「犬人族……?」
メルドが怪訝そうに呟いた。この世界の人間からすれば、アスカは犬の特徴を持った亜人に見えるのだろうが、日本を出自とする生徒の一部には、殊更に信じ難いものに映っていた。騎士団員の治療をしていた香織は、呆然とした表情で彼女の名前を口にする。
「アスカ……? まさか、あやラブの……?」
那岐の漫画作品『あやかしランブル!』にはナビゲーター役のキャラクターが三人登場する。
一人は、作者の那岐自身をモチーフとする水晶の中で眠っていた正体不明の少女。
一人は、戦闘では役に立たないが、豊富な知識で仲間たちを助ける陰陽師補佐の妖狐。
最後の一人は、主人公の陰陽師と見習い時代から契約している犬神のアヤカシ。
日景の召喚した少女は、この三人目のナビゲーター『アスカ』と容姿・服装共に瓜二つだった。
「力を貸してくれ! アスカ!」
「了解っス!」
「私も一緒に戦うよ!」
制止の声を上げようとしたメルドは、しかし三人の決然たる瞳に口を閉ざしてしまう。既にベヒモスは戦闘態勢を整えている。再び兜全体の赤熱化を開始したベヒモスに向けて、日景は黄色の符を突き出した。
「”雷符・槍”!」
先程光輝を狙ったように自分に歯向かう者を標的とする習性があるらしく、雷の槍に兜を撃ち抜かれたベヒモスの双眸は雷符の術者である日景の方に向けられる。
そして、赤熱化を果たした兜を掲げ、突撃――
「え?」
その言葉を発したのは誰だったのだろう。一際強く地面を踏み締めた刹那、何時の間にかベヒモスの目前に迫っていたアスカは、その両手に持った刀をベヒモスの双角に振り下ろしていた。
「てりゃああああああ!!!!」
「ガァアアアア!?」
太陽の如く、黄金色の入り混じる朱色の剣閃が双角を切り落とす。苦痛のあまりに力を入れ過ぎたベヒモスは足元を踏み砕き、その余波で発生した衝撃と石礫がアスカに襲いかかる。
だが、粉砕の余波が届く前に陽色の結界がアスカの周囲に展開されていた。日景の霊術、魔力操作の派生技能”遠隔操作”により遠くから展開した結界術だ。突進の直撃なら未だしも、攻撃の余波程度ならば日景にも十分に防ぐことができる。
「ガァアアア!!」
「ぐううう!!!」
自慢の双角を失った痛みに苦しみながらも、ベヒモスは、衝撃波から逃れるために飛び退いたアスカの僅かな隙を逃さず極太の右前脚を振り抜いた。二振りの刀を交差させることで受け止めたものの、彼我の体格差は如何ともし難い。矮小な生物を踏み潰さんと右前脚に全体重をかける。
「”伊邪那岐・限界突破”!!」
両掌を前に突き出した那岐を中心に空色の霊力が渦を巻く。金色、朱色、陽色、空色の四色の霊力を身に纏い、歯を食い縛り、全身全霊の力を込めたアスカは怪物の巨体を持ち上げる。
「せえええええええええええい!!!!」
「ギャァアアアアアアアアアッ!!!!」
二筋の剣閃が、ベヒモスの右前脚を見る影もないほどに引き裂いた。十メートル級の巨体を支える四足の一本を失った巨躯の怪物はその場に倒れ込んでしまう。グルァッ! と咆哮を上げ、どうにか立ち上がるベヒモスだったが、それ以上の行動を許すほどアスカは甘くはない。
自らを上から見下ろす巨獣の憤怒の眼光を正面から睨み返しながら、己の肉体を満たす霊力の限りを得物たる双刀に流し込む。
「はあああああ……!!!! 狗備狩――斬ッ!!!!!」
獣の双牙が、怪物の首を狩り取った。噴血一丈、宙へ首を残して、骸はばさと地に崩れ落ちる。
「ベヒモスを倒したのか? たった三人で……」
メルドは、呆然とベヒモスの死骸を眺め、目の前の光景が信じられないとばかりに呟いた。
訓練で何度も剣を振り回すよりも実戦を繰り返す方がステータスは上がりやすい。おそらくは今回の訓練で光輝の平均ステータスは250を突破しているだろう。その光輝が為す術もなく敗れたベヒモスを捻じ伏せるなど、光輝の数倍程度のステータスでは到底不可能だ。
ならば、あの犬人族のステータスは――
「一体、お前たちは……」
何者なんだ? と続けようとしたメルドの機先を制するように、日景が口を開いた。
