ぎしりと音を立てながら、普段使いのデスクチェアに座りこむ。
「これで……まずは一歩前進、と」
誰もいないオフィスで一人そう呟いた先生は、ちらりと廊下へ続くドアの方へ視線を向けた。
もうそろそろミカの着替え、それからメイクも終わる頃合いだろうか。準備ができたら改めてオフィスまで顔を出すように言っておいたので、そう時間もかからずここまでやってくるだろう。
まとめ買いしたインスタントのコーヒーを啜る。ミカの様子を見に行く前に淹れていたそれはすっかり冷めきっていたが、カフェインを摂取するのだと割り切ればそう悪い味でもなかった。
ミカをシャーレ部長にすると決めたまではいいとして、ミカ本人がそれを承諾しないことには話にならない。そういった意味で、先生にとって一番の山場は先刻の会話だった。無論今の時点では、あくまでミカをスタートラインに立たせることができたというだけだ。しかし、これ以上に余計な干渉を行うことはあまり望ましくない。
今後のミカがどのように日々を過ごすかはまだわからないが、ここからは彼女の自主性を最大限尊重しなければならない。先生という立場から今後やるべきことは、ミカがシャーレで生活するのに必要な環境を整え、その成長を見守ることのみだ。
溜息をひとつ挟み、コーヒーの残りを口に流し込む。そういえば、トリニティの生徒にはコーヒー党より紅茶党の方が多い。ミカも言わずもがな紅茶党であろうし、インスタントのレパートリーを増やすべきかもしれない。
そんなことを考えていたタイミングでドアの開く音がする。先生が振り返ってみれば、そこには若干緊張した面持ちでオフィスに入ってくるミカの姿があった。
「じゃーん、ニュースタイルのミカだよ☆ ……どうかな、似合ってる? 変じゃないよね?」
ミカの装いは先刻まで着ていたトリニティの制服ではなく、先生がミカのために準備していた、いわば『連邦捜査部シャーレ部長』の真新しい制服だ。つまるところ、先生が普段から着ているシャーレ制服のサイズ違いである。
「大丈夫、よく似合ってるよ」
「そ、そうかな? えへへ……」
「むしろ、ミカから見て気になる点があったら教えてほしいかな。仕立て直しに留まらず、今ならデザインの変更も多少はできるよ?」
「ううん、デザインは絶対このままが良いんだけど……改めて見てみると、この制服ってほとんど連邦生徒会だよね」
ミカの言う通り、シャーレの制服は連邦生徒会の行政官が着る制服とかなり似通っている。アレンジされている部分もなくはないが、それらも精々カラーリングの変更や連邦生徒会ロゴの削除程度に留まっていた。
「そもそもシャーレは連邦生徒会長直轄の組織だからね。ミカ用に違う制服を用意してもよかったけれど、連邦生徒会とほぼ同じデザインの制服にしておけば、むしろミカの所属を印象付けられるかもしれないって気付いたんだ」
「あっ、もしかしてこの制服自体が私を宣伝する戦術になるってこと? 先生も案外抜け目ないよね、そういうところ」
「ふふ、誉め言葉として受け取らせてもらうね。……よし、それじゃあ制服の件は問題なさそうだし、これからの予定について話そうか。ただその前に、シャーレにおけるミカの待遇について確認しておかないとね」
「私の待遇って……あ、そっか。シャーレの部長として働く以外のこと、なんにも決まってないもんね」
「その通り。とはいえ書類上の待遇はほとんど連邦生徒会の役員クラスに準拠するし、それ以外の内容についてもティーパーティーと折衝した上でほぼ決定したものが多いかな。それでも、ミカ本人がそれを把握しないことには始まらない」
そう言いながら、先生はデスクの引き出しから書類の束を取ってミカに渡した。
「詳細は自分でしっかり確認してね。今ならミカの意見を取り入れる余地があるから」
「うん、わかったよ」
ミカは素直に頷いて、書類にざっと目を通す。
ミカの役職は連邦捜査部シャーレの部長。先生が今しがた述べた通り、その地位は連邦生徒会の役員とほぼ同等ということになっている。給与に関しても右に同じ、さらにシャーレ居住区内の一室が寮扱いで提供され、設備の利用も自由。トリニティを去り、ティーパーティーの後ろ盾も失った身として、これ以上ないほどの待遇だ。
