無邪気な君と希望の夜(1)
深夜、連邦捜査部シャーレ近郊のオフィス街。弱々しい街灯と月の光だけがアスファルトを照らす中、二人の生徒が向かい合っている。
「……奇遇だね? こんなところで会うなんて」
気心知れた相手に声をかけるような気軽さで、聖園ミカは自らの行く手を遮る少女に言った。
「ねえ、
ミカの質問に対する、少女の──空崎ヒナの返答は、深い溜息だった。
「
「……うん、そうかもね。否定はしないよ」
ゲヘナの生徒とお茶会で楽しくお喋りだなんて、正気の沙汰じゃない。ましてや約束だなんて、譲歩だなんて、天地がひっくり返ったとしてもありえない。少し前までの自分ならきっと迷わずそう言っていただろう、という自覚がミカにはしっかりとあった。それでも今の彼女は、眼前のゲヘナ生から持ちかけられたその提案を好ましいものだと感じていた。
アイスブレイクという言葉の裏に隠された、まるで親友へ向けるかのような信頼。それを今から裏切らなければならないことが、ただただ申し訳なかった。
「でもさ、ヒナちゃんは知ってるよね? タイムリミットはすぐそこまで迫りつつある。お茶を飲みながら時間を潰すような余裕はもうないんだよ」
「……確かに、あなたの言う通りかもしれない。それにわざわざそんなことをしなくても、あなたが今から何をするつもりなのかは予想が付く。だから、ここを通す気はない」
傍らに置いていた愛用の機関銃を構え、ヒナはそう宣言する。風紀委員の腕章を腕に通さずとも、彼女の意志に揺らぎはない。
「あーあ、こんなコンディションで戦いたくないんだけどなぁ。ヒナちゃんが退かないって言うならしょうがないけどさ」
「……ミカ、今のあなたは私に勝てない。それが理解できないあなたじゃないはず」
「そんなの、やってみなきゃわからないでしょ? しかも今日の私はヒナちゃんに勝てなくたって、先に進めさえすればそれでいいんだから」
ミカは軽い口調で返すが、彼女が無理を押してこの場所に立っているのは一目瞭然だった。
本人は顏に浮かべている微笑みで誤魔化しているつもりなのかもしれないが、その歩みは随分と緩慢で、額には汗が浮かび、瞳もどこか上の空、片手に携えるゴテゴテとした対物狙撃銃の照準すら定まっていない。今のミカは満足に外を出歩くことができるような状態ですらなく、戦闘行為など論外というのがヒナの見立てであったし、その推測はこの上なく正しかった。
「誰もあなたが犠牲になることを望んではいない。私だってあなたを失うのはとても惜しいと感じているし、先生だってそうに決まってる」
最後の一言で思い留まってはくれないか、もしくは動揺してはくれないかとヒナは少しだけ期待したが、ミカがそのような素振りを見せることはなかった。わかりきっていたことだ。今更になって言葉で止まる程度の感情でしかないならば、彼女はこうしてここに立っていないだろうから。
「知ってるよ。でも、私の行動でキヴォトスは確実に救われる。絶望的な盤面をひっくり返すための一番確実な手段を、私だけが持ってる」
ミカはゆっくりとヒナの方へ歩み寄っていく。彼我の距離は5m。多少狙いがブレたところで、銃弾を避けることなど到底不可能な間合いだ。もっとも、生半可な銃弾をわざわざ避けるような理由はどちらにも存在しないのだが。
「……私は、みんなの未来を護るために戦うよ。それが私の負うべき責任だから」
断固としたミカの言葉を聞いて、ヒナは再び深い溜息を吐いた。
「あなたの強情さは理解していたつもりだったけど、認識を改めた方がいいのかもしれない」
「他人を完璧に理解するなんて、私たちには一生できっこないよ。神様になってから出直してくる方がまだ楽かもね?」
「仮にもティーパーティーだった身でそんなことを言うの?」
「あれ、ヒナちゃんに話したことなかったっけ? あんまり信心深くないんだよ、私」
案の定、ミカはあくまでも自分の主張を曲げないつもりでいるようだった。結局こうなってしまう可能性が高いだろうとヒナは最初から予想していたが、予想が当たったところで面倒極まりないことには何も変わりがない。いくらミカの体調が最悪に近い状態であろうが、キヴォトス最高クラスの強者を相手取って無傷で勝利できると考えるほどにヒナは楽観的ではないのだ。
それでも、素直に道を譲るような選択肢は最初から存在しなかった。
「あなたの言う『みんな』にあなた自身を含む気がないなら、私はあなたの未来を保障するためだけに戦う。……本気で、私を踏み越えていくつもり?」
