右腕で顔を庇い、目をギュッと閉じていた日景は、ざわざわと騒ぐ無数の気配にゆっくりと目を開いた。そのまま素早く周囲に視線を巡らせる。
まず目に付いたのは巨大な壁画だった。縦横十メートルはありそうなその壁画には、後光を背負い、長い金髪を靡かせ、薄っすらと微笑む中性的な顔立ちの人物が描かれていた。背景には草原や山々、湖などが描かれ、それらを包み込むかのように、その人物は大きく両腕を広げている。
「一体何が……!?」
壁画から目を逸らすと、大理石と思しき美しい光沢を放つ滑らかな白い石造りの建築物が視界に入ってきた。天井はドーム状になっており、これまた美しい彫刻が彫られた巨大な柱に支えられている。大聖堂という言葉が自然と湧き上がるような荘厳な雰囲気の広間だ。
日景たちはその最奥にある台座のような場所の上にいるようだった。周りには日景と同じように呆然と周囲を見渡すクラスメイトの姿がある。どうやら、あの時、教室にいた者たちは全員この状況に巻き込まれてしまったようだ。
「今の感覚は……」
「那岐?」
「召喚……? でも、それにしては……」
振り返ると、何かを考え込むように目を伏せる那岐の姿があった。怪我はないようで、その事実には日景もホッと胸を撫で下ろす。
そして、おそらくこの状況を説明できるだろう台座の周囲を取り囲む者たちに視線を向けた。この広間にいるのは日景たちだけではない。三十人前後の見覚えのない人々が、日景たちの立つ台座の前で祈りを捧げるように跪き、両手を胸の前で組んでいた。
彼らは一様に白地に金の刺繍が施された法衣のようなものを纏っており、傍らには錫杖のような物を置いている。その錫杖は先端が扇状に広がっており、円環の代わりに円盤が数枚吊り下げられていた。
その内の一人、法衣集団の中でも特に豪奢で煌びやかな衣装を纏い、高さ三十センチはありそうな、これまた細かい意匠の凝らされた烏帽子のような物を被っている老人が進み出てきた。
「ようこそ、トータスへ。勇者様、そしてご同胞の皆様。歓迎致しますぞ」
尤も、老人と表現するには纏う覇気が強すぎる。顔に刻まれた皺や老熟した目が無ければ、五十代と言っても通るかもしれない。そんな彼は錫杖をシャラシャラと震わせながら、外見によく合う深みのある落ち着いた声音で困惑する生徒たちに話しかけた。
「私は、聖教教会にて教皇の地位に就いておりますイシュタル・ランゴバルドと申す者。以後、宜しくお願い致しますぞ」
そう言って、イシュタルと名乗った老人は、好々爺然とした微笑を見せた。そして、こんな場所では落ち着くこともできないだろうと、混乱覚めやらぬ生徒たちを促し、落ち着ける場所――いくつもの長テーブルと椅子が置かれた別の広間へと導いた。
案内されたその広間も例に漏れず煌びやかな作りをしていた。素人目にも調度品や絵画、壁紙が職人芸の粋を集めたものなのだろうとわかる。おそらくは、晩餐会などをする部屋なのだろう。
上座の方に畑山愛子先生と光輝達四人組が座り、他はその取り巻きが適当に座っている。日景と那岐は、下座の席に腰を下ろす。そして、机の下でお互いの手を握りしめた。
ここに案内されるまで、誰も大して騒がなかったのは未だ現実に認識が追いついていないからだろう。また、イシュタルが事情を説明すると告げたことや、カリスマレベルMAXの光輝が落ち着かせたことも理由に違いない。教師より教師らしく生徒を纏めていると愛子先生は涙目だった。
全員が着席すると、絶妙なタイミングでカートを押しながらメイドさんが入ってきた。そう、生メイドである! 地球産の某聖地にいるようなエセメイドや外国にいるでっぷりしたおばさんメイドではない。正真正銘、男の夢を具現化したような美女・美少女メイドである!
