周りから人がどんどん離れていって、孤立していた彼には、一つの光に見えている。

 

 心が、また、軽くなった。

 

 

「それでさ。さっき、咲太が自分の妹さんはもう自分の知ってる妹じゃない、って言ったけど。それは、解離性障害を起こしたから。……それで正しい?」

 

「正しい」

 

「そうか……」

 

 

 沈んでいくような颯の返答が、彼の心情を雄弁に語っていた。

 咲太の話を聞いて、無意識に彼の妹を自分の妹に重ねたのが失敗だった。

 

 理不尽な理由でいじめられて、思春期症候群とかいうわけの分からない現象に襲われて、解離性障害を起こす。

 どうして世界は、彼の妹をそこまでいじめる。彼の妹が一体なにをした。ただ普通に学校に通って、自分の人生を生きていただけじゃないか。

 

 それなのに、どうして。

 

 

「精神科の話だと、心の負担が理由らしい」

 

「いじめられたから?」

 

「そうだと思う。いや、そうだ」

 

 

 己の言葉を否定し、新たに決定づける咲太。瞬間に二人が感じ取った怒気は、彼がいじめた人間に向けたものだろうか。

 あるいは、この現実に向けたものだろうか。それを知るのは本人だけだ。

 

 

「いじめられて、辛くなって、苦しくなって、限界の限界まで心が削られて、『もう嫌だ』ってなった自分を自分から切り離した。って言われたよ。花楓は、そうやって壊れかけた自分を守ったんだ」

 

「ーーーー」

 

 

 言葉が、出てこなかった。

 

 極限まで追い詰められた人間が最後にはどうなるのか、その終点を語られてるような気がして。

 なんと言ったらいいか、天は適切な言葉を頭の中で作ることができなかった。

 

 隣の颯は言葉を発さなくなったどころか、顔すら上げていない。

 指と指を絡めた拳を強く握りしめ、奥歯をそれ以上に強く噛み締めているのが外から見て分かった。

 

 若干、鼻を啜る音がする。

 

 

「今の花楓には、解離性障害が起きるより前の記憶がない。僕のことも、父さんと母さんのことも、友達のことも、自分のことだって覚えてない。それどころか、自分がいる場所すら覚えてないんだ」

 

「解離性障害の中に記憶が無くなっちゃうケースがある、って読んだけど……」

 

「今の花楓がそれだ。花楓はもう、花楓じゃない。花楓の中にあった十三年間は、解離性障害を起こして消えた。花楓は言葉そのままの意味で、別の人になったんだよ」

 

 

 フィクションかなにかだと、言ってほしかった。そんなドラマのようなお話、あるはずがないと言ってほしかった。

 けれど、世界はどこまでも理不尽で、ひどく残酷で、こちらの都合など視野に入れていないから。

 

 全て、紛れもない、現実なのだと。全てを失った花楓と会って、咲太は痛感させられたのだ。

 自分の妹は、花楓は、いなくなってしまったのだと。目の前にいる少女は、花楓の姿形をした別の少女なのだと。

 

 

「………颯?」

 

 

 悲劇的すぎてかける言葉が出てこない天。ふと、彼は颯の様子がおかしいことに気づく。

 花楓が解離性障害を起こした話をし始めたあたりからずっとおかしいとは気にかけていたが、それが形になったのだろう。

 

 ぽたぽた、と。溢れているものがあった。

 ずずず、と。必死に堪えているものがあった。

 

 

(わり)ぃ。……ちょっと、俺の妹と重ねた」

 

 

 颯は、泣いていた。

 

 俯き、降り頻る雨のように、大粒の雫を目頭から胡座に溢していた。瞬きをする度に、服が濡れていく。

 下唇を噛み締め、鼻を啜り、喉から鳴る嗚咽を意地でも我慢しようとしている。

 

 感情が行動に直結する男、神崎颯。どんな時でも素直に自己を表現できる彼は、この場面でも変わらない。

 悲しいと感じて、苦しいと感じて、それでも彼は堪え難い感情の荒波に抗っているのだ。

 

