「フンッッッ!!ハァッッッ!!!!」
呪術高専、京都校の生徒及び引率の教師の為に用意された部屋から野太い声と機械の出す硬質な音が響く。
最新鋭のトレーニングマシンで己の上半身の筋肉を虐め抜くは誰であろう──京都校の学長、楽巌寺嘉伸その人である。
「クゥッッッッッッ!!ヌゥアッッッッッッ!!」
顔には玉のような汗が浮かび、一回毎に汗が周囲に撒き散らされる。
楽巌寺の使用しているマシンは、チェストプレスと呼ばれる物。主に上腕三頭筋や胸筋を鍛えるマシンであるが…楽巌寺はそのマシンにあろうことか、110kgの重りを載せていた。
チェストプレスは成人男性…それもジムに行き慣れたトレーニーですら80kgでトレーニングする者も多い。更に言えば、この110という数字はマシンの限界重量であった。
その証拠に、楽巌寺は既に数十回目となる反復動作を終えていた。
「フシュウゥゥゥ……いかんのう、チェストプレスは10RM*1が目安とわかってはおるが…こんな負荷では儂の筋肉ちゃんが大きくなれんわ」
マシンから立ち上がり、タオルで汗を拭い取るとため息をつく楽巌寺。ちなみにこのマシンの搬送・搬入にかなりの手間や時間が掛かる事へ苦言を呈されたが、全て捻じ伏せている。
「やはりバーベルを持ってくるべきじゃったか…」
ガシャガシャとシェイカーでプロテイン(フルーツ味)と水を混ぜながらぼやく。運動後のプロテイン補給をさっと済ませ、楽巌寺は備え付けの冷蔵庫からタッパーを取り出して中身を小鍋に移し火にかける。
「儂の筋肉ちゃん達がお腹が空いたと泣いておるわ…ふふっ、
トレーニング後の45分はゴールデンタイムと呼ばれる。
何故か?理由は単純である。筋トレによる高負荷を掛けられた筋肉は損傷し、消耗する…しかし、その傷付いた筋肉達がタンパク質によって修復、増強される事によって筋肉というのは肥大していく。これを
そのアナボリック、そしてその為に必要なタンパク質の供給はトレーニング後の45分間でピークに達する。一説にはトレーニング後45分間の筋肉へのアミノ酸供給量は実に平時の3倍ともなる。
故に、トレーニー達が涙を流して喝采するアナボリックの為にはトレーニング後の速やかなタンパク質補給が肝。
楽巌寺はタッパーの中身…鶏ささみとブロッコリーの豆乳スープを温め終わると直ぐに口へ運ぶ。
身体への負担を考慮し、人肌程度に温められたスープが喉を通り胃へ移動し、そして腸にて吸収されその栄養が全身の筋肉へと行き渡る。
楽巌寺は涙を流していた…悲しいのではない
これは感謝
自身の筋肉、その礎と成る食材達への感謝
そして、自身に筋肉の…『食』の喜びを教えてくれた一人の呪術師への感謝の涙であった。
楽巌寺嘉伸は、少し前までは骨に皮を張ったような…そんは貧相な身体であった。PFCバランスも考えず、筋肉ちゃん達の為のタンパク質すらおざなりにし碌に食べようとしない…そんな枯れた老人だった。
今にして思えば、自分は死んでいたのだろう…老獪が褒め言葉となる呪術上層部に長年身を置き、酸いも甘いも綯い交ぜに飲み干す生き方をしてきたツケと言えばそうだ。