こんな状況でも思春期男子の飽くなき探究心と欲望は健在であり男子生徒の大半がメイドたちを凝視していた。尤も、それを見た女子生徒たちの視線は、氷河期もかくやという冷たさを宿していたのだが……
「ありがとう」
傍に来たメイドから飲み物を渡された日景は感謝の言葉を告げる。その言葉にメイドは軽く会釈をすると、今度は那岐の前に飲み物を置いた。二人は飲み物に口をつけることなく、イシュタルの方に視線を向ける。イシュタルは、生徒全員に飲み物が行き渡るのを確認すると口を開いた。
「さて、あなた方におかれましてはさぞ混乱されていることでしょう。一から説明させて頂きますのでな、まずは私の話を最後までお聞きくだされ」
そうして語られた彼らの事情はどうしようもないくらい勝手なものだった。
この世界の名前はトータス。そして、トータスには大きく分けて三つの種族が存在している。
人間族、魔人族、亜人族の三つ。人間族は北一帯、魔人族は南一帯を支配しており、亜人族は東の巨大な樹海の中でひっそりと生きているらしい。
この内、人間族と魔人族が何百年も戦争を続けている。魔人族は、数は人間に及ばないものの個人の持つ力が大きいらしく、その力の差に対して人間族は数で対抗していた。戦力は拮抗し、ここ数十年は小競り合いが続いていたのだが、最近、異常事態が多発しているという。
それが、魔人族による魔物の使役だ。
魔物とは、通常の野生動物が魔力により変質した異形だと一般に考えられている。
この世界の人々にも正確な魔物の生体は分かっていないらしい。それぞれ強力な種族固有の魔法が使えるらしく、厄介で凶悪な害獣と認識されている。
今まで、本能のままに生きる彼らを使役できる者は殆どおらず、できたとしても数匹程度が精々だった。その常識が覆されたのである。これが意味するのは、人間族側の『数』という優位が崩れたということであり、人間族が滅亡の危機を迎えているということになる。
「あなた方を召喚したのは『エヒト様』です。
我々人間族が崇める守護神、聖教教会の唯一神にして、この世界を創られた至上の神。
おそらく、エヒト様は悟られたのでしょう。このままでは人間族は滅ぶ、と。
その未来を回避するためにあなた方を召喚された。この世界よりも上位の世界の人間であるあなた方は、この世界の人間よりも優れた力を有しているのです」
そこで一度言葉を切ったイシュタルは、「神託で伝えられた受け売りですがな」と表情を崩しながら言葉を続けた。
「あなた方には是非その力を発揮し、エヒト様の御意思の下、魔人族を打倒し我ら人間族を救って頂きたい」
イシュタルはどこか恍惚とした表情を浮かべている。おそらく神託を聞いた時のことでも思い出しているのだろう。彼によれば、人間族の九割以上が創世神エヒトを崇めている聖教教会の信徒らしく、度々降りる神託を聞いた者は例外なく聖教教会の高位に就くらしい。
神と共に歩むではなく、嬉々として神の意志に従うこの世界の在り方に日景と那岐が危機感を覚えていると、突然立ち上がり猛然と抗議する人が現れた。
「ふざけないでください! 結局、この子たちに戦争させようってことでしょ! そんなの許しません! ええ、先生は絶対に許しませんよ! 私たちを早く帰してください! きっと、ご家族も心配しているはずです! あなたたちのしていることはただの誘拐ですよ!」
畑山愛子。彼女は今年二十五歳になる社会科の教師で生徒たちから非常に人気がある。
百四十センチ程度の小柄な体格に童顔、ボブカットの髪を跳ねさせながら、生徒のためにとあくせく走り回る姿は何とも微笑ましく、そのいつでも一生懸命な姿と大抵空回ってしまう残念さのギャップに庇護欲を掻き立てられる生徒は少なくない。
愛子先生は、今回も理不尽な召喚理由に怒り、猛烈な勢いで抗議の声を上げたのだ。だが、
「お気持ちはお察しします。しかし……あなた方の帰還は現状では不可能です」
その言葉に、生徒たち全員が凍りついた。広間に静寂が満ちる。生徒の誰もが何を言われたのか理解できないという表情でイシュタルに視線を向けた。