 

「俺のことはいいから話を進めろ。耳は聞いてる」

 

「うん。分かった」

 

 

 優しい声で天が応じ、無言で頷く咲太が颯の肩を一度だけ弱く叩いた。

 

 颯の場合、ここで変に気を遣って自分が泣き止むのを待たれる方が嫌だと二人は知っている。

 彼が「進めろ」と言ったら、素直に従った方がいい。自分でなんとかすると言っているのだから、彼を信じて話を続けることにした。

 

 

「すげぇ喪失感だよ。花楓がいない——そう思うと、胸に穴が空いたみたいな感覚だった。大事な人を失った感覚ってこんな感じなんだな、ってずっと思ってる」

 

 

 胸に手を当て、服をくしゃっと握りしめる咲太。それを心が既に理解してしまっていることが、自分ながらに恐ろしく思えてしまう。

 

 否定も、肯定も、共感もすることができない天だった。なにか言葉をかけたいのに、言えることがなにもない。

 思いつく言葉は薄っぺらい励ましか、適当な相槌。それ以外は無い。だから言えなかった。

 

 咲太の気持ちは、咲太にしか理解(わか)らない。咲太の苦しみは、咲太にしか理解らない。花楓という心を宿す妹を失った咲太の絶望は、他人には理解りっこない。

 

 

「そうやって毎日を過ごすうちに、僕にも異変が起こった」

 

「咲太に?」

 

 

 妹の話から一転、話の中心が咲太自身に移ったことに天が小首を傾げる。

 やっとまともな言葉を吐けた彼に、咲太は「あぁ」と頷きながら着用する患者衣の上をめくり、

 

 

「これだよ。今は包帯が巻かれて全部は見えないと思うけど、この傷が胸にできた」

 

「……え?」

 

 

 純粋に驚いた声を溢す天。服をめくった瞬間、視線がその部分に固定された。

 

 彼の視線の先には、めくった服の内側から姿を出した素肌があって。隠れていた上半身には、胸から脇にかけて白い包帯が巻かれている。

 それだけなら驚くこともなかった。多分、これが咲太が入院した理由なのだろうと納得して終われたはずだ。

 

 でも、そうできない光景がある。納得できないだけの光景が、天の目に飛び込んできている。

 それは、

 

 

「恐竜にでも引っ掻かれた?」

 

「タイムスリップをした覚えはないな」

 

 

 右肩から左の脇腹にかけて、大型の獣に引っ掻かれたような爪痕が三本、斜めに刻まれていた。

 生まれた傷跡は生々しく、痛々しい。誰がどう見ても異常だと言えるものだ。

 

 

「いつのもの?」

 

「大体、二週間くらい前。朝起きたら血まみれで、病院に運ばれて、死ぬかと思った」

 

「なんでできたか、分かる?」

 

「分かったら苦労しない」

 

 

 少しずつ、感情の揺れが静まりつつある颯が無言で傷跡を確認したのを見ると、咲太はそっとめくった服を戻す。

 傷跡を見届けた天は深く吐息し、「もう、なにがなんだか意味分かんねぇよ」と珍しく荒っぽい口調を表に露出させていた。

 素の自分が意図せずに出たのだ。

 

 

「意味が分からないのは僕の方だ。突然、朝起きたら血だらけで、死ぬほど痛かったんだぞ」

 

「それは……うん。辛かったねとしか言えない」

 

 

 それに関しても、なんと言ったらいいか分からない天。彼は、分かりやすく表情を曇らせる。

 もう、なにを言えばいいのか分からない。自分が咲太に何かを言っても、全部が全部薄っぺらい励ましにしかならないと分かっているからだ。

 

 そんな言葉、咲太は望んではいないだろうし。自分だって言いたくない。

 そういうのは、やっと涙が治って顔を上げた颯のような男が担当だろう。

 

 

「もう平気なの?」

 

「おう。平気だ。心配すんな」

 

「颯が泣くところなんて初めて見たから、少し新鮮だった」

 

