風紀委員会本部庁舎の一階に用意された休憩室のひとつ。今はシャーレ用の待機場所として用意されているその場所で、ミカは何をするでもなくただ机にその身体を預けていた。
「……暇だなぁ」
ブリーフィングは淡々とした情報共有と作戦伝達に終始し、何か問題が起こるようなこともなく無事に終わった。その内容も事前に先生がヒナから伝えられていた通りのもので、それを共有していたミカにとって目新しい情報は存在しなかった。
今回危惧されているゲヘナ自治区内の大規模テロ計画は、犯罪者集団のアジトを風紀委員会が摘発した際に偶然発覚したものだ。物証として手に入ったものは計画書の一部でしかなかったが、それでも風紀委員会が総力を挙げて阻止しなければならないものであることに疑いはなかった。
具体的には、ゲヘナ自治区……とりわけゲヘナ学園の本校舎や風紀委員会本部が置かれている中央区の重要施設を攻撃目標とし、自治区内の防衛戦力を奇襲的に無力化し、風紀委員会と万魔殿を機能不全に陥らせることで自治機能の破壊を狙う。それが叶わない場合にはそのままゲリラ的敵対活動に移行し、風紀委員会に継続的な負担を強いるという計画だ。
風紀委員会、とりわけ風紀委員長に純粋な戦力で対抗するのは困難であるため、自治区内外の犯罪グループや反体制派の生徒に報酬をちらつかせて頭数に組み込み、各地で暴動を扇動。テロ計画の首謀者側からすれば失っても痛くない駒であり、懐もさして傷まないのだろう。
なるほど確かに、シンプルだが効果的な作戦である。風紀委員の人数には限りがあるし、指揮官クラスになればその傾向はますます強まる。ただでさえ普段から犯罪と騒乱に満ちたゲヘナ自治区でテロ対策だけに注力するわけにもいかず、日常業務とテロ対策業務で人員を分割せざるを得ない。風紀委員長たるヒナは圧倒的な戦力を誇るが、当然ながらどこか一箇所にしか存在できない。同時多発的に事件が発生し、彼女を含む風紀委員会の主力が出払ったタイミングでさらに大規模なテロが起これば、その対応は困難を極めるだろう。
『先んじてこちらから把握済の敵拠点を襲撃し、迅速に制圧する。目標とする拠点の大半は既知の犯罪グループや、ブラックマーケットじみた裏の小市場が抱える傭兵戦力のもの。これらを壊滅させたからと言って、テロのリスクを完全に排除できるわけではない。むしろ、今回の作戦だけで敵の本丸に手を届かせるのは難しいと言っていい』
ブリーフィングにおけるヒナの言葉が脳裏に浮かぶ。
『究極的には、テロ事案の発生時に風紀委員会の事態対処能力が損なわれていなければ問題ない。
いかにもゲヘナらしい割り切り方だ、としかミカには評価できなかった。キヴォトスでは多少の事件など日常茶飯事であることは確かだし、ゲヘナ自治区ともなれば本当にただの日常だが、自治機能の破壊を目論む政治的テロ事件なんてものは流石にごく稀だ。殆どの学校では『起きてからでは遅い』という結論になって当然のところを、『起こさせてから潰す』方向で対処するとは。
あまりにも悲惨なゲヘナの治安を一言二言でも小馬鹿にしてやりたい気持ちはないでもなかったが、ミカは結局会議中に何も口を挟まなかった。先程は織り込み済みだったとはいえ、風紀委員長に頭を下げるようなことはもうしたくないという感情の方が優ったからだ。それは作戦の概要に限った話ではなく、ミカに割り振られた役割についてもだ。
『先生はここに待機してもらって、全体の状況把握を行いつつ、先生が必要と認めるならば部隊指揮を担ってもらいたい。アコと情報部を先生のサポートにつけるから、自由に使って。それから……聖園ミカ、あなたも本部で待機していてほしい』
『ふーん、別にいいけど……私を遊ばせたままでいいの?』
『勿論そのつもりはない。交戦中部隊からの救援要請に応じて、先生か私の判断で本部待機の作戦要員を増援として投入することを想定している。あなたには、その増援戦力の一員として動いてもらいたい』
『なるほどね。要するに火消し役ってことであってる?』
『間違ってはいない。あるいは、我々の切り札だと捉えてもらっても構わないけど』
『あはっ、ヒナちゃんってば他人をその気にさせるのが上手だね☆』
そんな経緯があって、ミカはこの小さな休憩室で一人きりになっている。別にここから出てはいけないというわけでもないが、出歩いたところで風紀委員にしか出会えないし、彼女たちとわざわざ喋る理由もない。なんなら全員の前で一応頭を下げたのに、未だミカに対する不信の視線が剥がれずにいるのだ。今のところ実力を出す機会に恵まれていないのでその不信もさもありなんだが、それはそれとして居心地が悪いことこの上ない。
「あーあ、やることはないし、先生はずっと風紀委員につきっきりだし……」
「暇でしょうがない?」
「そう、本当に暇で……先生!?」
「お疲れ様、ミカ。喉は乾いてない? 自販機で買った紅茶だけれど、私の奢りだよ」
そう言いながら部屋に入ってきた先生は、ミカがすぐさま頷いたのを見て小さなペットボトルを手渡した。
「そろそろ作戦が始まるから、最後の小休止で一旦抜けさせてもらったんだ。ミカの様子が気になってね」
