女体化した、男だった頃の俺は神の残骸のように朽ちていく。 作:千佳のはんぺん
麗らかな春の陽気。歩道と車道を別ける桜が芽吹いて一面が桜色に染まる街並み。
男のままだったのなら、わざわざ早起きして身だしなみを整えたりせず、軽く寝癖をなおすだけで身支度を終えて学校に向かっていただろう。
女の準備は色々と忙しい。6時には起床して、起き抜けの寝ぼけた顔を叩いて鬱陶しいくらい長い髪をくくり、洗顔、化粧水、乳液、パックなどで肌の調子を整え、その間に温めていたアイロンで寝癖をなおす。
パックを外したらリップオイルを塗って唇を保湿して、下地を塗って顔面の赤みとかを消し、コンシーラーでくすみを隠してパッパと眉毛を描く。
目とかまつ毛なんかは特にいじらなくてもパーツがいいらしいのでノータッチだが、流行り? だかなんだかがあるらしいのでチークを目元に軽く塗り込んで血色をよく見せる。薄く、薄くを意識しながらパウダーで最後の調整をしてやっとこさ完成。色つきリップはめんどいからいいや、涙袋も別に元からちょっとあるしスキップスキップ。
姉から仕込まれた技術を大分手抜きして時短を心掛けてやったというのに20分かけてしまった。これを毎日って正気か? 外に出てもいないのに早くも家に帰って引きこもりを始めたくなった。
女の制服というのも無駄に意匠が凝っていて、ズボンを履いてシャツを着てブレザーを羽織るだけの単純な男の制服とは勝手が違って更にタイムロス。
高校一年生の春。知らない学校、知らない生徒、新しい環境に踏み出す第一歩は、もたついて遅刻という形でスタートを切った。
「はあ……」
溜め息を吐く。
溜め息を吐くと幸せが逃げるという俗説があるが、個人的に俺はその俗説が嫌いだ。だって、少なくとも俺は精神的な負担を和らげる為に溜め息を吐いて発散してるんだ、むしろ幸福度を回復させる行為としてやっているのに咎められる謂れは無い。
遠回しな言い方はせず、率直に『他人の溜め息は目障りだからするな』とでも言えばいいでは無いか、と思う。まあ、言われた所で止めはしないのだが。
なんて、下らない事を考えながら靴を履き、ようやく家のドアを開け外に出る。
「うおっ」
ドアを開けるとアパートの共用廊下に出るのだが、開けたドアの手前側、つまり俺から見て右側の廊下の方から驚いたような素っ頓狂な男の声が聞こえてきた。
身を少し出してそちらを見やると、同じ階層に住んでいる20代後半ぐらいのフリーターの男性がそこに立っていた。彼が通過する前にドアを開けて行く手を阻んでしまったようだ。
「あ、ども。おはようございます」
「……」
軽く会釈をし挨拶をする。男性の方は挨拶を返さず、ポカーンとした顔で俺の事を眺めていた。
「……? あの、なんですか?」
「……あ、いや! ど、どうも」
男は、俺の顔を見つめ、視線を下げ、胸の辺りで一度目が止まった。少し経つとさらに下がって俺の履いているスカートを観察し、すぐに俺の顔の方に視線を戻した。
男の視線はよく分かると世の女性は言うが、確かに自分で思っていたより人の視線というのはどこに向いてるのか分かるようだった。
特に胸と足。そこで視線の動きが分かりやすく止まるから、わざとやってるかとすら思えた。恐らくそんなつもりは無いのだろうが。
「……」
ドアを閉めて施錠し、男性がエレベーターに乗るのは分かっていたので俺は彼を避けるようにエレベーター横の階段を使って下の階層に降る事にした。
何故そうしたのかは上手く言語化出来ないのだが、生理的に、と言えばいいのだろうか。なんとなく、俺を見る男性の目付きが受け付けられなくて、彼と一緒に閉所に入る事に嫌悪感を抱いてしまったのだ。
「昨日のドラマ見た!? ヤバくない、めっちゃイケメン出てきた〜!」
「見た見た! ライバル登場だよね〜、どうなるんだろ〜???」
家から駅までの距離は、徒歩で大体五分くらい。
俺とその家族が住んでいるアパートの一階にはセブンイレブンが併設されており、当然の事だが学生の登校時間や出勤ラッシュのタイミングが近付くと学生やサラリーマンでコンビニ店内及び周辺は賑やかになってくる。
コンビニ前でたむろしていた女子高生達が喧しい声で騒いでいる。服装を見ると、それは俺が着ている高校の物と同じ制服を着ているのが分かった。
女子の内一人と目が合い、すぐにその女子は隣にいた女子にヒソヒソと小声で何かを話し始めた。
何を言われているのか想像するのは難しいが、表情から察するに良い内容の話題では無いのは分かる。触らぬ神に祟りなし、俺は彼女らの視界から失せるように早足でその場から離れて行った。
……本当は途中でつまむつもりだった菓子を飲み物を買っておきたかったのだが、駅の中にも売店はあるしそのセブンイレブンを利用するのはやめにした。
自分を指して噂話している女子には近づかないのが身のためだ。今の俺は女の肉体を持っているのだし、男の頃とは扱われ方が違い、もしかしたら高圧的に物を言われるのかもしれない、そんなリスクを負ってまでコンビニに入りたくはなかった。
