「誰かに急かされた、ですか」
あまり納得していないような表情のアコを前にしつつ、先生は続ける。
「そう。アリウスの存在を……より正確には、ゲヘナの治安を脅かす存在を喜ぶ誰かから支援を受け取り、対価として積極的な行動を求められて、断りきれなかった」
「……アリウスが他人の言うことを素直に聞くとは思えませんが」
「最初から何もないことには耐えられても、一度与えられたものを奪われるのには耐えられないのが私たちだよ。それが自分たちにとっての命綱なら、なおさらね」
先生の考察は、聞く限りでは筋が通っているように思える。だが、そこに含まれるいくつかの問題点をアコは既に発見していた。
「仮に先生の推測が正しかったとして、何らかの個人や組織がアリウスに干渉したという具体的な証拠はあるんですか?」
「それは今から探さなきゃいけないね。ヒナに連絡を貰ったのが今日の朝だったし」
案の定、アコの予想通りだ。正直なところ、この時点で論外と言っていい。それでも彼女が先生の言葉をただの妄想だと切り捨てなかったのは、もうひとつの大きな問題点について問い正さなければならなかったからだった。
「そもそも仮にアリウスに対する外部からの支援があったとして、アリウスはそれをどうやって受け取ると? 風紀委員会による締め付けと摘発では足りないと仰るならば、全ての前提が崩れますよ」
「あなたたちの努力と成果は疑わないよ。けれど、私には抜け道があるように見えるかな」
「抜け道?」
聞き捨てならないと言わんばかりのアコに、先生は更なる質問で返す。
「ゲヘナ自治区内に入る戦闘用装備や生活物資には風紀委員会のチェックが入る。そこに例外はないように思えて、大きな見落としがひとつあったんだよ。……ヴァルキューレの運び入れる物資、中身までちゃんと調べてたかな?」
その言葉を聞いて、アコの顔がさっと青ざめた。
「ヴァルキューレ警察学校はあくまで連邦生徒会の管轄だし、各学園自治区内の分校施設や交番には事実上の治外法権が認められている。そこに運び込まれるヴァルキューレの物資を隅々まで検めるなんて、向こうに明確な過失でもない限りはいくら風紀委員会でもできることじゃない。そうでしょ?」
「……先生、自分が今何を言っているのか本当にわかっているんですか? それが意味するのは」
「連邦生徒会……特に防衛室か調停室、あるいは交通室も。そのどこかに、あの子たちは獅子身中の虫を抱えているかもしれないね。これが全部私の妄想で済めばいいけれど」
会話が途切れる。喧騒に包まれた大会議室で、二人の会話を仔細まで聞き届けた者はいないはずだろう。それを理解していても、アコは周囲で聞き耳を立てている者がいないか確認せずにはいられなかった。
「一応、この懸念についてはヒナにも先に伝えておいたよ。ただしアコの指摘したとおり、今のところは証拠が何もない。シャーレとしてはじっくり探りを入れてみるつもりでいるけれど、風紀委員会として動くのであれば慎重に、一人で事を済ませようとしないようにね」
「……今更言われなくてもわかってますよ」
ヒナの手を煩わせずに動こうとした結果、先生とアビドスの対策委員会を相手に痛い目を見たのは未だ記憶に新しい。釘を刺しにきた理由が過去の己の行動である以上、アコはそれ以上の言葉を返すことはできなかった。
「うん、安心したよ。アコがそれを理解してくれているなら、今日の私の仕事はこれで終わったようなものだね」
「まったく、気を抜かないでくださいよ。作戦はまだ始まってすらいないというのに」
「大規模な作戦行動の成否は、事前の準備でほぼ決まるものだよ。相手がどんな手を打ってきても、こちらの想定通りに収まるなら問題はないし……
「先生が風紀委員会をそこまで評価しているとは、それだけで驚愕に値しますね」
「そうかな? だって、
にこにことそう語る先生とは対照的に、アコの表情が呆れのそれへと移り変わる。
「判断基準はそれだけですか?」
「それだけでも、だよ。ミカを本部に留め置くと決めたのはヒナだけれど、その真意をアコも理解してるはず。そうじゃなかったら、ミカのことは最前線の作戦部隊に置きたがるよね。戦力的な意味でも、厄介払いの意味でも」
聖園ミカのことは信頼できない。そして先生のことも同様に、全てを信頼することはできない。その一方で先生の判断は信用するし、その判断のもとに風紀委員会へと託された聖園ミカの必要性も信用する。
それが貴女たちの導いた答えだろう、と先生は言外に囁いた。
「では、我々の
「むしろ露骨なくらいだと思うよ。けれど、貴女たちからすれば本命が上手くいかなくてもいい。陽動作戦だけでも実際に大戦果だし、既に目星も付いていて、しかもミカのおかげでますます盤石。どう転んだところで風紀委員会は損をしない。まさしく一石三鳥だね?」
