TSおねショタ雷十太   作:WhatSoon

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第三幕「剣心・緋村抜刀斎」

時は明治十一年。

塚山家、早朝。

 

吾輩は寝巻きを脱ぎ……鏡を見る。

筋肉質な身体には、小さな傷が幾つかある。

 

凶賊狩りをしていた頃に受けた傷だ。

無傷で全てを倒せるほど、吾輩は強くなかった。

 

しかし……今ならば……今は。

多少はマシになっただろうと、そう言い訳をできる。

 

分厚い布地の衣服を着る。

竹刀袋に入れた刀を背負い、浪人笠をかぶる。

腕に鋼の板を当て、白布で巻く。

少し水で濡らし、強く硬く結ぶ。

 

そうして吾輩は立ち上がり、由左衛門に与えられた客室を出る。

 

息を深く吐き、身体を強張らせる。

全身の筋肉に軽く力を入れて……不調がない事を確かめる。

 

そのまま廊下を通り、吾輩は中庭に視線を向けた。

 

由太郎が身体に重りを付けて走っている。

短距離を、何度も何度も……急停止と、発進を繰り返している。

 

 

「…………」

 

 

由太郎は剣を握らせていないにも関わらず、文句も言わず基礎の訓練をしている。

……素直な子だ。

 

それとも、それだけ吾輩を信用してくれているのか。

……騙しているような物だ。

この殺人剣を教えるつもり等、毛頭ないのに。

 

そんな事を考えて、気を抜いてしまったのか……木板で出来た床が音を鳴らした。

瞬間、由太郎が吾輩の方を見た。

 

 

「あっ……先生?お出掛けですか?」

 

 

なんて問いかけてくるから、吾輩は観念し……由太郎の方へ歩き出した。

 

 

「野暮用でな。明日までか、二日ほどか……留守にする」

 

「……そう、ですか」

 

 

由太郎が目に見えて顔を曇らせる。

 

今まで、確かに吾輩だけで出掛ける事は何度かあったが……日を跨いで、というのは初めてか。

 

なるほど、ならば由太郎が不安がるのも仕方ない。

 

 

「心配しなくていい」

 

 

由太郎の頭を撫でる。

 

吾輩と由太郎の関係は、剣客とパトロンの息子であるという事だけだ。

故に、縁は希薄……なのだが、由太郎からすれば、掛け替えのない縁に感じているようだ。

 

吾輩は由太郎に家族のように扱われている。

由左衛門も、その意思を尊重していてか、パトロンとしてよりは……何ぞ、大きな娘に対するような身の振り方をしている。

 

それは嫌ではない。

心地よい……だが時として、その縁は吾輩の行動に重くのしかかる。

 

この縁は責任でもある。

吾輩が抱える責任……それは、目の前の少年の行く末を守らねばならぬという重責。

身勝手に振る舞う事は許されない。

 

いや、吾輩自身が許せない。

 

 

「先生……どこへ行くのですか?」

 

「隣町までな、少し気になる事がある」

 

 

そう言って頭を撫でていた手を離す。

 

 

「……ちゃんと、帰って来てくれるんですよね?」

 

 

しかして、由太郎はそんな事を寂しげに言う。

まるで親離れ出来ない雛のようだ。

……吾輩は安心させるため、頬を緩めて視線を合わせる。

 

 

「当然。まだ剣を教えていないだろう?」

 

「……ですね。そうですよね!」

 

「そうだとも」

 

 

こうして、吾輩は叶える気のない嘘を吐き、その場を後にした。

 

由左衛門には数日留守にする事は伝えた。

伝えたら……旅費だと金をくれた。

野宿を覚悟していた無一文の身、有り難く頂戴して懐に入れた。

 

 

全く。

また一つ、借りが出来てしまった。

 

 

ゆったりと町の中を歩く。

人混みも減り、少し道も荒くなっていくが、それでも気にしない。

 

すれ違う者達は、吾輩を見て少し距離を取る。

当然だろう……この姿は、少し威圧感が強い。

 

 

さて、吾輩の目的地は……二つ離れた町の『神谷道場』である。

『神谷活心流』と呼ばれる活人剣を教えている道場だ。

 