食事は日に最低限…金を掛ければ形に成るかと高い肉を食えど、二口目に手が伸びぬ事などしょっちゅう。魚介が食事の中心になり…好物だった天ぷらも油に胃をやられると手が伸びなくなっていた。
人はパンのみに生くるものに非ず、されどまたパンなくして人は生くるものに非ず。
楽巌寺嘉伸は、死んでいたのだ。
生きながらにして、死んでいた。
他者の足を引き、自身の益に繋げようと考える者ばかりの世を見過ぎた。
他者の為に動ける者が、自身の為にしか動かぬ者に殺される世を嘆いた。
いつしか、喜びも悲しみも自身から切り離し『そうであるからそうする』という考えを徹底するようになった。
その男と出会ったのは、そんな人生に絶望することにも飽いてきた頃だった。
男は言った、『何故世界はもっとただ美味しく…そして平和にいられないのか』と。
男は言った、『何故世界には今だ貧困と飢えがあるのか』と。
男は、たった半日で呪術界の闇を…上層部の膿を照らした。
男の名は、夏油傑───呪術総監部の全員を強制的にドカ食い気絶させ肥満児にした罪で呪詛師認定されるも、その後他ならぬ呪術総監部の者達からの嘆願で特級術師へ返り咲いた男である。
夏油傑に肥満児へと変えられた人間の中に、楽巌寺も含まれていた。
楽巌寺は、医者からの苦言や動けぬ事で発生する命の危機の為に死ぬ気で減量を始めた……そして、再び知ったのだ。
厳しい食事制限の中で、医者に黙って食う海老天のなんと美味いことか。
長いランニングの後に、こんなに頑張ったのだと自分を騙して貪るジャンクフードのなんと官能的なことか。
足らぬを知る事で、楽巌寺は再び食の楽しみを思い知ったのだ。
そして、減量が終わった時…楽巌寺の身体は元よりも一回りも二回りも
あの時の感動を…どうして言葉にできよう。
鏡の前で数時間、ともすれば一日は立っていた。
ぺたぺたと鏡と自分の身体とを触りながら、理由もわからず涙を流す。
食への喜び、食への感謝
肉への喜び、肉への感謝
楽巌寺は、夏油傑に生き返らせてもらったのだ。
命の恩人…どころではない。死んでいた自分に新たな命を授け…剰え、新たな生きる喜びまでもを教えてくれたのだ。
今や、呪術総監部はトレーニーの巣窟である。
溜め込むだけで碌に使いもしなかった年寄り達が、今や新たなマシンやプロテインが出る度に血眼になって買い漁る。
口を開けば政治や足の引っ張り合いしか出なかった口からは、今やどんなトレーニングをしているだとか食事のメニューがどうだ以外に無くなり。
出る杭を打つことしか考えなかった脳味噌は、今や如何にしてバルクを上げカットを際立たせるかしか考えていない。
今日も総監部からはマシンの音とプロテインを振る音が響き渡り、新人呪術師のコールが聞こえるという。
楽巌寺は目尻に溜まった涙を拭き取るとシャワーを浴びて交流会へ向かう生徒達へ発破をかけようと呼び集める。
魅せてやりたいのだ…かの夏油傑に!
貴方が救った者が育てた生徒達だと…貴方の望む世界を見たい者は、一人ではないのだと!!