「……私は今、本当に心底後悔しています」
「どんなことを?」
「アビドスと対峙したあのとき、あらゆる戦力を投入して先生の身柄を確保しなかったことです。その行動によって私が委員長に見限られていたとしても、そうすべきでした」
うんざりとした口調でそう言ったアコに対して、先生はやはり笑顔で返す。
「今の私にそこまで大きな価値はないよ、少なくとも、風紀委員会にとってのアコよりはね」
「では、その価値はいつ最大化されるのですか?」
「それは私にもまだわからないかな。あまり期待はしないでね」
先生の言葉に対する返事はなかった。代わりにアコは一本のUSBメモリを差し出す。
「こちらが本命の詳細です。接続機器は……必要ありませんか」
受け取った先生がタブレットにそのままUSBメモリを差し込んだのを見て、アコは言葉を切った。時間を潰すまでもなく、そのタブレット──シッテムの箱に、機密文書としての体裁が整ったファイルの中身が表示される。
「……うん、だいたい予想通りかな」
文字通り、
この計画における風紀委員会の目論見は三個あるらしい。一個目は、まさしく今始まろうとしている犯罪者集団の小規模拠点に対する一斉摘発。風紀委員会が総力を挙げて行うということになっている表向きの作戦であり、成功すれば実入りも大きいが、実のところこれはあくまで陽動作戦である。肝心な作戦は別に存在するのだ。
そしてその肝心な作戦である二個目は、陽動作戦の裏側で、風紀委員会にまで潜入している可能性が高い、ゲヘナ学園内部のスパイ──言うまでもなくアリウス分校が送り込んでいる生徒だ──を特定し、場合によっては排除すること。なるほど、この話を表に出すなど確かに不可能だろう。
学園間での諜報戦自体、いくらキヴォトスであってもそう起こることではない。それこそごく一部の険悪なマンモス校の間で起こり得るかどうかというところだが、ゲヘナとトリニティの間ではそれが当然のように行われている。とはいえそれらは合法的な諜報活動に終始するだろうし、やったとしてもあくまで相手校の生徒を自発的な協力者に仕立て上げるまでだろう。自校の生徒をスパイとして送り出すことはあらゆる観点から見て困難であるし、費用対効果も著しく悪い。
だが、アリウスならやりかねない。幼少期から生徒を兵士として教育していたアリウスであれば、『入学したその瞬間からアリウスのスパイ』などという生徒を仕立て上げていてもなんら不思議ではない。先のエデン条約締結式における事件では万魔殿のトップがアリウスと堂々取引をしていたわけだが、それ以外の情報ルートが全く存在しないなどといった楽観的な意見を持つ者は風紀委員会の中にいなかった。
「ヒナがシャーレへの協力をこんな直前に打診した理由も、これでよく理解できたよ」
大規模作戦の開始直前に先生を招いたとなれば、風紀委員会内部のスパイはどうにかしてその情報を外に伝えようとするはずだ。そこで尻尾を掴めるかもしれないという期待が半分。そして、生徒相手のスパイ探しを先生は好かないだろうという、ヒナの確信的な予想がもう半分。トリニティで暴れていた美食研究会の面々をゲヘナに引き渡したとき、先生は補習授業部に関するあれこれをヒナに対して説明していたのだから、その予想も容易だっただろう。
「委員長のご厚意に感謝してくださいね」
「まあ……そうだね。ヒナもアコもパラノイアに陥っているわけじゃなさそうだし」
スパイの嫌疑で無辜の生徒に罪が及ぶことが確実的ならばともかく、証拠が揃った上でスパイだけを焙りだすのであれば、先生としてもこれ以上口を挟む理由はなかった。むしろ先生にとって重要だったのは、残された三個目の目論見。即ち────
「アコ行政官、それに先生。まもなくゼロアワーです」
「あれ、もうそんなに時間が経ってたの? ありがとう」
作戦開始の予定時刻が迫っていることを伝えに来た風紀委員に礼を返してから、先生はアコに改めて問いかける。
「アコ、全部隊の準備は滞りなく整ってるんだよね?」
「間違いなく。ああ、それから……今しがた報告が上がりました。
「そっか。私はこっちの指揮にかかりきりだと思うし、その辺りは任せるよ。……とはいえ、この仕事もどこまで私が必要か分からないけれど」
「何を言っているんですか、来たからにはきっちり仕事してもらいますよ」
「うん、そうだね。ただ、私としては本当に仕事があるか疑問なんだよ?」
その言葉に訝しむアコや周囲の風紀委員たちに、先生はくすりと笑ってから続けた。
「私が何かしなきゃいけなくなる前に、私たちの切り札が全てを片付けてくれそうだからね」