電車に揺られること早二十分。
目の前に広がる海に早く行きたい。けど、電車から降りられないから行けない。
そんな焦らしを受け続けてやきもきしていた天は、ようやく七里ヶ浜に到着していた。
改札を出て駅を出たら左手に曲がり、小さな橋を渡ってちょっとした車の通りに出たら海は目前。
七里ヶ浜駅近くのバス停を通り過ぎ、そのまま真っ直ぐ歩けば、開けた世界には視界いっぱいの海が広がる。
徒歩五分もない。そのままの意味で駅の目の前にあった。
コンビニのビニール袋を片腕からぶら下げた天。
彼は砂浜に降りるための階段を一段飛ばしで降り、最後の四段はぴょんと跳躍して一気に飛び降りた。
無事に両足で着地し、ずざっという音が足元で立つ。体育館と違って足裏に返ってくる衝撃は柔らかい。
そうして、わくわくの冒険を終えた天は目的地に到着。
目をきらきらさせながら少し歩き、押しては引いていく波が足先に当たるか当たらないか、そのギリギリの波打ち際で止まると、
「すっっげーー」
視界の端から端まで埋め尽くす水の大地に感動して、思わず声を漏らす。
目の前の光景に呆然とし、開いた口が閉じれていなかった。
今、自分の意識は確実にこの海に奪われつつある。意識が吸い込まれて、何かに引っ張られている感覚がする。
外側からではあまり興奮していないように見える天。しかしその内側では「ずっけぇ! やっべぇ! パねぇ!」と、小さい天がはしゃぎ回っていた。
記憶に保存されつつある光景の中で走り回る五歳児の天くんが、波打ち際で水をバシャバシャと蹴り飛ばしている。
「ーーーー」
そんな内側の小さい天に反して、外側の大きい天は無言だった。
ただ黙って視界に映る光景に目を奪われ、ぼーっとした様子。一切の音を立てず、呼吸をすることすら惜しむように、波の音に集中している。
どうやら自分は、感動すると静かになってしまうらしい。
高揚する胸の鼓動も、四肢が震える興奮も、今すぐにでも飛び出したい衝動も、全部感じているのに突っ立ったまま。
その集中は、本人の意思では決して途切れまい。故に、途切れるとすれば意識外からの影響で、
「………ご飯食べよ」
今回は、腹の底から響いた音だった。
ぐぅぅ、と。いよいよ限界を迎えた胃袋が雷鳴の如く空腹を知らせている。
途端、意識のど真ん中に『空腹』の二文字が陣取ったせいで体が空腹の疲労で重くなり、重だるさを主張し始めた。
ちょっと前までは、お腹空きすぎて逆にお腹空いてない状態、だったのだが、今はそうでもないらしい。
ならば、今から遅すぎるランチタイム。くるりと体を反転させる天は海に背を向け、砂浜の上をゆっくり歩き出す。
その視線が止まるのは、一段飛ばしで降りた階段だ。
立って食べる元気はないし、かといって砂浜に座りたくもない。となると、砂浜に降りるための階段に座って食べようと考えるのが自然。
ーー人、意外と少ないんだ
階段に着くまでの少しの間で、ふと思って周囲を見渡し、気づく。
実際に七里もあるか定かではない七里ヶ浜。
その近くには大きな駐車場が一つあって、駐車場とくっつく海に面した堤防に座れば、砂浜から高低差があるから良い景色が楽しめそう。
今、そこに座っているのは三人。写真撮影中の中年男性と、多分高校生の多分カップルの多分デート中の男女二人組。
それ以外には、海岸をのんびり歩くご老人夫婦。あとは犬の散歩をしている大人。どちらも自分の場所からはずっと遠くにいる。
あとは、階段を上り切ってすぐの一本の道路沿いを歩く女性。多分、高校生。
海側の歩道を歩く女性は海を見に来たのだろうか、天が座る階段方向に向かって歩いていた。
一瞬、目が合った気がする。ニコリとされた気がする。気がするだけだから放っておく。