「事情は後で説明する。今は生徒を救うのが最優先事項……違うだろうか?」
「……あ、ああ。その通りだ。香織! 光輝の治療を急いでくれ!」
疑問は幾らでもあるが、日景の言う通り、今はこの状況を脱することに専念するべきだ。そのためには、生徒たちの中で最大の攻撃力とカリスマを有する光輝の存在が必要不可欠。一も二もなく頷いた香織は、倒れたままの光輝に治癒魔法を施した。
「天の息吹、満ち満ちて、聖浄と癒しをもたらさん、”天恵”」
淡い光が光輝の体を包み込む。体の傷と同時に魔力をも回復させる光属性の下級治癒魔法だ。
このまま座して回復を待つわけにはいかないと光輝を担ぎ上げたメルドは、雫と龍太郎を担いだ他の騎士団員たちと共に撤退を開始した。
依然としてトラウムソルジャーは増加を続けていた。既にその総数は二百を上回るだろう。階段へと続く通路を骸骨の騎士が埋め尽くしている。
だが、その状況が逆に味方したのだろう。もしも、もっと隙間だらけだったならば、単騎突貫した生徒が包囲され惨殺されていたはずだ。実際、最初の百体程度の時に、それで窮地に陥っていた生徒が多数存在していた。
それでも、まだ死人が出ていないのは、偏に騎士団員たちのおかげだろう。彼等の必死のカバーが生徒たちを生かしていたと言っても過言ではない。代償に、既に彼等は満身創痍だったが。
騎士団員たちのサポートが無くなり、続々と増え続ける魔物に恐慌状態に陥り、魔法を使いもせずに武器を振り回す生徒が殆どである以上、もう数分もすれば完全に瓦解するだろう。
生徒たちもそれを何となく悟っているのか表情には絶望が張り付いている。優花たちの呼びかけで少ないながらも連携を取り、奮戦していた者たちも限界寸前のようで泣きそうな表情だ。
誰もが、もう駄目かもしれない、そう思った時……
「”天翔閃”!」
純白の斬撃が敵陣のド真ん中を切り裂き、両側にいた集団を左右の奈落へと吹き飛ばす。斬撃の後は、直ぐに雪崩れ込むように集まった骸骨の群れで埋まってしまったが、生徒たちは確かに、ほんの一瞬開いた隙間から上の階層へと続く階段を見た。今まで渇望し、どれだけ剣を振るっても見えなかった希望が見えたのだ。
「皆! 諦めるな! 道は俺が切り開く!」
再び天翔閃が敵を切り裂いていく。光輝が発するカリスマに生徒たちが活気付く。
「お前たち! 今まで何をやってきた! 訓練を思い出せ! さっさと連携を取らんか!」
皆の頼れるメルド団長が天翔閃に勝るとも劣らない一撃を放ち、敵を次々と打ち倒す。何時も通りの頼もしい声に、暗く沈んでいた気持ちが晴れていく。四肢に力が漲り、思考がクリアになっていく。実は、この変化には香織の魔法の効果も影響している。精神を鎮める魔法だ。リラックスできる程度の魔法だが、光輝たちの無双ぶりと相まって効果は抜群だ。
治癒魔法に適正のある者が挙って負傷者を癒し、魔法適性の高い者が後衛に下がり魔法の詠唱を開始する。前衛組は隊列を組み、倒すことより後衛の守りを重視した堅実な行動を心がける。
回復が終わり復活した騎士団員も加わり、反撃の狼煙が上がった。生徒たちの強力な魔法と武技の波状攻撃が、怒涛の如く敵目掛けて襲いかかる。凄まじい速度で殲滅していき、その速度は、遂に魔法陣による魔物の召喚速度を超えた。
「皆! 続け! 階段まで駆け抜けるぞ!」
光輝が掛け声と同時に走り出す。ある程度回復した龍太郎と雫がそれに続き、バターを切り取るようにトラウムソルジャーの包囲網を切り裂いていく。そして、到頭全員が包囲網を突破した。
「お前たち! 安心するのはまだ早い! このまま上の階まで撤退する!」
後方の通路が再び肉壁ならぬ骨壁により閉じていく。トラウムソルジャーの召喚魔法陣は未だ健在だ。これ以上の戦いは必要ない。魔物に目を付けられる前に上層へと撤退する必要がある。
メルドが大きな声を張り上げ、生徒たちに脱出を促した。一秒でも早く安全を確保したいという思いもあり、直ぐに全員が階段への脱出を果たした。
