出血と疲労で、吾輩がうつらうつらと朦朧としている中……剣心と宗次郎が向き合った。
既に、志々雄と由美は隠し通路を通じて逃走した。
いや、正確には『逃げた』というより『戦いを預けた』という方が正解か。
曰く、今の牙を抜かれた抜刀斎など戦うに値しないと。
志々雄は宗次郎を殿に残し、その場を後にした。
斎藤は志々雄を追いたがっていたが……負傷した吾輩や、三島兄弟、忍者娘……
いやはや、申し訳ない気持ちだ。
そうして、宗次郎を前にして……剣心が納刀した。
戦う気が失せたのか?
否、あれは抜刀術の構えだ。
そんな剣心を見て、斎藤は鼻を鳴らした。
「『後の先』が取れない相手ならば、
武術に関して認識が浅い、操や三島兄弟の疑問に答えるように斎藤が呟いた。
……やはり、この男は見た目や態度に似合わぬ、面倒見の良さがある。
なんて思っていると──
「うぐっ」
斎藤に脇腹を軽く蹴られた。
負傷者だというのに、酷い扱いだ。
そんな吾輩の様子を見て、三島 栄次が斎藤を睨んだ。
が、そんな事も気にせず、斎藤は剣心と宗次郎を見ていた。
「へぇ……じゃあ、僕も、っと」
剣心が構えたのを見て、宗次郎も抜刀術の構えを取った。
互いに抜刀術の構え。
争いの渦中だというのに、驚くほど静かになる。
そして──
双方、共に剣を抜いた。
あまりにも速い抜刀、そして剣速。
剣は交差し──
剣心の逆刃刀と、宗次郎の剣がぶつかった。
澄んだ鈴のような音が響く、その瞬間。
剣心の剣が、折れた。
是非もない。
速度も、筋力も同程度。
ならば、差が出るのは……剣に乗せた殺意の差だ。
剣心の手には、その信念の行末を暗示するかのように折れた逆刃刀が残っている。
そんな折れた逆刃刀を見て、宗次郎は目を細めた。
「勝負あり……かな?」
勝ち誇る訳でもなく、ただ事実を述べるように宗次郎が口にした。
その言葉に斎藤は同意した。
「ああ。『互い』に戦闘不能で、引き分けってトコだな」
「え?」
斎藤の言葉に、宗次郎は己の剣を見た。
そこには刀身がひび割れて、砕けた剣があった。
「……へぇ、驚いたな。これじゃ修復も出来なさそうだ」
勝敗はなし。
どちらの勝ちでもなく、負けでもない。
ただ、互いに剣が折れたという事実のみを残した。
しかし、剣心は……険しい顔をして、己の逆刃刀を握りしめていた。
折れてしまった逆刃刀を。
対して、宗次郎はひび割れた剣を鞘にしまった。
「ま、いいや。どーせこれ、志々雄さんの剣だし」
剣を収めて、宗次郎は剣心の横を通り過ぎる。
「志々雄さんの受け売りですけど、僕も勝負を預けますね。今日はこれで失敬しますけど……次に会う時までに、新しい刀を用意して下さい……ね?」
そう告げる宗次郎に剣心は少しも反応しない。
だが宗次郎はそんな剣心の様子に満足して、隠し通路へと向かった。
「では、また」
斎藤も、剣心も追わない。
追っても宗次郎には追いつけない事が分かっているからだ。
重い空気の中……剣心が、折れた逆刃刀を鞘へと戻した。
鍔の音が、ただ無情に鳴り響いた。
「……緋村」
沈黙する剣心に、操が何か言いたそうにしている。
だが、満身創痍の吾輩から離れるのは拙いと思っているのか、何も言わず寄り添ってくれた。
……良い
そんな操の情緒を無視して、斎藤が鼻を鳴らした。
「刀も折れた。志々雄達も逃した、か」
責める訳でもなく、ただ事実を告げた。
だが、その無神経な発言に、操が少し苛立った表情を見せた。
