『牙突』。
それは新撰組三番隊、組長『斎藤一』が得意とする左片手の一本突き。
その速度は射矢より疾く──
その精度は弾丸をも貫き──
その威力は砲弾をも凌ぐ──
そう言われている。
誇張のように聞こえるだろう。
確かに、射矢よりは遅いだろう。
確かに、弾丸を貫く事は容易くはない。
確かに、砲弾と同程度は言い過ぎだ。
しかし、そこに喩えられる程の秘技。
それらを彷彿とさせる速度、精度、そして威力。
それは、確かに備わっている。
目前、斎藤一が剣を構えている。
右手は剣の背に触れて、左手は柄尻を握っている。
それが『牙突』の構えだ。
「……いくぞ」
一言。
吾輩が反応するより早く──
刹那、剣先が私に迫った。
「……っ」
これが『牙突』か!
それは吾輩の視点を中心として、切先から柄尻まで直線上となるブレ一つない平突き。
ならば、相対する相手から見えるのは剣先のみ。
遠近感を狂わせる程、真っ直ぐな突きが放たれた。
軌道が読めない──
だが、読めずとも受け止める事は出来る。
足で地面を踏み締めて、木剣で剣先……その腹を叩いた。
剣先がズレて……吾輩の服の、袖を切った。
刺突の勢いに任せ、斎藤一が道場の床を滑る。
このまま薙ぎ払うつもりだろうが……私は片足を軸に、それを受け流し──
互いに、技を放つ前とは真逆の位置に立っていた。
「……フン」
斎藤が、鼻を鳴らした。
「やはり、この程度ではお前を討てないか」
「……あまり、そう本気になられても困るのだが」
「阿呆め。俺が木剣相手に本気を出すと思うか?」
吾輩も理解していた。
先程の『牙突』は本気の三割にも満たなかった。
吾輩は本気を出すに値しない……か、それとも彼の信条故にか。
剣を合わせて分かった事がある。
それは斎藤一は、吾輩を戦うべき相手と見定めていないと言う事だ。
それが少し、腹立たしい。
無理矢理にでも……引き出したい。
「では、次は吾輩から往かせてもらおう」
狙うは斎藤一の持つ剣だ。
あれを……断つ。
木剣の剣先を揺らす。
蜃気楼のように、像が揺れ動く。
「……なるほど、それが『飯綱』か」
剣客の技は──
伝え聞いても分からず、その秘技を見て知り、相対して初めて理解する。
確かに斎藤は吾輩の『飯綱』を見たのだろう。
だが、こうして対面して初めて理解出来ることがある。
吾輩は身を捩り、木剣を肩まで振りかぶる。
「我が秘剣、
木剣が、真空の刃を纏う。
そしてそのまま、斎藤の持つ剣へと──
半歩、斎藤が引いた。
吾輩も一歩踏み込む。
そのまま──
『飛飯綱』を放った。
加減はしていない。
相手は人斬り時代の剣心と死闘を繰り広げ、それでも生き残った格上だ。
殺意はないが、手を緩める事もしなかった。
真空の刃が斎藤へと迫り……瞬間、剣身に触れる事もなく避けた。
斬撃は蜃気楼のように像が揺れていたが、不可視の斬撃のはずだった。
しかし、それでも吾輩の木剣の挙動から見切ったようだ。
真空の刃は斎藤を通り過ぎ、道場の壁に一文字の切り傷を作らせた。
そして、斎藤は壁に出来た大きな傷へ目を向けた。
「……ふむ、確かに。やはり技量のみならば、評価できる」
斎藤は息を深く吐き……再度、剣を水平に構えた。
「だが、まだ『甘い』」
「『甘い』だと……?」
確かに加減はしていなかった。
確実に『剣』を折るための技を放った。
それが『甘い』とは──
「教えてやろう。お前と、
「……ご教示願おう」
瞬間、斎藤が吾輩へと踏み込んできた。
再びの『牙突』……しかし、その速度は先程の比ではない。
速い。
辛うじて見える、卓越した技量から放たれる平突き。
なるほど、理解した。
一つの技が極限まで鍛えられているのだと。
……即ち、吾輩と同様の思想なのだ。
血風纏う幕末の京都に於いて、剣客同士の再戦はそう起こらない。
何故ならば、確実に片方が死ぬからだ。
必要なのは多様な技ではない。
初見で確実に殺せる技……即ち、必殺技が一つあれば良いのだ。
それが彼にとっては『牙突』だったのだろう。