「嘉伸!東京校の伏黒恵はやはり…俺の見込んだ通りの男だった!!」
東堂は嬉しそうに楽巌寺へ微笑みかける。
「じゃろうな、かの伏黒甚爾の息子…それはそれはワガママボディであろう」
そう、東堂葵に伏黒恵の事を伝えたのは他でもない楽巌寺なのだ。
楽巌寺は知っていた…総監部の老人達が臍を噛んで羨ましがる筋肉の持ち主、伏黒甚爾を。
あのバッキバキにキマったカット、上がり過ぎて外を歩けるか心配に成る程のバルク、服の上からでも隠しきれない程のデカさ…そんな筋肉の持ち主が甚爾である。
そんな筋肉に愛された男の息子…弱い道理があるまい。
「ああ…!一見すると細いが、体重は俺と変わらんかもしれん…!!」
しかし、そこまで知っていた楽巌寺ですら…東堂の報告に目を見開いた。
「馬鹿な…!!伏黒恵は175センチ程と聞く、葵と同じだというならば……っ!!」
「ああ…!おそらくスペック*2は──夢の50台の筈だ」
楽巌寺が膝から崩れ落ち、両手を握り祈るように掲げる。
「まさか……!まさかぁ…!!観音様が…」
「ああ…!正に神憑り的な肉体だ
一本一本が金よりも重く、ダイヤよりも貴重な筋肉だろう」
と、筋肉達磨二人がコントをやっている様を他の生徒は冷めた目で見ていた。
『また始まったカ…こうなると二人は長いゾ』
「はぁー…最悪、ちょっと止めてきてよ加茂くん」
「私!?」
「すいません…僕らやと力不足でして」
「お願いします、加茂先輩!!」
定期的に発作を起こす二人に加茂はおずおずと近付くと野生動物に話しかけるように怖怖と口を開く。
「そ、その……楽巌寺学長、そろそろ交流会に向けての話を…」
「葵、加茂は何kgくらいかの?」
「ふむ…」
東堂は素早く加茂の背後に回ると瞬時に羽交い締めにし持ち上げる。
「う、うおぉっ!?」
「ふぅ…相変わらず、性癖も薄っぺらいが
70…いや、服を抜けば目方は68kgといったところか」
加茂は血液を操作する自身の術式の都合上、頻繁に体重を計測している。自身の扱える血液量を直感のみではなく数値として理解する為だ。
そんな加茂が今朝測った体重が、68.0kg…東堂の言った通りである。シンプルに気持ち悪い。
「ふむ、儂も年かのぅ…最近、スペ値が100を割っとらん者の声が聞こえんでなぁ」
「加茂、性癖のつまらんお前に最早期待などしていない…
が!お前の術式の都合上、戦闘における肉体改造の占めるウェイトが他の術師よりも大きいのは明白!!
だというのに何故鍛えん!?何故己の肉体を蔑ろにする!?」
「あ…ええと……」
理不尽な罵倒と正論に殴られた加茂は何も言えず俯く。
こんなでも加茂家の次期当主筆頭候補である。
「東堂くん、今日は好きなアイドルの番組があるって先週から言ってなかったっけ?」
そんな可哀想な加茂へ西宮が助け舟を出す。
………実際は加茂が生贄としての役割を果たせなかったので仕方なくというのは密に、密に……
「ぬっ!!俺としたことが…危うくリアタイを逃すところだった、礼を言うぞ西宮!
嘉伸!伏黒恵は俺が相手をする!!それ以外は好きにしろ」
東堂はそれだけ言うと凄まじい速度で走り去る。巨体が走るその音に楽巌寺は満足そうに頷くと生徒達を見渡す。
「皆、己の筋肉に恥じぬ交流会にするように」
楽巌寺を除く全員のやる気が下がった。
「ん~、どうすっかな」
出自不明の帳、呪詛師の襲来…交流会の最中に起こったそれらの問題にも五条悟は呑気に赤福を頬張りながら考える。
(生徒達の方は…ま、問題ないな
そもそもアッチには傑が居るんだから何が来てもまぁ行けんだろ
呪詛師は……歌姫と
歌姫んトコには真希と真依に津美紀も居る、歌姫の術式の事も考えればこっちも問題ねぇな
ジジイの方は……)
「なんだその身体…ッ!オイオイオイ!!なんつー
こんなもん、俺に家具にされる為に産まれてきてんだろ…」
