ブタ野郎とバカ野郎シリーズ、最後のやつです。
咲太の表情が無事に晴れたところで、颯と天は心の中でほっと一息。
彼と再会したときはその態度の沈みようにどうなることかと思ったが、一応、元気づけることはできたようだった。
病室に入ったときに見た、比喩表現でもなんでもない言葉そのままの意味で目が死んでいた咲太の目には、いつも通りの活気が戻っている。
表情も話し始めたときと比較して遥かに柔らかくなっているし、纏う雰囲気もリラックスしているように感じられた。
妹のこと。思春期症候群のこと。咲太のこと。
話された内容を並べると三つと少ない。
けれど、一つ一つ濃密すぎて三つだけでも頭の中がキャパオーバーで破裂しそうなそれらを、颯と天は受け止めて受け入れ切ったのだ。
全てを理解したわけじゃない。
全てを解決したわけじゃない。単に自分たちは咲太の心を立て直させただけで、大きな問題はまだ残っている。
それでも、咲太の安心したような顔を見ると、一旦は落ち着けたのだなと二人は思えて。
まだ解決しなきゃいけないことは残ってるけど、とりあえずは終わったのだと思えた。
ひとまず、一区切りということだ。
「——そういえば」
閉め切っていた窓を開け、空気の入れ替えをした病室にふと思ったような咲太の声が立つ。
色々と話し終わって無事に泣きっ面を二人の前に晒した彼は、その二人に「いい泣きっぷり」と揶揄われながらも、今は談笑の時間に浸っていた。
先程のどんよりした空気から一旦、ゆるい空気が満たす空間で、寝台に座る彼は二人を見ると、
「二人とも、学校はどうした? 今日は土日でもないし普通にあるだろ?」
話している最中は意識に入らなかったこと。それは、今日が普通に平日で、中学校があるという事実だ。
現在の時刻は午後三時を回った頃。いつもならば、五時間目に襲いかかった睡魔を引き継いで六時間目に突入、授業と睡魔の板挟みになる時間帯だ。
それなのに、どうして二人は自分の目の前にいるのか。本当なら今頃、学校で黒板の文字をノートに写しているはずなのに。
格好が制服じゃないから、自宅に帰って着替えてから来たのだと想像できる。
となると、咲太の知らないイレギュラーがあって学校が早く終わったか。あるいは、そもそも休みになったか。
だとしても、バレーボールガチ勢の天が部活というものを無視するとは考えずらい。
色々と考えて、結局のところ二人に聞かないと分からないという結論に至った咲太。
考えることを止めた彼に二人は「そりゃもちろん」と笑って言った。
「抜け出してきた」
「咲太の様子を見るためにな」
「だから明日は
「まぁ、どぉってことねぇけど。お前と特指、天秤に掛けるまでもねぇ」
言われて、咲太は三秒間だけ唖然。
一秒目で、言葉の意味を瞬時に理解して。
二秒目で、二人がどんな状況で自分が入院する病院に来てくれたのかを頭が理解して。
三秒目で、心が端から端までじんわり温められていくような安らぎを得る。
その三秒間を越えた彼は「はぁ」とため息。微笑が混じったそれを溢すと、勝手に釣り上がる頬を隠すために顔に手を当てながら、
「お前らって、ほんとにバカ野郎どもだな」
と、呆れるように笑った。
▲▽▲▽▲▽▲
あまり長居するわけにもいかなかった颯と天。
二人は、その笑顔を満足そうに見届けたのを最後に、病室から退出することに。
本当はもう少し話していたい。というかずっと話せるが、颯が「悪い、これから空手があるから」と話を切り出したことで話は終わった。
悔いはない。言いたいことは余すことなく伝えたし、伝えられた。
自分たちの言葉が咲太の心に響いているかなんて、考えるまでもないだろう。
咲太の表情に浮かぶ笑顔が、それを何よりも雄弁に物語っていたから。
だから二人は部屋を出る際、
「妹と向き合うから、応援してくれ」
と、素直に励ましの言葉を要求してきた彼に親指を立ててグーサインを突き出しながら、
「頑張れよ、兄貴」
「味方になってあげてね」
それだけ言って病室から退出した。
適切な言葉はなんだとか、そのような余計なことは考えなかった。励ましの言葉を欲されて、ぱっと思いついた心の声を音にして届けただけだ。
それ以上は要らなかったし、無粋だったと思う。
