セイアの言葉を聞いても、ミカは何ら反応を示すことはなかった。そんな彼女の様子を慮ってか、セイアはどこか諭すように続ける。
「君の在り方にかかわらず、トリニティにおいて一度でも異端と断じられたものは良くも悪くも赦されない。旧くはアリウスから続く伝統だ」
「……そうだね」
ミカは決してその事実を理解していないわけではなかった。けれどもそれは残酷なまでに無慈悲で、彼女はそこから目を背けずにはいられなかった。
セイアのヘイローを壊してしまったという勘違いによって後戻りできなくなっていたとはいえ、ゲヘナに対して燃やした憎悪の全てが偽物だとは言えない。アリウスに対する復讐心に至っては澄み切ってすらいた。普遍的なトリニティの価値観を体現していた存在こそ、過去の自分自身に他ならない。
であれば、トリニティに渦巻く悪意が聖園ミカを赦すことはきっとないのだろう。それが為されるためには、彼女が変わったのと同じように、トリニティそのものが歴史と伝統をひっくり返したうえで変わらなければならないのだから。
「逸脱を許容しない秩序という概念の集合体がトリニティ総合学園を形作っている。だからこそ今のトリニティは軽々しく君を赦さないだろうし、君自身もそれを本能的には理解しているはずだ」
セイアはかつてないほど慎重に言葉を選びつつ、ミカにゆっくりと語りかける。
百合園セイアのヘイローが破壊されたという報によって、聖園ミカの心は一度壊れた。その誤解が解けたのち、自らにとっての大切なものを自覚した直後にそれら全てが掌から零れ落ちていき、聖園ミカの心は二度壊れた。
壊れた心を容易に治す手段など、どこにもありはしない。先生による荒療治でなんとか砕け散るのだけは阻止して、なおかつミカ自身が取り繕っているだけで、彼女の精神状態が今も健常でないことは火を見るよりも明らかだ。
自罰的な思考が時折表出するだけに収まり、外面的にはかつてと同じような振る舞いができている時点で奇跡的。これから一歩でも間違えれば三度目が待ち、間違えさせないために先生が干渉すればそのまま深い共依存に陥る可能性が高い。難しい二択だったが、最終的にセイアとナギサ、そして先生は『ミカを信じる』と決めたのだ。
しかし、トリニティに渦巻くミカへの理由無き悪意の危険性を三人は見誤っていた。ミカ自身が間違えることなく進んでも、外的要因であまりにも簡単に三度目が起きうる環境。それが今の彼女にとってのトリニティであるからこそ、セイアはここで失敗するわけにはいかない。
「……わかってた。最初からわかってたよ」
諦めたような笑いと共にミカが言った。
「でも、それを認めてしまったら、私はこれからどうすればいいの? 正しくあるための努力すらも許されないなら、私は────」
「故に、シャーレという選択肢が生まれる」
ミカの悲痛な声に割り込んで、セイアがきっぱりと告げる。
「君には言っていなかったことだが、聴聞会の直前……君が化粧直しで離席したタイミングに、私とナギサと先生はちょっとした保険を用意していた」
「……保険?」
「万が一にも君の退学処分を避けられそうにないならば、その時点で先生の持つ権限を行使し、君をシャーレに強制転籍させるという取り決めを三人で交わしていたんだ」
衝撃的なカミングアウト。沈んでいたミカの表情が驚きに染まった。
「えぇっ!? そ、そんなことしたら、先生とシャーレの評判が……!」
「ああ、特にトリニティの各派閥からの評価は大きく下がったことだろうね。乱暴にも程がある解決策だし、職権濫用と見られても文句は言えない。そしてティーパーティーもますます窮地に追い込まれたことだろう。故にこれは最終手段だったし、結果的には避けることが叶った。正に僥倖だったわけだが……要するに、その時点で『シャーレに聖園ミカの席を用意する』という選択肢自体は先生にとって考慮の内だったということだ」
そう語りながら、セイアはちらりと部屋の時計を確認する。つられてミカも目を向ければ、短針が頂点に近づきつつあった。
「何よりも、先生は君の意志を尊重することが第一だと考えている。トリニティで全てをやり直すという、困難な道を選んだ君の意志を汲むと決めていた。……一昨日の件が起こるまでは」
「一昨日って、まさか」
「ああ、君が起こした暴力沙汰ということにされている一件さ。君の水着を意図的に汚損し、投棄した生徒たちについてはある程度まで調べがついている。正義実現委員会が今後厳しく追及することになるだろうし、この一件における君の名誉は速やかに回復されると保証しよう。しかしこの事案を受けて、先生はトリニティの環境が君の更生に適したものではないと判断したようでね」
軽く肩を竦めてセイアは続ける。
「一昨日の件を抜きにしても、君をトリニティに閉じ込めておくことは君の成長を阻害する側面が大きいというのが先生の主張であり、議論の末に私とナギサもその内容を認めた。そして先生は、それらを踏まえて君をシャーレに転籍させたいと打診してきたわけだ」