「うぇ〜い! もーらい!」
「おわっ! おい返せや!! 人のアイス奪うな!!」
「ケチケチすんなや〜。おっと!」
「動くな!」
「うおっと! 危ない危ない、ヒョイッ……ととっ!? あ、すんません!」
駅の二階入口に直接アクセスできる歩道橋を経由して、切符を買う為に切符売り場側の通路を歩いていたら急に人が俺の肩にぶつかってきた。自分より肩の位置が高くて、高身長の外人さんなのかと一瞬思い込んだが、そういえば俺は女体化し身長が縮んでいるのだった。すっかり忘れていた、というか意識していなければすぐにその事が頭からすっぽ抜けてしまう。
俺にぶつかってきた相手は素朴な男子高校生であった。
ぶつかられた反動で少し飛ばされて、丁度俺の付近を歩いていたサラリーマンにぶつかってしまった。
頭を下げて謝り、男子高校生を睨む。わざとじゃないのは分かるのだが、駅という人が多い場所での注意力散漫はそれなりに厳しく罰せられるべき行為ではなかろうか。
文句を言ってやろうと一歩近付いてやると、男子高校生は連れの方を見て気に触る声で俺を指さし言う。
「うわっ! この子すっげえ可愛い! その制服って東高だよね!」
「……そうですけど。あの、あまり人が多い所で暴れるのは迷惑なんで、やめた方がいいですよ」
「めっちゃ怒ってんじゃんすんません! で、高一すか!? 俺も今年から高校生で、こうして出会えたのも何かの縁って事で連絡先交換しません!?」
なんでそうなる。俺の様子を見て、不快だなって思われてるのだと気付けないのだろうか?
男子高校生の頼みを蹴り、さっさと切符を買って改札に向かう。定期はまた今度チャージするとしよう、人が多いし。
さっき謝ったサラリーマン、チラチラと俺のスカートを見ていた。なんなんだ。なんで他人の視線ってこんなに分かりやすいんだ?
……なんか、生まれて初めて女子の制服を着て、女子らしい服装をして外に出て思ったのだが。俺、女向いてないのかもしれない。
他人の妙な熱を孕んだ目線が異様に気になって、嫌悪感とかそういうマイナスな感情が際限なく湧いてきて、背中がじっとりと汗をかいて濡れて気持ち悪い。
不快だ。気持ち悪い。そしてなにより、怖い。周りの男が俺を見ている、俺は視線を地面に向けて逃げる事しか出来なかった。
「ねえねえ、君」
「……」
「君。待って」
俺のすぐ背後で、誰かを呼ぶ男の声がした。気にしないでおこう、そう構わず歩いていると腕を掴まれて強引に歩みを止められてしまう。
背中がビクつき肩が強ばる。出来る限り無反応の無感情な表情を取り繕いたかったが、恐怖が勝って怯えた顔つきになる。それを見られる前に、顔を軽く指で揉んで表情を誤魔化して振り向く。
俺の顔を見ると、腕を掴んできた金髪のバンドマンのような男が目を丸くし「ごめん、ナンパとかじゃないから安心して」と言ってきた。
「これ、落としたから」
そう言って男は定期券とか銀行のカードとかが入っている俺のカードケースを渡してくれた。なんだ、本当に親切心か、これは失礼な事をしたな。
ちゃんと相手の方を向き、頭を下げる。
「ありがとうございます、とごめんなさい! オレ、なんか勘違いしちゃって」
「いいよ、仕方ないよね。俺こんなんだしさ」
あはは、と笑いながら男は自分の顔の前で、顔を囲うように指で丸を描いた。軽薄そうな見た目である事は自覚しているらしい。
「あはは、音楽とか、ロックとか! 好きそうな見た目してますよねっ」
「よく言われる〜。楽器とかからっきしだけどね」
「えっ、ヴォーカルって事ですか? 歌うまさん?」
「どうだろうね。確かめてみる?」
バンドマンはそう言ってサッとスマホを出した。
「LINEとか、インスタでもいいし交か」
「しないです。やっぱりナンパじゃないすか、勘弁してくださいよ」
「ナンパじゃないよ! 友達づ、く、り」
「……間に合ってます」
俺はぶっきらぼうにそう言い、階段から遠い位置の停車位置まで来て電車を待つ。間に合ってますとは言うが、現在俺に友達と呼べる間柄の人間は皆無なのだが。
「ふぅ。疲れた」
「……」
1分と経たずに背後に小太りの壮年の男が立つ。 階段近くの待機位置は人が並んでないのに。わざわざ俺の後ろに。何なんだ、本当に。
気持ち悪い。慣れないスカートが風に吹かれる度に中が見えそうになり、慌てて手で押さえる。
気持ち悪い。髪が汗をかいた肌に張り付いて気持ち悪い。
男の視線が、意識してなくてもこの身体に注がれてるのが分かってしまって気持ち悪い。
この人の目を引いてしまう顔も、服を着てても少し目立つ程度には大きい胸も、細い手足も白い肌も、全部見世物にされてるようで不愉快だ。
隣の列に立った同じ高校の生徒が俺の横顔を見ると、数秒間硬直していたのが気持ち悪い。
少し離れた位置で男達数名が俺をチラチラ見ながら小声で呟きあってるのが気持ち悪い。
周りへの鬱憤を溜め込みながら待機する事2分弱、ようやく電車が到着しドアが開いた。