上層への階段は長かった。先が暗闇で見えないほど上方へ続いており、既に感覚では三十階層以上登っているはずだ。魔法による身体強化をしていても、そろそろ疲労を感じる頃合いである。薄暗く長い階段はそれだけで気が滅入るものだ。
もう随分と進んだはずだ。そろそろ小休止を挟むべきかとメルドが考え出した時、遂に階段の先に大きな魔法陣の描かれた壁が現れた。
調査の結果、どうやらトラップの可能性はなさそうであることが判明した。魔法陣に刻まれた式は、目の前の壁を動かすためのもののようだ。メルドが魔法陣に刻まれた式通りに一言の詠唱をして魔力を流し込む。すると、まるで忍者屋敷の隠し扉のように壁がクルリと回転する。
奥の部屋に歩みを進めると、そこは元の二十階層の部屋だった。
「帰ってきたの?」
「戻ったのか!」
「帰れた……帰れたよぉ……」
生徒たちが次々と安堵の吐息を漏らす。中には泣き出す生徒やへたり込む生徒もいた。光輝一行ですら壁に凭れ掛かり、今にも座り込んでしまいそうだ。
しかし、ここはまだ迷宮の中。低レベルとは言え何時何処から魔物が現れるか分からない。完全に緊張の糸が切れてしまう前に、迷宮からの脱出を果たさなければならない。メルドは休ませてやりたいという気持ちを抑え、心を鬼にして生徒たちを立ち上がらせた。
「お前たち! 座り込むな! ここで気が抜けたら帰れなくなるぞ! 魔物との戦闘はなるべく避けて最短距離で脱出する! ほら、もう少しだ、踏ん張れ!」
少しくらい休ませてくれよ、という生徒たちの無言の訴えをギンッと目を吊り上げて封殺するメルド。生徒たちは渋々立ち上がるとメルドの後を付いて行く。道中の敵を、騎士団員が中心となり最小限だけ倒しながら一気に地上へ向けて突き進んだ。
そして遂に、一階の正面門と何だか懐かしい気さえする受付が見えた。迷宮に入って一日も経過していないはずなのに、ここを通ったのがもう随分と昔のような気すらしてくる。
今度こそ本当に安堵の表情で外に出ていく生徒たち。正面門の広場で大の字になって倒れ込む生徒もいる。一様に生き残ったことを喜び合っているようだ。そんな生徒たちを横目に気にしつつ、メルドは受付へ報告に行く。
二十階層で発見した新たなトラップは危険すぎる。今回は日景と那岐、そして日景の召喚した犬人族の少女のおかげで命拾いしたが、彼処で全滅していたとしてもおかしくはなかった。
憂鬱な気持ちを顔に出さないように苦労しながら、それでも待ち受ける大量の書類と雑事を思うと溜息を吐かずにはいられないメルドだった。
ホルアドの町に戻った一行は何かをする気力もなく宿屋の部屋に入った。幾人かの生徒は生徒同士で話し合ったりしているようだが、殆どの者は意識を失うように深い眠りに落ちている。
そのような状況の中、檜山大介は一人、宿を出て町の一角にある目立たない物陰で膝を抱えて座り込んでいた。もし、他の誰かが彼のこの姿を見れば、自らの軽率な行動が仲間たちの命の危機を招いた事実に気落ちしているように見えるだろう。
だが実際は……
「クソッ! なんでアイツばかり。色情魔のくせに……な、那岐と一緒の部屋に……あんな犬耳美少女まで誑し込んで。……おかしいだろう……許さない……こ、殺す……絶対に殺してやる……」
臓腑の滾りを抑えられないとばかりに憎悪と殺意に凝った瞳で悪態をついているだけだった。
迷宮に入る前日、ホルアドの町の宿屋に宿泊する時のこと。生徒全員は、防犯の面から二人部屋以上で過ごすことになった。しかし、日景と同じ部屋に宿泊していいという男子生徒はおらず、やむを得ず一人部屋で過ごすことになるはずだった。
その状況に待ったをかけたのが那岐だ。同じ部屋で寝るのには慣れているからと、日景と二人部屋に泊まると宿屋側に告げたのだ。
大介は頭が真っ白になった。彼は那岐に好意を抱いている。それと同時に、自分とでは釣り合わないと思っており、光輝のような高潔な人間ならば、所詮住む世界が違うのだと諦められた。
