「状況は?」
生徒たちが絶え間なく言葉を交わしながら作戦準備を進めているせいか、大会議室は随分と騒がしかった。そこに改めて足を踏み入れた先生の問いかけに、アコが淀みなく返す。
「滞りなく。全部隊の準備が完了しています」
「よろしい。作戦開始時刻までは……まだ余裕があるね」
さすが風紀委員会、と付け加える先生。
「今更言うまでもないですが、精鋭揃いですから。それに、今作戦では委員長が前線指揮を執られているんですよ?」
「うん、ヒナのことも含めて信頼してるよ」
────天雨アコは、先生のことが苦手だ。
先生という存在への偏見だとか、先生が持つ能力だとか、そんなつまらない話をしているのではない。もっとシンプルな話で、先生の笑顔はいつも薄っぺらいのだ。
それだけならばまだしも、先生はその事実を隠そうともしない。薄っぺらい笑みだと思われたって構わない、そういう考え方でいるようだった。何もアコに対してだけではない。ゲヘナの風紀委員会に所属するあらゆる生徒に対して、先生は欺瞞の微笑みを振り翳している。そして、きっと他の学校の生徒たちに対してもそれは同じだ。
なまじ彼女の顔が整っているせいで、そんな笑顔にすら騙される風紀委員の多いこと。それでも『先生のことを完全に信頼することはできない』というのは、風紀委員会幹部の総意として共有されていた。……そう、
変わってしまったのは、エデン条約の調印式から。我らが風紀委員長、他ならぬ空崎ヒナがその合意を覆してしまった。
あの日、ヒナは重傷のままに先生のことを護った。それでも先生は腹部への銃撃を一発だけ受けてしまったが、救急医学部の氷室セナによる迅速で的確な処置によってその命を繋ぎ、トリニティの救護騎士団が提供した治療設備によって回復へと向かっていった。セナ曰く、先生はヘイローを持たないとは思えないほどに安定した容態だったという。しかしその一方で、ヒナの回復は一筋縄に行かなかった。
身体の傷が治っても、心の傷は治らない。先生を護りきれなかったという負い目からか、ヒナは忽然と姿を眩まし……そして、彼女を探しに行った先生と共に帰ってきた。そこに立っていたのは、アコが普段から目にしていた風紀委員長たる空崎ヒナの姿。
しかし今までと違うのは、ヒナが自然な笑顔で先生に笑いかけていたこと。そして先生も、それに応えるかのような優しい顔をヒナに見せていたのだ。
風紀委員会の誰も──当然、アコですら──目にしたことのなかった風紀委員長の表情を引き出したことへの、羨望や嫉妬がないとは言わない。むしろ大いにある。だがそれ以上に、風紀委員会の誰も目にしたことのなかった先生の表情に対する驚愕が──なんと、アコですら──優った。
そんな表情ができるなら、先生はどうしてそれを最初からやらなかったんですか? どうしてあんな張りぼての笑顔で、私たちに対して壁を作るんですか?
無論、そんなことを直接問えるはずもなく。天雨アコは、目の前に立っている先生への苦手意識を未だに引きずっている。
「そういえば」
缶コーヒーを一口飲み、喉を湿らせた先生が小さな声で言う。
「アリウス分校の子たちが今回の件に積極的だっていう話、情報の確度としてはどのくらいなのかな」
「何を言い出すかと思えば。ブリーフィングで懇切丁寧に説明したはずですが、まともに聞いていなかったんですか?」
「あれは風紀委員の士気向上まで考慮したうえで、ブリーフィングの場ではそう断言した方が良いってヒナとアコが判断したんでしょ?」
「……どうしてそう思うんですか?」
「貴女たちは嘘を吐くのが下手。少なくとも、私みたいな大人よりはね」
あっけらかんとした先生の言葉に、思わず溜息が出る。
「先生のそういうところが嫌いです。私に限らず、情報部からは特に恨まれてますよ」
「ふふ、教えてくれてありがとう。それで、実際のところはどう?」
うんざりするほど見てきた笑顔から目を背けつつ、アコは周囲を気にしながら返した。
「確実に、とは言えません。ですが九割九分とは言えます」
「強気なんだね。その根拠は?」
「……まず、ブリーフィングで述べた情報に一切の虚偽はありません。これだけでも八割、あるいは九割まで固いところでしょう」
そんなアコの言葉に、先生は思い出すような顔を作りながらブリーフィングで聞いた内容を改めて口にする。
「エデン条約が御破算になってしまってから、アリウスの生徒はゲヘナ・トリニティの両自治区で散発的な破壊行動や犯罪行為を続けており、それが未だ収まっていなかったこと。にもかかわらず、ここしばらくはめっきりその動きがなくなっていたこと。そして……」
「別件で確保し勾留中だったアリウス生が、テロ計画について自白したこと。それも厳しい追及の果てなどではなく、自発的に」
今は風紀委員会が管理する勾留施設の独房に入っているというそのアリウス生は、情報提供と引き換えに『まともな生活』を求めたという。彼女の言ったまともな生活とは、最低限未満の……それこそ、風紀委員会の勾留下ですら言わずとも叶うような食事と、雨風を凌げるだけの寝床のことを意味していた。
そんな彼女に絆されたわけでもないだろうが、風紀委員会はその取引を受け入れたようだった。重犯罪を犯したアリウス生は、それがゲヘナ自治区内であろうと取り調べの後にトリニティの正義実現委員会へ引き渡されるという二校間の臨時協定に対して、『当該生徒は重犯罪者であるとは言えない』として移送を行なっていないあたり、約束を違える気はないらしい。少なくとも、先生は情報を精査した上でそう受け取っている。