広い土地に対して人の数は、自分を含めて八人。天としてはもう少しいると思っていたのだが、違ったらしい。
「その方が、騒がしくなくてちょうどいいけど」
来場者数の感想を呟き、到着した階段に三段ほど上がって座り込む。
やっと落ち着ける場所に身を置くと一息。肩にかけていたバックを隣に置き、コンビニのビニール袋を膝の上に置いた。
今日の昼食はツナマヨおにぎりと、コーンマヨパンと、カレーパン。野菜が無いから気休め程度に200ミリリットルの紙パック野菜ジュース。衝動買いしたチョココーヒー味のパピコ。
あとはお決まりとなった午後の紅茶、ストレートティー。コンビニでは、基本的にこれ以外の飲料は買わない。
値段にして900円弱。交通費と称したお小遣いからすれば、痛くも痒くもない出費。
電子マネーとなった福沢諭吉が「もっと買えばよかろう」と謎の口調で語りかけてきたが、それ以上の出費はやめておいた。
「いただきます」
購入時に付いてきたお手拭きで手を軽く拭き、礼儀よく手を合わせる。それが済めば、天はようやく昼食に有り付けた。
初めに手をつけたのはカレーパン。カレーの甘辛ですら少し辛いと感じるのに、なぜカレーパンを購入したのかは永遠の謎。
口に入れて咀嚼すると、やはり若干の辛味を感じる。口内をひりひり焼くような感覚が、辛さによる痛みだろう。
なるほど。まだ辛さ耐性はマイナス10だった。自分にはバッドステータス『辛さ耐性ダウン[超]』が付いている。
「ーーーー」
くだらない考えを断ち、天は何も考えずに海を見た。
いつも通り、どこを見ているのかも分からない目になると、その意識は再び海に吸い込まれていく。
晴れた空、地平線の彼方まで広がる青い海。何者も映らないそれをぼーっと見ていると、なんだか独り占めしているような気分になる。
目を瞑り、耳を澄ませば、海が奏でる波の音が聞こえた。
視覚情報を断ち、聴覚情報に全神経を注ぐと、自然と心が癒されるような感覚に陥る。
頬を撫でる潮風は心地が良く、ちょっとだけベタつく。けれど、それも悪くないと思える。
「——知ってますか」
そんな自分だけの世界に、不意に声が入り込んだ。
透明感のある、落ち着いた女性の声。女性と表現するにはやや幼く感じる少女の声。
階段を降りる足音がして、誰かと思う。
周囲に人の気配がない——多分、自分に話しかけているのだろうと予想して、首だけ振り返って背中を確認すると、
「人の目の高さから見える水平線までの距離は、約四キロメートルなんですよ」
すぐ真横、自分が座る段から一段上がったところに、一人の少女が立っていた。
微笑みながら、こちらを見下ろしていた。
胸あたりにまで伸びる綺麗な黒髪を靡かせた、澄んだ瞳をした少女。
かわいいと美人のどちらにも捉えられる顔つき。けれど、微笑むその表情は、幼少期の愛嬌をそのまま引き継いだようなあどけなさを孕んでいる。
身長は165センチになる天よりも低めと小柄。向き合ったら頭のてっぺんが、天の口あたりになりそうだ。
ベージュのブレザーに紺色のスカート。その格好から察するに、彼女も学生。
大人っぽい印象を抱かせられるから、きっと高校生。
顔も、名前も、知らない。
はじめましての女子高生。
「えっと……だから?」
そんな少女に対する一言目は、困惑を含んだものだった。
突然に話しかけられて困惑。言葉の内容に困惑。この少女は誰なのかと困惑。
それらをまとめてこの状況に困惑する彼は、頭の理解が追いついていない。
女子慣れしてないこともあって塩対応となった天。その態度に少女は「あれれ?」と、
「あまり興味を持たれていない……? とっておきの知識だったんですけど」
出鼻を挫かれた少女の微笑みが、言葉と一緒に微妙な笑みに変わる。
