全く想像もしていなかった来客に、慌てて飛び込んだ寝室のドアを後ろ手で閉めて、私はそのまま、ドアを背にへたりこむ。
この薄い板一枚を隔てた先に、大好きな先生がいると思うだけで、キヴォトス中に聞こえてしまうんじゃないかって思うくらい、暴走した心臓の鼓動が煩くなる。胸がきゅっと苦しくなって、今にも張り裂けてしまいそうだ。
何よりこの状況の恥ずかしさが勝って、別に誰に見られることもないのに、無意識的に両手で顔を覆った。
「こんな格好、先生に見られちゃった…うぅ…これからどんな顔して会えばいいんだろ…」
そもそもここに来るのなんて、寮監ちゃんと熱狂的なファンの子達だけだし。あと…嫌がらせしてくる子達もだけど。正実の護衛の子だってここまでは来ない。
もちろん先生だってここを知ってる。けど、あんなことをした私のところには、もう来てくれるなんて思わなかった。そもそもこんな朝から何しに来たのかも分からないし。
でも、すごく嬉しかった。先生のおかげで、こんな私にもまだチャンスがあるって…ほんの少しだけど、私でも先生のそばにいてもいいんだって、幸せになってもいいのかもって、そう思えたから。
だから、こんなことでウジウジしてても何も始まらないんだ。自分にそう言い聞かせて、やる気を入れるために頬を二回叩いてから立ち上がる。ちょっとだけ先生の顔を思い浮かべて、それから私は気合い十分に朝の支度を始めた。今は無理でも、いつかはきっと、先生を振り向かせられるように。
ミカが、出てこない。
時刻は既に7時を余裕で過ぎ、ココアシガレットも2箱目に突入した頃合いだ。部屋から人の気配はするので、ミカがそこにいるだろうことは間違いないはずだ。そもそも道だって、当然ここの一つしかない。女子高生の朝の準備はこんなにも忙しいのかと思う。
とはいえ、流石に心配なものは心配なのだが、今まさにこの瞬間に着替えている可能性だってある。入るに入れず、そわそわしながら待っていると、部屋の奥からミカの声が聞こえた。
「せんせ〜い!こっちきていいよ〜!」
「ああ、分かった!今行く!」
どうやらやっと身支度が済んだらしい。かつて扉が存在した場所を通って、短い廊下を抜ける。記憶に新しい開けた空間に出ると、いつもの服装に着替えたミカがいた。やっぱりこの格好もいいな…と思うが、すぐに振り払う。先生が生徒に対してそんな邪念を抱くなんて言語道断だ。
そんな俺の心を知ってか知らずか、ミカは距離を詰めてきた。ほんのり甘いような、それでいて心地よい香りがする。正直なところ、好きが溢れて心臓が走り出しそうだ。
「先生、おはよっ!待ったよね?立ち話もあれだし、座って座って!」
「あ、あぁ…悪いな。じゃあお言葉に甘えて…」
とりあえずで近くにあった椅子に腰掛けると、ミカは紅茶とロールケーキをテーブルに運んできて、それから俺の対面に座ってチラチラとこちらを見てきた。なんだかこそばゆくなって、たまらず紅茶を口に含む。高級品だとすぐに分かるような香りが鼻を抜けていった。
「ん…これ、うまいな」
「でしょ!先生と一緒に飲もうと思ってた、とっておきなの!」
「そうか、ありがとな。でもいいのか?これ結構高そうだけど…」
「あ、先生も分かる?これ、ナギちゃんがお気に入りでよく飲んでるやつなの!それでね、このロールケーキもナギちゃんがこの前こっそりくれたんだけど、寮のご飯もあるから食べきれなくって…だからちょうどよかったかも!」
嬉しそうに話すミカを眺めながら、どれだけ少なく見積もっても生クリーム8割超のロールケーキを口に運ぶ。見た目からは考えられないほど、上品でくどくない、丁度いい甘さだ。
「それで…先生は今日は何しにきたの?」
「あれ、ナギサとかセイアから聞いてないのか?今日からしばらくミカの護衛をすることになったんだけど」