「やめろ。俺ぁ、基本的にダチの前では泣かないように心がけてんだよ」

 

 

 気持ちを切り替えた颯の表情は、まだ少しだけ涙の余韻があるけれど、元気そうな感じだった。

 咲太に茶化された彼の態度には、普段通りの彼がいる。

 

 そうなれば颯も話に参加することになる。と言っても、咲太としては今ので全て話し終えてしまったから特に話すことはない。

 妹がいじめられて、思春期症候群を発症して、解離性障害に襲われ、咲太自身にも不幸が訪れた。

 

 その過程——五月に休んでから七月までの約二ヶ月間の道のりは、全て語り尽くした。

 

 

「じゃあアレか? 咲太が休んでたのは、その傷跡のせいなのか?」

 

「初めは妹のことだったけど、この傷ができたからはそうなる。学校の先生にもしばらく休むように言われたしな」

 

「なるほどね……。大体は理解できた」

 

 

 色々と詰め込みすぎて頭の中が破裂しそうなものの、とりあえずの理解は済んだ天。

 喉が潤いを欲してストレートティーを口に含む彼を横目に、颯もまた「大変だったな、お前」と咲太に寄り添う言葉を掛けている。

 

 その光景が、この二人が自分の話を疑っていないことを裏付けていることを咲太は知っていた。

 この二人の目が、態度が、自分の話を聞いた他の人たちとは明らかに違う。

 

 他の人たちは等しく自分のことを変な人を見るような目で見てきたのに、二人は真剣な目で自分を見続けてくれた。

 他の人たちは等しく自分のことを心配するような態度だけで接してきたのに、二人はいつも通り——笑えるくらい、いつも通りだった。

 

 薄っぺらい心配の言葉を向けてこない。

 自分の言葉を真摯に受け止めて、自分の本心を正直に伝えてくれた上で、ちゃんと心配してくれた。

 

 それが、咲太が一番、望んでいたもの。

 

 

「この話をしても、誰も聞いてくれなかった」

 

 

 ただ、話を聞いてほしいだけだった。

 

 

「この話をしても、誰も信じてくれなかった」

 

 

 ただ、話を信じてほしいだけだった。

 

 

「二人が僕の話を信じてくれるのはもう分かってる。けど、聞かせてほしい」

 

 

 だから咲太は問う。全てを話した今。

 この二人に、自分が、心の底から親友だと思える二人に。

 

 

「二人は、僕の話を信じてくれるか?」

 

「「信じる」」

 

 

 この短時間で、何度も交わしたやりとり。その返答は決まって同じ。

 今度こそ、一言一句乱れなく、同じタイミングで言葉が重なった瞬間だった。

 

 言葉の返答が早すぎると、その言葉の信憑性が危ぶまれるケースは多々ある。けれど、今のはそれには全く当てはまらない。

 力強い目つきが、それを証明していた。これまでの咲太に向ける態度が、それを物語っていた。

 

 

「お前らは、本当に……ほんとうに……!」

 

 

 バカだな。

 

 そう言い繋ぐはずの咲太は、意志とは反対に口を閉ざす。

 感情の第三波が心を強く揺らす感覚に、再び布団の中に顔を埋める。

 

 今、それを言葉にしようとすると、泣き声となって出てくると思った。

 分かっていても、当然のように言われたそれに、唇の震えを止めることはできなくて、声が情けなく震えると思った。

 

 黙って、見守る二人。なにか言いたげな颯の視線が天に向けられると、天は身振りで「お先どうぞ」と伝えた。

 それを受けて、颯は想いを紡ぎ出す。

 

 

「ダチの言葉を信じない理由はない。俺ん中にあるのはそれだけだ。どんなことだって素直に信じてやるのが『友達』ってもんだと俺は思ってるし、それが親しいなら尚更だ」

 

「わぁお。すっごい男前」

 

「当然だろ? つか、咲太の話を聞いて信じない方がおかしいぞ。こんだけ詳しく話せんのに疑う余地なんてあんのか?」

 