そのまま操が何か言おうとした瞬間、剣心が口を開いた。
「なに、刀はまた作ればいい。志々雄達もまた追えばいい。今はただ新月村を志々雄一派から取り戻せたから、良しとするでござるよ」
「……フン、甘い奴だ」
そうは言いつつも、斎藤はどこか満足げに頷いた。
刀を折られた剣心が戦意を喪失していないか、心配だったのだろう。
何だかんだ言って、その辺りの機微を読む事が斎藤にはでき──
「うごっ」
また、斎藤に脇腹を軽く蹴られた。
吾輩は負傷者だというのに、酷い扱いだ。
断固、抗議せねばならん。
そんな吾輩の様子に気づいて、剣心は少し失念していたという顔をした。
「っと、今はそれどころではござらん。雷十太殿、大丈夫でござるか?」
「……うむ。今は立てぬが、少しすればすぐに動けるように──
「阿呆」
「ふぎゅっ」
斎藤にまた脇腹を軽く蹴られた。
仏の顔も三度まで、だ。
流石に我慢の限界が来た吾輩が、斎藤を睨んだ。
「むぅっ……!何をする、怪我人を相手に……!」
「自らの体を傷つけて、その傷を過小評価する死にたがりの阿呆相手など、これぐらいの扱いで丁度いい」
「ゔっ」
図星だ。
「そもそも呼んでも居ないのに、何故ここに居る?阿呆が。人の忠告は受け止めるべきだと思わんか?」
「うぐっ」
これも図星だ。
京都に来るなと言われたのに、勝手にここまで来て、勝手に死にかけて、挙げ句の果てに助けてもらった。
少し申し訳なくなって押し黙っていると、斎藤がため息を吐いた。
「……だが、まァ、少しはマシになったか」
呆れたような声色だったか、どこか不思議な暖かさがあった。
斎藤らしくないな、なんて考えて──
「うぐっ」
再び、脇腹を蹴られた。
◇◆◇
斎藤が連れて来た警官達により、尖角を含む新月村を支配していた志々雄一派は逮捕された。
密告を推奨されていた支配状況から、村人同士は解放されたが──
三島一家は新月村に戻らない事にした。
当分は三島 栄一郎の職場である東京へと家族で転居する事となったそうだ。
いつかほとぼりが冷める頃に帰ってくるそうだが、それまでこの村が残っているのか……疑問である。
志々雄一派は去った。
だが、疑念や恐怖、疑心は残る。
互いに監視し合っていた村人が、明日から信頼できる筈もない。
故に、三島一家は村を去る事にしたのだ。
栄一郎の父母、栄一郎、そして栄次からも感謝の言葉を貰った。
吾輩は、彼等を救う事が出来たのだ。
それだけで十分だろう。
……結局のところ、剣心の逆刃刀は折られてしまったが。
“私”の知る物語と顛末は大きく変わらない。
だが、それでも救えぬ筈の命を救う事ができた。
であれば、無駄ではなかった。
吾輩がここに居る事にも意味がある。
ならば、これでいい。
覚悟を抱えたまま、吾輩も京都へ向かい──
「ダメだ」
ダメらしい。
「……何故、京都に行ってはならんのだ」
新月村の派出所にて、吾輩は布団の上で斎藤と向き合っていた。
ちなみに三島一家は既に東京へ、剣心と操は京都へ向かっている。
吾輩は負傷者として、派出所の寝床で寝ているというのに。
情けない話である。
「阿呆が。お前はまだ怪我人だろう。手当てをしたとはいえ、普通ならば重傷だ」
「いやこんなもの……少し、飯でも食って寝れば、すぐに治る」
「冗談を言うな」
「…………冗談ではないが」
冗談?
冗談を言ったつもりはない。
この程度の傷ならば、少し飯を食うて休めば治るだろう?
「…………」
何で黙るんだ?