行った事はなく、見た事もない。

ただ、吾輩はよく知っている。

 

その場所こそが『るろうに剣心』の物語の中心部であるからだ。

 

今は明治十一年。

即ち、物語が始まる年である。

 

現状がどうなっているのか……今は、どこまで物語が進んでいるのか、現実と漫画で差異はないか。

そういった物を調べる気である。

 

 

しかして、久しぶりに一人旅である。

懐かしいという感傷と、ほんの少しの寂しい気持ち。

 

昔は一人でいる事が当たり前だった。

家を出る前ですら、吾輩は一人だった。

 

しかし、今は……違う。

 

由太郎、由左衛門、屋敷で働く奉公人達も……皆、吾輩に良くしてくれている。

 

心地よい場所だ。

出来ることならば、永遠に……いいや、それは叶わぬ願いだ。

 

いずれ──

 

いつか──

 

吾輩の浅ましさに気付く時が来る。

吾輩の弱さを知る時が来る。

 

その時……皆は……由太郎は、幻滅するだろうか。

 

 

……いかんな。

一人で歩いていると、気持ちも少し沈んでしまう。

 

 

半日歩き、ふらりと寄った店で団子を食う。

茶を飲みつつ、疲れを癒す。

 

吾輩も鍛えているが、体力は無尽蔵ではない。

凶賊に襲われた時、疲れていたからと反撃の手が遅れれば目も当てられない。

 

だからこうして、休む必要がある。

それに、急ぐような旅でもない。

悠々と、今は「流浪人(るろうに)」のように流れされていくのも悪くはない。

 

椅子に座り、甘味を味わっていると──

 

 

「……なぁ、おい聞いたか?」

 

 

耳に、他所の会話が聞こえてきた。

 

 

「また『人斬り抜刀斎』が現れたそうだ」

 

「あぁ、それって神谷活心流の?」

 

「そうそう、警らの腕が斬られたそうだぞ、恐ろしい話だな」

 

 

手に持つ湯呑みに、少し力が籠った。

 

……やはり、既に始まっているのか。

『るろうに剣心』の物語が。

 

この事件。

『神谷活心流』を騙り、『緋村抜刀斎』を騙る者の辻斬り事件。

 

これは『神谷道場』の名を貶める為の策謀、偽物の『抜刀斎』事件である

しかし、そもそも『抜刀斎』の扱う剣技は『神谷活心流』ではない。

『飛天御剣流』である。

『神谷活心流』とは何の関係もないのだ。

こじ付けの狂言に過ぎない。

 

そして、この事件こそが『るろうに剣心』の始まり……本物の抜刀斎『緋村剣心』と神谷道場の跡取り娘『神谷薫』の出会いである。

 

だが、まぁ……今聞いた話から事件は解決していないようだ。

 

ならば、時系列としては始まりの前か……最中か。

 

……確かめねば、なるまい。

吾輩は代金を払い、店を後にした。

 

 

 

少し時が過ぎて、夜。

神谷道場のある町まで来たが、道草を食っていたのが悪かったからか……既に空は暗くなっていた。

 

 

「しまったな……」

 

 

宿の入り口も閉まってばかり。

これならば町から離れて、野宿でもすべきだったか。

 

そう後悔しても、もう遅いか。

何とかして、空いている宿屋を探そう。

 

 

吾輩は夜道を歩き──

 

 

瞬間、肩にかけた竹刀袋を手に取り……刀の鞘を手元に引き寄せた。

そして、気配のする方へ、視線を向ける。

 

 

「……何奴」

 

 

いつでも抜刀出来るよう鞘を横にし、柄を逆手で持つ。

これは古流剣術の抜刀術である。

最小の動作で剣を抜く、竹刀剣術には存在しない……真剣のみで行われる今は廃れた技術。

 

そうしていると……鋭い目をした、男が暗闇から姿を現した。

 

 

凶賊か、辻斬りか──

それとも、偽の抜刀斎か──

 

 

否。

顔を見た瞬間、吾輩は息を呑んだ。

 