 

 当然かのように語る颯。否、彼からすれば当然のことなんだろうなと咲太は思う。

 神崎颯とは、こういう男なんだ。友達想い——友達想いすぎるほどに友達想いで、すごく優しい人。

 

 彼には疑う選択肢などない。信じる以外にすることはなくて、誰もが「嘘だ」と一蹴りする咲太の言葉たちを、彼は信じるための材料にしたのだ。

 

 誰もが嘘だと言った、それを。

 

 

「僕は、嘘つき呼ばわりされた。話すこと全部が嘘だ、って否定されたんだ……!」

 

「そんなこと言わねぇよ」

 

「みんなみんな、信じてくれなかった! 話せば話しただけ、離れていった!」

 

「信じるし、離れたりしねぇ」

 

「僕は、孤立したんだ……っ!」

 

「してねぇし、させねぇ。俺と天がいる限り、お前はひとりじゃねぇよ。心配すんな」

 

 

 感情的になる咲太の悲しみに満ちた声を、落ち着いた颯の頼もしい声が全て柔らかく受け止めている。

 同じ男性という性別かと疑ってしまうくらい、男前な発言だった。天が思った通り、やっぱりこういうのは颯が適任だった。

 

 包容力のある男だと思う。相手の心を優しく包む発言から、背中を強く押す発言まですっと出てくるなんて、天にはできない芸当だ。

 どうやら、彼は人生二周目らしい。そうじゃないとこの発言に説明ができない。

 

 そんなこと絶対にないけど。

 

 

「ーーーー」

 

 

 そう思っていたとき、話し終えた颯が視線を送ってくる。

 「お前もなんか言ってやれ」と。そう言わんばかりの目だった。

 

 もちろん、言いたいことはある。けどそれは、颯みたいにカッコいい言葉じゃないから、自信を持って言えないけど。でも、自分の本心だから、

 

 

「正直に話すとね。咲太」

 

 

 「なんだ?」と、涙ぐむ咲太の声が返ってくると、天もまた想いを贈り始めた。

 

 

「今、咲太がしてくれた話、とてもじゃないけど信じられることじゃない」

 

 

 言うと、咲太の息を呑む音がして。颯の視線が咲太から自分に向けられた。

 誤解を招く前に「でもね」と天は即座に否定を挟み、

 

 

「信じるよ。咲太は、捻くれてて、空気読めるのに読まないところがあって、どちらかといえば周りから浮くタイプだけど」

 

「それ、お前にだけは言われたくない」

 

「うるせぇよ」

 

 

 的確なツッコミを入れてくる咲太に、天はぶっきらぼうに返す。

 小さな笑い声に言葉を乗せた彼は、自分の声をふっと真剣な声色に戻すと、

 

 

「だけど、咲太は良いやつだって、俺たちは知ってるから。妹さんのために必死になれる良いお兄ちゃんだって、伝わってくるから」

 

「だから僕は——」

 

「お前は、誰がなんと言おうが良いお兄ちゃんなんだよ。いいから黙って聞きやがれ」

 

 

 兄貴で在る自分を否定しようとする咲太の言葉をその一言で蹴散らす天。

 素の自分が現れたことが、それが彼の心からの声だと語っているようなものだ。

 

 だから咲太は言葉を止め、天の話を最後まで聞く。

 自分のキャラじゃないからと言って普段は内側に隠す彼の本当の言葉を、しっかり心の中に保存するために、耳を澄ませた。

 

 

「お前はどう思ってても、俺は……俺たちはそう思ってる。お前がなにを感じて、なにを思って、なにを考えて、自分が兄貴としてダメだって言ってんのかなんてどうでもいい」

 

「ーーーー」

 

「妹がいじめられて不登校になった、体に傷ができた、その妹に学校をサボってまで寄り添った。傷がなんなのか知るために、思春期症候群について調べた。妹のことを考えて考えて、考え続けた」

 

「ーーーー」

 