そして、訝しむような目で吾輩を見るんだ。
気まずい空気に、堪らず吾輩が口を開こうとした瞬間……斎藤がため息を吐いた。
「ハァ……お前、まさか本気で言っているのか?」
吾輩が嘘や冗談を言っている訳ではないと悟り、斎藤は少し引いたような顔をした。
しかし、嘘でも冗談でもなく事実なのだ。
そもそも、この世界の剣客どもは怪我の治りが異常に速い。
普通の人間とは別格の再生能力を持っている。
であれば、吾輩の言っている事も特異な戯言でもない。
確かに前世であれば変な発言かも知れんが、今生では普通だろう。
実際、剣心に折られた骨も割とすぐに治ったし。
そう考える吾輩の肩に、斎藤が少し力を込めて触診した。
そして、神妙な顔で頷いた。
「フン。確かに、俺が刺した肩の傷ももう完治しているようだな」
「そうだろう」
「……血の代わりに、ガマの油でも流れているのか?」
散々な言いようである。
吾輩が口を開いて文句を言うより先に、斎藤が再びため息を吐いた。
「まぁ……なるほど、分かった。傷の方は問題ない。それは認めてやろう」
「ならば──
「だが、やはりダメだな」
前のめりになった吾輩を押さえつけるように、斎藤が吾輩の額に指を押し付けた。
ぐりぐりと押されて、思わず布団へと倒れ込む。
「む、何故だ?」
「この村でお前は、確かに尖角を倒した。しかし、俺達が来ていなければ瀬田 宗次郎に殺されていたのも確かだ」
「……うむ」
「お前がどこで死のうと勝手だが、お前が死ねば困る奴も居る。意義のある死であれば問題ないが、このままでは無駄死にする」
「…………」
つらつらと言っているが、つまりは心配してくれている……という訳ではなさそうだ。
単に、吾輩が無駄死にすると思っていそうだ。
「お前に一度、手加減の極意について話したな」
「……うむ」
剣心が行なっている手加減。
それは数多の人間を殺した事によって習得した、
人を破壊する術を知るが故に、人を破壊しない術も知る。
それが手加減の極意なのだ。
「確かに、手加減の極意を知らずとも、尖角程度になら勝てるだろう。だが、あの優男と次に会って勝てると思うか?」
「それは……いや……」
「フン、正直な事だ。あのトリ頭よりは見込みがある」
「…………」
何とも嫌味な言い方をする男だ。
「俺の見立てでは、お前と奴に大きな差はないように見えた」
「なに?」
斎藤の言葉に、思わず片眉を上げた。
吾輩と宗次郎に差がない……?
それは本気で言っているのだろうか。
「お前は意識的に殺さぬよう加減をしている。そして、無意識にも殺人を恐れて加減をしている。意識下と無意識での、二重の加減……そんな状態では、勝てる相手にも勝てん。偏に、お前が手加減の極意を習得していないからだ」
それは事実だ。
吾輩は加減が下手である。
いや、人並みなだけだ。
人を殺した経験のない吾輩は、人を殺す事に恐怖しているのだ。
だが、しかし──
「それでも、吾輩は京都へ行く。出来る事があるのに足を止めたくはない」
出来る事をやる。
助けられる人を助ける。
見て見ぬフリなど、もうしたくはないのだ。
運命というものを受け入れて、ただ安らかに傍観者として死んでいく事など……もう、できない。
いいや、したくないのだ。
吾輩の言葉に斎藤は、呆れた……という顔をした。
「……何を言っても分からん阿呆が。抜刀斎の周りは、揃いも揃ってバカばかりだな。まったく」
誰の事を指して言っているのか、吾輩には何となく分かった。
左之助やら弥彦などの事を言っているのだろう。
しかして、斎藤は紫煙を燻らせながら、目を細めた。
「ならば、仕方ない。怪我が完治するまでの間、新月村に残るだろう?」
「……む?あぁ、残るが」
「せめて、その間に無駄死にしなくなる程度に、俺が教えてやろう」
「……何を?」
金属の皿に、斎藤が灰を落とした。
そして、壬生の狼としての目を見せた。
「効率的な、人の殺し方だ」
思わず、吾輩は頬を引き攣らせた。
◇◆◇
新月村に滞在する間、斎藤は幾つかの話を教えてくれた。
人間はどこを斬れば死ぬのか、どこを刺せば死ぬのか。
即座に死ぬのか、ゆっくりと死ぬのか。
手当てで間に合うのか、間に合わぬのか、不要なのか。
人斬りとしてのノウハウを手加減へと活かせるように、吾輩へ叩き込んだ。
とはいっても、吾輩は未だに人を殺した事もない人斬り童貞……ならぬ、人斬り処女なのだが。