「えっ…えーーー?!そんなの初耳だよ?!」
ミカの叫びが部屋にこだまする。まあ初見なら妥当な反応といったところだろう。驚いているのは俺も同じことだが。
「嘘だろ…?全く…あいつら、当事者に話を通さないでどうするんだよ…ミカ、嫌だったら言ってくれていいんだぞ?別に今からでもおそ…」
「い、嫌じゃないよ?!むしろ先生と一緒にいられて嬉しい…かも…」
俺の言葉に若干食い気味に反応したミカが、赤くなりながら言葉尻を窄ませる。顔を俯かせて恥じらう姿を見ていると、なんだかこちらまでそんな気になってしまう。少しの間、場に沈黙が流れた。
「そ、そういえば!今日は何か予定あるのか?」
「きょ、今日?!今日かぁ…9時くらいから次期ティーパーティーを決める会議があるんだよね…あの子たち、私のことパテルから追放しておいて、叙任式だけはやれーってうるさいし…」
「なるほどね…それは大変だ」
「でしょ?!しかももう何回も会議やってるのに全然次の子決まらないし、毎回呼び出されるし!椅子は硬いしお茶もお菓子も美味しくないし!ひどいんだよー!」
なんとか気まずさを払拭しようと投げかけた言葉に反応して、さっきまであれだけ恥ずかしがっていたミカが今度は不機嫌そうに文句をぶつけてくる。本当に感情豊かな子だな…と思いながら、カップに残っていた紅茶を飲み切った。
「えっと…じゃあ、それについていけばいいんだな?」
「えっ?!うーん…来てくれるの…?あんまり先生に見せたいような光景じゃないんだけど…」
「まあ無理についていくとは言わないが…今の俺は、ミカを守る為にここにいるんだからな?できる限り一緒にいた方がいいとは思うけどな…」
「あはっ⭐︎そんなこと言って、どうなっちゃっても知らないよ?でも…ありがとね、先生」
ミカが優しく微笑む。その表情に思わずドキッとしてしまった。やっぱり俺は、彼女のことがどうしようもないくらい好きらしい。気を張っていないと、ふとした瞬間に漏れ出てしまいそうなほどに。
けれど、あくまで俺たちは先生と生徒という間柄。それが、少なくとも生徒の卒業までは変わることがないのは、誰よりもよく理解している。
もちろん、甘やかすことは簡単だ。ただ自分の心の赴くまま、ミカと接してあげればいい。でも、きっとそれは今のミカのためにならない。それに、俺の立場を鑑みると、その行為がキヴォトス全体にどんな悪影響を与えるだろうか。想像するだけで軽く頭痛がする。
だから、この感情は胸の奥底に葬り去ってしまおう。ミカのためにも、周りのためにも、生徒みんなのための先生であること。それが、今出来る一番いい選択だろうから。
「せんせい〜?ねぇ、聞いてる?どうしたの、ボーッとして…あ、もしかして紅茶もっといる感じ?」
「あ、悪い。少し考え事を…じゃあいただこうかな」
「は〜い⭐︎じゃあもう少しゆっくりしてこ!」
ミカの淹れてくれた美味しい紅茶を飲みながら、少しでも気を逸らそうと話に花を咲かせる。それでも、秘めたミカへの想いに完全に蓋をするのには、まだまだ時間がかかりそうだった。
「あれ、もうこんな時間か…」
カップを傾けた時、ふと目に入った腕時計を眺めると、既に長針は1周半も回っていた。なんだかんだで随分と話し込んでしまったらしい。ミカも気づいたのか、こちらを覗き込んできた。距離が近い、なんて気にしているのは俺だけみたいだ。
「あっ、いいタイミングだね!じゃあそろそろ行こっか!」
「いや、行くって言ってもな…そもそもその会議とやらはどこでやるんだ?」
「あ、そっか!えーっと…ティーパーティーの部室棟、かな?いつも私たちがいた建物の中の大部屋でやるんだけど…」
「あの、ミカさん?それって今から出発したら間に合わないんじゃあないですかね…」