言われて時計を確認してみれば、通達されていた作戦開始時刻はもう間近だ。いつの間にやら、ブリーフィングが終わってから随分時間が経っていたらしい。
「多分ここにいるかなって思ってたんだ。予想通りだったね」
「他に行く場所もないし、先生は忙しいでしょ? だからここで待ってようかなって」
ミカの返事を聞いて、先生は軽い口調で問う。
「今更聞くまでもないかもしれないけれど、やっぱりゲヘナの子たちは好きになれないかな? あ、素直に答えてくれていいからね」
「……だって、ゲヘナだよ? 前も言ったけどさ、角なんか生えてる相手と仲良くできないよ。ゲヘナのやることなんて全部信用できないし、自分の庭ならまだしも他の学校にも迷惑かけてばかりだしさ。今日の私が譲歩したのは、万が一空崎ヒナ以外に背中を撃たれたって痛くも痒くもないからってだけだよ」
「うーん、そっか。それじゃあミカ、これはもしもの話として聞いてほしいのだけれど」
話の深刻さを感じさせない微笑みのまま、先生は続ける。
「まだ小さかった頃の私には、頭に角が生えてた……なんて言ったら、どうする?」
「え?」
お手本のような困惑の表情を浮かべるミカ。
「私はそんな自分が全然嫌いじゃなかったし、自分なりに正々堂々生きてきたって言えるよ。でも、大人じゃない私とミカが出会ってたら、ミカには嫌われちゃってたかな?」
「え、あ……ち、違うよ、そうじゃなくて、先生ならもし角が生えてたって絶対嫌わないし、えっと、だからっ」
「ごめん、ちょっと意地悪な質問だったね。深呼吸して落ち着こっか」
数多の弁解を並べたい感情と戦いつつも、ミカは素直に先生の言葉に従った。そんな様子を見た先生が再び口を開く。
「私が言いたかったのはね、他人の嫌い方についてミカには考えてみてほしいなってことなんだ」
「……わかってるよ。人を嫌うなんて本当は良くないって」
「そうじゃないよ、ミカ」
珍しく強い口調で先生が言う。
「他人なんていくらでも嫌っていいんだよ。嫌うことを自分で選んで、その結果として幸せに過ごせるならね」
「……なんだか先生らしくないね? 本当なら、もっと人を好きになれって言うべきなんじゃない?」
「まさか。人には好き嫌いがあって当然だし、他人に対しての感情だって同じだよ。ただ、大事なのは嫌い方。例えばミカは、角が生えてるゲヘナの生徒なんて仲良くできないって言ったけど……それは本当に、角が生えている相手に対する単純な嫌悪感? それともゲヘナの生徒にはだいたい角が生えてるから、後付けで嫌いになったのかな?」
ミカはその問いにすぐ答えられなかったが、それでも彼女の中には確かに答えがあったし、先生もそれをよく知っていた。言うまでもなく、後者だ。
「角が生えてるような相手はどんな相手でも嫌いだって言い切れるなら大丈夫、安心して嫌えるね。でもそうじゃないなら、自分が本当に嫌いなものだけを嫌った方が楽な気持ちになれるよ」
「……それなら、私はやっぱりゲヘナに通ってる全員が嫌いだよ。そこに理由なんて何もないって、先生も知ってるでしょ?」
「そうだね。単純に『嫌いだから嫌い』だって自分でわかってるなら大丈夫だし、今のミカにわざわざ言わなくてもいいと思う。だから、ここからは本当にただの質問なんだけれど……ミカって、過去に何かゲヘナの子から嫌がらせを受けたりしたことはある?」
「
先生の言葉にミカは即答する。
「ずっとトリニティで過ごしてきたし、ティーパーティーの仕事でゲヘナの連中と会ったりすることもなかったから、そもそも顔を合わせる機会がなかったかな。……そういうの、だいたいナギちゃんの役目だったし」
「なるほど。でも、だとしたらちょっと不思議だね」
先生は本当に不思議そうな顔をしながら、なんでもないような口調で言った。
「ミカは、ゲヘナ学園のことをいつ嫌いになったんだろうね?」
「…………」
ミカが口を噤んだのは、答えたくなかったからではない。ミカ自身、答えに思い至らなかったからだ。
「理由なく何かを嫌いになることなんていくらでもあるけれど、それって嫌いになる何かの存在をまず知らないといけないよね。ゲヘナ生と顔を合わせる機会がなかったってことは、単純にゲヘナの悪評を誰かから聞いたりしたのかな」
「……多分、そうじゃないかな? トリニティの中だったら、ゲヘナの悪口なんていくらでもあったし」
「確かにそれなら筋が通るね。私が気になっただけだったんだけれど……嫌いなもののことを思い出させてごめんね」
「う、ううん。全然大丈夫、だけど」
浮かない返事のミカを尻目に、先生は部屋の時計に目を向けた。
「あ、そろそろ時間だね。私は大会議室に戻るけれど、何か問題があったらモモトークで呼ぶか、直接こっちに来てくれると助かるかな。それじゃあ、また後でね」
最後に笑顔をひとつ残し、先生は休憩室を出ていってしまった。後に残されたのはミカひとり。
「……いつ、って言われても」
そんなもの、思い出せるわけがない。嫌いなものは最初から嫌いなのだ。ゲヘナ学園の悪評をいつ知ったかなど、覚えている方がおかしい。そのはずなのに先生の言葉が妙に突き刺さる。心の中に小さな靄を残しつつ、ミカはすっかり温くなってしまったペットボトルを改めて手に取った。