それでも幕末の世を生き残った人斬りの授業だ。
万金に値する。
そうして、一通り教えた後、吾輩の怪我が完治するのを待たず、斎藤は京都へ向かった。
これで勉強しろと言わんばかりに、西洋から持ち込まれた人体の解剖書を押し付けて。
そんな物を読んだ所で、人を斬る加減が上手くなるのか。
そもそも、口頭で話された程度で理解できるのか。
答えは
吾輩は実戦派ではない。
書庫から書物を読んで、古流剣術を再現するような女である。
机上の空論を、現実にする事が得意な女である。
結果として、吾輩は確かに……吾輩は斎藤の教えによって、人斬りの何たるか、その初歩に足を踏み入れる事に成功した。
そんな斎藤を思いながら、吾輩は剣を腰に差して派出所を出た。
そして、道行く新月村の住民へ目を向けた。
圧政から急に解放されたため、まだぎこちない。
仕方ないだろう。
少し前まで、互いに密告するような関係だったのだから。
住民へ向ける目に、意識を集中する。
僅かにだが、人体の構造が透けて見える……ような気がした。
斎藤曰く「人を斬る時は面で見るな、内を想像しろ」とのこと。
以前までは吾輩は人を人として見ていた。
いや、それは当たり前なのだが。
人を斬る時は人を、皮、肉、骨、臓物の集合体と認識し、どこを斬るべきか身極めろ……とのこと。
曰く、そちらの方がお前に向いている……とのこと。
吾輩は目を閉じて、こめかみを揉む。
確かに、こうして人体の内部構造を想像する事は出来る。
西洋の写実的な解剖書を人の像の上から、見透かす事が出来る。
しかし、それには極度の緊張と集中が必要となる。
長時間の運用には耐えられないだろう。
まだ使い熟せては居ない。
だが、確実に武器となるだろう。
“手加減”という名の武器に。
吾輩は新月村を後にして、京都へと向かう。
道なりに行けば一週間程で着くだろう。
まぁ、最短距離を突っ切れば、数日で着くか。
吾輩は藪を掻き分けながら、そんな事を考えていた。
しかして、三日後。
野宿をしながらも京都へと到着したが……夜も遅く、旅館に一人で泊まる事にした。
久しぶりの、お一人での旅館である。
一人旅をしている最中は殆どが野宿だった。
そして塚山家で世話になっている間は旅館に泊まる事も少なく、泊まったとしても由太郎と共にする事が多かった。
久しぶりの人並みの食事に舌鼓をうっても、どこか少し味気なく感じた。
“ほーむしっく”という奴だろう。
何とも、己の弱さに顔を顰める程だ。
……いかんな。
夜風で冷えると、余計な事を考えてしまう。
「ふぅ」
吐息を一つ吐き、貸し出された浴衣に着替える。
そうして、木桶を持って浴場へと向かう。
ここの旅館は、銭湯も営んでいる。
新月村から京都へ向かう中、疲れと共に身体も汚れている。
……いや、言い訳ではないが……川の水で水浴びぐらいはしていたのだが。
どうにも現代の感覚が残っている吾輩としては、それだけでは不十分に感じるのだ。
かくして、吾輩は木桶を手に浴場へと向かっている訳だ。
肌寒く、望郷の念にかられる中、少しぐらいは身体を温めて、身も心も落ち着かせたかった。
夜も更けて、少し薄暗い道中……二人の少年が吾輩の横を走り抜けた。
「……ふむ」
そう、丁度、あれぐらいの背丈だ。
由太郎はどうしているだろうか。
……いかんいかん、人を見て、他人を思い出すなどらしくない。
「待てこのクソ猿!捕まえて肉鍋にしてやる!」
「返せ!それは親父の金だ!」
……ん?
吾輩は振り返った。
すれ違った少年達はもう、そこには居なかった。
……由太郎と弥彦の声に聞こえたのだが。
「……はぁ、吾輩も焼きが回ったか」
ため息を一つ吐いて、吾輩はその場を後にした。
◇◆◇
俺、塚山 由太郎は薫さんと弥彦の三人で京都まで来ていた。
元々、先生が京都へ向かった後、自分は追うつもりなんてなかった。
だけど……薫さんと弥彦が、剣心を連れ戻す為だからと京都へ向かうと話されて、自分も向かう事にしたんだ。
きっと、出来る事は多くない。
だけど、出来る事はある筈だ。
そう考えて、三人で船に乗って京都まで来た。
到着した時に夕方になっていたため、明日から剣心や先生を探そうと話し合い、今日は旅館に泊まっている。
そうして三人、一部屋で寝る事になったのだが──
「だあああ!あのクソ猿!逃げ足がはえーんだよ!」