そう、理解した。
ただの平突きを──
それを最早、『ただの平突き』と呼べなくなる必殺技へと昇華させたのだ。
「っ……!」
吾輩は咄嗟に、木剣を打合せ──
ミシリ、と音がした。
瞬間、このまま受け止めれば確実に木剣を砕かれる事を理解した。
尋常じゃない威力。
防ぎ切れない。
「くっ!」
木剣を滑らせ、真剣の腹に打ち合わせる。
正面から受ける事は叶わぬ。
斬撃を滑らせ衝撃を分散させ──
辛うじて、受け流した。
再び、立ち位置が入れ替わる。
吾輩は息と共に、身を占める緊張感を吐き出した。
しかして斎藤は、手元の真剣に目を落としていた。
「……これも凌ぐか」
ほんの少し、斎藤が感心するような声を漏らす。
だが、これで手一杯。
全力ではない『牙突』を受け流すだけが、吾輩の精一杯なのだ。
「だが、やはりお前は──
瞬間、足音が響き……道場の戸が開いた。
そこには薫と由太郎、弥彦が立っていた。
「ちょっと!何をして──
「先生、何をしてるんですか!?」
真剣を抜いた警官……そして相対している吾輩。
普通ならば状況は読み取れないだろう。
だが、説明している余裕は吾輩にはない。
そして、斎藤も話す事はないだろう。
困惑する三者を他所に、斎藤へ相対する。
「……フン」
斎藤は手を出さずに待ってくれていたようだが……それにも限度があるようで、既に『牙突』の構えに戻っていた。
剣気がぶつかり、道場の木板が音を鳴らした。
瞬間、足元を踏み砕き斎藤が突進してきた。
凄まじい速度の踏み込みだ。
まだ、更に、疾く──
「先生!?」
悲鳴にも近い声が聞こえるが、敢えて無視する。
吾輩は剣を上段から下段へ構え、『飯綱』を纏う。
迫り来る斎藤へ、『纏飯綱』で切り上げた。
しかして、身を捩ることで斎藤は斬撃を避けた。
だが、それは想定の内だ。
『飯綱』には明確な隙がある。
通常の斬撃とは真逆の位置に『隙』がある。
真空の刃を纏い、剣を振るうという行程の都合上……攻撃の『後』ではなく『前』に隙があるのだ。
だが、剣身に『飯綱』を纏ったまま、剣先を切り返す事が出来ればどうなるか。
逆袈裟斬りの『纏飯綱』を放ち、上段からの『纏飯綱』へ。
一瞬の待ちもなく繰り出される連携攻撃──
それ即ち、飛天御剣流の抜刀術から着想を得た、二段構えの『纏飯綱』なのだ。
敢えて名付けるならば『飯綱返し』と呼ぶべきか。
「はッ!」
二撃目、上段から『飯綱』を纏った木剣を振り下ろす。
瞬間、斎藤は吾輩の技に気付いたようで……しかし、それを回避する事は出来ぬように見えた。
だが、それで終わるならば彼は幕末を生き残れはしなかっただろう。
『牙突』が水平から、上に跳ね上がった。
「なっ──
水平の平突き、その最大の利点。
それは、即座に上下左右に派生できる事だ。
故に。
斎藤の反射神経、判断力……対応力。
それらを以って『牙突』は完成する。
吾輩の手に持つ木剣、その剣先と──
斎藤の手に持つ真剣、その剣先が──
「ぐっ!?」
打ち合わさった。
十分な加速を得る前の振り下ろし……そこに剣撃が打ち合わされる事により、技の出を潰されたのだ。
纏っていた『飯綱』は霧散し、木剣と真剣が切り結ぶ。
故に、木剣の剣先がひび割れたのは自明の理だ。
得物の差とは言いたくはないが……だが、真剣と木剣には剛性の差があった。
拙い。
「……ッ!」
しかして、咄嗟に床を蹴り、距離を取る事で……武器破壊を免れた。
紙一重だった。
先の技のぶつかり合い……力量の差を見せ付けられた気分だ。
「お、おい薫……ただの警官じゃなかったのかよ……」
「その筈、なんだけど……」
「そんな……先生が……」
困惑するような弥彦と薫、由太郎の声……それを耳にしつつ、息を深く吐いた。
彼等の目にも吾輩が押されていると感じたのだろう。
半刻にも満たない技の応酬。
しかし、肉体に疲労が蓄積していた。
極度の緊張と、全力の攻撃と防御によって……肉体を酷使したのだ。
正しく短距離走の如く……凄まじい速度で体力を消耗していた。