だが、日景は違う。複数の女と関係を持つ色情狂のクズ野郎(大介はそう思っている)が那岐の傍にいるのはおかしい。それなら自分でもいいじゃないか、と傍から聞けば、頭の中身を心配されるような考えを大介は本気で持っていた。
ただでさえ溜まっていた不満は、既に憎悪にまで膨れ上がっていた。女子生徒たちが見蕩れていたグランツ鉱石を手に入れようとしたのも、その気持ちが焦りとなって表れたからだろう。
「へぇ~、殺人予告かい? 異世界最初の殺人がクラスメイトなんて……随分と挑戦的だね?」
その時、不意に背後から声を掛けられた。
「ッ!? だ、誰だ!?」
慌てて振り返る大介。そこにいたのは見知ったクラスメイトの一人だった。
「お、お前、何でここに……」
「そんなことはどうでもいいよ。それより……檜山くん? 何時、恋敵を殺すつもりなのかな?」
その人物はクスクスと笑いながら、まるで喜劇でも見るように楽しそうな表情をしていた。大介自身が言ったこととは言え、クラスメイトの殺人予告を聞いたというのに、その人物はまるで気にしていない。むしろ、それを望んでいると言わんばかりの嬉々とした様子だった。
「……それが、お前の本性なのか?」
大介は呆然と呟く。それを、その人物は馬鹿にするような見下した態度で嘲弄する。
「本性? そんな大層なものじゃないよ。誰だって猫の一匹や二匹被っているのが普通だよ。そんなことより……今の独り言、皆に言いふらしたらどうなるかな? 特に、彼女が聞いたら……」
「ッ!? そ、そんなこと……信じるわけ……証拠も……」
「ないって? でも、僕が言ったら信じるんじゃないかな? あの窮地を招いた君の言葉には、既に力はないと思うけど?」
大介は追い詰められる。まるで弱ったネズミを更に嬲るかのような言葉。まさか、■■がこんな奴だったとは誰も想像できないだろう。二重人格と言われた方がまだ信じられる。目の前で嗜虐的な表情で自分を蔑む人物に、全身に悪寒が走り、震えが止まらない。
「ど、どうしろってんだ!?」
「うん? 心外だね。まるで僕が脅しているようじゃない? ふふ、別にすぐにどうこうしろってわけじゃないよ。そうだね、取り敢えず、僕の手足となって従ってくれればいいよ」
「そ、そんなの……」
事実上の奴隷宣言のようなものだ。当然断りたいが、そうすれば眼前の人物は容赦なく先程の言葉を周りに言いふらすだろう。葛藤する大介は、「ここで口封じをすれば」と仄暗い思考に囚われていく。しかし、その人物はそれも見越していたかのように悪魔の誘惑をする。
「南雲那岐、欲しくない?」
「ッ!? な、何を言って……」
暗い考えを一言で吹き飛ばされた大介は、驚愕に目を見開いてその人物を凝視する。そんな大介の様子をニヤニヤと見下ろし、その人物は誘惑の言葉を続ける。
「僕に従うなら……いずれ彼女が君のモノになるよ。白崎香織と八重樫雫も付けてあげようか?」
「……何が目的なんだ。お前は何がしたいんだ!」
あまりに訳の分からない状況に大介が声を荒らげる。
「ふふ、君には関係のないことだよ。まぁ、欲しいモノがあるとだけ言っておこうかな。……それで? 返答は?」
あくまで小馬鹿にした態度を崩さないその人物に苛立ちを覚えるものの、それ以上に、あまりの変貌ぶりに恐怖を覚えた大介は、どちらにしろ自分に選択肢などないと諦観の表情で頷いた。
「……従う」
「アハハハハハ、それはよかった! 僕もクラスメイトを告発するのは心苦しかったからねぇ。まあ、仲良くやろうよ、檜山くん? アハハハハ!」
楽しそうに笑いながら宿の方へ歩き去っていくその人物の後ろ姿を眺めながら、大介は「ちくしょう……」と小さな声で漏らした。
今は疲れ果て泥のように眠っているクラスメイトたちも、落ち着けば自分たちを危険な目に遭わせた原因に意識を向けるだろう。自分の居場所を確保するには立ち回りに最大の注意を払う必要がある。あの人物に従えば、諦めていた可能性――那岐をモノにできる可能性すらあるのだから。
「ヒヒ、だ、大丈夫だ。上手く行く。俺は間違ってない……」
再び膝に顔を埋め、ブツブツと呟き出す大介。今度は誰の邪魔も入ることはなかった。