豪雪地帯で知られる北陸地方は、春と冬が同居する不思議な場所――尤も、そんな気の利いたことを言うのは私ではなく姉さんなのだけれど――だ。あの日もそうだった。当たり前のように春がやって来て、まだ雪の残る街に梅の花を咲かせていく。
戦いで何人もの知り合いが消えてしまっても、当たり前と言わんばかりに命は芽吹く。庭先の梅の花が三寒四温の日々に揺られながら咲き始めていて。
それなのに、その日の我が家はとにかく寒かった。勝手口から書斎まで、あらゆる場所にまで冷たい気配が漂って、逃げ場も無いほどに覆い尽くされてしまっていたのだ。
「この際はっきりと申し上げますが、意味が分かりません」
冷たさの原因は何処なのだろうか。困惑して辺りを見回すばかりだった私に、目の前の彼女ははっきりと告げる。それは私の知るお母さんではなくて、まるで別人のように言葉を並べるその人は、私ではなく別の誰かに視線を注いでいる。
「反社会的人格障害……と、仰いましたね。わたくしの解釈を申し上げれば、あれは国難に乗じる分離主義者に適用されるモノと存じております。なぜ、美佳がその対象となるのです?」
応接室に立つのは小銃を構えた軍人さん、腕には憲兵の腕章。金沢が戦場になるなんて聞いていない。それなのに武器を構えてやって来たこの人達は、どうやら私を『捕まえに』来たらしい。
数瞬の睨み合い。薄っぺらい令状を差し出した軍人さんは、やがて令状の一部分を指差してみせる。
「先ほど説明した通り、適用は厚生労働省が行っております。具体的な適用の基準につきましては、そちらに――――」
「厚労省に問い合わせてもあしらわれるだけです。私が申し上げたいのですね憲兵さん。そのリストに基づいた運用において、あなた方がどれほど杜撰な管理を行っているかと言う話です」
「杜撰ですと?」
軍人さんの声に怒りが乗っても、お母さんは怯まない。
「ええ杜撰です。この子を、月刀美佳を見なさい。一体何処をどう見れば彼女が反社会的だと言うのです?
流れていくその言葉は、半分も私の頭に残らなかった。とにかく覚えているのは、見たことも無い剣幕で次々と並べられる言葉とそれを吐き出していくお母さんの悲痛な顔。
対する軍人さんは苦い顔。それは当然だろう。私が産まれたこの月刀という家は、金沢の街ではちょっとした名家だ。藩幕体制下の加賀藩に仕えたこの家は、今では鉱業で財をなした財閥の一つ。それは時には周囲の妬みとして私に牙を剥いたけれど、それでも私が何不自由なく、それこそ戦争の最中でも自由に生きてこられた理由だった。だからこそ、軍人さんは手を出せない。
そう、私は分かってなかったのだ。あんな状況になっても軍人さんが私を捕まえに来た理由は分からなかったし、ましてや私の事を捕まえることが出来るなんて思ってもいなかった。
だけれど世界は、私は、もう何もかも違ってしまっていたのだ。
「おい春奈。憲兵さんに迷惑を掛けるな」
その声に、お母さんの目が見開かれる。ついと動いた視線は部屋に現れた軍服姿、襟の上に乗っかった頭部へと向けられている。
「卑怯ですね。親族を使って泣き落としとは」
吐き捨てる先には私にも見覚えのある顔。この人のことは知っている。神戸のお祖父ちゃんのところで見た顔、雪の金沢で側溝に転落した顔。バーベキューでお肉をひっくり返すのが上手い人。
「卑怯で結構。月刀のご婦人を説得できるなら、安いものだ」
「……私は、もはや飯田の人間ではありません。月刀の、月刀美佳の母親です。飯田の言いなりになるものですか」
それが強がりなのは、あの時の私でも分かった。お母さんは飯田からお嫁にやって来て、よくここの家の他の人達と喧嘩していた。お母さんの味方は多分お兄ちゃんぐらいしか居なくて、肝心のお父さんはパティシエ修業と称して世界を回ってばっかり。そんなお母さんが頼れたのは、神戸の飯田家だけ。だからこそ飯田家のヒトが説得に来た。私はようやく、軍隊のお仕事で忙しいはずの
「そう我が儘を言ってくれるな、春奈。そもそもこの場に
紫と黒の中間みたいな色の制服を着込んだ伯父さんがそう言う。その指摘は多分、お母さんにとっては辛いモノなのだろう。私だって気付いてはいた。だってあのお祖父ちゃんが、お母さんに外から来た人への対応を任せるはずがないのだから。
「そこで、これだ」
そう言いながら伯父さんは、令状とは別の紙を差し出す。そこには大小様々な文字が並んでいたけれど、そこに一際目立つ『護郷隊』の文字は確かに見えた。お母さんの声が震える。
「わたしに、娘を
伯父さん。つまりお母さんのお兄さんは、頷く。
「もはや臣民に男女の貴賎はない。ならば今こそ、祖国のために婦女も望んで銃を取らねばならない。違うか?」
押し黙ったお母さんに、畳み掛ける伯父さん。
「春奈、なにも
その言葉は、お母さんにどう響いたのだろう。膝の上に置かれた拳を握り締めて、絞り出すように震える言葉を放つ。
「お兄様だって、一人の父親なら分かるでしょうに」
その言葉に、誰も言葉を継ぐことはない。誰かはこれを哀れだと思うのだろうし、誰かはとんだ茶番劇だと笑うのだろう。『リスト入り』の人達が発覚次第すぐに捕縛、そして『処分』されているのは私でも知っている。それをやれ月刀家だの飯田家だのと持ち出して、最後に親心に訴えるこの場所は、あまりに滑稽。