逆に、言葉にしてしまうと咲太に届ける思いが薄れてしまうような気がして、そこから先の言葉を作る気にはならなかった。
病室を出て、来た道を戻る二人。
七階からエレベーターで一階に降りて、面会者シートと面会バッジを受付カウンターのお姉さんに返し。
出入り口の自動ドアを通り抜けて病院を出て、少し歩いたところにあるバス停に並び、
そして、
「——はぁ」
二人して、深く息を吐く。
胸の中に蓄積していた疲労。心の中に積もった自分を揺さぶってくる動揺。体に重くのしかかった緊張。
咲太と話している中で、体の外と中に入ってきたそれらを、今の息に込めて一気に外に放出した。
だらりと肩を落とし、一直線に伸ばし続けていた背筋が弱々しく折れ曲がる。
「疲れた……」
「流石にな」
咲太の前では意地でも見せなかった姿が外側に露出したとき、それは二人が完全に気を抜いた瞬間だ。
颯は、すぐ後ろにある長椅子にどかっと座り込んで真っ白に燃え尽きたポーズ。
天は、その場にしゃがみ込んで組んだ両手を額に当てている。そのしゃがみ方がヤンキー座りなのは見慣れた颯である。
その疲労感を思わせる様子の度が過ぎていたのだろう。通りかかったおばちゃんに「あんた達、大丈夫かい?」と早くも心配された。
「問題ない」と「大丈夫です」という男二人の声におばちゃんの「そうかい? あんまり頑張りすぎるんじゃないよ」と言う声が返されると、おばちゃんは通り過ぎて行った。
遠ざかる足音を聞きながら、天はもう一度「ふぅ」と息を吐いて、
「咲太の顔を見るつもりだったのに、あんなドラマばりの話を聞くことになるなんて……」
「まさか、だよな。正直、俺もビビったぞ」
知らず知らずのうちに緊張が積もっていたのかもしれない。感想を共有する二人の声は明らかに疲れており、気が滅入りそうな気配が漂っていた。
いくら受け止めて受け入れると言っても、所詮は中学三年生。許容範囲なんてたかが知れている。
大人ですら受け入れることができなかったそれを、義務教育を終えていない子どもの精神力が許容できるわけがない。
現在の時刻は午後の三時。朝から胃の中に何も入れられていない空腹状態も相まって、精神的にも肉体的にもバテそうだ。
よれよれの颯と天。バスに乗って藤沢駅に着いたら、コンビニで遅すぎる昼食を買うのだと心に決める二人。
立ち上がる天は「でもまぁ」と、肩がけバックを肩に掛け直しながら、
「咲太が元気になってくれてよかったね」
「そうだな」
「その代わり、俺らがへにゃへにゃになったけど」
「ダチのためだ。仕方ねぇ」
ストレートティーをぐいっと最後まで飲み干す天に、腹に手を当てる颯が苦笑。
腹の底から手の平に響いてくる地鳴りのような空腹の音を聞くと、「あー、はらへったぁ」と吐息混じりに呟いた。
その声を聞きながら、青空を仰ぐ天。彼もまた己の空腹を感じ始めた。
昼食は咲太のことを学校中に聞き回っていたから、米粒一つも食べれていない。今頃、母親が作ってくれた弁当はバックの中で着々と腐っているだろう。
申し訳ない気持ちはある。しかし、あまり食べる機会のないコンビニの物を食べる理由ができて、ちょっとだけ嬉しかったり。
父親から渡された交通費は交通費と呼ぶにはあまりにも大金で、結構な額が余ってるから好きなものを買えそうだ。
「咲太。ちゃんと妹さんのお兄ちゃんになれるといいね」
「なれるだろ。アイツだって男だ。やるときゃやる。それに、妹のためにあんなに泣ける兄貴が、妹と向き合えないわけがねぇしな」
要するに、大丈夫ということだ。
自分らが余計な心配をしても意味はない。今はただ、彼からの良い報告を待つのが友人としてやれること。
そんな風に言う颯は、ポケットから取り出したスマホをいじくり始めた。様子から察するに、完全に咲太のことを信頼したらしい。
自分たちのやれることは尽くした。そうなればできる事といえば待つことだけである。
そんなことは天にだって分かる。が、分かることと気にしないことはイコールではないのだ。
気になってしまうものは気になるし、心配してしまうものは心配してしまう。
尤も、今の自分がそんなことを思ったとしても無意味だろう。
それは自分の焦る心を満足させるためのものにしかならないし、気にした分だけ不安な思いは膨らんでしまう。