今俺たちがいるこの寮は、どちらかと言えば学園の端の方に位置する。会議が開かれる大部屋の正確な場所は分からないが、少なくともティーパーティーの建物は中心部にある。今朝、そこの近くに呼び出されたばかりなのだから間違いない。まあ遅刻は必至という所だろうか。
「えー?間に合わなくてもいいじゃん⭐︎ほら、早く行ったってどうせ暇なんだよ?」
「いやなぁ…一応仕事なんじゃないのか?遅刻はなぁ…」
「うーん…そうなんだけど、その…もうちょっと先生と一緒にゆっくりしたいなぁ、なんて…だめ、かな…?」
言いながら恥ずかしくなってしまったのか、目を伏せながらごにょごにょ呟くミカ。そんなふとした仕草でさえも、さっきの俺の決意を揺さぶってくる。我ながら、本当に意志が弱いものである。
「はぁ…今日だけ特別だぞ?次からはちゃんと気をつけること!いいな?」
「…!うんっ!ぜったい、約束する!」
こちらに向けられたミカの眩しい笑顔を受けて、思わず顔が赤くなる。咄嗟に左の手のひらで口元を隠してから、これだと照れ隠ししてることががバレバレだというのに気付いた。
「ほ、ほら!そろそろいくぞ!」
「えっ、もう?!ちょっと待って〜!」
ミカに見られないように急いで立ち上がってから回れ右をし、部屋を後にしつつ背中越しに呼びかけると、後ろから慌ただしそうに追いかける彼女の足音が近づいてくる。
それを聞きながら、彼女に気づかれてしまう前になんとか顔の火照りを無理やり抑え込んで、俺たちは部屋を後にするのだった。
他愛もない話をしながら、ミカと二人並んでティーパーティーの部室棟へ向かう。今日はトリニティは休みらしく、寮の近くでは外出している生徒をあまり見かけなかったが、中心部に近づくにつれてだんだん人通りが増えてきた。何か起きてからでは遅いので、少しだけ気を引き締めて周囲を警戒することにした。
しばらく構内を歩いて分かったことだが、どうやらトリニティ生の全員がミカの敵という訳でもないらしい。あくまで肌感覚だが、だいたい全体の半分くらいといったところか。もちろん多いことに変わりはないのだが、全員が敵ではないというだけで、かなり心持ちが変わるというのは確かだ。
護衛の効果もまあまあ発揮されているようだ。できれば生徒全員の味方でありたい俺としてはあまり頼りたくなかったのだが、敵に回したくない存在としての『シャーレの先生』という称号は、想定以上に絶大らしい。
明らかにミカに狙いをつけていたであろう生徒たちが、俺を見た途端に舌打ちしながらどこかへ行ったり、気まずそうに目を逸らしたりするのを何回か視認できた。
たまに俺に対してだけ向けられる、ド変態でも見るような酷い侮蔑の視線は、とんでもない勘違いが多分に含まれているような気がするが。
歩き続けること約30分、ついに目的地が見えるところまで来ていた。大遅刻は確定なものの、道中特に何事もなく辿り着けたので、安堵が勝ったというのが正直なところだ。初日から何か起こるなんて、精神衛生上よろしくない。
門前まで進むと、両脇にティーパーティーの制服を着た警備らしい生徒が二人控えていた。しかし、こちらに見向きもしないければ話しかけてもこない。俺とミカは顔を見合わせて、二人で苦笑いしながら扉を開いた。
建物内は、早朝にナギサとセイアに呼び出された時の静けさとは打って変わって、生徒たちが慌ただしく走り回り、喧騒に包まれていた。一般生徒は休日だったが、ティーパーティーは通常業務らしい。仕事ばかりの俺としては、なんだか妙な親近感まで感じる。
誰かに案内でも頼もうと思っていたのだが、周りを見回しても忙しそうな生徒しかおらず、下手に動けば邪魔になりそうなので玄関口で立ち往生していると、こちらに気付いた一人の生徒が大慌てで駆け寄ってきた。