「いじめられた人に寄り添う、ってどれだけ難しいことか分かる? 咲太、お前はすごい人なんだよ。妹さんのために頑張れる、良い兄貴なんだよ。それは変わらない事実(もの)なんだよ」

 

「ーーーー」

 

「絶対に否定しちゃいけない、大事にしないといけない。お前の良いところなんだから」

 

 

 勢いに任せた感情の羅列。畳み掛けるように言い続けた天の想いは、天が思っている以上に咲太の心に響いていた。

 

 妹や弟のいない天には、咲太の立場が分からない。けど、誰かのために自分を犠牲にできることは、とてもすごいことだと思う。

 優しくなければ、できることじゃない。寄り添う覚悟がなければ、できることじゃない。

 

 梓川咲太は、誰がなんと言おうが、良い兄貴なんだ。

 

 

「そんな人の言葉を、疑う気になんてなれないよ」

 

 

 だから天は、自信を持って言える。

 

 部活以外では、あまり自信が持てない自分だけど。自分に対して否定的な言葉をかけることが多い自分だけど。

 こんな、自分だけど。

 

 

「嘘じゃない。本当のことだ。咲太の言っていることは全部本当だと信じる。信じれない気持ちがゼロではないけど、それでも信じるよ」

 

「そこでゼロじゃない、って正直に言うあたり、お前らしいな」

 

「友達に嘘はつきたくないからね」

 

(ちげ)ぇねぇ」

 

 

 笑いかけてくる颯に笑い返し、天は小刻みに震える咲太の肩にそっと手を乗せる。

 信じれない気持ちがある、と。ストレートに言ってくれる気遣いの無さが、咲太にとっては変に嬉しく感じられた。

 

 信じれないけど、それでも信じる。そう言われた方が咲太は安心する。

 なら颯のはどうなのかと自問自答するけれど、颯のは颯ので安心する。

 天には天なりの、颯には颯なりの、方向性は違うけれど、温かい優しさがあることに気づいた。

 

 その優しさに、少しだけ甘えてみたくなった咲太。

 彼は、自分の悩みを打ち明けることにした。

 

 

「天、颯」

 

 

 名を呼ぶと、天からは「ん?」と一文字返答が、颯からは「なんだ?」といつも通りの返答が返ってきて。

 それが自分の言葉を受け入れる姿勢を作ってくれたのだと思いながら、

 

 

「僕は、花楓とどう接したらいい?」

 

 

 自分勝手で、難しい問いを投げかける。

 答えを望んでいるわけじゃない。ただ、この二人ならばどういう答えを出すのかを知りたい。

 

 それぞれ別々の優しさを持った二人は、自分が目を背けたそれと、どう向き合うのか。

 

 

「僕は、花楓になにもしてやれなかった。苦しい気持ちに押し潰される妹を、兄として助けてあげられなかった。あれだけずっと一緒にいたのに、僕は……っ!」

 

 

 もう二度と、「お兄ちゃん」と呼ぶ花楓の声を聞くことはできないかもしれない。

 もう二度と、花楓としての笑顔を見ることはできないかもしれない。

 もう二度と——花楓には会えないかもしれない。

 

 一番近くにいて、寄り添っていた。否、寄り添っていたつもりだった。

 一番近くにいて、助けていた。否、助けていたつもりだった。

 

 全部が全部、咲太が自分の中で「やれている」と思っていただけで、本当は妹になに一つとして、やれていなかった。

 その結果が今だ。これじゃ、意味なんてない。残ったのは胸を張り裂く深い後悔と、自分への強い怒りだけだ。

 

 そんな自分は、自分は———。

 

 

「僕は———兄失格だ」

 

「じゃあ、今からやり直してやれよ」

 

 

 自責の念に駆られる咲太の意識外から、不意に颯の声が飛び込む。

 予想していなかった言葉に、反射的に顔を上げる咲太が見たのは、颯の変わりのない力強い目と、真剣な表情。

 止まらない大粒の涙が頬から顎にかけて伝う咲太に、彼はその表情のまま言った。

 