「ふ、不可能って……ど、どういうことですか!? 喚べたのなら帰せるでしょう!?」
愛子先生が叫ぶ。
「先程言ったように、あなた方を召喚したのはエヒト様です。我々があの場にいたのは、単に勇者様方を出迎えるためと、エヒト様への祈りを捧げるため。人間に異世界へ干渉するような魔法は使えませんのでな、あなた方が帰還できるかどうかはエヒト様の御意思次第ということですな」
「そ、そんな……」
愛子先生が脱力したようにストンと椅子に腰を落とす。周りの生徒たちも口々に騒ぎ始めた。
「嘘だろ! 帰れないってなんだよ!」
「嫌よ! 何でもいいから帰してよ!」
「戦争なんて冗談じゃねぇ! ふざけんなよ!」
「なんで、なんで、なんで……」
恐慌状態に陥る生徒たち。日景と那岐も平気ではなかった。しかし、以前にも似たような経験をしたことがあるが故に、他の生徒たちよりは平静を保てていた。
誰もが狼狽える中、イシュタルは特に口を挟むでもなく静かにその様子を眺めていた。
その中で一人、突如光輝が立ち上がるとテーブルに両の拳を叩きつけた。その音に生徒全員の注目が集まったのを確認すると、光輝は徐ろに口を開く。
「皆、ここでイシュタルさんに文句を言っても意味がない。彼にだってどうしようもないんだ。
……俺は、俺は戦おうと思う。この世界の人たちが滅亡の危機にあるのは事実なんだ。それを知って、放っておくなんて俺にはできない。
それに、人間を救うために召喚されたのなら、救済さえ終われば帰してくれるかもしれない」
光輝の視線が前を向く。
「……イシュタルさん? どうですか?」
「そうですな。エヒト様も救世主の願いを無下にはしますまい」
「俺たちには大きな力があるんですよね? ここに来てから妙に力が漲っている感じがします」
「ええ、そうです。ざっと、この世界の者と比べると数倍から数十倍の力を持っていると考えていいでしょう」
「うん、なら大丈夫。俺は戦う。人々を救い、皆が家に帰れるように。俺が世界も皆も救ってみせる!!」
ギュッと握り拳を作り、そう宣言する光輝。無駄に歯がキラリと光る。
同時に、彼のカリスマは遺憾なく効果を発揮した。絶望の表情だった生徒たちが活気と冷静さを取り戻し始めたのだ。光輝を見る眼差しはキラキラと輝いており、まさに希望を見つけたという表情だ。女子生徒の半数以上は熱っぽい視線を送っている。
「へっ、お前ならそう言うと思ったぜ。お前一人じゃ心配だからな。……俺もやるぜ?」
「龍太郎……」
「今のところ、それしかないわよね。……気に食わないけど……私もやるわ」
「雫……」
「え、えっと、雫ちゃんがやるなら私も頑張るよ!」
「香織……」
いつものメンバーが光輝に賛同する。その後は当然の流れというようにクラスメイトたちも賛同していく。愛子先生はオロオロと「ダメですよ~」と涙目で訴えているが、光輝の作った流れの前には無力だった。
「……賛同するしかない、か」
「日景……いいの?」
「よくはないが……今は、そうするしかないようだ」
結局、全員で戦争に参加することになった。おそらく、クラスメイトたちは戦争をするということがどういうことなのか本当の意味では理解していないだろう。崩れそうな精神を守るための一種の現実逃避とも言えるかもしれない。
そんなことを考えながら、日景はそれとなくイシュタルを観察していた。彼は、実に満足そうな笑みを浮かべていた。
「……本当に厄介だ」
日景は気が付いていた。イシュタルが事情説明をする間、それとなく光輝を観察し、どの言葉にどんな反応をするのか確かめていたことを。正義感の強い光輝が人間族の悲劇を語られた時の反応は実に分かりやすかった。その後は、ことさら魔人族の残酷さを強調するように話していた。
イシュタルは見抜いていたのだろう。この集団の中で誰が最も影響力を持ち、扱いやすい駒であるのかを。日景はイシュタルに悟られないよう、誰にも聞こえない小さな声で呟いた。