「ミカ様!今までどちらにいらっしゃったのですか!既に会議は始まってるのですよ!」
「スイちゃん!?いや、それはね?ちょっとここに来る途中に色々あって…」
「そんな嘘が通用すると思ってるんですか!言い訳無用です!私もそこまではついて行ってあげますから、早く出席してください!」
二人の言動と、服装が正実の制服という事から推察するに、スイと呼ばれた少女は恐らくミカの付き人だろう。まあ、その立場と相反して力関係は真逆のようだが。どう見ても完全にミカが詰められている。
そんな彼女はこちらに気付いたのか、ピシッと背筋を伸ばして綺麗な敬礼をした。
「あ…先生、初めまして。正義実現委員会からミカ様の護衛として派遣されています、2年の陽天スイと申します。よろしくお願いします」
「なるほど…よろしくね、スイ」
「先生はどうして…いや、そういえばミカ様の護衛の話がありましたね。私の手に負えない部分は先生にご負担をかけてしまうかもしれませんが、何卒よろしくお願いします」
「いいんだ、それが俺の今の仕事だからね」
先程までの雰囲気が一変し、ミカと話していた時とは比べ物にならない丁寧な口調で思わずこちらの背筋まで伸びるのを感じる。ミカの前では崩れるようだが、だいぶ真面目な子なのだろう。
「スイちゃん…なんか私だけ扱い違くない?私、一応ティーパーティーなんだけどな〜」
「その自覚があるなら、せめて仕事くらいは真面目にされたらどうです?いつもナギサ様やセイア様を困らせてばかりではないですか…」
「うっ…はい、スイさんのおっしゃる通りです…」
「分かったならいいんです。ほら行きますよ」
スイにダル絡みしたミカが綺麗にカウンターを喰らってへたり込み、スイがそれをずるずると引っ張りながら奥へと向かった。一緒に行くと言った手前放っておく訳にもいかないので、急いで追いかける。忙しなく駆け回る生徒たちの間をすり抜けて二人に追いつくと、目の前には他のそれとは明らかに異なる、一際大きな扉が待ち構えていた。
「えっと、会場ってここか?随分でかいんだな…」
「そうですね、私はこれから正実の会合があってご一緒出来ませんので…ミカ様をお願いします」
「勿論だ、任せて」
「先生なら安心ですね。ではすみません、お先に失礼しますね」
スイは一礼すると、小走りでもと来た方へと去っていった。小柄な姿は人混みに紛れてすぐに見えなくなる。それをミカと二人で見届けてから、扉の方へ向き直った。
「ミカ、よかったな。あんないい子を護衛に貰えて」
「うーん…確かに一緒にいて楽しいけど、そんなにいい子かなぁ…?結構アレな感じするけど…」
「ちゃんとミカのことを思って動いてくれてるんだから、ミカにとって悪い子ってことはないだろ。大切にしてあげろよ?」
「先生がそう言うなら…そうだね!それじゃ、そろそろ行こっか!」
「ああ、もう結構いい時間になっちゃったしな」
言いながらミカが取っ手に手をかける。すかさず俺は対の扉の前に立って、取っ手を掴んだ。少し触れただけで分かる扉の重さが、この向こう側の空気を表しているようにも感じられた。
正直な所、派閥や政治の話なんて苦手で、全く気持ちいいものではないが、ここまで来た以上はもう後戻りはできない、覚悟を決めて飛び込むしかない。それはミカだって同じだろう。だったら、俺だけが逃げる理由はない。ミカがもう一度、悪意に蝕まれていない、心からの笑顔でいられる日常を取り戻せるその日が来るまで、全力で守るだけだ。
ミカの方を一瞥すると、タイミングがよかったのか、目が合った。どちらからともなくアイコンタクトを取って、二人で一度深呼吸をしてから、俺たちは重い重い扉を押し開け、策略と欺瞞の渦巻く戦場へと足を踏み入れた。