伯父さんは、そっとお母さんの側に寄る。そして顔をあげたお母さんに何かを、囁いた。そこでお母さんはまた俯いてしまう。
伯父さんが何を言ったのか。それは分からない。
ただ、その後に私を待っていた出来事を考えるなら、きっと。
『大丈夫だ。安心しろ』――――そう、言ったのだと思う。
信じられないことに、スーパーあじあ二号は定刻通りに釜山駅を出発した。本来なら博多を始発駅とするこの列車を動かす運行計画はあくまで臨時のモノ。それが運用に
「はじめまして。わたくし株式会社ペトロ&コークスの専務取締役、
新幹線に備えられた三両のグリーン車。その中でも戦闘の傷跡が少ない八号車。ゆとりを持って設計された四列シートに座りながら私のお母さん、月刀春奈は恭しく名刺を差し出した。
「……帝国陸軍の、長谷川です」
名刺を持ち合わせていないのだろう。長谷川大尉は軍人手帳を出すことで挨拶に応じる。するとお母さんは深々と頭を下げた。
「いつも娘がお世話になっております」
「あ、いえ……そんなことは」
下関から先ほどまでの態度は何処へやら。長谷川大尉が腰を低くして対応する。顔を渋く曇らせながら右腕をさすっているが、それが怪我を慮ってのことで無いのは明らかだった。
「娘がお国のために奉公してくれていると聞いて、私は心底安心しているんです。あ、こちら詰まらないものですが」
そう言いながら紙袋を取り出すお母さん。紙袋は神戸の銘菓で、わざわざ取り寄せたのだろうかと私は
「ええとですね、月刀さん。お気持ちは大変嬉しいのですが、規則がありまして……申し訳ないのですが、このようなモノは基地の方を通して頂かないと……」
この奇妙な空間でも。長谷川大尉は辛うじて軍人だった。規則を理由に突っぱねると、お母さんは悲しみの表情を
「そうなんですか……? まあ、規則ということであれば……」
そんなお母さんに長谷川大尉は膝の上で握り拳を作って、それから解く。精一杯の笑顔で私に目配せ。それは救難メッセージ。
「あの、お母さん。その、私も困りますから」
「母親が娘を気遣っているのになんで困るんですか? あッ! もしかして美佳もついに反抗期なんですね? 盗んだバイクで走り出したり、しゃがれたブルースを聴きながら咥え煙草したりするんですね? この
「……」
なんと言えばいいのだろう。色んな事がありすぎてタダでさえ身体に力が入らない状況なのに、私のお母さんと来たら平常運転である。困ったことに、この母親は一度言い出すと止まらない。
そしてなにより困るのは、長谷川大尉はお母さんを無下には出来ないこと。なにせ目の前にいる
「専務、お嬢様も困っていますよ」
いつまでも続くかと思えた平行線。そこに助け船を出してくれたのはお母さんの隣に座った眼鏡のヒト。集める視線を受けた彼は、ぺこりと小さくお辞儀をした。
「私は飯田防護社の園田です。先ほどは我が社の対テロ特別
そう、先ほどの襲撃は全てNR・満鉄・飯田防護の三社による実弾形式の合同対テロ訓練……であるワケがないのだけれど、とにかく『襲撃事件』はそのように
それは姉さんのいう不思議な物理学。この国は『やつら』のせいで傾いてはいるけれど、国内でテロが起きるほどには傾いていないということにしておきたいらしいのだ。
イチをゼロに。上を下に変えるのが国家というもの。そしてここにいる誰もがそれに乗っかってしまった共犯者。だからこそスーパーあじあ二号は定刻通りに釜山を離れるし、私たちは弾痕まみれの新幹線で談笑している。
「いえいえ。こちらこそ助かりました……ですが、随分と訓練の展開が早かったようにも思えますが、なにか秘策でも?」
そう聞くのは長谷川大尉。飯田防護社は『戦闘』を商品として扱う民間軍事企業の一つで、工場施設の警備や紛争地帯での護衛などを引き受ける企業。故に
「それはまあ……大株主の意向もありまして」
その言葉に、うんうんと頷くのはお母さん。
「お父様と来たら人使いが荒いんです。いくら孫が可愛いからって、仮にも他人の家に嫁入りした娘に戦わせるんですよ?」
「お言葉ですが専務、あなたは勝手についてきただけですよね」
ハンカチ片手に嘘泣きをするお母さんを斬り捨て、園田と名乗った眼鏡のヒトは一息ついてから長谷川大尉を見る。
「こちら、同意して頂けますね?」
それは誓約書。
「私は帝国軍人です。目にした
長谷川大尉の拒絶は、ある意味では当然である。スーパーあじあ号は満州と日本を結ぶ国際列車であり国策列車。そんな場所に武器が持ち込まれ、尚且つ国家権力の象徴である軍人を襲ったとなれば、その成功失敗に関わらず国家の非常事態である。
民間の要請
「まあいいでしょう。事件を見たなら仕方がありません」
それから腕時計を確認すると「ところで大尉」と微笑む。
「そろそろ端末を確認することをオススメしますよ」
大事な連絡が入っているかも知れませんから。その言葉に眉を顰めて、それでも軍用端末を取り出す大尉。生体認証とパスワードでログインすれば、そこには命令が届いている。
「京城駅よりスーパーあじあ二号に乗車せよ? 園田さん、これは何かの冗談ですか? 私は下関からこの列車に乗っている」
「ですが命令には『京城より』とある。従って大尉はまだスーパーあじあ二号には乗っていない筈です」
居合わせないのに、どうして
「ご協力に感謝します」
署名の入った誓約書を受け取り、園田さんは満足げに頷いた。