それでも依然としてこちらを見下ろす少女の笑みは崩れず、見つめているとむず痒くなる天はさっと視線を海に戻した。
その態度。本人としては単に恥ずかしいからしたことだ。女子と話すのなんて久々すぎて平常心を保つことに意識を回してしまう。
が、その態度が少女的には癪に障った。「じゃあ、これはどうですか?」と言いながら、自然な動作で階段を一段降りて天の真横にちょこんと座り込むと、
「今、私と少年が見ている七里ヶ浜って、本当は一里くらいしかないんですよ。それなのに、七里ヶ浜なのって、おかしいと思いませんか?」
と。カレーパンのゴミをビニール袋に片付け、ツナマヨを頬張り始める天を覗き込んだ。
真顔のまま無言で視線を逸らされた彼女は、天が完全に興味を示していないと思ったのだろう。
雑学を自慢げに振り回しながら、天に疑問を投げかけている。
なんだこいつ、と。そう思わなくもない天である。
急に話しかけては真横に座り込んでくる、変な人。かと思えば水平線の話やら七里ヶ浜の話やら、聞いてもないことを披露してきた。
正直、こういう誰にでも話しかけてそうなフレンドリーな颯のような人間は苦手。
だから彼は心の中で「無視しようかな」と思い、ツナマヨと海の景色に意識を集めた。
が、
「あれー? 聞こえてますかー?」
ガン無視する天に、少女は一歩も引かない。
明らかに自分のことを無視している彼を見ても尚、自分の存在を強く押し付けてくる。
「もしもーし」
一分程して食べ終わったツナマヨのゴミをビニール袋の中に放り込み、最後のコーンマヨパンを食べ始めた天に、一歩も譲らない。
自分の姿が見えていないかのように振る舞う天の前で、「おーい」と手を振っている。
「もしもーし!」
一分程して食べ終わったコーンマヨパンのゴミを片付け、お手拭きで口を丁寧に拭く天に、少女はしつこい。
時間にして約二分、ずっとこの状態を保ち続けている。表情一つ変えずに無視できる天もメンタルがイカれているが、それ以上に少女の心臓は鋼でできていた。
流石にここまで無視すれば、少女も自分が無視されていると気づくだろう。気づいて、離れていくはず。
ゴミと飲み物とアイスが入ったビニール袋を膝の横、少女とは反対側に置きながら天はそう思った。
思った矢先、
「ちょっとぉ! そろそろ聞いてくれてもいいじゃないですか!」
「うへぇ!?」
ふわっと甘い香りが寄り、少女の元気な声と共に左肩に命の重みが乗る。
あまりにも大胆な行動に天が変な声を上げ、咄嗟に逃げるように右に身を引いた。
何が起こったか。
痺れを切らした少女——天の左側に腰掛ける少女の両手が彼の左肩にかけられ、そのまま結構な勢いで寄りかかってきたのだ。
顔面偏差値、体型、諸々含めてビジュアル的には良い物件な空野天。
10.0段階で評価するならば6.0〜7.0を平均して得られそうな彼は、しかし無意識に雰囲気が尖るせいで周りから避けられる。
本人の意識的な問題もあってか、遊んでそうなビジュアルに反して女性経験が皆無。どこかの颯と違い、彼は異性とは無縁な人生を送ってきた。
そんな彼が、異性に唐突に寄りかかられたらどうなるか。
答えは既に出ている。
「な、なな、ななななんですかあなた! きゅ、急に寄りかかるとか、頭おかしいだろうが!」
「少年が私の話を無視するからですよ! 私がどれだけ熱心に話しかけても知らんぷりですし、それって失礼だと思いませんか!?」
「いや、知らない人が急に話しかけてきて、変なこと語られたら普通に反応に困るだろ!」
膝横に置いた肩がけバックと色々入ったビニール袋を押しながら横にスライド、少女から距離をとる天。
その頬は赤く、耳まで赤く染まる様は初々しさを見るものに思わせた。否、実際に初々しい。焦って本来の口調が露わになる様子も初々しい。