 

「そう思える咲太なら、絶対に大丈夫だ。失格だと思うなら、その分を取り返せるくらい、『今の妹』ちゃんに寄り添ってあげようぜ。妹ちゃんに向けてた優しさを、『今の妹』ちゃんにも向けてあげようぜ」

 

「今の……花楓?」

 

「そうだ」

 

 

 この場合、咲太を励ますのは同じく妹がいる颯だと思う天は、咲太の肩に乗せた手を膝下に戻しながら、口を閉じた。

 同じ立場であるからこそ、伝わるものもあるだろう。自分の中でそう判断して、後のことを頼もしい親友に委ねる。

 

 颯がその意志を受け取ったかどうかは分からない。けれど彼は椅子から立ち上がり、体をこちらに向ける咲太の両肩をガシッと掴むと、

 

 

「俺だって、俺の妹がお前の妹みてぇになった、って考えたら胸が裂けそうだ。実際に想像して、お前たちに情けねぇ姿を晒した。だが………」

 

 

 揺れる咲太の瞳。そこから溢れ続ける涙の意味は分からない。

 しかし、なにも泣きたいのは咲太だけじゃないと颯は思う。苦しいのは、彼だけじゃないと思う。

 

 だって、

 

 

「『今の妹』ちゃんは、それ以上に胸が裂けそうな思いなんじゃないのか? 俺以上に、お前以上に、泣きたいんじゃねぇのか?」

 

「ーーっ!」

 

 

 掴んだ両肩がビクンと跳ね、咲太の両目が大きく見開かれる。

 なにかを思った吸息音が彼の口元で立つが、言葉になることはない。

 

 考えたこともなかった。

 今、そう今。今こうしている間、同じ病院に入院している花楓が何を考えているかなんて。

 自分のことで精一杯で、消えてしまった花楓のことばかりを引きずっていたからか。

 

 そうに決まっている。

 

 それが当たり前だ。十三年間も一緒にいた妹が消えて、新しい人格が妹の体に生まれた。その新しい人格を気にする余裕なんて、誰だってありはしない。

 

 『今の花楓』と話す度に、『いなくなった花楓』の姿が脳裏を過る。

 花楓の姿なのに、花楓とは全く違うことをされる度に、『いなくなった花楓』の姿が脳裏を過ぎる。

 なにをしても、されても、『今の花楓』ではなく『いなくなった花楓』の姿が脳裏を過ぎって、過ぎって、止まらない。

 

 誰も『今の花楓』を見ていない。誰も『今の花楓』を欲していない。『今の花楓』ですら、『いなくなった花楓』になろうとしている。

 それが当たり前——当たり前であることが、『今の花楓』にとってどれだけ苦しいのか。

 

 考えたことが一度でもあったか。

 

 生まれてから自分の存在を否定され続ける『今の花楓』の苦しみを、一瞬でも考えたことがあったか。

 

 

「今なら、まだ間に合う。咲太、お前だ。お前なんだ。今の妹ちゃんを救えるのは、お前しかいないんだ! ずっと寄り添ってきたお前にしか、妹ちゃんは救えないんだよ!」

 

「ーーーっ!!」

 

「昔の妹ちゃんを重ねて辛い気持ちは分かる! でも、それじゃ今の妹ちゃんはどうなる!?」

 

 

 掴んだ肩を揺り、颯は感情的に言葉をかける。涙が止まらない咲太の心を、彼は励まし続けた。

 

 

「昔の妹を忘れろとか、そういうことを言ってんじゃねぇ。忘れられるわけがねぇ! ンなことくらい言われなくたって分かってる!」

 

 

 どうすればいいのか分からなくて、蹲ることしかできない友人に、颯は言葉をかけ続ける。

 今、今じゃないとダメなのだと。事が起こった今だからこそ、伝えなければならないのだと。

 

 颯が言いたい一番のこと。

 

 それは、

 

 

