ゲーム出身の一般アークスが、オラリオでダンジョンアタックするのは無理がある 作:柳沢紀雪
新章です。
といっても、メインストーリーの構想が難航しているので、しばらくサイドストーリーで場を繋ぐという感じに近いです。すみませんが、よろしくお願いします。
緊張の糸が切れた
「うーん……」
窓の外に揺れる春光がリビングの床を穏やかに暖めており、私はソファのクッションに深く身体を沈めていた。いつか中庭の隅に桜の苗木でも植えて、花見を楽しんでも良いかもしれないね。掃除が大変そうだけど。
「随分と
脇に書類の束を抱えたワカヒルメ様が、呆れたように苦笑しながら入室してきたので、私は重い腰を無理やり引っぺがすようにして上体を起こすと、少しばかり大げさな欠伸を噛み殺しながら視線を上げた。
「すみません、ワカヒルメ様。なんか、緊張の糸が切れたというか……どうにも身体に力が入らないというか……」
「まあ、気持ちは分かるよ。全力で駆け抜けた後の休息も、職人には必要な儀式みたいなものだからね。今晩あたり、景気づけに何か美味しいものでも食べに行こうか」
ワカヒルメ様の優しい提案に、私は「いいですね」と二つ返事で頷きつつも、彼女がテーブルに叩きつけるように置いたその紙束が、どこか不穏な冷気を放っていることに気づいて眉をひそめた。
私はそそくさと水屋に向かって、二人分の茶葉をポットに入れて、保温状態の湯沸かしからお茶を静かに注いだ。
「……それで、その資料は何ですか?」
ポットを揺らして、透明なお湯が徐々に琥珀色に染まっていき、開いた茶葉が奏でる香りが部屋を包む。
「嫌な話しだよ。イシュタルのやつ、私達やアストレアへの賠償金を捻出するために、娼婦の何割かを
ワカヒルメ様が肩を震わせて吐き捨てた言葉の内容に、眉をひそめた。
「人を商品みたいに扱うなんて、本当にイシュタルファミリアって……」
そうやって、不当に拘束されていた女性達が解放されるのならそれでいいけど、果たして身請けする人達が良心的である保証はないからね。人権はどうなってるんだ、人権は。
「まったくだ!
私は憤懣やるかたない様子のワカヒルメ様を宥めるように、トレイから温かな湯気の立つカップを差し出すと、自分も一つ手に取って、不自然に膨らんだそのリストの最上段へと視線を落とした。
「こっちはもうご覧になりましたか?」
私は手持ち無沙汰に揺らしていた足を止め、ワカヒルメ様が読み終えた様子でテーブルに置いた書類の束へと、おずおずと指先を伸ばした。
「うん。そっちはもういいよ。……誰か気になる人でもいるのかい?」
「えーっと、ハルヒメっていう名前がないかなと思いまして」
「ハルヒメ? 極東の名前だね。……家名は分かるかい?」
「いいえ、アイシャさんが以前、酷く気にかけておられた様子だったので」
もしそのハルヒメさんを身請けすることができれば、かつての縁を辿ってアイシャさんまでもが私達の元へ身を寄せてくれないだろうかと期待を抱きつつ、手元の資料に視線を落とした。
「なるほどね……。だけど、あまり深入りしないようにね。……私の見た範囲では、こっちの書類にその名はなかったよ」
「念のため、私の方でもダブルチェックしておきますね」
もし今ここにエルティナがいれば、高速演算であっという間に終わるんだろうけどね。エルティナは今、株券発行機の最終調整に没頭しているから仕方ないことだ。
「ハルヒメ、ハルヒメ……」
ワカヒルメ様も「どこかで聞いたような……」と首を捻りながら、記憶の海を懸命に探っておられるみたいだった。
「朝廷にはいなかった気がするなぁ……。それほど有名でもなかったと思うけれど」
ワカヒルメ様はうんうんうなりながらも、指で一つ一つリストを指しながら、丁寧に名前を確認していった。ここに記されているのは、無機質なただの名前の羅列に過ぎないが、一つ一つに人生があって、こうして流れてきた運命を背負っている存在であることには違いない。その全てを救うことはできないけど、こうして運命の分岐を与えられた人もいると言うことだ。どうか、強くあってほしいと思う。
「……うん? この名前は……。どうして、こんなところに?」
「どうしました? 見つかりましたか?」
私はワカヒルメ様の傍らへと急ぎ歩み寄り、その指先が釘付けになっている箇所を覗き込んだ。
「イツキノ……
極東出身であることを示すその名を目にした瞬間、ワカヒルメ様の表情が険しくなり、その美しい眉間に深い皺が刻まれていく。
「同じ名前なだけかもしれない。……だけど、彼女はかつて朝廷の
ワカヒルメ様はテーブルに置いた拳を、白くなるほど強く握りしめていた。溢れ出しそうになる憤りを何とか抑え込もうと何度か呼吸を整えておられる。
「……身請け、されますか?」
私はその握りしめられた拳を、なだめるように自分の手で包みこみ、ワカヒルメ様の揺れる双眸を真っ直ぐに見つめ、その意志を静かに問いかけた。
「そうだね。知ってしまった以上、放っておくことはできないよ。……勝手を言って済まないけれど、許してくれるかい?」
「もちろんです。腕の良いお針子さんなら、大歓迎でしょう。……それで、その秋葉さんは
「これを見る限り、眷属ではないみたいだね。本当にただの娼婦……というよりは見習いの身か。まだ客を取る前だったというのは、せめてもの救いかもしれないね」
「そうなんですね」
「とにかく、一度会わせてもらわないと。連絡先は……ギルド経由か。うん、その方が手続きも確実だね」
ワカヒルメ様は迷いを断ち切った手付きで最後の一枚となる書類を取り出すと、空白の欄に「イツキノ秋葉」の名と管理番号をはっきりと記し、自身の署名を力強く添えた。
「……結局、ハルヒメさんの名前は最後まで見当たりませんでしたね」
リストの最後の一行まで二人で丹念に確認し終え、私は小さく肩を落としました。
「聞き間違いの可能性はないのかい?」
「一応、アイシャさんの戦闘記録を確認したので、間違いはないはずです」
「なるほど。……君たちは本当に便利だね」
ワカヒルメ様は、未練を断ち切るように、手元のリストを一枚ずつ丁寧に丸めると、迷いのない動作で部屋の隅にあるゴミ箱へと納めていった。