そんな天に少女は小悪魔っぽい笑みを浮かべると、離れられた分だけ天に近づき、
「知らない人ではなかったらいいんですか? 私が少年と知り合いだったら、少年は私の話をちゃんと聞いてくれますか?」
「いや、そーゆー意味で言ったんじゃなくて……それ以前に俺に近づいてこないでください」
「分かりました。それなら、私から名乗りますね」
「話を聞いてください」
落ち着きのある態度に、若干の溌剌さが混じる少女。
人の話を全く聞かずに話を進められると、天はなぜか真横にいる少女と自分を重ねた。
どれだけ離れようとも拳三つ分の距離を保ってくるのを察し、逃げることを諦める。
あれか。きっとこの子は、自分と同じく己のペースを絶対に崩さない子か。マイペースというやつか。
マイペースな少女。名も知らぬ彼女は「では」と一息つくと、天のことを一直線に見つめて、
「私は
右手を差し出しながら「少年の名前は?」と、にこやかに笑いかけてくる少女——翔子。
不意なそれにドキッとさせられた天は、その自分をぎこちなく笑って隠しながら、
「空野 天です」
差し出された手には触れずに、一応名乗った。翔子は天がその手を握るのを待っているのか、手を引っ込める気配はない。
「てんくん……テンくん……天くん」と、言われた名を反復する翔子。
言葉を口に馴染ませる彼女は十回程度「天くん」を連呼すると、不意に「はい!」と笑顔を弾けさせた。
「覚えました。天くんですね。苗字で呼ぶのは嫌なので、天くんと呼ぶことにします。なので、私のことも、翔子さんって呼んでください」
「牧之原さんと呼ばせてもらいます」
心身ともに距離が近い気がして、翔子の希望をやんわり断る天。
全く目を合わせてくれない彼に、翔子は納得がいかないと言わんばかりにムッとした。
笑ったり、ムッとしたり、感情表現が豊かな翔子。お気に召さなかった彼女は「天くん」と意地っ張りにその名を呼び、
「翔子さんと呼んでください」
「牧之原さんで」
「翔子でもいいですよ?」
「難易度が上がってるので、苗字で満足してください」
依然として差し出した右手を引っ込めない彼女は「強情ですね」と、一言。
それからしばしの沈黙を設けて、視線を海に固定して全然自分と合わせようとしない天に気づくと、「なるほど」と悪戯っぽく笑い、
「お姉さんを下の名前で呼ぶのが恥ずかしいんですね」
「違います。初対面の人には敬語で接するのと同じ心理です」
「目を合わせることもできないくらい、天くんはシャイな男の子みたいですし。それなら仕方ありません」
「別に、そーゆーわけじゃ……」
「分かりました。なら、今は牧之原さん呼びで我慢してあげましょう。お姉さんですから。年下には優しくしないとですし。お姉さんですから」
「やけにお姉さんを強調しますね。……もうそれでいいです」
牧之原翔子という少女が『話を全く聞かない少女』に確定したところで、天は考えることをやめた。
これ以上理由を説明しても意味はなさそうだし、実際に恥ずかしいことは否めないし、初対面の人間には苗字呼びというのは親から叩き込まれているし。
お姉さん。そう言って胸を張る翔子。
その体勢をする以上、制服の下から二つのお山が浮き出て、自然と視界の左側に映るそれに視線が誘導されかける。
失礼だ。自制した天は揃えた膝に手を置きながら、波を押し除けて海を進む船に視線を固定した。
「ほら、天くん」
その天の、膝に添えた手に小さな衝撃が生じる。反射的に視線を落とすと、右手を差し出した翔子が、人差し指でちょんちょんと突いている。
なんだろうか。そう思って「ん?」と小首を傾げる天が初めて——やっと翔子と目を合わせた。