赤みのある髪。

中性的な容姿。

左頬の十字の傷。

 

それ、即ち──

 

 

「……緋村 抜刀斎か」

 

 

別名を緋村 剣心。

『るろうに剣心』の主人公であり……本物の抜刀斎。

最強の剣客がそこに居た。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

『緋村 抜刀斎』。

その名は拙者に取って忘れ難く、忘れてはならぬ人斬りの名でござる。

 

過去の罪……そして、積み上げた屍。

その名は重く、今も拙者にのし掛かる。

 

故に、町の噂でその名を聞いた時、拙者は怒りを覚えた。

 

捨てた名である。

愛着も未練もないでござる。

 

だがしかし、他人の名を騙り、他所の道場にまで迷惑をかける悪人を……拙者は許すことなど出来ぬ。

 

そうして、噂話を頼りに東京まで来た。

町から町へ、流浪人として流れて……遂に、噂の中心地へ辿り着いた。

 

夜な夜な、辻斬りの現場を探して回っていたが──

 

 

 

目の前に、浪人笠をかぶった大柄な男がいる。

その手には鞘……逆手に柄を、構えは水平。

 

……アレは古流剣術でござるか。

竹刀剣術ではない、実戦剣術。

紛う事なき、殺人剣。

 

……此れが、辻斬りの正体。

他人の名を騙る小物だと見縊っていた。

 

此奴、出来る剣客──

 

 

「……緋村 抜刀斎か」

 

 

ぽつりと、目の前から漏れた声は……想像よりも高かった。

 

しかし、呼ばれた名に眉を顰める。

 

拙者の古い名を知っている、でござるか。

左頬の十字の傷は隠していない……詳しい者ならば、知っていても不思議ではない。

 

油断なく、いつでも抜刀術が繰り出せるよう……警戒しつつ、問いを返す。

 

 

「……そういうお主は?何者でござるか」

 

 

どう答えるか、間合いを測る。

まだ遠い、ここからでは剣の間合いに入るのに数歩必要。

 

それは相手も同じでござろうが……それでも、迂闊に踏み込む事は出来ぬ。

 

制空権。

 

それは剣の間合い……一流の剣客が支配できる空間を指す。

此れ、その間合いに入ると言う事は……斬り合うという意思表明。

 

迂闊に踏み込めば、死闘が始まる。

そんな予感がしていた。

故に、踏み込む事が出来ぬ。

 

しかして、辻斬りの回答は──

 

 

「…………」

 

 

無言、不動。

 

不気味でござるな。

嘘でも吐かれた方がマシだ。

 

それに、得体の知れない違和感を覚える。

……確かめる必要がある。

 

地を踏み締め、剣を握る手に意識する。

一寸、前へ……それでも構えは変わらぬ。

 

なるほど。

違和感の正体に、気付いた。

……この男、制空権が異様に広い。

 

顔の角度、足の動き、刀を握る手。

それらで奴の自覚している制空権の範囲が見える。

 

しかし明らかに、剣が届く範囲より遠くまで見ている。

 

刀身でも伸びるカラクリ刀か?

それとも、特殊な剣技を習得しているのか。

 

いや、しかし──

 

 

待て。

 

 

……奴の制空権に、既に拙者は入っているのか?

いつでも一方的に攻撃できると、そう思っているに違いない。

 

ならば何故、剣を抜かないのか。

 

 

「……拙者の問いに答えられぬでござ──

 

「居たぞ!抜刀斎だ、追え!」

 

 

一つ、二つ壁を隔てた場所から怒声が聞こえた。

 

剣の柄を持ったまま、そちらへ視線を向ける。

目の前の剣客も顔を向けた。

 

 

「……おろ?」

 

 

拙者、何か勘違いをしていたのではないだろうか。

先程、目の前の男は拙者を「緋村 抜刀斎」と呼びながら、警戒するように剣を持った。

 

当初、偽物の抜刀斎である男が、本物である拙者を見て警戒したのかと思ったが──

 

それはただ、巷で噂になっている辻斬りだと思って警戒しただけに過ぎないのではないか?