セイアは静かに椅子から立ち上がり、ミカの方へ歩み寄る。
「この場で明確にしておかなくてはならない事柄だが……君を取り巻くトリニティの環境が健全な状況でないことの責任は、全てティーパーティーたる私とナギサにある。そしてこの問題を即座に解決することができない理由もまた、私とナギサの力不足だ。どうか謝罪させてほしい」
そう言って頭を下げるセイアを見て、ミカも慌てて椅子を蹴った。
「そんなことないよ! 私への風当たりがずっと強いのも、ティーパーティーの権力が前より弱くなったのも、全部私のせいで……」
「それ以上は言わないでくれたまえ、ミカ。私の友人が自分自身を傷つける様子を、できれば私は見たくない。これは私自身のエゴでしかないが」
その言葉でミカが気まずそうな顔と共に落ち着いたのを見て、セイアはずっと机の下に置いていた鞄から二枚の書類と万年筆を取り出し、ミカに手渡した。
差し出された書類を流し読む。片方はトリニティが発行する転学許可証明書。ティーパーティーのホスト代行にしてミカの幼馴染たるナギサのサインが既に入っている。あとはミカがサインをすればいいだけの状態だ。
そしてもう片方は、連邦生徒会が発行する転籍認可証明書。転籍先組織であるシャーレの顧問たる先生のサインに加え、連邦生徒会首席行政官の七神リンまでもがそれに名前を書き入れていた。
「……これ、なんで連邦生徒会のサインが入ってるの?」
「私も詳しくは知らないが、その署名を得るために少し時間がかかったと先生は言っていた。連邦生徒会長代行の七神首席行政官による承認の事実があれば、シャーレのみの承認と比較して君を転籍させる上での正当性がより増すから、と」
さも簡単なことのように言うが、連邦生徒会の暫定トップから得る承認とサインがこのキヴォトスでどれだけ重いものなのか、仮にもティーパーティーであるミカは知っている。ましてや今の連邦生徒会など、判子をひとつ押すにも何日を掛けるかわからないような腰の重さをしているというのに。
たったの二日間でこれを用意するために先生がどれだけ駆けずり回り、セイアとナギサが自分のためにどれだけ準備を整えてくれたのか、ミカには想像もつかなかった。
「ここまで誘導しておきながら白々しいとは思うが、サインするかどうかはあくまで君の自由だ。けれども私は、シャーレこそが君に相応しい場所だと考える。それが君にとって最善の未来に繋がると信じている。私を、ナギサを、そして先生のことを、どうか信じてはくれないか」
「……セイアちゃん。もしも私がシャーレに転籍したら、私はもうトリニティには戻れないよね」
「恐らくは。『連邦捜査部シャーレ』の一員としてトリニティを訪れるのであれば法的な問題点は皆無とはいえ、それでも君がシャーレで実績を挙げたうえでないと歓待は難しいだろう。ましてや君個人の、トリニティへの出戻りとなると……」
学園内の反聖園ミカ運動が下火となり、パテル分派が送り込んでくるリーダーを相手にセイアとナギサが優位を保ち、さらにティーパーティーの外側にいる派閥からの干渉を避け、その上でミカ本人がシャーレの一員としてトリニティの生徒たちから一定以上の支持を得るまでに至らなければ、彼女がトリニティに戻るのは難しい。ほぼ不可能であると表現しても過言ではないだろう。
「うん、わかったよ」
その事実を改めて確認して、それでもミカは笑顔で万年筆を手に取った。
「……信じてくれと言った私が問えることではないが、本当に良かったのかい?」
「んー、未練がないわけじゃないよ。すごく悔しいし、悲しい気持ちでいっぱいになってる。でもね、みんなが私のことをそこまで真剣に考えてくれて、私のために頑張ってくれたのが嬉しいの。だから、私は信じるよ」
穏やかな顔で二枚の書類にサインを入れつつ、ミカは思い出したかのように続ける。
「あ、そうだ。折角だから、ちょっと約束してほしいことがあるんだけど……」
「私に可能なことであれば」
「そんなに難しいことじゃないよ……いや、ちょっと難しいかな? セイアちゃんもナギちゃんも忙しいだろうし。でも、これは譲りたくないの」
そう言いながらミカは自分の名前を間違いなく書類に書き入れて、セイアに万年筆を返した。
「できればナギちゃんにも直接言いたかったけど、贅沢は言えないし。だからセイアちゃんから伝えてほしいんだけどね、えっと」
「待った。君がそれを望むならば、私はより適切な手段を君に提供できるだろう」
ミカの言葉を制止しつつ、セイアは鞄の中に万年筆と書類を放り込む。
「残された時間は少ない。行くとしようか」
「え、行くって……今からどこに行くの?」
「ナギサに直接伝えたいのだろう? ならば、今から会いに行けばいい」
話の流れに取り残されたミカを尻目に、セイアは当然のような口調で言った。
「ナギサが君のことを待っている。いい加減、寒空の下で彼女を放置するのも悪いだろうからね」