すぐ真横、握り拳三つ分しかない距離にいる少女と目が合うと、途端に頬の内側がお湯が沸くように温めてられていく。
「あ、やっと見てくれた」と嬉しそうに笑む翔子。
この瞬間、天の心拍数が上昇する一方だと知らない彼女はもう一度「ほら」と右手を差し出し、
「ーー? なんですか、それ」
「私の右手です」
「それくらい分かりますよ」
ボケなのか天然なのか曖昧な返しに苦笑。真面目な声で言われると思わず笑みが溢れた。
翔子から顔を背けて咳払い。要らない感想を振り払う天は再び目を合わせると「あのですね」と視線で右手を指し、
「その右手の意味を聞いてるんです」
「なんだと思いますか?」
笑顔に彩られた表情のまま、天と同じように小首を傾げる翔子。
この状況を楽しんでいるようにしか見えない彼女の目は悪戯心に溢れていて、瞬時に自分はこの人に遊ばれているのだと察した天だ。
やりずらい、本当にやりずらい。
五分も接してないけれど、そんな感想を抱いた。しかし、そのような相手に接する方法は既に知っている。
だって、自分自身がそうなのだから。自分だって颯や咲太と話すときは自分のペースを崩したことはない。マイペース野郎とたまに言われる。
故に、あの二人から自分のような人間と話すときのコツは聞いているのだ。
それは、
「握手ですかね」
頭の中を空っぽにして、感覚で話す。
このような人と話すときは、あまり深く考えないことが大切だと教えられた。
考えたら考えただけ疲れるから、特に何も考えずに思ったことを口にする。
もちろん、ある程度の遠慮と配慮を含めた上で。
翔子への接し方が固まってきた天の回答に、彼女は「分かってるじゃないですか」と言葉を繋げて、
「それなら、ほら」
「ほら、って言われても。そもそも、なんの握手ですか」
「私と天くんの運命の出会いに」
「どんな場所で運命感じてるんですか。もっとそれっぽい場所で感じてください」
揶揄い、変なことを言ってくる翔子にはまともに取り合わず、負けじと自分のペースを貫く天。
そんな様子すらも楽しんでいるのか、翔子は「場所は関係ありませんよ」と無邪気に笑うばかり。
どちらが相手のペースに巻き込まれるかの勝負。巻き込まれた方が負ける戦い——既に天が負けてる感が否めない戦いだ。
否めないからこそ、絶対に引き下がらない彼女に「分かりました」とため息混じりに言い、
「はい。これでいいですか」
と、素直に左手で翔子の右手を握った。
力の加減を気をつけながら握ると、モチっとした弾力が手の平に返ってくる。
今この瞬間、「柔らかい……」と感想を抱く心が沸騰しそうなくらい恥ずかしがってるが、平常心で必死に抑え込む。
「はい。それでいいんです」
その天に、翔子が笑顔に笑顔を重ねた。
今度の笑顔は、ふわりとしたもの。我慢していたものが、ふっと溢れたようなものだ。
その笑顔が可愛くて、天は喉がからからに渇いていく不快感に襲われる。
呼吸が小さく不規則に乱れて、冗談抜きで頬が灼熱に熱せられるように熱い。
きっと、肌の外側からでも心臓が激しく鼓動しているのが確認できる。
ーーあ。これはヤバい
「もういいでしょ? はじめましての挨拶はこれで十分です」
「もう少し繋いでましょうよ」
「目が揶揄ってるので嫌です。これで俺と牧之原さんは知り合ったことになるので、満足してください」
「照れてますね?」
「照れてません」
言いながら、離さんとする手に込められた力を振り払う。
そこで乱暴しないあたり、羞恥心に弾け飛びそうになりながらも、彼女に対する配慮は忘れていなさそうな天だ。
握られた手から脱出し、即座に左手を引っ込める天。「照れてない」と言いながらも、その頬は緊張と動揺に赤らんでいた。