腰に剣を帯刀している拙者を見て、辻斬りだと誤認しただけではないでござるか?

 

…………まさか。

 

 

「……お主、辻斬りではないでござるか?」

 

 

そう、素直に聞くと……こくり、と頭を縦に振った。

 

……拙者、とんでもない勘違いをしていたでござるか?

此奴、ただ強いだけで……人斬りでは、ない?

 

 

「……も、申し訳ない」

 

「いや……構わぬ」

 

 

柄から手を離し、小さく頭を下げれば……男も剣から手を離した。

 

お互いに敵意がない事を確認し、拙者は壁に手を突いた。

 

 

「せ、拙者、用事があるのでコレで……」

 

 

恥ずかしさから逃げるように、そのまま壁を登り声のした方へ体を向けた。

 

……ちら、と剣客へ視線を向けたが、興味深そうに拙者を見るだけで構えもしなかった。

両手を合わせて謝罪の姿勢を取りつつ、そのまま拙者は声のする方へ飛び出した。

 

無駄に時間を食い過ぎた。

『抜刀斎』を名乗る辻斬り……今度こそ、本物……いや、偽物でござるか?

 

ややこしいが、兎に角止めなければ──

 

壁を蹴り、着地し──

 

 

「人斬り抜刀斎!とうとう見つけたわ!」

 

 

まだ若い女の声を、聞いた。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

身体に伝う冷たい汗……吾輩は、深く、深く安堵の息を吐いた。

 

死ぬかと思った。

いや、決して殺される事はないだろうが。

彼は不殺(ころさず)の誓いを立てている故に。

 

『緋村 剣心』。

幕末を生き抜いた伝説、最強の剣客『人斬り抜刀斎』だ。

『飛天御剣流』という『剣の速さ』、『身の動きの速さ』、『読み合いの速さ』を重点に置いた最速の剣術を身に付けている。

 

吾輩が戦えば、間違いなく負ける。

例え、不殺(ころさず)の誓いを立てて、『逆刃刀』という刃と刀身の背が入れ替わった剣を使っているだろうと……勝てる想像が少しも浮かばない。

 

だから、疑いが晴れてよかった。

 

目の前から放たれる圧……所謂、『剣気』を痛いほど感じていた。

お陰で、引くも押すも出来なくなり……拗れかけていた。

 

……吾輩は真剣を竹刀袋に戻し、また息を吐いた。

 

そして、先ほどの声のした方へ体を向ける。

そのまま、足を進める。

 

しかし、先ほどの反省は活かし、気配は可能な限り抑える。

 

そうして歩いていると……かなり大きな覆面の男が、走って逃げ去る場面を見た。

警官たちも、慌てて追い掛けている。

 

少し離れて……あぁ、剣心が居た。

それに少女の影も。

 

あれは……神谷薫。

『るろうに剣心』のヒロイン、『神谷活心流』の師範代だ。

だが……師範代と言っても、今、『神谷道場』に在籍している者は彼女だけだ。

『偽・抜刀斎』により、悪評を広められ、弟子は誰も居なくなってしまったからだ。

 

……彼女はまだ若い。

 

西南戦争で先代の父を亡くし、彼女が道場を継いでいる。

まだ十七歳だと言うのに……。

 

それでも、力不足ではない。

活人剣である『神谷活心流』に最も必要である善き『心』を持っている。

 

 

人斬りとしての過去を悔やみ、罪悪感を抱いている流浪人(るろうに)、緋村剣心。

そんな彼の心を溶かし、共に寄り添い歩く、神谷薫。

 

この二人の出会いが……そう『るろうに剣心』の始まりなのだ。

 

 

壁に隠れ、二人の様子を覗く。

 

 

「待ちなさい!ひっ捕えてや──

 

 

薫は傷を負いながらも、偽・抜刀斎を追おうとしている。

……彼女からすれば、父から託された活人剣と道場を汚す悪漢だ。

許す事は出来ないのだろう。

 

 

「だから、深追いはダメでござるよ」

 

 

そんな彼女の……総髪を、剣心が引っ張って止めた。

……幾ら、無謀と言えども女の髪を引っ張るのは如何な物か……何て思った直後、剣心の頭が木刀でしばかれた。

 