「そしてその生徒とは全く関係のない小さな犯罪組織の摘発現場で押収された、大規模テロの計画書……シュレッダーで念入りに裁断された、その一部分。彼女らのミスは、風紀委員会を相手にするならば物理的な書類を残らず燃やすべきだったということです」
「……燃え尽きた跡から何かを読み解けはしないからね」
「その通りです。そしてそこに書かれた内容が自白の内容と幾らかの一致を見た、これだけでもアリウスが今回のテロ計画に絡んでいると判断するには充分でしょう。無論、自白や物証があるからと言ってそれらを盲信するわけにはいきませんので、風紀委員会は万全の準備を整えて今日に臨んでいますが」
「なるほど。じゃあ、アコにとってアリウスの関与を信じるに足る残りの九分は何なのかな」
先生に追及されても、アコは余裕を崩さない。
「今のアリウス生には、間違いなく余裕がありませんから」
「ふむ。続けて?」
「アリウスの本拠地は、現時点でトリニティの完全制御状態にあります。正義実現委員会としても面子を潰された形でしょうから、自治区内での摘発にも余念はないはずです。そして我々風紀委員会においてもそれは同じ。むしろ、アリウスに対する借りを返そうと血気盛んになっています。アリウスの残党が組織的な活動を継続する上で必要なあらゆる物資の輸送や取引を、風紀委員会は現在進行形で厳しく締め付けているのです」
兵糧攻めは古今東西で使われ続けてきた方策であり、その事実こそが兵糧攻めの有効性を証明している。何も食糧に限った話ではなく、武器弾薬や燃料などの戦闘用物資、あるいは生活必需品などの入手が難しくなれば、アリウスの抵抗は困難を極めるだろう。
当然、アリウス生は合法的ではない取引に手を出すことも躊躇しないだろうが、闇取引とは資産さえあればなんだろうと手に入る魔法のポケットではない。まずもってカタコンベという地盤を失っているアリウス生は、足の付かない金の入手にすら苦労しているに違いなかった。
「自治区の中では取引させない。自治区の外からは持ち込ませない。それを徹底さえすれば、いずれアリウスの物資は尽きます。我々は戦わずして勝つことになるでしょう。そして……」
「彼女たちはそれを容認しない。チェックメイトに至ってしまうよりも先に、最後の行動に移るはずだ。風紀委員会としてはそう考えている、ってことかな」
先程とは逆に、アコの言葉を先生が引き取った。それを聞いたアコは満足気な笑みを見せる。
数秒後、その表情が崩れるとも知らずに。
「でも、それって本当に積極的かな?」
「……先生は何を言いたいのですか?」
「アコの話が間違っているとは思わない。九割の証拠も九分の考察も、結果的に起こる事象を正しく示している可能性は高いよ。けれども、それはあくまでアリウス生が今回の件に関与しているかどうかの話。彼女たちがどこまで積極的かを計るには、少し足りない気がするね」
アコは首を傾げる。確かに先生の質問は『アリウスは今回の件にどこまで積極的か』だった。アコはそれを『アリウスは今回の件にどこまで深く関与しているか』という意味だと受け取ったが、まさか先生は本当にアリウスが積極的かどうかのみを問うているのか?
「むしろ、アコの言う『将来の物資不足を懸念した最終攻勢』は、アリウスの視点から見れば選択肢に困った末の消極的な行動ですらあるんじゃないかな。事実として、追い詰めているのが風紀委員会と正義実現委員会であって、追い詰められているのがアリウス分校である以上は」
「では、先生は風紀委員会と別の見解をお持ちだと?」
「アリウスの積極性に関しては、ね。考えてみてよ、アコ」
気付けば空になってしまっていたコーヒーの缶を机に置き、先生はアコの方へ向き直る。
「『アリウス派』が『アリウス分校』になってから、今まで。一体どれだけ経ったのか」
「…………あ」
「アリウスという存在が歴史になってしまうような長い年月、彼女たちは耐え忍んできた。トリニティとゲヘナに対する憎悪を育み、伝えてきた。外部とのまともな交流も許されない、トリニティ自治区に隠されたカタコンベの向こう側だけで。いくら土地があるからといって、完全な自給自足は難しかっただろうね。それこそなんとか闇取引で足りない武器弾薬を最優先に調達していたのなら、生活環境の充実なんて二の次になるはず」
「そ、そうなると……しかし……ですが……」
アコの思考が巡る。数秒もしないうちに、彼女は結論へ辿り着いた。
「アリウスは、日々の生活における飢えにすら当然のように慣れている……とすれば」
「物資の困窮だけで破れかぶれの攻勢に出るかと言われると、怪しい気がしないかな? 本部と司令塔を失って混乱の最中にあるなら、猶更」
「ですが、いくらアリウスとて武器がなくては我々と戦うなど……いえ、そうですね。それすら想定した教育を受けているならば」
「倒した相手から拾えばいいからね、武器なんて。一人二人ならどうとでもなるものだし、武器を奪うだけなら他にも方法はあるし。トリニティとゲヘナを倒すためなら、未だに抵抗しているアリウス分校の子たちはきっと泥を啜ってでも生きて、チャンスを待ち続ける。……だからね、アコ」
先生は一度そこで言葉を切り、ゆったりとした口調で告げた。
「アリウスは誰かに急かされたんじゃないかなって、私は思うんだ」