弥彦が頭を掻きむしりながら、床に転がった。
「どうするんだ、弥彦!元はと言えばお前が──
「うるせー!文句はオレじゃなくて猿に言いやがれ!」
何故こうも旅館を走り回っているのか。
原因は……視線の先、俺達を嘲笑っている子猿にある。
経緯を思い出す。
夜、薫さんが眠った後に、弥彦が俺を起こしたのが始まりだった。
薫さんが管理している旅費の入った財布を手に、夜の屋台に行こうだなんて言い始めたのだ。
俺は反対した。
だが、俺が反対しようが弥彦は食い意地を張らせて屋台に行こうとした。
曰く、寿司と天ぷらが食いたいのだと。
俺も気になってはいた。
雷十太先生と遠出していた時、先生は夜も早寝をしていた。
その所為で夜に廻ってくる屋台など行く機会がなかった。
故に、気になってはいたのだ。
だからそう、仕方なく、だ。
弥彦を一人で行かせたら何をしでかすか分からない。
故について行く事にしたのだ。
仕方なくだぞ。
屋台に行って見たいからだなんて、そんな理由ではない。
薫さんが寝ている隙に弥彦と俺は旅館を抜け出して、屋台まで行った。
寿司は……うちで食う寿司の方が美味かった。
天ぷらも……油が悪いからか、そんなに美味くはなかった。
弥彦も「まぁまぁだな」とか言っていたし、間違いない。
弥彦と俺はがっかりと落胆しながら、旅館に戻ってきたのだが──
弥彦が、突如現れた子猿に財布を盗まれたのだ。
弥彦も俺も、青ざめた。
屋台に行った程度の金額ならば薫さんにもバレないが、財布ごと無くせば薫さんにバレる。
いや、そもそもアレは俺の親父が包んでくれた旅費だ。
それを奪われては、京都で人探しなど言ってられなくなる。
だから──
「くそっ!由太郎!アイツ、勝ち誇った顔をしてやがる!」
「くっ……アイツ本当に猿なのか!?中に人でも入ってるんじゃないか!?」
俺達は、こうして子猿を追っている。
旅館の廊下を駆け回り、中庭の木々を飛び回る猿にキレながら。
「なんか手はねーのかよ!」
「あったらやっている!」
「クソッ、石でも投げるか!?」
「外して旅館の襖に穴を開けてみろ!そっちの方が無一文だ!」
弥彦と俺が右往左往としている中、猿は別の木に飛び移り、へらへらと嘲笑してきた。
「ブッ殺す!」
怒りに耐性のない弥彦が竹刀を手に、猿へと突進した。
だが、木々を登り、頭上を駆け巡る猿に追いつきはしない。
何か手はないのか。
俺はそう考えて……一つ、妙手を思いついた。
「弥彦、耳を貸せ」
「ッ、チッ!なんだよ!しょーもない作戦だったらキレるからな!」
猿相手に小声で話す必要があるかは分からないが、あの猿が言葉を理解していないとも限らない。
耳を寄せてきた弥彦に、耳打ちする。
「まずは──
作戦を伝えている間に……弥彦は顔を顰めた。
「お前、バカなのか?」
「信用できないのか?」
「……信用していいのか?やれんのか?」
「半々って所だな」
俺がそう口にすると、弥彦が笑みを浮かべた。
「……上等!どうせ、このままやっても埒が明かねーんだ!半々だったら割りの良い博打だぜ!」
俺と弥彦は竹刀を手に、猿へと……いいや、逆方向へと向かった。
猿は、俺と弥彦が反対の方へ向かったのを見て……ついに諦めたのかと、ほくそ笑んだ。
油断していた。
だからこそ……それが隙となる。
がさがさ、という物音で猿が慌てて振り返った。
だが、そこにあるのは生い茂った葉だ。
訝しむような顔をしているが、誰もいないだろうと振り返り──
「やっと、間合いに入ったぜ……!」
息を切らした弥彦が、猿の真後ろに居た。
枝で肌の表面を切っていたが、どうしてそんな場所に来れたのか……猿には分からないだろう。
真実は単純だ。
遠回りに迂回して、木に登っただけだ。
だが、単純に登っただけではない。
弥彦は口に竹刀を加えて、両手両足で一気に駆け上ったのだ。
それが速さの秘訣らしいが……これじゃ山猿だ。
猿も引いた顔をしている。
「返してもらうぜ……そいつを……!」
だが木の上は足場が悪い。
弥彦も即座に猿へと詰められない。
その事に気付いた猿は、別の木々へと飛び移ろうとして──
「由太郎、やれ!」
「分かってる!」
集中しているんだ、話しかけるな。
俺は竹刀を両手で持ち、横に構える。
思い出すのは、先生の背中だ。
大きくてしなやかで、頼り甲斐のある背中。
その先生が剣を振るう、その様子を。