……何とも、この時代にしては気の強い少女だ。

感心していると──

 

 

刹那、剣心の目が此方を見た。

壁に隠れている故、直接、見つけた訳ではあるまいが。

 

 

……拙いな。

獣にすら気取られぬ程度には、気配を隠せている自信があったが……やはり、伝説の剣客相手には頼りないか。

 

これ以上、疑われても良い事はない。

ここは離脱すべきだろう。

 

そう結論付けて、後退する。

 

 

物語の本筋は見れた。

『るろうに剣心』の始まりを知れた。

 

この世界の行く末を知れた。

 

 

ならば、十分。

……そう、十分だ。

 

 

目を細めて、東京の夜町を歩く。

 

……決断は出来た。

吾輩の行く末を……見定めた。

由太郎の選ぶべき道も。

 

その時はいずれ『来る』。

いや、吾輩が『向かう』のだ。

 

由太郎の師は吾輩ではない方が良い。

真古流、殺人剣など由太郎には必要ない。

 

これからの平和な世では『人を活かす剣』こそ必要なのだ。

 

……碌に、由太郎には剣術を教えられていない。

故に、まだ白無垢のように何色にも染まっていない。

 

だが、それが良い。

何にも染まっていないからこそ、これから染まる事が出来る。

 

『神谷活心流』を学ぶ事が塚山 由太郎の『物語に定められた』行く末なのだ。

剣心と薫の出会いが運命ならば、由太郎の行く道も運命によって定められている。

 

ならば、それで良い。

良い筈なのだ。

 

例え……吾輩の胸の奥で、薄暗く燃える何かがあろうとも……それは切り捨てるべきなのだ。

 

 

吾輩の後ろを歩く、未来ある若人。

 

 

その未来を守る為ならば……吾輩は──

 

 

どんな悪名を付けられようとも──

侮られようとも──

罵られようとも──

全てを失おうとも──

 

 

構わない。

 

 

これは無償の愛ではない。

既に、由太郎から……いや、由太郎達から貰っている。

貰いすぎていると言ってもいい。

 

吾輩のような正道から外れた者に、彼等は優しくしてくれた。

日常をくれた。

信頼をくれた。

愛情をくれた。

 

 

 

だから──

 

……無意識に、手が震えていた。

 

 

 

……失いたくないのか。

日常を、血の繋がらぬ家族を、穏やかな日々を。

 

強く、握る。

強く、強く、強く、握る。

 

血が、滲む。

 

……震えは止まった。

 

吾輩は臆病者だ。

だが、それでも……逃げてはならぬ。

楽な道へと、逃げてはならぬ。

ここだけは、逃げてはならぬ。

 

この道からは、決して。

 

 

 

 

 

夜道を歩く。

 

 

 

 

 

空を見上げる。

 

 

夜空に浮かぶ満月は、欠ける事なく……吾輩を見下ろしていた。

最早、己の行く末を憂う事はない。

 

吾輩は……ようやく、重大な決断が出来たのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……宿、見つからないな。

仕様がない。

目的は果たしたのだ。

 

塚山家に戻りつつ、野宿でもするか。

明日の朝頃には帰れるだろう。

 

吾輩は、自分に言い訳しつつ、自然に頬を緩めていた。

帰る場所があるというのは、良い事である。

 

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

 

雷十太先生が、塚山家から出てから一日が経った。

 

朝、俺は風呂に入っていた。

銭湯や公衆浴場はよくあるが、自宅に風呂場を持っているのは少ない。

 

単純に金が掛かるからだ。

 

俺は、朝の鍛錬の後に入る風呂が好きだった。

熱った身体に張り付いた汗を流す、この瞬間が好きだった。

 

湯船に浸かり、息を深く吐く。

 

 

「……先生」

 

 

湯気が昇る中、先生を想う。

 

揺れる白いモヤの不安定さ。

それはまるで、俺の心を表しているように思えた。

 

たった一日、一緒に居なかっただけで……この有様だ。

鍛錬にも勉学にも集中出来ないし……。

 