結局のところ、咲太を信じることしかできないのが現状だった。
スマホに意識を向けた颯を横目に、そんな結論を自分の中で出して納得する天。
彼もまたログインボーナスを貰うためにスマホをポケットから取り出し———、
「———あ」
「どした?」
取り出そうとして、不意に気づく。
スマホが無いとか、そんなのではない。今のは、頭の中で勝手に行われていた議論の末に導かれた答えに、反応したのだ。
スマホに向けていた意識の半分を颯に向けられる中、天は「なるほどね」と一人で頷き、
「噂の正体。分かったかも」
「噂……? 咲太のやつか?」
噂の一言で話の中心を当てた颯に「そう」と天は頷く。
やっと心の中にあったもやもやが晴れた爽快感に、「あー、分かった分かった」と言いながらニヤリと笑った。
咲太の噂——自分たちが咲太の居場所を掴むきっかけとなった病院送り事件。
内容としては、咲太が同級生を何人か暴力沙汰で病院送りにしたという、咲太のことを知る人間ならば絶対に「ありえない」と言えるものだ。
その噂、天の予想が正しければ一から百まで間違っている。一が下限で百が上限だ。
病院という単語は間違っていないかもしれないが、それ以外の全てが捻じ曲がりすぎている。
あの噂によれば咲太が同級生を病院送りにしたが。実際に病院に送られたのは同級生ではなく、
「咲太が病院送りにされたんだよ。多分、咲太が胸の傷で病院に搬送された、ってことが曲解されて曲解されて、最終的にあんな形になっちゃったんだと思う」
「なんだよそれ。事実とカスってもねぇじゃねぇか」
「くだらねぇ」と。
誰が意味の分からない曲解を始めて広げたのか不明な噂を鼻で笑い飛ばす颯。
遠くから藤沢駅行きのバスが近づいてくる音を耳にした彼は、立ち上がりながらスマホをポケットの中に入れて、代わりにSuicaを取り出すと、
「ほんっと。噂って当てにならねぇのな」
「そだね」
適当な返事をしてくる天の後に続いて、停車したバスの中に乗り込んだ。
明日、学校に行ったら、噂はただの噂で本当は全然違うことを友達の全員に教えてやろうと、そう思いながら。
▲▽▲▽▲▽▲
バスに乗ること、早二十分。
行きと同じ程度バスの中で過ごした二人は、流れる街並みを眺めながらたわいもない話を広げつつ、特に何事もなく無事に藤沢駅に到着した。
乗り始めてから十分ほど経ってから、天が唐突にバス酔いを起こし「うぅ」と唸っていたが、降りたら回復していたし問題はないだろう。
とは、昼食を購入したコンビニから出てきたときの颯の感想。
外で待っていた天に「おかえりー」と手を振られている。様子を見るには、普通に元気そうだった。
藤沢駅に着いたら、なにより先に近くのコンビニに急いだ二人。彼らは各々が昼食を購入し、色々と入ったビニール袋を片腕からぶら下げてコンビニから出てきた。
ファミレスやフードコートで食べる案も颯の口から出たが、天に「空手があるんでしょ?」と指摘されて没に。
そして、現在。
藤沢駅二階、JR改札前。
「颯。俺は、ちょっと行きたいところができたから、お前とは別んとこにいく」
だんだん近づいてくる改札を見ながら、颯の横に並ぶ天がそんなことを言い出した。改札に到着するまでは一分もない。
この辺に来たのは初めてで、そう言われても天がどこに行きたいのか分からない颯。
スマホで海の画像を見る天に彼は「行きたいとこ?」と小首を傾げると、
「なにやら、この近くに七里ヶ浜という海辺があるらしい。江ノ電に乗れば一本で行けるらしいから、ちょっと行ってくる」
「ほら」と、スマホの画面を見せられた颯が見たのは太陽に照らされた海と砂浜の画像。
画像だから美化されている可能性もなくはないが、中々に綺麗な場所だと思った。
心なしかそわそわしてる天。内に秘める感情が体から溢れるのを見ていると、ふと、颯はあることを思い出す。
春休み、天がボソッと呟いていたこと。それを聞いた自分が、その場所に行くために密かに計画を立てていること。
それは、
「そっか。お前、春休みに海に行きたいとか言ってたもんな」
「うん」
そわそわと言うよりも、わくわくしているように見える天。
その表情は、幼い冒険心と活発な好奇心に満ち溢れている。
いつそんな情報を調べたのかは知らないけど、知ってしまったからには放っておけないらしい。