「……あれ?」
自分の住む場所がシャーレの居住区になるのは構わない、むしろとてもありがたいことだ。
だが冷静に考えてみれば、居住区とは先生のために用意された場所なのであり、彼女も当然そこに住んでいるのだ。つまりそれが意味するのは、自分はこれから先生と同じフロアで毎日寝起きするということ。いや、先生も自分も女性なのだから同じフロアで生活することに何ら問題があるわけではない。ないのだが、突然降って湧いた先生との共同生活など、ミカにとっては一大事どころの騒ぎでは収まらない。
嬉しさと恥ずかしさと焦りの感情が一気に押し寄せてくる。それらをなんとか振り払おうと、ミカは必死に首を振った。
「……何か問題点でも見つかった?」
「い、いや全然! まったくなんにも問題ないから安心して! それより、ちょっとこの部屋暑いかもね? なんだか火照ってきちゃったし、この制服も結構厚手だし!」
「あぁ、ごめんね。エアコンを動かしておこうか」
そう言ってリモコンを探しにいく先生の背中を見送りながら、ミカは書類の束で顔を扇ぐ。少しでも赤くなった顔が冷えてくれればと願ったが、あまり効果はないようだった。仕方がないので先生にそれとなく背を向けつつ、ミカは書類の続きを確認する作業に戻る。
読み進めていくうちに、役職に付随する権利に関しての細々とした追記や補則が終わり、その内容はトリニティの聴聞会がミカに下した処分についての記述に移り変わった。
どうやらシャーレに来たからといってミカが免責されるわけではなく、先生が監督者となったうえで処分の内容をミカに履行させることになっているようだった。規則正しい生活と模範的な行動、定められた奉仕活動などといったシャーレでも行えるようなことは、これまでと同じようにこなさなければならないらしい。
本音を言うならばミカはそれらを面倒なだけのものだと感じていたが、この待遇に何か異論があるわけでもなかった。シャーレに来たから聴聞会の処分内容は全て免責だなんて、仮にティーパーティーが許したとしてもトリニティの過激派が許さないだろう。
そうでなくとも、真っ当な考え方をする派閥を納得させるためには最低限必要なことだ。特にシスターフッドや救護騎士団などは処分の履行を間違いなく要求しただろうし、逆にそれ以外は何も求めなかったであろうことがミカには簡単に想像できた。その者が清廉潔白である限り、あるいは救護を待っている限り、彼女たちは全てのトリニティ生を分け隔てなく迎え入れるのだ。……もしかすれば、トリニティにその身を寄せていない者にすら。
彼女たちのそういうところがミカはどうにも気に入らなくて、けれどそんな思想を軸とした行動によってミカ自身も少しだけ助けられている。
「私が、あの子たちに……かぁ」
心の隅にふわりと浮かんだ苛立ちを消し去るように努めながら、ミカは文字の羅列を情報として読み取る作業に没頭した。一度集中してしまえば大した文章量でもなく、数分もしないうちにミカは最後のページまで書類を読みきることができた。
「もう全部読めた? 何か問題になりそうな箇所はあったかな」
ミカに声を掛ける頃合いを見計らっていたのだろう、いつの間にかデスクチェアに戻っていた先生が聞く。
「うーん、特に問題はなかったよ。ただちょっと、質問が一個だけあるんだけど……ここに書いてる、経費についての部分」
ミカが指差した項目を先生が覗きこむ。連邦捜査部長としての職務のために必要となった出費は、連邦捜査部顧問と連邦生徒会財務室長にその必要性を認められれば経費として計上することができる、というシンプルな内容だった。
「この経費って、具体的にはどのくらいの金額まで許されるのかな」
「ふむ。私の知る限り、本当に必要だと認められたなら、上限額は特になかったはずだよ。とはいえ連邦生徒会のチェックは結構厳しいから、なんでも自由に使えるわけじゃないけれどね」
「さ、流石に私物を好き勝手買おうとしてるわけじゃないよ!?」
「わかってるよ、ミカ。これは過去の私の過ちだから……」