事あるごとに、無意識のうちに先生の姿を探してしまっていた。

情けない。

 

……こんなに執着していると知られれば、嫌われてしまうかも知れない。

先生に嫌われれば……考えたくもない。

考えない。

 

湯船に顔まで沈めて……勢いよく、立ち上がる。

 

 

「……俺らしくないな。もっと、こう……頑張らないと」

 

 

俺に出来る事は先生の期待に応える事だ。

先生に一人前だと思われたいんだ。

一人の男であると認められたいんだ。

 

そして──

 

いや、そんな不純な事は考えてない。

第一、先生と俺は歳が一回り離れている。

俺は構わないが、先生はきっと俺なんか──

 

 

がたごと、と。

 

 

物音が洗面所の方から聞こえた。

 

……誰だ?

奉公人ではないだろう。

風呂を沸かして貰う時に、いつ頃入っているか伝えたからだ。

 

親父か?

いや、親父は朝風呂などしない。

 

 

がちゃん、と。

 

 

金属の板が落ちる音がした。

 

 

……金属?

そんな物を身に付けている人なんて──

 

あ。

 

 

「先生!」

 

 

浴室の中から、外へ向かって声を出す。

 

 

「……由太郎か」

 

 

しかし、帰ってきたのは気怠げな声。

 

 

「か、帰って来られたんですね」

 

 

なんて言葉を繋ぐが……物が落ちる音は止まない。

布の擦れる音が耳に響いている。

 

ま、まさか……俺が浴室にいるのが分かっても、脱ぐのを止めていない!?

 

慌てて、制止するべく声を出す。

 

 

「先生、俺まだ風呂に入っているのですが!?」

 

「……む、そうか」

 

 

と言い、物が落ちる音が止まった。

 

良かった……と、安堵の息を吐く。

流石に先生も、風呂場に乱入してくるなんて事はしないだろ──

 

 

がらがら、と戸が開けられた。

 

 

俺はそちらを見た。

見てしまった。

 

見てしまったのだ。

 

 

「せ、せせ、せっ、先生!?何やってるんですか!?」

 

 

仄かに日に焼けた肌、筋肉質な身体……鍛えられた四肢。

しかし、俺と異なった性別なのだと……主張している。

 

恥ずかしがる素振りもなく、目元は非常に眠そうで……そのまま浴室に入って来た。

 

 

「……昨晩、一睡も出来なかった。野宿もして……汗が……すまない、流させてくれ」

 

「で、あ、えっ、ですが……」

 

「あ……あぁ……あの奉公人に叱られる、か?すまぬ、由太郎……秘密にしておいてくれ」

 

「……っ!」

 

 

先生は本当に疲労困憊で、桶に入れた水へ手を伸ばしている。

 

ここで文句を言うのは容易い。

後で奉公人や親父に言い付ける事もできる。

だが、万が一……そんな事はないだろうが……万が一にでも、親父が怒り、塚山家から追い出したら?

 

二度と先生に会えなくなる!

それだけは避けなければならない。

 

黙っている事しか、俺には出来ない。

 

浴槽に口元まで沈めて、視線を必死に逸らす。

 

 

小麦色の肌が見えてしまった。

凄く、綺麗だった。

 

……女性って、あんな身体をしているのか。

なんて──

 

 

ざぁ、と水が流れた。

 

 

そして、頭上に何かが来た。

 

 

「……すまない、由太郎。狭いだろうが、詰めてくれないか」

 

「……待っ──

 

 

反応するより早く、湯船に先生が入った。

俺の背中を抱く形で、それ程広くない浴槽に入って来た。

 

 

「……ふぅ、沁みる」

 

 

なんて、言葉が耳元で聞こえた。

吐息が首元にかかる。

 

素肌が湯の下で触れている。

……硬く、滑らかで、柔らかく。

 

意識すると、頭が沸騰しそうだ。

身体を縮こめて、耐える。

 

耐えなくてはならない。

 

 

「……由太郎、留守の間は鍛錬に励んでいたか?」

 

 

頭の後ろから、そんな声が聞こえる。

……意識しているのは俺だけだ。

 