しかして、対する斎藤は疲労の吐息を漏らしてはいなかった。
「やはり、お前と
余裕を持った態度で、斎藤が言葉を発した。
そんな彼へ、視線を戻す。
「……明確な差、か」
少しでも呼吸を整えようと、訊き返す。
斎藤は構える事もなく、吾輩を見ていた。
「俺達は人体の何処を斬れば人が死ぬか、人斬りの経験を以って理解している」
「……吾輩は人殺しなどするつもりは──
「逆に言えば、人体の何処を斬れば人が死なないかも理解しているという事だ」
……盲点だ。
耳を傾ける。
吾輩の仕草に目を細めつつ、斎藤が言葉を繋げる。
「例えば、だ。抜刀斎の持つ逆刃刀……あれは鋼の塊だ。全力で殴れば人が死ぬ。だが、奴は未だ
斎藤が剣先で床を叩いた。
「人体の堅牢さを熟知し、自他の力量を瞬時に測る。全てを理解することによってのみ
「……随分と褒めるのだな。新撰組の斎藤一が」
斎藤一……という名に覚えがあったのか、薫達が反応を示していた。
新撰組の三番隊組長……その名はそれだけ大きいという訳だ。
しかし、今は目の前の、幕末を生き抜いた剣客に集中する。
「正当な評価だ。奴の信念は下らんが、その技量は貶す程でもない」
幕末で、人斬りとしての剣心……緋村抜刀斎と剣を交えたからこその評価だろう。
そこに忖度や情なども一切なく、人を斬る技量のみを評価しているように見えた。
「そして、その技量は『人斬り』としての経験に裏打ちされた物だ。奴の
「……吾輩は今後も、人を斬るつもり等ない」
そんな吾輩の返答に、斎藤は……嘲笑った。
「フフ、ハハ……違うな。お前には『覚悟』がないだけだ」
……吾輩の持つ木剣が揺れる。
心の奥底を示すかのように、揺れる。
「『人を殺す覚悟』も『人を殺さない覚悟』も、どちらも足りない」
「……それは──
「図星だろう。先程の応酬……俺は『敢えて』明確に隙を幾つか見せていた」
……隙。
それは確かに見えていた。
牙突を放った後の首や顎……。
しかし、そこは急所だ。
加減を間違えれば殺してしまうような──
「それが甘いと言っている。『人を殺す覚悟』を持って剣を振るうか、『人を殺さぬ覚悟』を持って剣で叩くか……どちらも足りなかった。それがお前の剣を鈍らせている」
「…………」
「人を守るために悪を斬るか、相手の命の重みを背負うのか……二つに一つだ」
それは確かに、そうなのだ。
吾輩には『覚悟』が足りない。
人を殺さないのは、剣心のような
ただ、罪悪感に苛まれたくないからだ。
「根本として、お前には剣を振るう為の目的がない。故に、俺はお前を認めない」
人を守るという覚悟ですら、身の回りの人間にしか適用されていない。
目に見える物語の中での登場人物の死には、関わりたくないと思っている程に。
吾輩には覚悟がない。
戦う覚悟も……守るための覚悟も。
そんな吾輩の顔を見て、斎藤が口を開いた。
「だが、その覚悟も、強さも……この明治の世には不要だ」
「…………」
「大人しく道場に籠り、薪でも割っていればいい。誰も咎めはしない」
確かに、そうなのだ。
吾輩が居ても居なくとも、物語は進む。
確実な
ならば、吾輩が剣を振るう意義はない。
戦う必要はない。
彼が言うように、大人しく普通の女として生きていれば良い。
「半端な強さは捨てろ。そんな中途半端な覚悟で剣を握れば……いずれ、取り返しの付かないコトになるぞ」
「…………」
だが、それでも──
それでも。
だからこそ。
……手に、強く木剣を握る。
息を深く吸い、深く吐く。
この剣は……吾輩の身と心を守るために鍛えた剣だ。
己の未来、その憂いから逃れようと鍛えた剣。
覚悟なき所以の剣。
しかし……それでも、今は。
視線を横にずらせば──
「先生……」
由太郎の心配するような視線があった。
ここに彼が五体満足で立っているのは奇跡なのだ。
本来ならば吾輩が腕の筋を斬り、二度と剣が持てなくなっていた。
しかし、それは……物語は、定められた運命は……反故にされた。