「ゴチャゴチャうっせぇ!あんま言ってっと家具にしてやんねーぞ!?家具にされたくねぇのかよクソジジイがよ」
「来やがれ、ドスケベジジイ!」
(うん……ま、なんとかなるだろ)
楽巌寺と戦闘中の呪詛師、組屋鞣造の気持ち悪いテンション
そしてそもそも、楽巌寺の気持ち悪いテンションと突然始まる自身の筋肉との会話が五条は普通に苦手であった。
「どうすっかな、このままここで茶菓子食ってても良いんだけど…」
本来…ここで五条悟は呪詛師の始末と生徒達を護る為に帳の破壊、侵入した特級呪霊の相手をしていた。
しかし、度重なるイレギュラーの末…五条悟の六眼が一つの呪力を感知した。
「お前、七海と灰原が言ってた呪霊だな?こんなトコで何やってんだ」
高専忌庫、種々様々な呪具を保管する其処に侵入し今正に呪物を持ち去ろうとしていた真人の前に立ちはだかる…
『五条悟…!』
真人の総身に緊張と共に呪力が奔る。
「チッ…何やってんだって聞いてんだろ、頭使うのは傑の仕事だってのに…
まぁいいや……とりあえず、お前は殺す」
『ハッ…祓うの間違いだろ、呪術師!!』
正史に於いて、渋谷での時間稼ぎ…その一コマでしかなかったソレが異なる歯車の噛み合いにて全く別の様相を呈す。
蝶の
人の呪いと最強のマッチアップが実現した。
パチリ、パチリと硬質な音が響く。
頭に縫い目のある女は机の上に置かれた将棋盤を睨むと目を閉じながら天を仰いだ。
「私の負けだね…さっきまで駒の動きも知らなかったクセに、嫌になるよ」
『……一つ、聞かせろ羂索』
羂索と机を挟んで向かいに座る呪霊は丁寧に駒を片付けながら呟く。
「あぁ…そういえば負けたら言う事聞くって言ったっけ?
でも、縛りも結んでない口約束だよ?そこら辺…君には説明しなくてもいいよね」
『構わん…答えられぬなら答えられぬでいい
羂索、
「……あのさぁ、もっと具体的に聞いてくれない?
何を企んでいるって…確かに私はお喋りだけど、懇切丁寧に一から説明する程に優しくないよ」
はぁ…とクソデカため息をつく羂索。
悔しい事に整った容姿のお陰でそれすらも絵になっていた。
『五条悟に夏油傑…何故最強二人の居る【今】事を起こす?
其方人等の術式ならば次の百年に賭けた方が余程建設的であろう』
「あー…そういうね…ん~~、まぁ………これぐらいなら教えても良いかな?
─────面白いと思ったから」
『……………なに?』
心底訳がわからないといった風に聞き返す呪霊。しかし、羂索はそんな事は関係ないとばかりに話し続ける。
「人は、山頂の景色に感動するんじゃない…自分が苦労して山を登り切った事実に感動しているのさ
ほら、よく言うでしょ?空腹は最高のスパイスって…アレと同じだよ
要は付加価値だよね…どんな美食でも飢え死に寸前で食べる腐ったパンに勝てないし、どんな名画も自力で登った山の景色には勝てない
だから──興味が湧いたんだ
現代最強の呪術師、夏油傑と五条悟の二人を欺き躱し…出し抜いて見る景色───一体、どれだけ面白いんだろう……!!
私は今、ヒーローショーの幕が上がるのを待つ幼子のような心持ちだ」
その瞳を爛々と輝かせる羂索。その輝きは美しい容姿である事を差し引いて尚、見た者全てに不快感と強い忌避感覚えさせるものであった。
「あとは…君のお蔭ってのもあるかな
最高に面白そう…でも、いかんせん戦力不足は否めないからね
だから、君には感謝してるよ───
君が仲間になってくれたお蔭で、楽しめそうだ」
『お前達人間の機微など、呪霊である
此方人等の
呪霊の静かな、それでいて炎のように激しい気迫にも羂索は肩を竦めて笑う。
まるで、眼中に無いかのように
「怖い怖い…全く、仲間思いだね──呪霊のくせに」
『話は終わりだ…此方人等も高専へ向かう
真人と花御が向かっていて…万が一も無かろうが、それでも後詰めをするに越したことはあるまい』
精悍な顔つきの青年のような、四腕の呪霊…
蝶の羽搏きは、未だ──止むことを知らない