頷く天の視線は、既にJRの改札を向いていない。天井から垂れ下がっている誘導看板——『江ノ島電鉄線』の横文字に固定されていた。
「学校には戻らないのか?」
「戻っても特指食らうだけだし。ここまできたら全部サボる」
意志は固い。
流石のバレー大好き運動大好き人間も、冒険心と好奇心に勝るものはなかった。
意外と行動力のある空野天。咲太の件といい、今回といい、割と感覚で動く彼の目は期待にきらきら輝いており、その無邪気な目に颯は適当に笑っておく。
特に止める理由もない。どうせなら自分も行きたいところだが、自分には海よりも大切な空手というものがある。
「なら、ここでお別れだな」
すぐそこにある改札からピッという電子音が耳に流れてくるのを気にしながら、颯は天の肩をポンと叩いた。
それから「じゃ」と手を上げると、
「今日はサンキューな。お前がいたから咲太にも会えたし、元気づけられた。助かったぜ」
「ん。また明日ねー」
「おー」
気の抜けた颯の返事が、今日最後の会話だった。改札を通る人の流れから抜ける天が、すっと横に飛び出し。
流れに流される颯が、Suicaを改札にタッチして開いた改札の奥に消えていく。
別れれば、それからあとは続かない。別れが名残惜しくもない二人は特に振り返ることもせず、各々が目的の場所を目指して歩いて行った。
こうして、約二ヶ月も続いた梓川咲太を中心とした事件は、一段落したのだった。
▲▽▲▽▲▽▲
視点は、目的地を七里ヶ浜に定めた天。
颯と別れた彼は、誘導看板を道標として藤沢駅の中を歩いていた。
この時間帯だと学校帰りの学生もちらほらおり、恐らく帰宅途中の高校生と思われる人の流れが真横を通り過ぎている。
多分、江ノ電から出てきた流れだろう。
ーーこの流れに逆らって歩けば着くかな?
最寄りの駅以外に一人で出たことがない天。完全に未知の領域をたった一人で歩くことに、抵抗がないわけではない。
不安な気持ちが少々。誘導看板があるから迷うことはまずないと思いたいが、少しばかり緊張する。
今、落ち着いて歩けているのは、それを遥かに上回る冒険心と好奇心があるからだろう。
自分は今、片手で数えられる回数しか訪れたことのない海に行こうとして、楽しんでいる。
この感覚は——RPGゲームで新エリアに足を踏み入れたときの感覚に近い。
新しいマップ、ギミック。見たこともない敵。隠された宝箱などなど。
なにがあるか全く分からない場所を探検する、胸が踊る感覚。
自分は、そんな感覚に包まれていた。
ーーお、外だ
学生の流れに逆らい、誘導看板を見ながら歩いていると外に出た。外の景色が見えた、の方が表現としては適切かもしれない。
吹き抜けの——自分が出てきた建物とどこかの建物を繋ぐ橋のような場所には所々にお店が並び、それなりに賑わっていた。
現在、天が歩いているのは、小田急とJRの改札がある藤沢駅と江ノ電の改札がある藤沢駅の、二つの藤沢駅を繋ぐ連絡通路。
吹き抜けであることから外の景色が見える解放的な空間で、直線的な長さにして約三十メートル程度と通路にしてはやや長い。
見える景色を眺めながら歩く天。
高校生の流れはまだ続いていて、最後尾を見ようと少し先に目を凝らすと、遠くの方に『江ノ電藤沢駅』と書かれた看板が見えた。
どうやら、自分の予想は正しかったらしい。胸に手を当ててほっとする彼は、少し早足で駅へと向かった。
——駅に着いたのは、それから三分後のこと。
連絡通路を渡り切り、江ノ電藤沢駅のある建物に移動した天。
彼はその後も誘導看板に従って順調に歩き、左右に並ぶカフェやショッピングモールの入り口を通り過ぎ、無事に『江ノ電のりば』と書かれた場所に到着した。
Suicaをかざして改札を抜ければ、駅のホームはすぐ目の前。
もう一つの藤沢駅のようにごちゃごちゃしてなくて分かりやすい。それを見ていると、前に横浜駅で十分くらい迷った記憶が脳裏に過った。
更に分かりやすいポイントが、この駅が単線路線であることだ。
線路が一本しか通っておらず、一つの電車のために作られたような構造だからシンプル。
どんな方向音痴だろうが、この駅では迷いようがない。だって一本しかないのだから。
そんなことを思いながら、天はホームで電車を待った。