「ハァ……」
息を深く吐く。
迷いを吐き出すように。
守りたいモノがある。
信念、命、絆……口に出せば気恥ずかしいような想いだが、それは真実だ。
それらを守るためならば──
もう、『知った事ではない』。
物語の影響などと考える事は止める。
ならば、迷う事はもうない筈なのだ。
更に、息を吐く。
全てを吐き出すように。
「…………」
この世界で生きていくだけならば、剣は不要だ。
しかし、彼等と共に生きるのならば……戦うならば、斎藤の言うように『覚悟』が必要なのだ。
……ならば。
ならば。
不純な感情を、吐息と共に吐き出す。
身体に気迫が満ちる。
迷いを捨てる。
この世界で生きる……その覚悟で身を奮い立たせる。
己に
「……ほう?」
剣客としての気迫が、満ちる。
戦う。
生きる。
より良い未来を手にするために、戦う。
守りたい物を取りこぼさないために、戦う。
臆病な己を捨て、闘争心で燃やす。
「ふぅっ……」
着物の上を脱ぎ、腰に纏う。
剣を振る上で、この振袖は邪魔だ。
身体に巻いた晒を顕にし……冷えた空気を身に染みさせる。
「先生──
「雷十太さん──
「雷十太──
三者三様の呼び方を耳にする。
霧がかかっていたような思考は、晴天のように透き通っていた。
身体と闘争心は熱く、されど思考は冷たく。
研ぎ澄まされる。
これが『覚悟』なのかは、吾輩にも分からない。
だが、少なくとも迷いはない。
今はただ、不純物のない……透明だった。
「感謝しよう、斎藤一」
溢れたのは感謝の言葉だ。
吾輩の迷いを切り捨てる……その切っ掛けをくれた強敵への感謝だ。
相対する斎藤の頬が……気の所為か、緩んだように見えた。
「フ……少しは良い顔をするようになった。俺を殺す『覚悟』が出来たか?」
「……いいや。だが、貴様を打ち負かす『覚悟』は出来た」
吾輩は木剣を上段へ……身を捩る。
剣先は再び、蜃気楼のように歪む。
馬鹿の一つ覚えのように『飯綱』を纏う。
吾輩にはこの技しかない。
だが、この技のみで十分なのだ。
「大層な物言いだな。口先だけではないか、確かめさせて貰おうか」
斎藤も剣を水平に構えた。
先程とは比べ物にならない剣気を放っている。
吾輩の剣気と衝突し、空気が……音を立てて弾けた。
緊迫した空気の中、斎藤が口を開いた。
「来い」
吾輩は床を踏み砕き、『飯綱』を放った。
正真正銘、加減なしだ。
「
迷いのない『飯綱』が振り下ろされる。
しかして、踏み込みと同時に斎藤も『牙突』を放っていた。
技の始動は、全くの同じ。
しかし、斎藤の方が一手早い。
技の鋭さ、その差が出たのだ。
「っ……!」
このまま迫れば、肩を貫かれる。
ならば……振り下ろす最中、左足を一本、右側に踏み込んだ。
軸足を無理矢理、切り替える。
頭上からの袈裟斬りを、右薙へと変化させる。
身を回転させ、牙突を避けながら……水平に斬撃を放つ。
無理な動きの所為で『飯綱』は既に崩れている。
ただの胴だ。
だが、それで良い。
寧ろ、それが良い。
非殺傷の一撃となるからだ。
加減は不要、奴の肉体ならば受け止められよう。
それは斎藤の胴を捉え──
「……ハッ」
一歩、斎藤は踏み込んでいた。
吾輩の横薙ぎと、彼の剣身が衝突した。
異音が響く。
あの姿勢から間に合うのか。
そう驚きつつも、好機だと悟った。
このまま、剣身をへし折ればいい。
力を掛け、真剣の側面へ力をかける。
吾輩の身体、全身の筋肉を
しかして、身体能力だけならば……吾輩に軍配が上がっている。
強く音を響かせ、不快な金属音が響いた。
「このままっ、へし折らせて貰おう!」
力を込め──
足先に、激痛が走った。
踏み込んだ足が、斎藤に踏み砕かれていた。
「なっ──
剣は腕の力のみで振るっている訳ではない。
特に踏み込みの足は重要なのだ。
その足が……痛みと、血で、滑る。
「なるほど、雷十太。お前を認めよう。だが、それでも……お前はまだ『甘い』」
まだ、斎藤は剣を構えていない。
牙突はまだ使えない。