それに気づかない翔子ではない。が、敢えて指摘せずに黙っておく彼女は、年下の
「女の子の手を握っただけで照れる天くんにはこれ以上はハードルが高そうですし、満足することにしましょう。照れすぎて溶けられても困りますし」
「照れすぎて溶けるってなんですか。そんな、アイスじゃあるまいし………。つか、照れてませんよ!」
「はいはい。分かりました分かりました」
幼い反論を軽く受け流す翔子。握られた右手を膝の上に添える彼女は「そういうことにしておきます」と言葉を閉じる。
事実として照れている以上、それ以外のことを言えない天は苦虫を噛み潰したような顔だ。
今のところ完全に向こうのペース。圧倒的に向こうの方が優位だから無謀な戦い——理解したときには既に遅かった。
天は、この少女に捕まった時点で、負けは決定したようなものなのだ。
理解してため息。
疲労が色濃く浮かび上がる彼は先程口にした「アイス」という言葉で、ビニール袋の中にあるパピコの存在を思い出し、食べようと思って取り出す。
瞬間、翔子の目がきらんと光った。
「あ、パピコ」
「はい。パピコです」
袋を開け、中から本体を取り出す天。ゴミをビニール袋の中に入れる手に持たれた、チョココーヒー味のパピコを翔子は見ながら、
「私にも分けてくれるんですか?」
「誰もそんなこと言ってませんよ?」
「分けてください」
初めて視線が自分の目から逸れたことに一安心。本音が漏れた翔子にどうしようかと考える中、別の問題が発生した。
余程アイスが欲しいのか、拳三つ分の距離をゼロに詰める彼女は天の体に密着。
奪い取る気すら感じさせるそれは、アイスにしか意識が向いていないように見える。
まずい。その距離感はまずい。やわ、柔らかい、柔らかいかかかか感触が左腕に————動揺するとまた揶揄われるから焦る心をぶん殴っていつも通りの自分を保ちながら、
「嫌だと言ったら?」
「分けてくれるまで粘ります」
「そんなことしてたら溶けちゃいますよ」
今日の天気は晴れ。快晴じゃないから時々太陽が雲に隠れて涼しい。時間帯も午後四時を回る頃で、徐々に日が沈んできていた。
それでも、外に出しっぱだとアイスが容赦なく外気に溶かされるのが夏という季節。
分けるまで密着してくることも考えると、アイス的にも精神的にも素直に従った方が身のためだろう。「いいですよ。二つは多いですし」と言いながら、くっついたパピコを二つに分け、片方を翔子に渡した。
「どーぞ」
「ありがとうございます。今度、別の形でお返ししますね」
「気が向いたらでいいですよ」
同時に蓋を開け、二人して蓋の部分に詰まるちょっとした部分から食べる。
一瞬で無くなると翔子から空になった蓋部分を受け取り、天は自分のと一緒にビニール袋の中にシュート。
そうなれば、残った本体の方に二人の意識は向いた。開け口を口に入れ、チョココーヒー味のアイスを堪能開始。
「牧之原さんは、よくここに来るんですか?」
両手で本体を持ちながら、瑞々しい桜色の小さい唇を尖らせてちゅうちゅうとパピコを食べる翔子。
小さな本体を両手で持つという光景に小動物的なものを感じ、またしても可愛いと思ってしまった天は視線を海に向けながら投げかけた。
天が自分を可愛いと思ってるとは知らない翔子。本体を握りつぶすように片手で持つ天に、彼女は口の中のアイスを飲み込むと、
「そうですね。この場所はとても好きなので、よく散歩に来たりします」
「じゃあ、今日も散歩に?」
「はい。まぁ、天くんと遭遇したので、そうするわけにもいかなくなりましたが」
「散歩よりも俺なんですか?」
「そっちの方が面白そうだったので」
「話しかける基準、適当すぎません?」
『目が合ったら勝負』並にあっさりして、分かりやすい基準だと思う。