「あははっ、ヒナちゃんってば……本当に優しいね。でもさ、どうしても譲れないことってあるでしょ? それが今なだけだよ」
銃口を向け合いながら悠長に会話を続ける二人。言うまでもなく、時間の経過はヒナにとって有利だ。彼女がこの場所でミカを釘付けにした時間の分だけ、追加の戦力が到着する可能性は飛躍的に高まっていくのだから。
ならば何故ミカはここで足を止め、ヒナとの会話を続けているのか? 頭が良くないと自称する一方、並々ならぬ思考速度を誇る彼女が、こうも単純な思惑に気付かないはずはない。つまりそれが意味するのは、時間の経過がミカにも有利に働くということ。そうでなければこのような雑談に彼女は付き合っていないだろう。
だとしても、今こうして稼ぎ続けている一秒一秒がヒナにとって、そしてシャーレにとって値千金なのだ。この時間稼ぎこそが最も有効な手段なのだと彼女は確信していた。
この瞬間までは。
「あ、良いこと思いついちゃった」
にこにこと笑いながらミカは続ける。
「こういうの、私はあんまり好きじゃないんだけど……折角だからちょっとだけ見せてあげよっか、トリニティらしい私を」
「トリニティらしいって、一体何を言って────」
ヒナがそれ以上の言葉を口にする前に、ミカは歌うような声で聖句を諳んじた。
トリニティの聖典について、ヒナは大した知識を持ち合わせていない。そんな彼女には聖句の意味するところがほぼ理解できなかったが、それでも今からミカが起こそうとしている事象を予測することは容易だった。かつて、その光景を目の当たりにしてしまったが故に。
即ち、聖園ミカによる
あるいは、この場所に二人以外の誰かがいれば。
最後の一節をミカが発すると同時に、満天の夜空を裂くような、眩い星々の音が上空から響き渡ったことに対する驚愕を示したかもしれない。
「……こんな風に格好つけるのも、たまには悪くないね? 十字架があればもっと良かったけど、高望みかな」
どこか満足したようなその言葉が届くよりも前に、ヒナは全力で走り出していた。ミカに背を向け、空に向かって弾丸をばらまき、眼前の奇跡を否定するだけで精一杯。
そんな彼女の努力を嘲笑うように、二人めがけて数多の隕石が降り注いだ。
少女たちの激突から時を遡り、実に数週間以上も前のこと。
トリニティ総合学園の某所。かつて、桐藤ナギサが彼女自身のために数多用意したセーフハウスのひとつ。一般生徒には存在すら知られていないその場所で、聖園ミカと百合園セイアは秘密の会談を行っていた。
「君にとって悪くないだろう話と、君に聞かせるには酷な話のふたつがある」
セイアはそう口火を切って、伏せていた視線を静かに上げた。
「ミカ、君にはどちらも聞いてもらわなければならない。まずは前者からだ」
「そういうのって、普通はどっちを先に聞くのか私が選べるものじゃないっけ?」
おどけたようにそう返すミカ。しかしその明るく軽い口調とは裏腹に、彼女の瞳は真剣そのものだった。対面に座るセイアのことをじっと見つめ、次の言葉を待っている。
エデン条約を発端とした大騒動が決着した今、ミカは未だ肩書だけとはいえティーパーティーとして扱われている。しかしその権限は完全に凍結され、パテル分派が後任の首長を選出すればただの一般生徒へと戻る身だ。むしろ聴聞会が下した複数の処分によって行動が制限されていることを考えれば、その地位は一般生徒未満。
付け加えれば、『聴聞会の処分が甘すぎる』だったり、『単純に聖園ミカのことが気に入らない』だったり、はたまた『何か面白そうだから』という理由で、一部のトリニティ生によるデモ行為が現在進行形で連日発生している。そこまでのレベルには至らない生徒の間でも、トリニティの政治に全く興味がない極少数を除けば、反聖園ミカの雰囲気が曖昧な形で広がっているのが現状。
そんな状況で、セイアはミカとの密談をセッティングしたのだ。門限をとっくに過ぎた夜遅く、セイアがわざわざ寮監に話を通してまで自分のことをいきなり連れ出して、お付きの人員もなしでこうして顔を合わせている意味はミカにも理解できていた。
「本題に入ろう。連邦捜査部、シャーレの先生から要請が届いた」
「先生から? 要請って、何か先生が困るようなことが起きたの?」
予想だにしない人物の話題に困惑するミカ。しかしセイアはその質問を無視して言葉を紡ぐ。
「トリニティ総合学園在籍、聖園ミカをシャーレに転籍加入させたい。先生はそう言っている」
「…………え?」
たっぷり数秒かけて、ミカが出すことのできた声はそれだけだった。