ならば、このまま木剣で打ち返せば──
「俺は、お前が京都へ来る事を望まん」
斎藤は、柄尻を確かに握っていた。
しかして、先程までの『牙突』は違う構えだった。
アレは──
「故に、この技をくれてやる」
最短、最速の──
『牙突 四式』。
肩に、激痛が走った。
「づ、っ……!?」
見えなかった。
剣の軌道が、何も──
気付いた時には、既に突き刺されていた。
その勢いのまま……吾輩は、道場の壁へと突き飛ばされていた。
凄まじい剣力で、吾輩は浮かされ……壁を砕き、頭を打った。
「先生!?」
「ら、雷十太さん!」
脳が揺れる。
肩に、激痛。
血が抜けて、意識が朦朧とする。
視界がボヤけたまま、腰を落とした。
「て、てめぇ!」
弥彦が竹刀を握り、斎藤の前に……立った。
彼からすれば何故、吾輩と斎藤が戦っているのか知らないだろう。
それでも、吾輩を仲間として見てくれて……その仲間が傷付けられたのだからと憤ってくれているのだ。
……正直、この負傷は自業自得なのだが。
斎藤からすれば吾輩と戦う理由はない。
彼は剣心の実力を計りに来たのだから。
吾輩から仕掛けた喧嘩に、ただただ敗北しただけなのだ。
「やめておけ、坊主。お前では俺に勝てない」
「うるせぇ!んなコト、分かってんだよ」
「……そうか」
しかして、斎藤は剣を抜いたまま……煙草に火を付けた。
余裕綽々、といった様子。
「クソッ、舐めやがって!」
弥彦が怒声をあげているが……それでも斎藤へ踏み込めずにいた。
先程までの打ち合いから、目の前にいる男との実力差は歴然だと知った。
無理に攻めても負傷者が一人増えるだけと。
手が出せぬのは、臆病だからではなく、思慮深いからだ。
そんな光景を遮り、壁に崩れ落ちている吾輩の元に、薫と……由太郎が寄ってきた。
「せ、先生!大丈夫です、か……?」
「雷十太さん!傷が……」
即座に、彼女は髪に巻いていた布を解き……吾輩の傷口を圧迫した。
心配するような焦るような顔を覗かせているが……見た目よりも傷は浅い。
重要な血管は避けられた突きだ。
……斎藤が口にした通り、奴もまた人を殺さぬ斬り方を知っている、ということか。
極限状況の最中、それでも加減できる練度の差……これが、幕末の剣客、か。
「せ、先生……どうして、こんな……」
身体が重く、感覚も鈍い。
そんな中、吾輩の頬に水滴が伝った。
……由太郎の涙だと、少し遅れて気付いた。
身体に充実していた闘争心が冷めて、途端に罪悪感が湧いてくる。
……何をしているんだと、何処からともなく叱る声が内心に響く。
多分、自責の念だ。
震える手を伸ばし、由太郎の頭を撫でる。
「心配、するな……この程度で死ぬほど柔な、鍛え方は……してなゲホッ──
咽せた。
先程の衝突で肺を打ったからだ。
そして、口の中も切れていた為……血の混じった痰を吐いた。
べったりと、由太郎の顔に血が付着した。
「あっ……あ、ぁ……」
弥彦と由太郎、薫の視線が集中した。
側から見れば吐血にしか見えない。
「せ、先生ぇ!」
「だ、大丈夫、だから……本当に……」
由太郎に揺すられて、意識が、と、飛ぶ……。
「う、ゆ、揺らすな……!やめ、うぐ、うぷっ……」
は、吐き気がする。
頭痛もだ。
吾輩の様子に気付き、由太郎が手を止め──
「わ、わっ、先生!?すみません!」
焦り始めた。
心底「やってしまった」という顔で申し訳なさそうにしていれば、吾輩も許してしまうというもの。
この齢十の少年を誰が責められるだろうか。
「い、いや、いい……」
彼等は大真面目に吾輩の心配をしてくれているのだが、側から見れば少し滑稽に見えるようで──
「……フン」
斎藤が鼻で笑った。
この中で吾輩が重傷ではない事を確信しているのは斎藤のみ。
その彼が苦笑するものだから、周りの人間からの印象は……道場の仲間を切り捨て、瀕死の仲間を介護する者達を鼻で笑う冷血漢に見えるのだろう。
……まぁ、いや、六割ぐらいは確かに真実かもしれないが。
神谷道場の面々の、視線が厳しくなる。