「……ふぅ」
剣先が震える。
だけど、先生程じゃない。
それでも竹刀が音を鳴らすほどには細かく、早く揺れている。
剣先が歪む。
ほんの僅かだけど、それでも歪んでいる。
「いくぞ!」
俺は竹刀を全力で振りかぶり、横に薙ぐ。
そして、正面に切先を向けた瞬間に、全身の筋肉で留めた。
瞬間、竹刀は何も叩いていないにも関わらず、大きな音を響かせた。
空気の歪みが爆ぜて、不可視の弾丸となり……子猿にぶつかった。
名付けて──
「よし!」
「よっしゃ!」
殺傷力はない。
ただ、真空の球を発射するだけの芸に過ぎない。
竹刀で叩かれるよりも威力が低いし、成功率は半分ってぐらい。
そんな、先生の本気の技に比べれば足元にも及ばない児戯だが……それが今、有効打となった。
猿は衝撃に驚いて、巾着型の財布を落として逃げていった。
その財布は……投げ落とされた所為で、木の枝の先に引っ掛かっていた。
「って……」
しかも枝の先は、何か知らないが木のついたての先だ。
下から向かう事はできない。
「……なんつー所に落としてんだ、クソ猿が」
「まったく」
弥彦は未だ木の上。
ここは俺が行くべきか。
「……オイ、お前、木登りできんのかよ」
「馬鹿にするな。俺にだって出来る」
「ほー、へー?本当か?」
「本当だ」
俺は木を登って行く。
正直に言えば拙いが、弥彦から馬鹿にされたままというのも癪だ。
「……代わってやろうか?」
少し小馬鹿にするような弥彦を睨む。
「どうも、おかまいなく!」
そうして、そのまま俺は木を登り……財布のぶら下がっている枝の先へと向かう。
随分と揺れる……少し、怖くなってきた。
ちらと弥彦を見ると、普通に心配そうな目で見てやがる。
軽口ぐらい叩けば良いのに、叩けないほど俺が覚束ないという事か。
見返してやろうと考えて、勇気を振り絞り……俺は木の枝の先まで来た。
何やら下から湯気が登っていて視界は悪いが……何とか、財布を手に取る事に成功した。
俺は自信満々に弥彦へ目を向ける。
「ほら見ろ、俺だって木登りぐらい──
みしっ。
「……みし?」
みしみしみしっ!
「…………もしかして、これ」
ぼきっ!
木の枝が折れた。
瞬間、俺は地面へと落ちていく。
咄嗟に受け身を取るべく、手を地面へと向けて……ぼちゃん!と水へ落ちた。
「がぼっ!?」
いや、水じゃない。
お湯だ。
しかも熱いお湯だ。
そういえば、ここは銭湯もやっているのだった……と頭から湯に突っ込みながら、俺は考えていた。
不幸中の幸いだ。
「……っぷは!」
着ている服も、財布も、髪も顔も濡らしながら湯から顔を出した。
湯気が立ち上り、よく見えないが……周りを見渡し……木ついたてを登り、弥彦の元へ戻ろうと考えた。
俺は湯の中から立ち上がり──
「…………」
人の気配がした。
そういえば。
この時間の銭湯は、女湯か、男湯か。
旅館の中に一つしかないため、時間によって男女を分けていた筈だ。
男湯ならば問題ない。
だがもし、女湯なら拙い。
憲兵に突き出されても文句は言えない。
「…………っ!」
身体の奥から冷えて行くのが分かった。
熱い湯に浸かっているというのに、身体の芯から冷えて行く。
俺は気配のする方から離れようとして──
「あっ」
足を滑らせて、湯船に転んだ。
バシャ、と大きな音が響いた。
怪我はない。
だが、大きな音を立ててしまった。
人の気配がこちらに近づいてくる。
心配しているのだろうか、いそいそと近づいてくる。
拙い、逃げられない。
俺の脳内に幾つか言い訳が思い付いて、ぐるぐると回る。
猿を追いかけて風呂に落ちてしまった、なんて信じて貰えるとは思えない。
逃げ出そうとするも、姿勢が崩れていて立ち上がれない。
そんな俺へと、人影が近付き。
「大丈夫か?随分、大きな音がしたが──
そこに居たのは女人だった。
急いで来たのだろう、湯船に隠れていない女人の裸体が、俺の目に入った。
しかし、それ以上に驚くべき事があった。
「せ、せせ、せ、先生……?」
「……由太郎?」
そこに居たのは雷十太先生だった。
日に焼けた健康的で、筋肉質な身体は……着物という壁すらなく、俺の目へ映っていた。
細かな傷があるが、それでも女性らしい丸みもある先生の裸体は……湯で濡れて、いつもより扇情的で──
血の気が引いて、血が集まって、湯にのぼせて。
俺は気を失い、湯船に倒れた。