そう言いながら遠い目をする先生。その姿にはどこか哀愁が漂っていた。
「まあ、私の話はともかくとして。これが聞きたいということは、ミカは経費で何か大きな買い物をしたいんだと受け取ってもいいの?」
「……新しい銃が欲しいなって思ってるの」
ミカの答えを聞いた先生は意外そうな顔をする。
「銃火器なら、ミカはずっとトリニティ製のサブマシンガンを使ってたよね? 確か……」
「ランチェスターだよ。愛着はあるんだけど、あれって一応はトリニティの支給品だったから、ナギちゃんが私の荷物と一緒に送ってくれるかわかんなくて……それにもし送ってくれたとしても、あれを私がそのまま使うのはあんまり良くないよね?」
広く普及したトリニティ製の銃器をミカがわざわざ携帯し続けては、その行為自体がトリニティとの繋がりを誇示していると捉えられてもおかしくない。わざわざ非トリニティ的な、お揃いの制服まで用意してくれた先生の気持ちを無駄にしたくない、というのがミカの率直な気持ちだった。
「折角だし新しい銃をちゃんと選びたいんだけど、何を買うとしても今の私にはちょっと手が出ないかなーって……」
「なるほど。それじゃあ、午後にミカの銃を選びに行こうか。今はミカの手元に銃火器がないわけだし、この状況なら間違いなく経費で落ちるよ」
ミカに笑いかけつつ先生は続ける。
「そうなると、少し早いけれど今から朝食にして、午前のうちにシャーレの施設を一通り案内して回る形に────」
そこまで話したところで、卓上に置かれていた固定電話の着信音が言葉を遮る。
「ごめんミカ、ちょっと待っててね。……はい、こちら連邦捜査部シャーレ」
手慣れた様子で電話を取る先生。電話先の声は聞こえないが、手持ち無沙汰になったミカはぼんやりと会話の内容に耳を傾ける。
「あぁ、こちらで連絡してくるのは珍しいね。何かあったの?」
先生の様子は気安いものだ。おそらく相手は知人、きっと生徒なのだろう。
「……それは、また。大変なことになったね」
などと思っていたのも束の間、先生の顔は険しいものに変わった。デスクの上に放り出されたままだったタブレットを引き寄せつつ、先生はさらに問いかける。
「情報の確実性は? それから猶予はどれくらいある? ……わかった、今すぐ行くよ。最新の情報はモモトークで随時共有してくれると助かるかな。それじゃあ、また後で」
がちゃり、といささか粗雑に受話器を置く音がオフィスに響いた。
「えっと……もしかして、何か緊急事態だったり?」
「そうなるね。ミカ、申し訳ないけど予定はキャンセル。夕方までには帰ってこれるように努力するから、ご飯はここの一階に入ってるコンビニで調達しておいて。遅くなりそうなら連絡を入れるよ。シャーレの設備は自由に使ってくれて大丈夫だから」
先生はそう言って、タブレット片手に部屋を出ていこうとする。
「ま、待って!」
「うん? 何か聞いておきたいことでも?」
そう聞かれ、ミカは首を横に振る。
「そうじゃなくて……その、もし良かったら……私も連れていってほしいな、って」
「ミカが一緒に行きたいなら、勿論構わないよ」
「えっ、本当に良いの?」
あまりにもあっさりと先生の許可が出て、ミカは困惑の表情を隠さずに聞き返した。しかし先生は当然のことだと言わんばかりに答える。
「これがシャーレの仕事である以上、今のミカには介入の権利があるからね。私としても、ミカが来てくれるなら心強いかな。ただし、これは先に言っておくけれど」
一度言葉を切った先生はわざわざ真面目な顔を作り、ミカのことを真正面から見据えた。
「今回の依頼主はヒナ……って言っても、すぐ伝わらないよね。空崎ヒナ、ゲヘナ学園の風紀委員長からの依頼だよ」
「……ゲヘナからの、依頼」
ミカが二の句を告げられないでいるうちに、先生はさらに畳みかける。
「ゲヘナ自治区内での大規模テロの予兆を察知したから、先制攻撃で撃滅したいらしくてね。しかもただのテロならともかく、どうも下手人にアリウスの生徒たちが混ざってるらしい。彼女たちを相手にして戦うことになるのはほぼ間違いないけれど……それでも、ミカは一緒に来る?」