薫が吾輩の側から立ち上がった。
そんな中でも気にする素振りもなく、斎藤は紫炎を燻らせ──
道場の戸が、開いた。
中に入ってきた人物を見て、薫が安堵の声を漏らした。
「……け、剣心」
赤髪の……幕末最強の剣客が、道場の中に足を踏み入れた。
斎藤も煙草を捨て、足で踏み消した。
「その様子では……赤末如きに相当手こずったようだな」
「……お前は──
確かに、剣心の衣服には傷が付いていた。
身体にも擦り傷と、鎖の跡まで。
剣心は、斎藤が用意した手紙に誘き出され……刺客と戦っていたのだ。
その、傷跡が目に見えている。
「お前も随分、弱くなったものだ」
鋭い視線が、剣心を貫いた。
剣心は……道場を見渡し、惨状を目にした。
弾けた木板、足元の切り傷……そして、流血して倒れている吾輩。
争いがあったのだと、察したようだ。
そんな剣心へと、斎藤は再び口を開いた。
「大体、十年ぶりか。文字にすれば僅か二文字だが……生きて見れば長い年月だった」
「ああ。人が腐るには、十分な年月だったようだな。新撰組、三番隊組長……斎藤一すら、腐らせるのだからな」
剣心の視線もまた、鋭くなっていた。
今ここに
剣心の手は腰の逆刃刀の柄に触れていた。
「斎藤、
剣心の目が、傷付いた吾輩を見た。
「敵の友人を傷つけ動揺を誘ったり……噛ませ犬をぶつけその隙に攻めいるなどと、姑息な小細工はしなかった筈だ」
そしてまた、斎藤を睨みつけた。
普段の温厚な姿からは想像もできない、そんな視線だ。
「今のお前は……最早、拙者が認めた『斎藤一』ではない」
「フフ、ハハハハ……お前に認めてもらう必要があるのか?滑稽だな」
心底、愚弄するように斎藤が笑った。
その笑い声に剣心は眉を顰めた。
「何がおかしい、斎藤」
「ハハ……これが嘲笑わずにいられるか?剣が鈍ったと思っていたが、頭も鈍っていたとは……俺を認められないだと?俺の方こそ、今のお前の在り方は認められない」
斎藤が剣を、構えた。
それと同時に、剣心も逆刃刀を抜いた。
そして、斎藤が頬を緩めた。
「人斬り抜刀斎の強さは、
「…………」
「『
一歩、斎藤が剣心へ踏み込んだ。
そして、互いの剣の間合いの外で……足を止めた。
「斎藤、言いたいことはそれだけか」
「いいや、まだあるさ。お前は俺がここに居る意味を理解していない」
「……意味、だと」
剣心が初めて、動揺を見せた。
「お前が赤末という愚物に苦戦している間、俺はずっとこの道場にいた。そこの倒れている女は俺の正体に気付いたようだが……俺は無傷で打ち勝った。その意味が分かるか?」
「何が言いたい」
「此処に居る全員、
道場内に剣気とは異なる気迫……所謂、殺気が満ちた。
薫と弥彦、由太郎が身を竦ませ……吾輩は側にいた由太郎の肩を引き寄せた。
「……せ、先生」
「大丈夫だ」
そんな吾輩の様子を斎藤は一瞥し、剣心へと視線を戻した。
「今回だけに限った話ではない。お前は目に見える者を救う事に注力し、肝心な部分を見落としている。挙句、剣術だけは達者な女に、一生ものの傷を許してしまっている」
……剣術だけは達者な女?
あ、あぁ……吾輩の事か……?
愚弄されているのだろうが、それほど酷い言いようではなくて少し安心した。
「
斎藤と剣心の視線が交差した。
離れている吾輩にも、彼等の剣気が感じ取れた。
「忘れたか。悪・即・斬、それが
「お前が何と言おうと……拙者はもう、人を斬るつもりはない」
「……そうか」
斎藤が、右手を剣先に……左手を柄尻に置いた。
牙突の構えだ。
「ならば、最早語る言葉もない」
しかして、吾輩の視界はボヤけてくる。
見届けねばならないというのに……失血量で意識を失う、その寸前まで来ていた。
……目の前で幕末の戦いが再現されるというのに、それを見れない口惜しさを感じつつ……。
それでも全力を出した清々しい気分と……。
……由太郎に心配させてしまっている罪悪感。
混じり合う感情を他所に、吾輩は気を失った。
次回で東京編は終了です。