「今の妹ちゃんも、昔の妹ちゃんと同じようにお前の妹だろうが、っつってんだ! 心が変わったって、花楓ちゃんはお前の……世界に一人しかいない大切な妹だろうが!」

 

「ーー! 僕の……妹」

 

「そうだ! お前の! 妹だ!」

 

 

 はっとした咲太が溢した言葉に敏感に反応し、颯は強く叫ぶ。

 自分の言うことを咲太の心に全て叩きつける彼は、力のあらん限りを尽くして懸命に言葉を紡ぎ続けた。

 

 息を切らし、咲太の患者衣をしわくちゃにしながら言い切った颯。掴んだ肩を解放する彼は椅子にどかっと座り、咲太を見る。

 

 凄まじく、涙でくしゃくしゃになった表情だった。嗚咽と呼吸が混ざり合い、外に見せれるものではない。

 拭っても拭っても溢れる涙は止まらず、隠せる量ではなかった。

 

 我慢していたものがぶわっと溢れたようなそれに、颯は落ち着いた声で、

 

 

「兄貴になってやれよ、咲太。お前は、その子の兄貴になって、安心させてやれ。お前にしかやれないことだ」

 

「僕は………」

 

「迷子になった妹を見つけて、ちゃんと手を繋ぐのが兄貴の仕事だ。そんで、その手はぜってぇに離すな。兄貴なら、最後まで繋いでやれよ」

 

 

 「それが、兄貴の役目だろ?」と。

 

 じっと黙って聞く姿勢を貫く天の横で、颯は咲太に問いかける。

 その瞬間、狭まった視界が一気に広がっていくような、不思議な感覚に咲太は飲み込まれた。

 

 心のどこかでは分かっていた。分かっていたのに、分かってあげられていなかった。

 今の花楓は、『花楓』ではなくて『かえで』なんだと。

 一つの心を持った一人の少女で、その少女だって自分にとっては大切な妹なんだと。

 

 その事実から、自分は逃げた。『かえで』を見ると『花楓』になにもしてやれなかった自分を見るようで、嫌だったから。

 その自分を、心に叩きつけられているような気分になって、吐き気がしてくるから。

 

 そんな自分が、兄を名乗ってもいいのだろうか。

 こんな自分が、『かえで』の兄になってもいいのだろうか。

 そんな疑問ばかりが頭の中を埋め尽くす。

 

 颯は、そんな自分に尚も言った。

 

 

「お前しかいないんだ。お前しか。『今の花楓』ちゃんに寄り添えるのは、お前以外に誰もできねぇんだ。なら、やるしかないだろ? 根性見せろよ、ここが踏ん張りどころだぞ。——兄貴」

 

「………あぁ。分かった」

 

 

 自分の中でなにかが固まる音がして、咲太は二人と話し始めて、初めて力強い返事を返す。

 

 颯の言葉が、優しさが、『花楓』になにもしてやれなかった自分を許してくれたのだと分かって。

 その上で、そこで終わるなと強く背中を押してくれたから。

 『かえで』と向き合う勇気を、くれたから。

 

 止まらなかった涙を全部拭い、鼻を啜る。涙でボヤけていた世界を瞳に鮮明に映し出すと、咲太は目の色を変えた。

 覚悟と、決意。その二つの炎を宿す目。颯の激励を全身で受けた彼は、その目を颯に向け、

 

 

「颯」

 

「なんだ?」

 

 

 鼻声で、言った。

 

 

「ありがとう」

 

「やめろよ、水臭ぇなぁ。俺たち友達だろ?」

 

「その言葉、僕は世界で一番信用できないな」

 

「なんでだよ。信用しろよ」

 

 

 咲太の冗談混じりの態度に颯がからから笑い、釣られて咲太が笑う。

 咲太が笑って、颯が笑う。何が面白いのか互いに分からないけど、なんだか面白かったから、二人は高らかに笑い合った。

 

 

 ——その咲太の笑みは、雨上がりの青空のように晴れたものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの、俺、存在感空気なんですけど」

 

「元からだろ」

 

「そうだな」

 

「え」

 

 

 

 

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