▲▽▲▽▲▽▲
電車のドアに寄りかかりながら、ゆらゆら揺れる感覚を体に感じる。
十二分ほど待った電車に乗った天は、ぼーっとしながら流れる景色を眺めていた。
スマホは眺めていない。眺めると酔いそうだから。
それに充電をしていなかったせいで、ポケットの中に入っているスマホの命はあと十五パーセント。
帰りの電車を調べることを考えると、危なそうだから電源は切っておいた。
故に、昼食の入ったビニール袋を右腕からぶら下げる天は外の景色を眺めるしかない。
目的地の七里ヶ浜が目の前にある『七里ヶ浜駅』まで二十分。景色を見て暇を潰す。
のだが、
「いや、民家……近すぎだろ」
石上駅、柳小路駅、鵠沼駅と順調に進む電車。そこから見える景色は、はっきり言って良いものとは思えなかった。
江ノ島駅まではそれなりに開けていたが、そこから先がすごかった。
民家、民家が近い。近すぎる。窓から手を出せば当たるのでは。というか、庭からはみ出す植物の枝や葉が車体に掠っている気がする。
周囲の建物と電車が当たっていてもおかしくない。気づいてないだけで、実は掠っているのではなかろうか。いや、普通に怖い。怖い怖い。
そんな天のおっかなびっくりな感想を置いて、電車は進む。次の腰越駅に停車すると、プシューと音を鳴らしながらドアが開いた。
七里ヶ浜駅まであと二駅。次の次。そこに着いたら冒険心と好奇心をくすぐる海が見えるはずだ。
扉が開いてから三十秒して、発車のベルが鳴ると同時にドアが閉まる。
ゆっくり、電車が動き出し、再び民家の擦れ擦れを走る絶叫アトラクションの開始。
民家に次ぐ民家。石垣に次ぐ石垣。ちょっと短い踏切が見えたかと思えば、また民家。
これじゃ景色が楽しめない。けど、どうせもう少しで着くからそれまでの辛抱。
そう、思っていたときだった。
「———わぁ」
不意に、民家に閉ざされていた世界が一気に広がる。
瞬間、建物によって遮られていた日光が目に飛び込み、眩しさを感じて目を細めた。
見えたのは、果てしなく続く水の世界。太陽の光を反射してきらきら輝くそれは、世界における夏の風物詩——海だ。
見えたのは、海を見下ろす青白い世界。海を見下ろすそれには大小豊かな雲が泳ぐ——空だ。
「すごい………」
無意識に、感嘆の声を漏らす天。彼は、予兆もなく広がった二つの世界に目を奪われている。
狭かった視界が急に開ける謎の演出も相まって、その感動の度合いは高かった。
目の前の光景から目が離せられない。今、きっと自分は誰かに声をかけられても無視して、この光景に集中してしまうだろう。
焼きつく光景が、とても綺麗すぎて。初めての経験が、とても衝撃的すぎて。
自分が息を呑んでいることすら忘れて、天は「わぁ」の口のまま光景に齧り付いた。
今日が晴れていて、本当に良かったと思う。この電車に乗って良かったとも思った。
多分、あの海の砂浜が七里ヶ浜。となれば、自分が見ている海こそが目的地。
「……早く降りたい」
七里ヶ浜駅まではあと二駅。既に次の駅には走り出しているから、実質一駅のようなもの。
ーーもう少し、あと少しの辛抱
海を見たことで興奮し、その心を静かに表現する天は焦ったい気持ちでいっぱいだ。
すぐそこにあるのに行けない。行きたいのに行けない。次で降りたいけど、七里ヶ浜駅の方が海に近いと書いてあったし。
降りたい。でも降りられない、降りちゃいけない。余計に調べてスマホの電池を消費したくないから。
そんな思いを抱えながら、彼は電車が七里ヶ浜駅に到着するのを今か今かと待ち続けた。そして、
そして———。
▲▽▲▽▲▽▲
晴れた空、地平線の彼方まで広がる青い海。何者も映らないそれをぼーっと見ていると、なんだか独り占めしているような気分になる。
目を瞑り、耳を澄ませば、海が奏でる波の音が聞こえた。
視覚を断ち、聴覚に全神経を注ぐと、自然と心が癒されるような感覚に陥る。
頬を撫でる潮風は心地が良く、ちょっとだけベタつく。けれど、それも悪くないと思える。
そんな世界で、
「——知ってますか」
空野天は、一人の少女と出会った。
「人の目の高さから見える水平線までの距離は、約四キロメートルなんですよ」
自分の未来を左右する、その少女と。
やっと、牧之原翔子のタグが意味を発揮しそうです。