先生は俺を異性だと見ていない。

歳の離れた弟や甥のように見ているのだろう。

 

だから、こんな……こんなっ、こんな事が出来るんだ。

 

 

「お、俺は……はい、励んでましたよ……」

 

「そうか……偉いな……」

 

 

そう言って、頭を撫でられた。

濡れた手で髪に触れられた不快感はない。

だが、ただ、ただただ、心臓が弾けそうなぐらい鳴り響いていた。

 

こんな邪な感情を抱いている事を、先生に知られたくない。

その一心で、俺は耐えていた。

 

 

「……本当に偉い。吾輩には勿体ない程に」

 

 

しかし、その言葉で……そんな欲は吹き飛んだ。

勿体ない?

 

誰が?

 

先生が……俺には勿体ない?

 

そんな、そんな事はない。

先生は凄い人なんだ。

俺なんかより、ずっと凄くて……憧れる人なんだ。

 

なのに、先生は──

 

 

「勿体なくなんか……ないですよ……」

 

「由太郎……?」

 

「先生は凄い人なんですよ……!強くて、カッコよくて、綺麗で……優しくて……だから、だからそんな──

 

 

顔が熱い。

 

湯船の所為か。

恥ずかしさの所為か。

 

 

「そんな……俺が憧れてる人を貶めないで下さい……お願い、ですから」

 

 

 

 

ちゃぷん、と水滴が落ちる音がした。

 

 

 

 

何を言っているのだろう、俺は。

先生に説教なんて、俺が?

 

恥ずかしい。

後悔してる。

 

……縮こまった身体が少し、震えた。

 

先生に何を言ってしまったのか。

嫌われたら……不快に思われたら、どうしよう。

 

俺は──

 

 

背中から、腕が伸びた。

剣を握るために鍛えられた腕が、その強さとは反対に……優しく、俺を抱きしめた。

 

 

「……すまない、由太郎」

 

 

優しく、ただただ、優しく。

先生が俺を想う気持ちが伝わってくる。

 

身体の熱を感じる。

鼓動が聴こえる気がした。

 

穏やかに、静かに脈打っている。

 

 

「吾輩はお前の先生である筈なのだが……それでも、学ばされている」

 

「先生……」

 

 

身体は密着している。

 

 

「もう大丈夫だ。由太郎の尊敬してる人を貶めはしない」

 

「……ありがとう、ございます」

 

「礼を言うのは吾輩だ。感謝している」

 

「それでも、ありがとうございます……いつも」

 

 

感謝の言葉を交わした。

今、この瞬間……俺と先生は互いに尊重し合っていた。

 

一方的なものではなく、互いに……。

 

それが凄く心地よくて、嬉しくて。

こんな時間がずっと続けば良いと思えた。

 

 

 

 

 

 

 

ちゃぷん、と水滴が落ちる音がした。

 

 

 

湯船に赤い液体が落ちた。

 

 

「う、ぁ……」

 

「由太郎?」

 

 

血だ。

 

俺の鼻から出た、鼻血。

 

背中に感じている、柔らかい感触。

それを自覚してしまった故に、漏れた。

 

 

「の、のぼせたのか!?由太郎、大丈夫か……!?」

 

 

慌てた先生が湯船から立ち上がり、俺は……先生を直視した。

 

してしまった。

 

そのまま、ゆっくりと後ろに倒れて……ゴツン!と湯船の淵に頭を打った。

俺に残っていた記憶は、そこまでだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目を覚ますと、畳に横になっていた。

男の奉公人が団扇で俺を仰いでいた。

 

 

「あぁ、由太郎様。目が覚めましたか?」

 

 

……慌てて上半身を起こすと……隣の部屋から声が聞こえた。

そちらにフラつく足で向かい……小さく、襖を開けて覗き込んだ。

 

 

……先生が正座で座っていた。

目の前には、親父と、女の奉公人がいた。

 

 

二人は呆れた顔で先生を叱っていた。

先生は萎んだ朝顔のような顔で、申し訳なさそうに何度も頭を下げていた。

 

 

 

……俺は、黙って襖を閉じた。

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