面白そうだから話しかけた。天には考えられない基準だ。そもそも自分から人に話しかけることがほとんどなく、そんな基準なんて本当なのかと疑う心もある。
けれど「実際に面白いですし。話しかけてよかったと思ってますよ」と、言いながらアイスを頬張る翔子からは嘘は感じられない。
否、感じられていないだけかもしれない。本当は優しい嘘をついているだけで———。
やめよう。考えすぎは良くない。どうせ今だけの関係だ。今日が終われば、この不思議な少女とも会うことはない。
変に考えるだけ無駄だ。
「天くんは?」
自分の中で一つの結論が出る中、今度は翔子が聞き返す。
その距離感が拳三つ分から二つ分に縮まっていることに気づかない天は「俺ですか?」と翔子に視線を移し、
「今日が初めてです。ちょっと用事があってこの近くに来て、この辺に海があると聞いて、興味があったので来てみました」
「そしたら、牧之原さんと出会うことに」と天は翔子を見つめる。当然、ずっと天を見ているのだから、その視線は翔子と絡み合うことになる。
数秒間、二人して視線を絡め合っていると、天の方が先にギブアップ。例によって視線を海に戻す。
その態度にくすくす笑う翔子。アイスを食べていて声にならない笑声は、喉から高い音として立った。
「この場所。いいですね」
横からの視線がむず痒く、居心地の悪さを感じた天が口を開く。
「ん?」と翔子の声が返されると、彼は押し引きを繰り返す波を見ながら、
「なんか、ぼーっとしてられる」
「嫌なことでもあったんですか?」
「ぼーっとするのが好きなんですよ」
「常に嫌なことがあるんですか……!」
「かわいそうな目で俺を見ないでください。そーゆーわけじゃないですよ」
はっとした様子で、衝撃を受ける翔子。
自分を見る彼女の目の色が変わったところで、天は「勘違いしないでください」と否定を挟んだ。
頭痛がしたように頭に手を当て、やれやれと首を横に振る。
この人と話していると疲れる。自分と話す颯と咲太の感覚はこんな感じなのだろうか。
なんとなく、二人に申し訳ない気持ちが生じてきた天だ。
それと同時に、話していると疲れるからこの人とは今日限りにしたいとも、ほんのちょっとだけ思う。
「天くん」
「なんですか?」
「私、明日もここに来ますから」
そんな天の心情を悟ったように、翔子は言った。今日限りにしたい——心の端っこでそう思う天を嫌がるように、翔子は告げた。
心を読まれた気がして視線を横に向けると、真剣な彼女の顔がこちらを見つめている。
揶揄いの気配も、ふざけた様子もない、ただ真剣一色に染まる表情。
なんの脈絡もない、唐突な宣言。
けれど、態度がこれまでとは打って変わっているせいで、「そうですか」の一言では済ませられないものがある。
その言葉を前に、言葉を失う天。息が詰まる彼に、翔子は柔らかくも芯のある声で言葉を続けた。
「その明日も、そのまた明日も、そのまた明日も、ここに来ますから」
「会いに来い、ってことですか?」
「お好きなように受け取ってください」
「ですが………」と。そこで言葉を止めた翔子は、ふっと真面目な表情を崩す。
その裏側から顔を出した幼くて悪戯な笑みを、期待で彩りながら言った。
「天くんに会えたら、私はとても嬉しくなっちゃうかもしれません」
「……学校があるんで、夕方になりますよ」
ーー明日の部活はサボろう
今日限りにする思いを一瞬にして破壊され、そう心に決めたチョロすぎる天に「はい!」と翔子は嬉しそうに笑って。
自分がチョロすぎる男だと自覚しながらも、その笑顔の前では口にした言葉を否定することもできない天は「はぁ」とため息をついて。
二人はそれから、主に翔子が一方的に広げる談笑に、花を咲かせたのだった。